弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2006年12月15日
健康診断・人間ドッグが病気をつくる
著者:中原英臣、出版社:ごま書房
医師が書いた本だとは、とても思えない本です。
健康診断は、収益を重視しすぎる、見落としが多い。検査項目が中途半端だ。
毎年、数千億円を費やしている健康検査の大部分は十分な根拠のないまま行われている。
健康習慣を真面目に続けると、かえって短命になるというフィンランドの調査結果があるそうです。つまり、個人の事情を無視した健康管理は効果がないのです。
X線検査には悪影響があり、短期間に何度も受けるべきではない。
胃カメラを飲んだ1万4280人のうち1人は、この検査による医療事故にあっている。早期の肺がんは、症状がないので発見されにくい。胸部X線検査では早期の肺がんは見つかりにくい。
CT検査だと放射線の被曝料が多くなるので、人体へのリスクが大きい。
がん検診そのものの有効性は検証されていない。PETによるがん検診で85%のがんが見逃されている。
高血圧や高脂血症の薬は、今や製薬会社にとってのドル箱だ。
人間ドッグの受診者は、1984年に41万人、1996年に237万人、2003年311万人と急増している。この10年間で100万近く増えている。そして、その結果、異常なしという受診者は12%のみ。受診者の88%には何らかの異常があったことになる。正常値から少しでも外れると異常だというわけ。
1965年に医師は11万人ほど。ところが、2004年には27万人以上になった。35年間で医師は2.5倍も増えた。医師は健康な人を病気にすることができる。
脳ドッグは、小さな異常までよく見つかるので、手術を受けることになる可能性がある。しかし、それは怖いこと。脳の手術を受けたときのリスクは大きい。
この本を読むと、下手に健康診断や人間ドッグは受けないほうがいいということが良く分かります。ところが、実は、私は40歳になってから、なんと毎年2回、人間ドッグに入っているのです。しかも、日帰りではなく、なんと一泊ドッグなのです。私にとって、人間ドッグは逮捕されそうになったとき検査入院という名目で病院へ逃げこむ口実と同じことです。つまり、静養したいということです。ですから、決して土・日曜日や祝祭日には入りません。平日に2日間、ゆっくり本を読むために入るのです。といっても、検査結果で何度かひやっとしたことはあります。でも、なんとか無事に今日に至っています。
幸いにして、日ごろ薬はまったく飲みません。人間の自然治癒力を信じ、規則正しい生活を心がけています。
新説 鉄砲伝来
著者:宇田川武久、出版社:平凡社新書
日本に鉄砲がもたらされたのは、天文12年(1543年)8月、種子島に漂着したポルトガル人による。これが日本史の教科書にものっている通説。ところが、その根拠となっている「鉄炮記」という本は、「伝来」から60年後の慶長11年(1606年)に種子島久時が祖父の鉄砲入手の功績を称えるために禅僧、南浦文之に書かせたもので、それほど資料的価値が高いものではない。著者はこのように冒頭、弾劾します。
うむむ、では一体、誰が日本に鉄砲をもちこんだのでしょうか・・・?
このころ明から密貿易で商船が日本に来航していた。それは、日本産の銀を確保するためだった。そして、日本人が倭寇の一員として活躍していた。すなわち、明の船が日本に鉄砲をもちこんだのだろうということです。しかも、それは一回きりではなく、続々と商船は入ってきていたというのです。
日本全国に鉄砲がいきわたるのは永禄の年号に入ってから。毛利元就は永禄10年(1567年)ころ、最近、鉄砲という武器が戦場にあらわれて思いがけない被害にあうから気を許してはいけないと家臣にさとしている。
永禄の次の元亀、天正(1573〜92)年になると、長篠合戦にあるように一度の戦いに数千挺もの鉄砲が投入されるようになった。
いまの長浜市にあった近江国国友村は、大坂夏の陣のころ、空前絶後の好景気にわいた。鍛冶屋は73件、職人は500人をこえた。
このように、種子島だけを日本にもちこまれた鉄砲の起点とするのには無理がある。西日本と広い地域に南蛮筒が続々と分散・波状的に渡来したのである。そして、職人層に属する砲術師が誕生した。このように著者は力説しています。
日本人は鉄砲をみるみるうちに自己のものとし、秀吉のおこなった朝鮮半島出兵のときに、それを活用して日本を甘く見ていた朝鮮王朝を圧倒していったというわけです。
朝鮮戦争と日本
著者:大沼久夫、出版社:新幹社
朝鮮戦争に日本がこれほど深く関わっていたとは知りませんでした。
日本政府は、朝鮮戦争に参戦した「国連軍」という軍隊のための戦争協力費として 183億円も立て替え負担した。1950年の183億円ですから、実に巨額です。
朝鮮戦争でたたかったアメリカ軍には日系アメリカ人が兵士、通訳、翻訳者として 5000人は参加していた。うち200人あまりが戦死した。その多くはハワイ出身者。
日本特別掃海隊(1200人の旧海軍軍人が従事)は、掃海艇20隻、巡視船4隻、試航船1隻で編成され、下関から出動して2ヶ月間、国連軍の元山上陸作戦をはじめとして、仁川の海域などでの掃海活動を行って、国連軍の軍事行動の成功に大きく寄与した。掃海活動中にソ連製の機雷に触雷し、1人が死亡、18人が負傷した。
国連軍が仁川上陸作戦をはじめたとき、日本人のLST20隻も参加している。日本人の乗組員は朝鮮沿岸の隅々の地の利に精通しているので、アメリカ軍に役立った。このLST20隻には、それぞれ50人あまりの日本人船員が乗船していた。この日本人船員の給与は、2万5000〜3万5000円と高額であり、民間給与の4〜5倍した。それは生命の代償でもあった。LSTは日本各地から出動して朝鮮半島の主要な港へ兵士や軍事物資を輸送した。これに従事した日本人船員は少なくとも4〜5000人にのぼる。
また、仁川基地などで、艦艇の修理・武器輸送・浚渫工事などに1000人以上の日本人労働者が働いていた。
日本の調達庁は、朝鮮戦争に関連死者を56人としている。
このように日本人は、アメリカ軍・国連軍を支援して朝鮮戦争に参加していた。ただし、北朝鮮を支持して参戦した中国人民志願軍のなかにも日本人兵士が参加していた。つまり、日本人も、南北双方を支持して朝鮮半島の戦場で戦ったのである。
うむむ、そうだったんですかー・・・。
在日の大韓民国居留民団(民団)は義勇軍を募った。高卒以上の学生・青年からなる義勇軍644人が日本から釜山港に向かった。結果として、戦死者59人、行方不明97人、帰国266人、未帰還222人という。朝鮮半島での戦争ですから、在日朝鮮人が南北それぞれを応援して戦ったのは理解できます。
それにしても、朝鮮戦争はまだ休戦中なんですね。法的には終わっていないということ、だから、まだ未解明の点がたくさんあるという指摘に驚かされました。
2006年12月14日
タイゾー化する子供たち
著者:原田武夫、出版社:光文社
タイゾーって、何だろう。一瞬、不思議に思ってしまいました。そう、あのタイゾー先生のことなんです。例の小泉チルドレンの一人ですよ。小泉首相がマスコミとタイアップして送りこんだ「刺客」によって殺された「反対」派の議員のほとんどが自民党に戻った今、小泉チルドレンがどうなるかという議論をするのは、あまりにも馬鹿ばかしいので、私はしません。コップの中の嵐の二の舞でしかないからです。
この本のサブタイトルは長文ですが、次のようになっています。
契約社員から国会議員になった杉村太蔵のように、今、日本の子供たちは「プロセスなき突然の成功」しか見えていない。
タイゾー化現象とは何か。それは、大成功という結論だけが先に来て、それに至るプロセスを思い描くことができない、プロセスのないサクセスストーリーを語る一群があらわれている状況のことである。そこでは、苦節何十年という苦労話とはまったく無縁で、いきなり「成功」してしまう。自分の「成功」をメディアに対してひけらかし、何の衒(てら)いも感じない。理念を語らず、ひたすら印象論だけを繰り返す。
東大生の頭のなかに、同じように「いきなりの成功」がインプットされつつある。
いたって真面目な本です。読むと、背筋の寒くなる現状が報告されています。日本民族、危うし。そんな感しきりです。
現実に「エリート候補」であるはずの東大生たちは、悩みに悩んでいる。東大に入って目標が達成されたという燃え尽き感。目ざすべき方向も、何をすれば良いのかも本当は分からないのに、自分は東大生なんだという空虚なプライドのために、質問すらできないまま流される毎日。空虚な東大生が、形だけエリートという烙印を押されて、外へ押し出されていく。
今、彼らには目ざすべきモデルがない。本当は、官僚や弁護士、あるいは大会社のビジネスマンになろうと思っていた。ところが、苦労して就職しても、世間からのバッシングのターゲットにされるのでは、割にあわない。
優秀な東大生は、就職活動で真先にまわるのは外資系企業、とりわけ投資銀行などの金融関係の外資企業だ。外資系企業に引きつけられるのは給料の良さ。年俸1000万円台。30代の社員では、3000万円から4000万円に達するという。総合商社だって、年俸が1000万円を超えるのは30代を過ぎてから。早ければ1年生の夏学期の冒頭から、アメリカ系外資に就職し、高級スーツに身を包んだ先輩たちが学生の目の前に颯爽と登場するのだ。
そして、大学内では起業サークルが大流行だ。彼らの頭のなかにあるのは、「いきなりの成功」である。
教師たちのエゴ、教育評論家たちの勝手な議論、そして何よりも競争社会への恐怖心から、とにかく東大へ行けと子どもたちを送り出す親たち。彼らに背を強く押され、東大に入ってきた学生たちは、最初から迷っている。記念受験ならぬ、記念入学といった感じの学生たちが数多く徘徊している。
目的なく高いハードルを越えてしまった人間ほどやっかいなものはいない。なぜなら、彼らは目標がないため、心ばかりは焦っているが、他人より自分は優れているという空虚なプライドだけはしっかりと持っているからだ。
実は私も大学に入ったとたん、自分は何を目ざすべきなのか途方に暮れた思いがあります。5月病にはなりませんでしたが、高校と同じように授業に出るだけでよいのか、大いに悩みました。幸い、高校の先輩の紹介でセツルメントという聞いたこともないサークルに入り、たちまちよみがえりました。毎日忙しく、やることが具体的に提起されるのですから、本当に充実した学生生活に一変しました。国民大多数の人々の生活の目線でずっと考えて生きていこうと決意したのは、セツルメント活動のおかげです。
外資系企業に入って、あぶく銭のような巨額な金銭を扱っていても、きっとそのうちむなしさを感じるようになると私は思うのですが、いかがでしょうか。
2006年12月13日
脳はなにかと言い訳する
著者:池谷裕二、出版社:祥伝社
人間がうつ病にかかるのは、恐怖感や不安感がより強いからではないか。うつ病は動物の進化の過程で、いかに周辺に警戒心を素早く抱くか、ということと関係があるような気がしてならない。
仕事の正確度を高めたければ、多くの行程をひとまとめにせず、細かなステップに分け、そのたびに報酬を与えるほかない。
私の受験勉強もそうでした。おおまかな計画をまず立てますが、それは決して実現不可能なものではなく、ちょっとだけ無理したら実現しそうなレベルに設定します。そして当面の目標を次に立てます。こちらは、必ず達成できるものとし、達成感をひとつひとつ味わうようにしていきます。そうすると、ここまでやれたんだから、次へ進もうという気になるのです。ともかく挫折感をもたないように工夫しました。
バイオリニストやピアニストは、指を動かす脳の領域が普通の人に比べて広い。これは、普通の人に比べて指の脳領域が広いからバイオリニストになるのではなく、バイオリニストをやっているから広くなったのである。
脳には作業興奮という現象がある。興奮とは、脳の神経細胞が活性化するということ。
まずは体を実際に動かしてみる。やる気がなくても、まず始めてみる。私も、なんだか気乗りがせず、準備書面を書く気にならないときでも、まずは机に座って何か書き始めてみるようにしています。そうすると、脳が次第に活性化し、やる気が出て、のめり込んでいく。朝、起きるときも同じこと。ともかく、すぐに動き出すこと。脳が目覚める。目覚めない、という前に、まず体を起こし、カーテンをあけ、顔を洗って雨戸を開ける。体を動かすことによって、それに引きずられるようにして脳が目覚めていく。布団のなかにいたら、いつまでたっても脳は目覚めない。
薬物中毒は足を洗うのが難しいのに、恋愛感情のほうは急に冷めることがある。なぜ冷めるのか、その機構が分かれば覚せい剤の精神依存の治療につかえるだろう。
快楽のやっかいな点は、ただ気持ちよいだけでなく、習慣性や依存性が出てくること。アルコールを飲んでも、ストレスを発散した気になっているだけで、体のほうは依然としてストレスを感じ続けている。
重要なことは、ストレスを解消するかどうかではなく、解消する方法をもっていると思っているかどうか。そして、それ以上に重要なのは、別にストレスを感じていてもいいんだと考えること。つまり、ストレスをあまり怖がりすぎると、実際にストレスを受けたときに、必要以上に反応してしまう。
子どもも日常的にド忘れしている。しかし、子どもたちは物忘れをいちいち気にしない。ところが、大人は年齢(とし)のせいだと落ちこんでしまう。ド忘れしたときには、それだけ自分の脳にはたくさんの知識が詰まっているのだと前向きに解釈するのがよい。うんうん、そうなんですよね。
人間には後悔を嫌う本能がある。結婚や高額商談など、重要な選択をした後に、人はもっともらしい良いわけをして、後悔していないと思いこみたがる傾向が強い。
集中力の高い人はアイデアマンではない。集中力の欠如した人のほうが創造性に富んでいる。集中力か創造性か、どちらに価値を置くのかは、その人次第。
睡眠には、忘れかけた情報を呼び起こして記憶を補強する効果がある。
自閉症の患者は嘘をあまりつけない。相手の気持ちが想像できないので、思ったままのことを相手に言ってしまう。
いろいろ勉強になる本でした。それにしても、脳って、本当に不思議な生き物ですよね。
2006年12月12日
縦並び社会
著者:毎日新聞社会部、出版社:毎日新聞社
精神科医の香山リカさんは次のように語ります。
問題なのは、格差の下とされる若い人たちが、甘んじて受け入れてしまっていること。自分探しや身近な幸せは考えるが、社会のあり方については考えようとせず、声も上げない。そして格差の上にいる人は、同情や共感が乏しく、他者に厳しい視線を向ける。こうした傾向が続けば、今後も格差は広がる。
まことにもっともな指摘です。私たちは、とりわけ若者はもっと怒るべきです。そして怒りを行動にして表わすべきだと思います。
生活保護を受けている人が100万人となった。これについて、アンケートにこたえた3割の人がもっと審査を厳しくして減らすべきだと回答した。つまり、弱者は勝手に死ねと考えている人が3割もいる。これは明らかに増えている。自分の幸せが維持できるかどうか不安で、人に与える余裕のない人、自分が生きるだけで精一杯の人が多くなってきたことのあらわれ。保険証をつかえない無保険者が、いま全国に30万世帯もいる。
恐るべき事態です。身体の具合が悪くても、じっとガマンし、医者にかからず、安い薬ですますのです。
ネットトレーダーが急増している。取引口座数は2005年9月に790万になった。1年間で200万増えた。これは売買金総額の3割を占める。市場にはプロがいるので、免許取りたての人がドロレースに出るようなもの。もうけ続けられるのは2割にみたない。プロはかえって売買しやすくなって喜んでいる。
100万ドル以上の金融資産をもつ人は世界に830万人いる。その6人に1人が日本人。強い者をより強く、負けた者はそのままにするほうが社会が活性化するというのが政府の考え方。その結果、格差は拡大し、社会病理となって噴出している。
韓国のサラ金業界の上位10社のうち、8社を日系、在日系企業が占める。債務者には事前に身体放棄書を書かせ、返済しないときには、酒場や風俗店に入れる。
国民は「官から民へ」という言葉に踊らされた。小泉政権の5年間で、権力の砦はむしろ強化された。日本は特定の人間が牛耳る縁故(クローニー)資本主義へと後戻りした。
ノーベル賞を受賞したアメリカの経済学者であり、クリントン政権の委員会メンバー、世界銀行の副総裁だったジョセフ・ステグリッツによる次の指摘は重要です。
アメリカの「小さな政府」政策は、実は小さな政府ではない。ブッシュ政権になって企業への補助金は増え、政府は規模を拡大している。「小さな」というのはレトリックであって、現実ではない。小さな政府というが、実際は大企業のための大きな政府で、うまくやっているのは、ブッシュ政権に個人的につながっているハリバートンのような国防関連企業や石油産業のトップにいる人のみ。
アメリカでは、少数の人がますます豊かになり、中間層などそれ以外の人々がますます貧しくなっている。国民は「小さな政府」政策が、自分たちをより不安定にすることに気づき、流れを止めるべきだ。
まことにもっともな指摘です。そのとおりだ、と私は大きな声で叫びたいと思います。
2006年12月11日
生かされて
著者:イマキュレー・イリバギザ、出版社:PHP研究所
都会の排ガスでうす汚れた魂がホースで水をじゃぶじゃぶかけて洗い流された。そんな気がしました。読み終わったときすがすがしい気持ちに浸ることのできる本です。そんな感想を口に出して何のはばかりもない本です。いえ、この本に描かれている情景は実に悲惨なのです。ところが、それを語る口調に救いが感じられるので、なんとなくホッとしてしまいます。
ことが起きた場所は、アフリカのルワンダです。1994年、100日間で100万人のツチ族と穏健派のフツ族が虐殺されてしまいました。当時、大学生だった著者は、そのまっただなかで、なんと牧師宅の小さなトイレに女性ばかり8人で3ヶ月もこもって、ついに生き延びたのです。信じられない奇跡が起きました。彼女たちを殺そうとしたのは、ついこのあいだまで親しく話していた隣人であり、友人だった人々です。彼らは気が狂ったように大鉈(おおなた)、ナイフ、銃をもって殺戮(さつりく)してまわりました。著者の父も母も、アフリカのよその国に留学中だった長兄一人を除く兄弟みんなが殺されてしまったのです。なんと、むごいことでしょう。
ルワンダはアフリカのなかでも小さな国の一つ。そして、もっとも貧しい国でもあり、また、一番人口過密な国だ。ルワンダでは、家族一人ひとりが違う苗字をもっている。両親が子どもが産まれると、それぞれに特別の苗字をつける。赤ちゃんが生まれたとき、父か母か、その子をどんなふうに感じたかによって苗字をつける。著者の名前イリバギザは、ルワンダのキニヤルワンダ語で、心もからだも輝いて美しいという意味。なるほど、写真でみる彼女は輝く美しさです。
著者は、両親からルワンダが三つの部族から成り立っていることを教えられませんでした。差別を嫌う親の方針からです。
多数派のフツと少数派のツチのほか、ごく少数の、森に住むピグミー族に似たツワがいる。ツワは、身長が低い。ツチとフツの違いを見分けるのは難しい。ツチは背が高く、色があまり黒くなく、細い鼻をしている。フツは背が低く、色が黒く、平たい鼻をしている。といっても、フツとツチは何世紀にもわたって結婚しあってきたので、遺伝子は入り混じっている。
フツもツチも同じキニヤルワンダ語を話し、同じ歴史を共有し、同じ文化だ。同じ歌をうたい、同じ土地を耕し、同じ教会に属し、同じ神様を信じ、同じ村の同じ通りに住み、ときには同じ家に住んでいる。みんな仲良くやっていた。なんということでしょう・・・。これでは、日本人のなかの九州人と東北人の違いほどもないのではありませんか。同じ日本人であっても、毛深かったりそうでなかったり、背の高低があったりして・・・。
ところが、1973年の革命で権力を握ったフツの大統領は、学校の生徒数や政府関係の人数は、人口の割合によると宣言した。フツ85%、ツチ14%、ツワ1%。これによって、ツチは高校からも大学からも、そして収入の良い職場からも追い出された。それで、著者も成績が良かったのに公立高校に入れなかったのです。
ルワンダがドイツの植民地になったとき、また、ベルギーがその後を継いだとき、ルワンダの社会構造をすっかり変えてしまった。ベルギーは、少数派のツチの男たちを重用し、支配階級にした。ツチは支配に必要な、より良い教育を受けることができ、ベルギーの要求にこたえてより大きな利益をうみ出すようになった。
ベルギー人たちが、人種証明カードを取り入れたために、二つの部族を差別するのがより簡単になり、フツとツチとのあいだの溝はいっそう深くなっていった。
フツは、子どものときから、学校でツチを絶対に信じてはいけない。彼らはルワンダにいるべき部族ではないと教えられる。毎日、ツチに対する人種差別をみながら育つ。学校そして職場で。ツチを蛇とかゴキブリと呼んで、蔑(さげす)むことを教えられる。
いよいよ大虐殺がはじまります。大統領が率先してデマ宣伝を大声でくり返すのです。ゴキブリどもを消毒しろ、ラジオでこう叫びます。
ところが、インテリの父は信じないのです。ナチス・ヒトラーがユダヤ人の大虐殺をはじめたときと同じです。まさかそんな馬鹿なデマ宣伝を民衆が信じるはずがない。しかし、通りにはたちまち血に飢えた狂った大群衆であふれました。ツチと見たら殺す。それを止めようとした穏健派のフツもためらうことなく殺していきます。
ツチの人々が逃げこんだ教会堂を取り囲み、火をつけて全員殺す。競技場に逃げて集合した人々を機関銃と手榴弾で全員殺戮してしまう。
女性だけ6人がシャワー付きのトイレのなかに逃げこみました。牧師宅でも、そこしか安全なところはないのです。牧師は注意します。
「トイレを流したり、シャワーをつかったりしないように」
「この壁の反対側にトイレがある。そこは同じパイプでこことつながっている。どうしてもトイレを流したいときには、そこを誰かがつかうまで待つ。そして、確実に同時に流すこと」
7歳、12歳、14歳、55歳の女性たちです。一人また一人と、当然、生理にもなる・・・。ずっとトイレにいたにもかかわらず、いま誰かが用を足しているところを思い出さない。匂いに苦しめられたことも思い出さない。
牧師が食べ物をもってきたときだけ食べる。夜中の3時か4時まで現れないこともあり、まったく姿を見せない日もあった。飲み水はもってきてくれた。食べものも、余りものしかもってこれなかった。気づかれないためだ。
6人いたのに、また2人の女の子が増えた。ところが、すき間はかえって増えた。人間が縮んでしまったから。十分に食べられないことから衰弱し、ほとんど一日中もうろうとして過ごしていた。著者も体重が18キロは減った。
そして、驚くべきことに、この状況で、著者はなんと、英語の勉強を始めたのです。狭いトイレに女ばかり8人がこもって2ヶ月たった時点です。英仏辞典と英語の本を2冊、牧師は差し入れてくれました。
フランス語のできる著者は必死で英語を勉強し、たちまちものにしました。
著者が隠れていたトイレの写真があります。3ヶ月間、8人の女性が過ごしたとはとても思えない、本当に小さなスペースです。
フランス軍に救われて、なんとか国連の仕事をするようになって、著者は刑務所に入れられている虐殺者のリーダーに面会します。そのとき、彼女は、私はあなたを許しますと言ったのです。私には、とても信じがたい言葉です。人間の気高い精神のほとばしりです・・・。
アンネの日記とはまた違った魂をゆさぶる手記です。ぜひ、お読みください。あなたも、きっと、生きてて良かったと思うと思います。こんな感動を味わうことがきるんですから。
2006年12月 8日
ドイツ戦車、戦場写真集
著者:広田厚司、出版社:光人社
戦車って戦場では万能の兵器のように見えますが、実は故障率が高かったのですね。ナチス・ドイツ軍が1993年にポーランドに侵攻したとき、戦車の4分の1が故障したというのです。
ロンメル将軍もアフリカで戦車を動かしたわけですが、砂漠の砂とホコリは戦車の敵でした。戦車のエンジンの寿命を3分の1にしてしまいました。
ナチス・ドイツ軍は、修理システムが十分でなく、また、多種の車輌による部品のため戦車戦力の15〜30%はムダにしていた。つまり、ヒトラーのナチス・ドイツ軍は補給のことを十分に考えていなかったのです。
装甲部隊の作戦と戦力維持のための組織力に欠けていた。
そして、ドイツ軍の機能化師団にとってもっとも深刻だったのは、燃料不足で進撃速度が落ちたこと。補給ラインが伸びて燃料が届かない。列車での輸送は、軌道幅が違うためにできない。船は黒海にソビエト艦隊がいて実行できない。空輸では、とてもまかなえない。さらに、ソ連軍のT34戦車にドイツ戦車は負かされていた。
ヒトラーの求める狂信的な「撤退せず」という指令が、いつもドイツ軍の装甲部隊の致命傷となった。
200枚もの戦場におけるドイツ戦車をとった写真集です。そこに戦争に悲惨さはまったく出てきませんが、その愚かさは十分に分かります。スターリングラードやレニングラードの戦いなどを先に紹介しましたが、それらの戦場の様子を具体的にイメージできる本です。
超・格差社会アメリカの真実
著者:小林由美、出版社:日経BP社
アメリカに26年も暮らしてきた著者が、自分の経験と知見をもとに、アメリカとはどういう国なのか、日本がアメリカのような国になっていいのかを根本的に問いかけた本です。
アメリカの社会は4つの階層に分かれている。特権階級、プロフェッショナル階級、貧困層、落ちこぼれ。
特権階級は、400世帯しかいない純資産10億ドル(1200億円)以上の超金持ちと5000世帯の純資産1億ドル(120億円)以上の金持ち。
プロフェッショナル階層は、35万世帯の純資産1000万ドル(12億円)以上の富裕層と純資産200万ドル(2億4000万円)以上で、かつ年間所得20万ドル以上のアッパーミドル層からなる。彼らは、高給を稼ぎ出すための高度な専門的スキルやノウハウ、メンタリティをもっている。
特権階級とプロフェッショナル階級の上位2階層をあわせた500万世帯、これは総世帯の5%未満となる、に全アメリカの60%の富が集中している。アメリカの総世帯数1億1000万のうち、経済的に安心して暮らしていけるのは、この5%の金持ちたちだけ。
アメリカは、人類の求める究極の社会なのか。アメリカの本質を理解した人は、ためらうことなく、一言で、ノーというだろう。
アメリカの人口2億9000万人のうち、16%の4500万人は医療保険をもっていない。大人の5人に一人は医療保険がない。
減税というのは、ワーキング・クラスからの徴税を大幅に増やし、投資収入で生きるトップクラスの税負担を減らす、というもの。
アメリカの中産階級は、1970年代以降、アメリカの国力が相対的に低下する過程で、徐々に二分化してきた。メーカーなどで働く中産階級の大半は、貧困層への道をたどっている。
アメリカ社会の最下層にいるのは、社会から落ちこぼれている層で、貧困ラインにみたない人々。アメリカの人口の25〜30%を占めている。
著者は日本がアメリカのような国になってはいけないことを強い調子で訴えていますが、まったく同感です。
ユーゴ内戦
著者:月村太郎、出版社:東京大学出版会
チトーの率いていたユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、チトーの死後、1991年初夏から1995年冬の内戦のなかで解体していった。
ボスニア内戦の犠牲者は20万人、難民は250万人。1981年のボスニアの人口は412万人だったから、全人口の5%が死亡し、60%が居所を追われたことになる。
ボスニア内戦と同じ時期に起きていたルワンダ内戦と比較すると、ルワンダでは1994年4月からの3ヶ月間で人口750万人のうち50万人以上が虐殺された。ところが、国際社会の注目はボスニア内戦に集まり続けた。それはなぜか?
アフリカでは、それまでも大虐殺が何度もあっていたのに対して、第二次大戦後のバルカン半島では、終戦直後のギリシア内戦、1956年のハンガリー動乱、1989年12月のルーマニアの混乱を除くと、大量の流血を目撃する事態とは無縁だったから。
そもそも、ユーゴ内戦は民族紛争なのだろうか。クロアチア内戦で実際に戦ったのは、クロアチア人主体のクロアチア政府警察隊、国防軍とセルビア人武装部隊だったことは事実だ。しかし、民族紛争として単純にとらえきれない面がある。各民族の構成員全員が民族を争点とする民族政治を求めていた訳ではなく、かなりの人々が他民族共存状態の継続や復活を希望していた。また、武装部隊の民族構成も必ずしも民族的に単一ではなかった。
では、なぜ深刻な内戦が続いたのか。
それには、各民族の政治指導者の自己保身とデマゴギー戦略が大きいようです。それまでユーゴスラヴィアを支配していたチトーは、両親をクロアチア人、スロヴェニア人としていた。チトーは1980年5月4日に、87歳で亡くなった。
セルビア人共和国軍は、短期的には戦況を有利に導いたかもしれない。しかし、長期的には欧米に根強いセルビア人悪玉論が強まるという悪影響をもたらした。こんな評価があります。ここでもマスメディアの操作が有効だったのです。
クロアチア軍がセルビア人勢力に勝ったのは、軍人コンサルタント企業が軍備の増強や部隊の訓練などによってクロアチア軍を増強しただけでなく、作戦内容も助言したからだという指摘がある。
ユーゴ内戦を事実経過にしたがって丹念に分析した学術書ですので、読みやすい本ではありません。それでも、結局は軍事行動だけで決まるものではなく、投票結果が大勢を決めているという気がしました。やはり、力だけでは何ものも長く支配することはできないのです。良識は必ず生きている。しかし、その前に多大な犠牲を払わなければいけないことがある。こういうことのようです。
でも、やっぱり政治家のデマゴギーって許せませんよね。小泉の優勢民営化選挙のとき刺客で負けた議員のほとんどが自民党に復党しました。なぜかマスコミが大きく取り上げませんが、年末までに議員が復党すると、自民党に2億5000万円の政党助成金が入るのですよね。これって、もちろん税金なんです。自民党をぶっつぶせ、は一体どこへ行ったのでしょうか。国民をバカにするのもほどがあります。それなのに、自民党の安倍内閣の支持率が6割以上だなんて、とても信じられません。いったい日本人はどうしたんでしょうか・・・。
2006年12月 7日
悪魔のささやき
著者:加賀乙彦、出版社:集英社新書
ハンディな新書ですけれど、中味はギッシリ詰まっていて、興味津々、ともかく面白く、知的刺激に充ち満ちている本です。
たとえば、今の日本社会は刑務所化しているという指摘がなされています。
マンションも学校もオフィスビルも、鉄とコンクリートの塊でつくられ、整然として人間管理が行き届いている。好きなものを食べ、気に入った服を選んで着ているようで、実は食料品も衣類も、画一的な大量生産品。刑務所というのは一般社会と無縁なところだという思いこみを捨て、身のまわりを眺めてみると、けっこう似ているところが多い。
囚人は刑務所に閉じこめられっぱなし。それに対して、私たちの生活は、果たしてのびのびと生活を楽しんでいると言えるだろうか。
社会が刑務所化すると、刑務所で起こるのと同じような問題が発生する。その一つが、心理学でいう爆発反応。ほんの些細な刺激で完全キレ、予想外の行動をとる。
社会の刑務所化によってひきおこされるもう一つの問題が、関心の狭隘(きょうあい)化。刑期が10年から無期にわたる長期囚は、興味をもつ対象の幅が極端に狭い。話題のほとんど、いや、すべてが、ごはんの内容、看守の動向、囚人仲間の悪口というような刑務所内の日常生活に関することに限られる。外の世界で起こっていることについては、政変も戦争も娯楽も文化も、まったく関心がない。日々の単調な生活、狭い時空に自己の精神をぴったり合わせてしまっている。
これをプリニゼーションと呼ぶ。そのような状態に陥っている本人は、そのことに気がつかない。新聞や週刊誌を読み、テレビをなめるように見ているはずなのに、かえって他人のことに無関心になっている。興味は一過性のものにすぎない。
いつもいらいらして、心に余裕がない。自分のことだけで一杯いっぱいで、他人の都合や気持ちには極端に狭量。刑務所化する社会で暮らすストレスから、自分を抑制する力が弱まり、ちょっとしたことでキレやすくなっているのは子どもだけではない。
うーん、なるほど、言われてみればそうですよね。
自殺のかわりに人を殺す。人を殺し死刑になることで自分を破滅させようとする。そんな犯罪者は決して少なくない。破滅したいのなら自分一人で命を絶てばいいけど、それは寂しいし、怖い。自分自身をふくめた人間全体に対する不信感や憎しみ、自分の不遇を周囲の人や社会のせいだと考える被害者意識があるため、他人を巻きこんでしまう。
なーるほど、そうなんですか・・・。
日本の知識人は、学識は豊富で知性が高くても、本当の意味で自分の思想をもっていない人が多い。いやあ、そうなんですよね。これは、自戒をこめた私のつぶやきです。
人の心には残虐性や殺人への願望が隠れている。低きに流れる怠惰さや依存心も、たっぷりと持ちあわせている。性悪説や性善説といった単純な二元論では人間は割り切れない。悪魔や天使のささやきのようなものによって、内なる悪しきものや善きものが呼び覚まされやすく、その表れ方も激しい。
人間は誰もが弱く、罪深く、心の奥底に悪しきものを棲まわせている。今のような混沌とした時代においては、無自覚に暮らしていると、内なる悪魔に突き動かされ、悪をなしてしまう危険性が高くなる。
うむむ、なるほど、なるほど、たしかにそうだよなー・・・。そんな納得の指摘が満載の本でした。
2006年12月 6日
近代ヴェトナム政治社会史
著者:坪井善明、出版社:東京大学出版会
ヴェトナムが現在の姿になったのはここ2世紀のこと。西山党の光中帝(グエンフエ)が200年以上に及んだ鄭(チン)氏と阮(グエン)氏の対立に終止符を打ち、国を事実上統一した。中越国境からシャム湾までを名実ともに政治的に統一したのは、阮朝の初代皇帝・嘉隆(ザロン)帝(在位1802〜1820年)。
中国が統治した時代が1000年以上も続いた。10世紀に中国から独立し、中国にならって君主政体を採用した。そして、19世紀前半まで、チャム人やカンボジア人を犠牲にして南に勢力を伸展させ続けた。チャム族は、現在は10万人にみたない少数民族にすぎない。しかし、2世紀末から、現在のヴェトナム中部のクアンナム・ダナン省を中心として強力な王朝をうちたてていた。インド文化を取り入れた社会を形成し、海上貿易を富の源泉とした。中国人は、この国を「林邑」と呼んだ。
16世紀末に、ホイアンに日本町もうまれた。
ヴェトナムと中国との関係は政府間の交渉関係にとどまるものではなかった。中国人は、何世紀も前から商人としてヴェトナム、とくにトンキンとコーチシナに定住していた。それに加えて、中国の海賊は米を運ぶヴェトナム船を頻繁に襲った。また、中国の海賊は、また沿岸地方に上陸し、食糧や女子どもを強奪した。このようにヴェトナム民衆は日常的に中国人と接触していた。
阮(グエン)朝は独特の世界観をもっていた。ヴェトナムは中国と同じで、自らを世界の中心に位置すると称し、中国と兄弟であり、対等の国家とみなしていた。そこで、ヴェトナムの用語では、中国は「北朝」、ヴェトナムを「南朝」と呼んでいた。ヴェトナムの君主たちは、中国の皇帝と全く同じく、皇帝という称号を自ら使用していた。大南国皇帝と名乗った。しかし、フエ宮廷の使節は、北京の中国皇帝の前では「越南国王」の代理人としてひざまずいた。
ヴェトナムは阿片を中国から密輸入した。これは、中国への米の不法な輸出と結びついていた。阿片と米が交換されていた。ヴェトナム人が阿片を吸う習慣は、19世紀初頭からまずコーチシナの華僑のあいだに広まり、その後、少しずつヴェトナム社会に浸透していった。フエの宮廷は定期的に阿片常用禁止令を発布した。が、効果はなかった。常用も密売も、なくならなかった。
11月末から5日間、ベトナムへ行ってきました。その活気に圧倒される思いでした。かつてアメリカがベトナムに侵略・支配してベトナム人民と10年以上にわたって激しい戦争を展開していた爪跡はまったく残っていませんでした。いえ、博物館はあります。そこには教師が生徒を引率してきていて、生徒たちは真剣にメモをとって学習していました。しかし、終戦後30年たって、どこもかしこも平和に繁栄しているのです。町のなかはオートバイの洪水です。中心部にわずかに信号があるだけですので、通りを横断しようにも、決死の覚悟が必要です。ともかくゆっくり、走らないこと。バイクと車のあいだをゆっくりゆっくり、縫うようにして歩いていくのです。
有名なクチに行って、そのトンネルにもぐってきました。アメリカ軍の支配を許さなかった集落です。サイゴン(現ホーチミン)からわずか60キロしか離れていないところに解放軍の確固たる拠点があって、そこを維持し続けたというのです。すごいものです。地下3層からなるトンネル構造のほんの100メートルほどを中腰ですすみました。おかげで翌日から膝のあたりがガクガクしてしまいました。真っ暗闇のなか、狭い狭い通路です。もちろん真っ直ぐではありません。曲がりくねり、下におり、上にあがりする通路です。平地でアメリカ軍とたたかうことの困難さの、ほんの一端は身をもって体験しました。でも、このちょっとした体験で初めて、ベトナム全土が30年前まで戦場だったことを実感することができました。
今、ベトナムは大変化の真最中です。これからどう変わっていくのか、引き続きウォッチングしていきたいと考えています。
一緒に旅行した仲間の皆さんに感謝します。とりわけ、企画した大塚弁護士、そしてクチ・ツアーを実現した伊達・黒木両弁護士にお礼を申し上げます。旅行会社の添乗員である今里氏には、またまた大変お世話になりました。
2006年12月 5日
兵士と軍夫の日清戦争
著者:大谷 正、出版社:有志舎
江戸時代の本百姓は戦時に武士の組織する軍団に付きしたがい、補給を担当する陣夫となった。日本は馬の数が少なく、在来種は体格貧弱で、かつ牡馬は去勢されず、蹄鉄(ていてつ)が不完全であった。
西南戦争と日清戦争までは、民間人を雇用して臨時の軍属、すなわち軍夫として、おもに大八車を引かせて補給業務を担当させた。近代陸軍というものの、後方は江戸時代の大名軍の小荷駄隊と大差なかった。
日清戦争のとき海を渡った日本陸軍は、17万人あまりの正規の軍人と十数万人の軍夫から成っていた。戊辰戦争以前は武士と陣夫の戦争だった。西南戦争と日清戦争は兵士と軍夫の戦争で、義和団出兵後は兵士だけで戦争をたたかった。
軍夫とは、過渡期の日本軍の補給業務を担当した臨時傭いの軍属のこと。軍夫には軍服も軍靴も与えられず、軍夫の雇用と管理は軍が直接におこなえず、軍出入りの請負業者が担当した。軍夫をまとめる小頭(こがしら)など、末端の実務者の多くは博徒だった。
軍夫は国内では40銭、国外勤務のときは50銭の日給が支給された。しかし、軍夫の給金を請負人がピンハネし、また賭博で巻き上げられることが頻発していた。
「文明戦争」をおこなうはずだった第二軍は、旅順攻略戦において、外国人の新聞記者と観戦武官の目の前で、伝統的な武士の軍隊らしく無差別殺人に走った。これが旅順虐殺事件として欧米のジャーナリズムから非難された。
当時の日本では、旅日記をつける習慣は一般的であり、従軍日記も貴重だと考えられていた。日清戦争の当時、兵士たちは家族あてに、そして新聞社にあてて、部隊の移動や作戦目的までもあからさまに書いてきたし、新聞社側も伏せ字(×××)という自己規制をおこないながらも、兵士や軍夫の手紙を掲載した。明治時代、地方新聞は書き手が不足していたこともあって、積極的に投書を掲載していた。戦場からの手紙を紙面に掲載するのは、その応用だった。
中国人に対する呼称も、当初の清国人から豚人、支那土人、チャンチャンという蔑称が普通となり、中国人の弱さと物欲を侮り、不潔・臭気を野蛮の象徴とみなすようになった。この戦場の兵士、軍夫たちの中国観は、また新聞報道や手紙を通じて故国日本の民衆に共有され、中国に対する蔑視観がかたちづくられていった。戦争が終わった後に人々の記憶に残ったのは、単純で一面的な清国蔑視観だった。
新聞記事と戦場からの手紙には、具体的な戦争の実情が紹介されていた。
戦時国際法を適用した「文明戦争」のはずが、日本軍はしばしば敗残兵を捕虜にせずに殺してしまった。兵站線が延びきって補給が追いつかず、兵士たちは食料を略奪し、ときには寒いなか民家を破壊して燃料を得て生きのびた。都市を焼き払うことは満州の戦闘で始まり、台湾植民地戦争では、予防的懲罰的な殺戮と集落の焼夷が普通の戦闘手段となった。そして、敵軍より恐ろしかったのは伝染病だった。
日清戦争のころ、出征した兵士たちが故郷の新聞社に手紙を書いて、新聞がそれを競って掲載していたこと、それに戦場の実際がかなり紹介されていたことを知りました。それにしても、戦場は悲惨でした。
先日、硫黄島のたたかいをアメリカ側から描いたクリント・イーストウッドの映画(第一部)をみましたが、戦場の悲惨は昔も今も変わらないのでしょうね。そして、戦争で肥え太る軍指導者と政財界の支配者という連中が安全な背後で笑っているという構図も・・・。
2006年12月 4日
蝶々は、なぜ菜の葉にとまるのか
著者:稲垣栄洋、出版社:草思社
ちょうちょう ちょうちょう
菜の葉にとまれ
菜の葉にあいたら 桜にとまれ
桜の花の 花から花へ
とまれよ 遊べ 遊べよとまれ
これは文部省唱歌の歌詞。しかし、なぜ菜の花ではなく、菜の葉なのか。このちょうちょうは、モンシロチョウのこと。
モンシロチョウは実際に菜の葉にとまる。産卵のためである。モンシロチョウの幼虫である青虫は、アブラナ科の植物しか食べることができない。そこで、モンシロチョウは、幼虫が路頭に迷うことのないように、足の先端でアブラナ科から出る物質を確認し、幼虫が食べることのできる植物かどうかを判断する。つまり、産卵しようとするモンシロチョウは、葉っぱを足でさわって確かめながら、アブラナ科の植物を求めて、葉から葉へとひらひらと飛びまわっている。モンシロチョウは、葉の裏に小さな卵を一粒だけ産みつける。
といっても、この小さな卵はみるみるうちに大きな青虫になってしまいます。私も、キャベツ栽培に挑戦したことがありますから、よく分かります。毎朝、とってもとっても、翌日には大きな青虫が葉の裏にいつもいて、たちまち虫喰い状態になっていました。
植物は昆虫に対する防御策をとっている。しかし、昆虫も、その毒性物質を分解して無毒化するなどの対策を講じている。ただ、それは万能というわけではない。だから、アブラナ科植物の防御物質を打ち破る術を身につけたモンシロチョウは、菜の葉だけを求めて飛びまわることになる。そうだったんですねー、なーるほど・・・。
5月5日の菖蒲湯(しょうぶゆ)についての説明があります。
旧暦の5月5日は、雨の多い田植えの時期。重労働で体は疲れる。気温や湿度の上がるこの時期に田んぼに入ると、虫や菌によって皮膚病にかかる危険がある。そこで抗菌力の強い薬湯に入って皮膚を保護する。ショウブやヨモギには強い抗菌作用がある。
7月7日には、ほおずきの根を煎じた薬湯を飲む。ホオズキの根には堕胎の薬としての作用がある。7月7日に妊娠していると、もっとも忙しい稲刈りの時期に大きなお腹で動けなくなる。無理に重労働すれば、流産の危険があるばかりか、母体も危ない。そこで、7月7日にホオズキの薬湯を飲み、早いうちに流産させた。昔はどこの農家にもホオズキがあったが、それには実用的な深い意味があった。なーるほど、そうだったんですかー。
昔の日本にあったモモは、先が尖っていた。桃太郎の絵本に描かれていたとおり。それが明治時代になって、現在のように丸いモモがヨーロッパから入ってきた。
かつての日本では、花見は、梅の花を見に行っていた。ウメは遣唐使のとき、中国から日本にもちこまれた。万葉集には、ウメを詠んだ歌が 118首。サクラのほうは43首のみ。遣唐使が廃止されると状況は一変した。「古今和歌集」にはサクラの歌がほとんどで、ウメのほうはわずかになった。
サクラのサは、田の神を意味し、クラは依代(よりしろ)の意味。つまり、サクラとは、田の神が下りてくる木という意味。
植物にまつわるうんちくたっぷりの面白い本でした。
2006年12月 1日
補給戦
著者:マーチン・ファン・クレフェルト、出版社:中公文庫
兵站(へいたん)の大切さは、古今東西かわらない真実です。腹が減ってはいくさは出来ないのですから。ところが、これまた、このシンプルな真理を無視してきた独裁者が昔も今もいます。もっとも、兵站が確保されても、大義名分がまったくなければ、今のアメリカのようにイラクで泥沼に陥って、もがけばもがくほどアメリカ兵が損耗していく苦境にたたされることになってしまいます。
18世紀はじめ、スペイン継承戦争のとき、イギリス軍は、ヨーロッパ大陸で次のように進軍したそうです。
軍隊は毎日昼ころに野営地に到着し、煮立ったスープ鍋をもった従軍商人によって迎えられる。その地の百姓も待ち構えており、行軍の費用を自分で支払うことのできる兵士に対して、喜んで商品を売却する。兵士はたらふく食べると、勘定を済まし、それから午睡に入る。うーん、なんというのんびりした戦場の光景でしょう・・・。
当時の君主は補給隊を常設するより、請負人をつかったほうが安上がりだと考えていた。というのも、戦争が終われば解雇できるからだ。
ナポレオンも補給を重要だと考えていた。ナポレオンは軍団に対して、4日分のパンと4日分のビスケットの携行を命じていた。ビスケットは予備品であり、緊急時にのみ手をつけるものとされていた。ナポレオンは補給に無関心どころか、作戦指揮に響くほど補給に注意を払った。
ナポレオンがロシアにもっていったのは、24日分の食糧だった。このうち20日分は輜重大隊によって運ばれ、4日分は兵の背中によって運ばれた。1812年にナポレオンの本隊は600マイルを進撃し、途中でスモレンスクとボロージノという二つの大戦闘をたたかったが、モスクワに入城したとき、なお兵員の3分の1が残されていった。ナポレオンのロシア侵入は十分な準備なしに開始されたのではなかった。ところが、補給部隊が四囲の環境から崩壊してしまったのだ。
ヒットラーのソ連侵攻のとき、補給物資の大部分は1200台の馬車によって運ばれていた。ドイツ軍は、自動車を手に入れることが困難だったので、民間から徴発した。すると、自動車の種類が多くなり、予備部品が不足して動かなくなっていった。
ドイツのロシア侵攻軍が2000種類ものタイプの車輌をつかっていたため、予備部品が100万以上も必要となった。ロシアの鉄道はドイツの軌道と同じでないため、鉄道は利用できなかった。ロシア軍のガソリンはオクタン価が低く、ドイツ軍の車輌がつかうときには、特別につくられた施設でベンゾールを添加しなければいけなかった。
ドイツ軍は、ロシア領内深く侵入する時点で補給困難に直面していた。秋のぬかるみの中で、ヒットラー軍は崩壊した。世界でもっとも近代的な軍隊が、その攻撃の成功にもかかわらず、今や重火器の支援を受けず農業用荷車しかもっていない歩兵の小部隊に頼っていた。ドイツ軍のモスクワ占領失敗は、冬将軍の到来に原因があるという意味は修正する必要がある。ヒットラーは兵站に何の関心も持っていなかった。これでは進撃できるはずもありません。戦争の裏面を知ることができる本です。
女甲冑録(おんなかっちゅうろく)
著者:東郷 隆、出版社:文藝春秋
戦国の歴史の中に立ち現れた女武者たち。かの女らの一瞬の光芒、その横顔が鮮やかに描かれています。女なれど、やわか男におとるべきや。そうなんです。日本の女性は昔から男に負けずおとらず、がんばっていました。それは戦国時代でもそうだったのです。
萌黄威(もえぎおどし)の毛引き具足、白い上帯(うわおび)を締めなし、長(たけ)なる黒髪解いて颯と乱し、金の鉢金つけた鉢巻し、薄紅(うすくれない)の衣の裾引き上げ、紅い切袴(きりばかま)というのが常山御前鶴姫の姿。それに従う女性(にょしょう)たちも、赤あり、黒あり、紅裾濃(くれないすそご)、紫革(むらさきがわ)。男がまとうても派手派手しきを、女がまとえばなおのこと華やかな30余人の女武者姿。
紫隔子(むらさきすそご)を織付けたる直垂(ひたたれ)に菊とじ滋(しげ)くなして、萌黄糸縅(もえぎいとおどし)の腹巻に同色の鎧袖付け、三尺五寸の大太刀。箙(えびら)に真羽(まば)の矢の射残したるを負い、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置く。兜は被らず、長(たけ)に余る黒髪を後ろに打ちなびかせ、金の天冠をば頭に置いたる異形の武者が馬を馳せていく。これぞ女武者巴(ともえ)であった。
緑の黒髪を振り乱し、鳥帽子形(えぼしなり)の兜に小桜縅(こざくらおどし)の鎧、猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織。重大の太刀「浪切」(なみきり)、銀の采配を携え手綱を握って大手門に登場した甲斐姫は寄手を押し返す。
武装した女性が立っている。長い髪を後ろに束ねた童形(わわがた)で、水色の鎧直垂に古式の銅丸をまとい、男のような革包(かわづつ)みの太刀を佩(は)いている。
いやあ、本当に勇ましい日本の女性たちです。戦国期をたたかい抜いた女たちのあでやかな姿にほれぼれとしてしまいます。
6つの短編小説から成る面白い本です。
土一揆と城の戦国を行く
著者:藤木久志、出版社:朝日新聞社
土一揆について、最近の通説は自律性のある惣村を単位として整然と組織され、債務証書を土倉(どそう。当時の金貸し)に迫って一人ひとり確認したうえで破ったとか、土一揆による放火や略奪は不測の逸脱に過ぎず、ほんらいの土一揆は、たしかな統制ある行動をとっていたとしています。
著者は、これに対して、土一揆には激しい暴力的な行動があったことを強調しています。有徳人(うとくにん。富裕者)が、その社会的評価にふさわしい、危機管理の務めを果たさなければ、その徳(富)を実力でもぎ取る、つまり社会的な富の暴力的な再配分は当然だという自力救済の習俗が成立していた。
飢饉状況は、金持ちの施主(有徳人・分限者)にとっては、安い労働力や資財を楽々と確保するのに有利な環境であっただけではなく、権力者の企てる飢饉のさなかの造作や普請も、権力が集積した富を放出して、飢饉にあえぐ人々に再配分する重要な回路であり、大規模な公共投資という性質を秘めていた。だから、もし有徳人・分限者が世の危機に期待される役割を果たさなければ、暴力による略奪の対象とされた。
なーるほど、そういうことだったんですね。
エジプトのピラミッドの建築も単に奴隷労働とみるのではなく、大型公共土木工事とみるべきなんだという学説を読んだことがあります。同じことなんでしょうね。
民衆の戦争見物というのも、じつは戦場の略奪が目当てだった。村々の一揆の落人狩りなども、その一側面に過ぎない。明智光秀は、村人による落人狩りにつかまり、あえなく生命を落としたのでしたよね。
これを読んで映画「七人の侍」を思い出しました。一見弱々しそうな村人たちが、実は、ひそかに米も武器も隠し持っていて、いざというときには落人狩りまでしていたのです。あれって、本当のことなんですね。
いまの久留米市田主丸にあった筑後国の塩たり村には、天文4年(1535年)には庄屋がいたという地検帳があるそうです。庄屋というのは、近世にできあがった村の仕組みだというのが通説なのですが、ここにはもっと早くから庄屋がいて、自分で「作」もし、また、村の代表として「庄屋給」をもらっていたというのです。
飢饉と戦争が相次ぐ世の中でしたから、暴力も公然とまかり通っていたことを事実として認識する必要があると思いました。
2006年12月28日
渋滞学
社会
著者:西成活裕、出版社:新潮選書
東京の弁護士会館についている4台のエレベーターはなかなか来ず、待つ人(その多くは、もちろん気ぜわしい弁護士です)を大いにイライラさせる存在です。2、3分待ちはザラです。ところが、やって来るときには次々に来ます。1台目は満員で2台目はガラ空きというパターンです。どうにかならないものか、弁護士会はなんどもエレベーター管理会社にかけあいましたが、一向に改善されません。この本によると、それも一種の渋滞減少なのであり、仕方のないことのようです。
大規模なビルに複数のエレベーターがあるとき、放っておくとダンゴ運転をしてしまう。利用客が一番多い階にエレベーターは集まる傾向があるので、他の階ではかなりの待ち時間になり、結局、複数のエレベーターがあっても、分散せずダンゴ状態になる。そこで、時間帯ごとの利用階の頻度をコンピューターに学習させ、それにもとづいてある程度、将来のエレベーター運行ルートを予測し、そのうえでなるべくすべてのエレベーターが分散した状態になるように運行するようにする。したがって、無人なのに勝手にエレベーターが動いていることがある。これをエレベーターの群管理という。しかし、これをやると、運行の電気代はより高くなる。
車間距離が40メートルいかになっても相変わらず自由走行の時速80キロメートルで走っている状況はメタ安定。このメタ安定状態は通常は5〜10分ほどの寿命しかなく、徐々に渋滞へ移行する。
メタ安定状態とは、何らかの原因で短時間だけ出現する不安定な状態をいう。車間距離が200メートルより短くなってくると、自分の速度をそのまま維持しようとして早めに車線変更し、追い越し車線を走るほうがよいと判断する。
しかし、皆が同じように行動すれば、結果として追い越し車線の方が混んできて速度が低下してしまう。だから、混んできたときは走行車線を走ったほうがよい。長距離トラックの運転手は、経験的にこのことを知っている。
赤信号でたくさんの車が止まっている。青信号に変わった。全部の車が一斉に動き出せば、すぐに動けるのにと思う。しかしこれは実際には難しい。車一台あたり静止時に前後8メートルを占めているので、車1台あたり1.5秒かかる。たとえば、自分が信号機から10台目にいると、15秒ほどで自分の発進の番になるということ。
明石歩道橋事故についての解説があります。大いに関心をもって読みました。
通常は1?に5人で危険な状態になり、将棋倒しの状態が起きる。明石では、事故のとき、その3倍の15人いたと推測され、一時的に圧縮状態になったわけで、そのときに人が感じた力は1?あたり400キログラム。これはとてつもない大きさだ。現場付近の300キログラムの荷重に耐えられる手すりが壊れていたことから判明した。医学的には200キロで人間は失神するといわれている。
難しいところもあって十分理解できたわけではありませんが、予想以上に面白い話が満載の本でした。
帝国と慈善 ビザンツ
世界史
著者:大月康弘、出版社:創文社
ビザンツは、その領土的遺産を引き継いだオスマン帝国と同様、他民族からなる文化複合の世界帝国だった。
89人いたビザンツ帝国の歴代皇帝のうちの43人がクーデターで失脚した。
ビザンツ帝国では、後のオスマン帝国と同じく、エリート官僚は固定化された社会階層から輩出される存在ではなかった。絶えず広く帝国各地、各層から有為な人材が登用されていた。この世界では、ギリシア語を話すことが条件であり、ときに識字能力をもたない人物が皇帝になることも珍しくはなかった。エスニシティが問われることもなく、異民族間の通婚も決して稀ではなかった。
文字も読めない一介の地方農民のせがれが帝都に上り、コネを求めて有力者の従者団の一員となる。その人的信義関係をテコに国家の官職に与り、最終的に皇帝のポストを得ることのできた社会だった。そのような者が一再ならず登場したビザンツでは、単に社会的流動性が高かったというにとどまらず、帝国を支える人材と富の流通、権力による収奪の回路が、コンスタンチノープに象徴される中心に向かって流れるばかりでなく、その中心から環流するさまざまなチャンネルがあった。
皇帝の座をめぐる権力闘争は行われたが、皇帝権力の存在そのものが否定されたことはない。皇帝就任のあかつきには、卑近な論功行賞にとどまらず、どの人物も、ほとんど必ず帝国民に対する広範な善行を施した。国政の継続と皇帝に期待される「善き行い」の持続にビザンツ帝国の一つの特質が示されている。
教会は集積した財貨を、いろいろの慈善活動を通じて帝国社会に広く還元していった。現在も見られる病院、救貧院、孤児院、養老院などは、まさにこのビザンツ帝国の5、6世紀に出現した。
市民の寄進、遺贈は教会の重要な財源基盤だった。そして、その財源をつかっての慈善施設の経営は、教会活動のなかでも日常的に最重要な領域を構成していた。
ギリシアに住む11世紀の女性(修道女)の遺言状が紹介されています。彼女は、遺産を修道院に寄進すると書いているのです。
日本人の学者が、ビザンツ帝国のことを深く研究しているのを知って感動しました。
ビザンツ帝国の断面をほんの少し知った気になりました。ハードカバーの400頁ある、ちょっと値のはる本なので、紹介してみました。
日本テレビとCIA
社会
著者:有馬哲夫、出版社:新潮社
今日の日本人にとって、テレビは軍事や政治とはまったく関係のない、単なる大衆娯楽のメディア。とくに日本テレビは、プロ野球やプロレスなどのスポーツ番組として、バラエティや音楽など、娯楽番組に定評がある。
しかし、その設立の狙いは、アメリカ的民主主義や生活様式を日本人が学ぶことにあった。優先順位として上位にくるのは、共産主義国からの軍事的脅威に対する心構えだ。
アメリカの世界戦略のなかで、日本テレビにはポハイク、正力松太郎(読売新聞社主)にはポダムという暗号名がつけられていた。
正力は、文化・教育のメディアとしてテレビを考えていたが、GHQと接触して、反共産プロパガンダのメディアとして位置づけを変えた。
アメリカが直接に共産主義とたたかうのではなく、日本にそれをさせる。単に日本を助けるのではなく、それがアメリカの資本家の利益にもなるようにすることが求められた。
公然、非公然の手段によって、日本のマスメディアは、アメリカの対日心理戦略に確実に組み込まれ、かなりコントロールされた。毎晩のゴールデン・アワーを占領したアメリカ製の娯楽番組ほど大きな威力を発揮した番組はない。
日本テレビはNHKと歩調をそろえて、アメリカのNBC、CBS、ABCがアメリカで放送して実績をあげた娯楽番組を放映した。たとえば、「名犬リンチンチン」「パパは何でも知っている」など。
いかにもプロパガンダくさい番組より、ごく自然な娯楽番組のほうが、日本人を親米的にするうえで効果がある。
マッカーシズムの時代には、西部劇は共産主義に対して開拓時代のアメリカ的価値を改めて称揚する意味があった。
これらの娯楽番組が共通して発揮した絶大な効果は、日本人を番組のなかの人物、とりわけ主人公に感情移入させたことだ。つまり、日本人であるにもかかわらず、アメリカ人の気持ちになって考え、彼らの視点からものごとを見るようになった。
現在の例をあげると、アメリカ側からのニュースや素材が多く採用されているため、日本人の多くはイラク戦争をアメリカの視点から見ている。そして、9.11でワールド・トレードセンターが崩れ落ちている映像を見ると、アメリカ人でもないのに、これはテロリストが起こした悲劇だと思ってしまう。対日心理戦略計画に、日本のメディアにできるだけ多くのニュースや素材を提供せよとあるのは、まさにこのためなのだ。
なーるほど、そういうことなんですよね。日本のテレビは、昔も今もアメリカ的価値観に完全に占領されています。それで、アメリカのイラク侵略戦争への日本人の反対デモの盛り上がりが今ひとつ欠けていたんですね・・・。恐ろしいことです。
裁判と社会
社会
著者:ダニエル・H・フット、出版社:NTT出版
聖徳太子の「十七条の憲法」に「和をもって貴しとせよ」とあることを根拠として、日本人は昔から裁判が嫌いだったというのが常識になっています。しかし、この常識は間違っていると私は考えています。この本も同じように考えています。
聖徳太子という人物が本当に存在したのかということも疑われていますが、その点はおいても、「十七条の憲法」には、裁判があまりにも多すぎるので、減らしなさいとあるのです。日本人が争いごとを好むのをいさめた言葉なのです。言葉の表面だけをとらえて昔から日本人は裁判が嫌いだったなんて、まったくの見込み違いです。実際、30年以上弁護士をしていて、裁判が好きな日本人の男女を数多く見てきました。いわゆるインテリではない人たちにも、けっこう裁判マニアがいるのです。
この本では、日本とアメリカと中国でアンケート調査をして、日本がとくに裁判を嫌うということはなかったという結果を紹介しています。
日本では、津の隣人訴訟が有名です。お隣同士で親しい間柄の二家族があり、子どもたちが近くの貯水池で遊んでいたところ、一人が溺死してしまったことから、死んだ子の親が隣人を訴えて裁判を起こし、裁判所は損害賠償を命じました。すると、マスコミが取り上げ、原告となった親を非難し、ついに訴訟は取り下げられました。そして、そのあと今度は、訴えられた隣人まで嫌がらせの電話や手紙が集中したのです。
これは、日本人が裁判を嫌う例証として、よく取り上げられるケースです。
ところが、この本によると、1994年のアメリカのベストセラー小説にも同じようなテーマを扱ったものがあるそうです。そして、アメリカ人の親は、隣人に対して訴訟することを考えもしなかったというのです。津の隣人訴訟は、日本人の特異な訴訟観を証明するものではないのです。
アメリカ人は、友人とのあいだでは、借用証などの書面なしに、握手の信頼関係でお金の貸し借りをすることが多い。
著者はこのように述べています。なーんだ、これじゃあ、日本人と同じではありませんか。日本人とアメリカ人と、いったいどこが違うのでしょうね
著者は、裁判所の人事配置について、日本の大企業の人事慣行とよく似ていると指摘しています。なるほど、そのとおりでしょう。
雇用主に忠実でない労働者はどこか居心地の悪い場所に左遷される。ただし、解雇されるまでにはいかない。それには特別の理が必要とされるから。
この本で、著者は、交通事故と破産事件の処理をめぐって、裁判所が意識的に政策形成したことを指摘しています。なるほど、と思いました。交通事故では賠償基準表をつくり、破産事件でも少額管財事件をふくめて簡易・迅速処理を実現しました。
これについては、熱心かつ創造性豊かな弁護士が訴訟を追行し、その熱意を熱心かつ創造的な裁判官が受け容れたという事情がある、という指摘です。まったく同感です。
日本法の本質は3分で喝破できるものではないという著者の言葉に私も賛成です。何ごとも、そんなに簡単なことはないのです。
公安化するニッポン
社会
著者:鈴木邦男、出版社:WAVE出版
著者は早大出身の新右翼のリーダーです。公安警察で活動していた何人かの元警察官との対話からなっている異色の本です。
過激派のセクトの中にも公安に通じているスパイがいる。バレそうになったら、公安が手配してアメリカへ逃がす。
革マルは内ゲバで殺された人が78人いると書いているが、そのなかに実は警察官も混じっていた。ええーっ、本当なんですかー・・・。ところが、実は、とうやら本当のことのようです。
機動隊がエンジンカッターで鍵を切って過激はセクトのアジトを襲撃する。ドアを開けて盾と警棒を持って突入していく。マスコミも中までは撮れないので、中に入ったらやり放題。その場にいた人間の頭を叩く。歯向かう人間は警棒で鎖骨を折ってしまう。機動隊の装備は重厚で、鉄も入っているので、殴りかかられても平気だ。
中にいた人間が「おれもサツカン(警察)だ」といっても、機動隊員は「うそだろ、うそだろ」と言って信じず、叩き続ける。危篤状態で病院に運ばれ、本人が職員番号を言って本物(潜入スパイ)だということが分かる。それで大至急、蘇生するオペレーションをやってもらうけれど、手遅れになる。これで死んだのが何人もいる。
遺族が、「スパイみたいなことをさせて、どうして守ってくれなかったのか。殺したのは警察官じゃないか」と激しく抗議したので、潜入スパイは下火になった。
こうやって10人は死んでいる。殉職したら、4500万円もらえる。このほか裏ガネももらえて、階級も特進するので、合計8000万円くらいは支給される。そして、警察の弥生廟にまつられる。
そうだったんですかー・・・。警察官も内ゲバの被害にあって殺されていたんですね。でも、これって、亡くなった人には申し訳ありませんが、ほとんど無意味、いわば犬死にみたいなものではありませんか。
スパイ(組織内協力者)に求められるのは、「頭がいい」が「意志が弱い」こと。これが理想的な人物の条件。意外にもトップに近い人間ほど脇が甘い。末端は上部の査問を恐れて治安機関と接触することに恐怖を感じるが、トップは全部自分の腕三寸だと思ってしまうから。
公安警察は全国に1万人いる。公安調査庁は、わずか1500人。スパイを摘発する防諜能力はほとんどない。もっぱら組織内部のスパイから聞き出した情報を評価している。
私の親しかった弁護士(故人)は、父親が公安刑事でした。オヤジは昼間は家でブラブラしていて、夕方から出勤していた。なんだか暗い家庭の雰囲気だったという話を聞いたことがあります。なるほど、スパイ・ハンドラーとして、フツーの警察官が味わえるような社会正義の実現はできなかったのでしょうね。スパイの獲得って、要するに人間を堕落させることですよね。そんな仕事で生きていくなんて、みじめな人生じゃないでしょうか。そう思いませんか。
反米大統領、チャベス
世界
著者:本間圭一、出版社:高文研
ベネズエラというちいさな国が今、世界の注目を集めています。アメリカが今もっとも嫌っていながら、倒すことのできない大統領がいるからです。
ベネズエラの石油輸出量は世界5位、石油埋蔵量は世界6位。今のままの石油生産を 300年も維持できる。
中南米の国々は、いま大きく左傾化している。ブラジルのルラ大統領アルゼンチンにキルチネル大統領、ウルグアイのバスケス大統領、ボリビアのモラレス大統領、そしてニカラグアのオルテガ大統領など。
先日、キューバの革命記念日にフランスの有名な俳優であるド・パルデューが現地に駆けつけたという新聞記事を読んで驚きました。キューバはアメリカからは依然として敵視されていても、今や孤立なんかしていないのですね。
ベネズエラの人口で、先住民は数パーセントしかいないが、混血は7割近い。チャベスも、父親は先住民の血を引いた混血。
多くの中南米の国々の軍人は、アメリカにある軍人養成学校で学んでいる。その出身者が60年代から70年代にかけて左翼政権を倒し、軍政を樹立した。ところが、ベネズエラは、このアメリカの軍人養成学校「米州学校」で学んでいない。
チャベスは37歳のとき、中佐として軍事反乱を起こし、失敗した。そのとき、テレビの前で90秒間、語ることができた。
同士よ、残念ながら、今は、我々が目ざす目的は達せられなかった
私は、国家とみなさんの前で、今回のボリバル軍事行動の責任をとる。
この言葉によって、無名の男が1700万人の国民の人気を得た。責任を認めたから英雄になったわけだ。
チャベスが大統領になったあと、軍部が反乱を起こし、チャベスは身柄を拘束された。ところが、暫定大統領となった商工会議所連盟会長がモタモタし、チャベス支持の国民が決起したため、反乱した軍部は動けなくなった。
この本は、そのあたりの息づまる攻防戦(いえ、軍事的な市街戦があったというのではありません)を生き生きと描いています。
チャベスは独裁者に転化する危険性があると著者は指摘しています。なるほど、そうかもしれません。でも、私がチャベスのしていることで、いいなと思うのは、次の2つです。医療と教育です。ここにチャベスは本当に力を注いでいるのです。この点はどんなに高く評価しても、しすぎということはないと思います。
国内総生産に占める教育予算はかつて3%以下だったのが、今は6%。学校給食を受けた子は、24万人から85万人に増加した。識字計画への参加者は100万人をこえている。医療面では1700万人もの人々に医療が確保された。キューバから大量の医師を受け入れている。
そして、チャベスは、毎週日曜日のラジオ番組に実況中継で出演する。それも、なんと、朝9時からの5時間番組だ。全国各地をまわって直接、国民と対話している。それをそのまま全国に実況中継している。うーん、すごーい。すご過ぎます。
いま、ベネズエラから目が離せません。
マーリー
生き物
著者:ジョン・グローガン、出版社:早川書房
アメリカで200万部をこえる大ベストセラーになった本だそうです。世界一おバカな犬が教えてくれたこと、というサブタイトルがついていますが、愛犬は人生の伴侶だということがしみじみ実によく分かる面白い本です。
マーリーはラブラドール・レトリバーです。ところが、実は2系統あるのだそうです。イングリッシュ系は体が小さくてずんぐりしていて、角張った頭とおとなしく落ち着いた性格ドッグショーに向いている。もう一つのアメリカン系は、見るからに大きく、たくましく、流線型の体型をしている。エネルギーにあふれて疲れ知らず、気性が悪く、ハンティングや競技向けの犬。野山で真価を発揮するアメリカン系ラブラドール・レトリバーを家庭でペットとして飼うと、大変なことになる。そうです、マーリーは、まさにアメリカン系の犬だったのです。その破天荒なやんちゃぶりが、これでもか、これでもかと紹介されています。それでも、老衰するまで著者はつきあいました。
著者の妻が死産して悲しんでいるとき、マーリーは静かに寄り添い、全身で妻を慰めた。待望の赤ん坊が生まれたとき、マーリーは大切に扱い、決して赤ん坊を危ない目にあわせることはなかった。そんなエピソードがいくつも紹介されています。犬は人の心が分かるのですよね。
老犬は人間にいろいろのことを教えてくれる。いつしか時が流れて、身体のあちこちが傷んでくるにつれ、生命には限りがあって、それはどうしようもないことだと。
マーリーは次第に老いて、耳が遠くなり、身体にがたがきた。老いは生きとし生けるものすべてに忍び寄ってくるけれど、犬の場合には、その足取りが驚くほど急だ。12年間というあいだに、元気な仔犬だったマーリーは、手に負えない若者になり、そして筋骨たくましい成犬から、足腰が弱った老犬へと変化した。
マーリーは、人生において本当に大切なのは何なのかを、身をもって人間に示してくれた。忠誠心、勇気、献身的愛情、純粋さ、喜び。
そして、マーリーは、大切でないものも示してくれた。犬は高級車も大邸宅もブランド服も必要としない。ステータスシンボルなど、無用だ。びしょぬれの棒切れ一本あれば、それで幸福だ。犬は、肌の色や宗教や階級ではなく、中身で相手を判断する。金持ちか貧乏か、学歴があるかないか、賢いか愚かか、そんなことはちっとも気にしない。こちらが心を開けば、向こうも心を開いてくれる。それは簡単なことなのに、にもかかわらず、人間は犬よりもはるかに賢く高等な生き物のはずでありながら、本当に大切なものとそうでないものとをうまく区別できないでいる。
人間は、ときとして、息が臭くて素行は不良だが、心は純粋な犬の助けが必要なのだ。
著者がマーリーの死を悼むコラムを新聞に書いたところ、読者からなんと800通ものメールが来たそうです。心の優しい動物好きはアメリカにも多いのですよね。
わが家でも、子どもたちが小さい頃に犬を飼っていました。小型の芝犬です。メス犬でしたが、息子がマックスと名付けました。子どもたちと犬を連れて散歩するのが、私の大いなる楽しみでした。世界一のバカ犬とは決して言いませんが、飼主に似たのか、間抜けな犬でした。庭にクサリでつないでいると、同じところをぐるぐるまわっているうちにクサリがからまって身動きとれなくなるのです。それでもバカな犬ほど可愛いというように大切にしたつもりでしたが、ジステンバーにやられて早死にさせてしまいました。マックスが死んでもう何年もたちますが、動物霊園に遺骨をおさめていますので、年に一回は今もお参りしています。
犬は人間の古き良き伴侶なんだとつくづく思います。
闘魂
現代史
著者:堀江芳孝、出版社:光人社NF文庫
硫黄島。小笠原兵団参謀の回想というサブ・タイトルのついた本です。1965年(昭和40年)に書かれています。
著者は陸軍士官学校を卒業し、連隊旗手となり、陸軍大学を卒業後、連絡参謀、第31軍参謀そして小笠原兵団参謀を歴任します。硫黄島参謀として、栗林忠道中将とともに硫黄島守備計画をたて、そのあと派遣参謀として父島で終戦を迎えて、日本に生還しました。陸軍少佐です。
第二次大戦の激戦地として硫黄島が必ずあげられる理由の一つに、筆の力があると著者は指摘しています。
硫黄島には詩人がいた。歌人がいた。作家がいた。その筆の力も見落としてはならない。誰であろうか。栗林兵団長その人である。彼が大本営に打電(父島を経由した)した一字一句は、それも刻一刻死期迫る洞穴の中で、ローソクの火を頼りに独特の細いこまかい字で綴った報告は、世界一流の文字でなくて何であろう。
私も、なるほど、と思いました。
硫黄島には、1944年6月ころ、1150人ほどの島民がいた。それを7月に3回にわけて内地へ引き揚げさせた。
栗林中将の死について、著者は次のように書いています。
常時側近に行動していた下士官の話によると、3月17日夜の出撃時に脚に負傷して行動が不自由となり、3月27日朝、高石参謀長、中根参謀とともに自決した。これが真相のようだ。
この本を読んで驚くのは、日本軍が栗林中将の死亡のころに3000人いて、5月中旬ころも1500人ほどが硫黄島の荒野を潜行していただろうと書かれていることです。日本軍捕虜は1,125人でした。
生き残った人たちの手記が紹介されています。いずれも鬼気迫るものがあります。
死ぬまで祖国を思い、陛下の万歳をとなえて死んでいったのである。かわいい妻子を捨て、家を捨て、国家のために殉じたものではないか。戦いは一国を支配する特権階級と他の国の特権階級との間の争いではないか。われわれ将兵は使役に駆り出されたに過ぎないのだ。日本国民は、こぞって戦没者の霊に捧ぐべきものは捧ぐべきではなかろうか。
映画「硫黄島からの手紙」を見ました。アメリカ人がつくったとはとても思えない出来ばえでした。こうやって戦争のなかで有為の人材があたら失われていったんだなと万感胸に迫るものがありました。この人たちのおかげで今の平和な日本があります。戦前の反省を生かした日本国憲法を子や孫のためにも守り抜かなければいけないと改めて強く思ったことでした。
本日(12月28日)で、御用納めとなります。この一年のご愛読を感謝いたします。新年もどうぞ引き続きお読みください。書評を分類分けして検索できるようにしました。仙台の小松亀一弁護士の提案によるものです。ご活用をお願いします。
みなさん、どうぞよいお年をお迎えください。
2006年12月27日
清冽の炎 第2巻・碧山の夏
現代史
著者:神水理一郎、出版社:花伝社
この本を読んだ読者が出版社に送った愛読者カードをまず紹介します。
いつかセツルメントの体験者の本が出ると待ちわびていました。1974年から4年間、私はF市で学生セツルメントをやっていました。セツル用語でいうOSです。時代はちょっと違いますが、懐かしいです。あれから30年。今でもOSをセツラーネームで呼びあっています。今後も続けて書いて下さい。
この本は、サブ・タイトルで1968東大駒場とあるように、1968年の東大駒場での出来事が描かれています。6月、安田講堂を占拠した学生を排除するために機動隊が導入されました。当局の一方的な機動隊導入に東大の学生が安田講堂前で6000人大集会を開きました。
この第2巻は、その続きとして7月1日から始まります。東大駒場では大教室(900番教室)で何度も代議員大会が開かれ、激しい議論が続いたうえ、ついに無期限ストライキに突入することになりました。
セツルメントは夏は合宿の季節です。奥那須の山奥深くにある三斗小屋温泉にセツラーが50人ほども4泊5日で合宿し、徹底的に議論しました。夜は闇ナベ、昼はハイキングもあります。人生を語りあう、楽しくも厳しい夏合宿です。路線の対立も表面化してきます。社会をどうとらえるか、将来、自分のすすむべき進路はどうするか、さまざまに心が揺れ動くなか、恋愛を語ります。
若者サークルにやってくる青年労働者のなかには会社からアカ攻撃を受け、脱落していく人も出てきます。単に真面目に勉強したいと思っても、左翼思想に染まったと会社から思われると排除されていく苛酷現実が彼らを待ち受けているのです。
9月に新学期が再開してもストライキは続行中。闘争の獲得目標がみえにくくなっているなかで、全共闘はバリケードストライキへ戦術をアップさせようとします。それではかえって学生の団結が損なわれ、闘争勝利は難しくなると反対する力が一段と強まり、ノンセクト学生がクラス連合を結成します。
セツルメントの地域の実践とは何か、1968年の東大闘争はどのように進行していったのか、著者渾身の大作第2弾です。ぜひ買って読んでやってください。
第3巻は1968年10月、11月を取り上げます。10.21沖縄闘争、11.22全国学生1万人集会と、そして東大と全国の学園闘争は、いよいよ大きく盛り上がります。
第4巻は12月、1月そして第5巻は2月、3月と続きます。そのあとは、登場人物の数十年後の現在を描いた第6巻が予定されているのです。
ところが、第1巻はさっぱり売れず、第2巻の売れ行きも芳しくはありません。 どうぞ、みなさん第6巻の完成が実現するよう応援してください。よろしくお願いします。
2006年12月26日
JALの翼が危ない
著者:安田浩一、出版社:金曜日
ボーイング777のエンジントラブルが相次いでいる。故障したエンジンは、アメリカのプラット&ホイットニー社製のPW4000シリーズ。製造工程でミスが起きた欠陥エンジンだった。
これを、一斉に取りかえるのではなく、部品不足から、程度の悪いものから交換していった。これはJALだけではなく、ANAも同じこと。
ハイテク自慢の最新鋭機といっても、ハイテクは安全を主眼においてはいない。あくまでコストダウンのため。乗員の数を減らして人件費を圧縮することにある。コンピューターの導入によって、パイロットの訓練時間を減らした。これによって、パイロットの賃金も減らした。
そして、整備士を大幅に削減している。1994年に国内大手3社で8000人いた整備士が、2005年には、なんと5000人にまで減っている。そのうえ、JALもANAも整備の外注化を進めている。今や自社整備は全体の3割にすぎない。外注化の先は、中国・アモイのテコ社とシンガポールのサスコ社だ。国内で整備するより3分の1の費用ですむ。
両社の整備不良が目立っている。そこでは整備は単なるビジネスでしかない。日本の10分の1という安価な労働力をつかって工場の流れ作業のようにすすめられていく。
1994年までは原則として自社整備だった。それが規制緩和の流れのなか、航空法が改正され、整備も海外に委託できるようになった。
飛行機が飛行場に着陸して離陸するまでの飛行間点検については、これまで整備士が2人でしていた。しかし、今は1人のみ。しかも、30分しかない。整備士が故障箇所を見つけたとき、管理職が、「あいつはなんで余計なものを見つけたんだ。定刻に飛べなくなるじゃないか」と怒った。ええーっ、そんな・・・。本当に怖い話です。
さすがに政府専用機だけは、そんな話とは無縁です。マニュアルの整備項目以上の完璧な整備が尽くされている。
JALが危ないというタイトルですが、ANAの方がもっと危ないという指摘もあります。JALはANAの水準にまで下げつつあるというのです。ANAの労組は御用組合となって、利益本意の経営陣をチェックする力をもっていないというのです。おーこわ。ブルブルっと震えてしまいます。
JALのパイロットは合計2400人。そのうち140人が健康上の問題で飛べない。在職者の平均死亡年齢は、なんと43歳。パイロットは短命というのは事実のようだ。
そこで、JALグループは、外国人パイロットを300人も雇っている。パイロット不足を外国人で補う方向にある。
スカイマークについても紹介されています。ひどいものです。公共性(安全性)は二の次だと社長は高言しているのです。整備不良のまま9ヶ月も飛行機を飛ばしていた事実が指摘されています。安ければ安全は保障しないのは当然だというのがスカイマークの経営陣のモットーのようです。間違っていますよね。
私の身近に飛行機には絶対乗らないという人が何人もいます。そんな人は、この本を読むと、ますます乗る気がしないでしょうね。でも、私のように月に2、3回は乗る人間にとっては、安全の確保こそが第一番にしてほしいことです。値下げサービスの前に、やっぱり安全ですよ。お願いします。
2006年12月25日
西海の天主堂路
著者:井手道雄、出版社:新風舎
久留米にある大きな病院の理事長兼病院長として活躍してこられた著者は、病を得て 2004年7月に亡くなられました。この本は、著者が生前書きためていた天主堂めぐりの紀行文を、その妻が整理して単行本にしたものです。長崎、佐賀、熊本など、九州西北部にあるキリスト教の教会を歴訪し、写真つきで紹介されています。旅行記としても、またキリスト教の歴史についても貴重な読みものとなっています。
長崎県に生月島がある。いま生月島のカトリック信者は250人。ところが、ほかに1000人ほどの隠れキリシタンが今もいる。キリスト教から次第に土俗化し、先祖が信仰してきた教えを守り続けているだけなのだろう。キリシタンの暦は守っても、祈る内容には現世利益を願う意向が強い。自らを古(ふる)キリシタン、旧キリシタン、納戸神と称した。五島列島では、元帳や古帳ともいう。
同じく長崎県の馬渡島にも隠れキリシタンがいた。葬儀のときは、仏式の葬儀のあと、見張りを立てて改めてキリシタン式の葬儀を行った。また、祈りや集会などのときにも、番人を立てて常に見張り、警戒を怠らなかった。
唐津藩のほうでも潜伏キリシタンであるとはうすうす気づいていたが、僻地ではあるし、検挙すると逆に宗門改め不行き届きで幕府より咎められるので、知らぬふりをしていた。潜伏キリシタンの島民は宗門改めの絵踏みのときには拒まず、島に戻って神に謝罪の祈りを捧げていた。
五島列島にも多くの潜伏キリシタンがいた。五島藩は、江戸時代には藩の経済上の問題もあって、見て見ぬふりをしていた。しかし、幕末から明治初期には、長崎の「浦上四番崩れ」と同じように、五島各地で「五島崩れ」と呼ばれる激しいキリシタン弾圧が繰り返された。
明治元年のキリシタン人別調べのとき、多くの潜伏キリシタンが堂々と信仰宣言をした。200人以上もの人々が飢えと寒さのなかで拷問を受けた。
久賀(ひさか)島の潜伏キリシタンは、190人も捕まり拷問を受けている。そのうち72人が20歳以下であり、10歳以下も45人いる。1歳の幼児までいた。
福江島では、今でも町の野外放送で教会のお知らせが放送されている。ここでは、日常生活が教会を中心に動いている。
実は、五島は32年前に私が弁護士になったとき、日教組への刑事弾圧事件が起きて弁護人として派遣された思い出の地です。弁護士になってすぐのことで、まだ弁護士バッジも届いていませんでした。警察へ面会に行くときにバッジは不可欠ですので、先輩弁護士のバッジを借りて出かけました。中学校の体育館に日教組の組合員が200人ほど集まっているところで挨拶させられました。まったく経験もなく、労働法も刑事訴訟法もよく分かっていない弁護士ホヤホヤの私でしたから、今考えても冷や汗一斗の思い出です。ともかく、お魚の美味しかったことだけはよく覚えています。
この本を読んで最大の驚きは、久留米の大刀洗町今村に多くの潜伏キリシタンがいたということです。大刀洗というと、なにしろ筑後平野のド真ん中ですので、長崎のような離れ小島とは違います。
16世紀公判から17世紀初めにかけて、福岡県南部の筑後地方つまり、久留米、柳川、今村、秋月、甘木に多くのキリシタンがいた。もっとも教会堂が多かったときには、久留米に二つ、柳川は一つ、今村に一つ、秋月に二つ、甘木に一つの教会堂があった。
1605年(慶長10年)には、久留米から秋月に至る地方に8000人のキリシタンがいた。いまの筑後地方のカトリック信者の総数は2900人でしかない。当時のキリシタンがいかに隆盛であったか、よく分かる。
今村の潜伏キリシタンは、仏教とを装いながら、祈りや教会暦を正しく継承し、純粋にキリシタン信仰を保ってきた。
なーるほど、そういう歴史があったのですね。きっと、これも筑後藩大一揆の一つの要因となっていたのでしょうね。人民、おそるべし、です。
2006年12月22日
藤沢周平未刊行初期短編
著者:藤沢周平、出版社:文藝春秋
藤沢周平が作家としてデビューする前、昭和37年(1962年)から39年(1964年)まで「読切劇場」など。月刊誌に短編時代小説を書いていたのが発掘されました。藤沢周平は36歳、娘が生まれ前妻が死亡するころの小説です。
そのころの心境を、藤沢周平は知人への手紙に次のように書きました。
人生には、思いもかけないことがあるものです。予想も出来ないところから不意を衝かれ、徹頭徹尾叩かれて、負けて、まだ呆然とその跡を眺めているところです。・・・
悲しみに打ちひしがれ、自殺もできない状況のなかで、藤沢周平は執筆活動をすすめていきました。藤沢周平が新人賞を獲得したのは、それから7年後の昭和46年(1971年)春のことです。
この本で紹介される短編小説は、なるほど同じ作家の手になるものだけあって、登場人物と時代背景の描き方は、やはり藤沢周平の小説という気がします。ただ、なんとなくまだ荒削りの感もしましたが・・・。しっとり感がまだ少し薄い気がします。
先日、山田洋次監督の映画「武士の一分」を見ました。藤沢周平原作の映画化三部作の完結篇です。江戸時代の藩政治の不合理のなかでも、夫婦愛に生きる下級武士の生きざまがよく描かれていると思いました。涙もろい私などは、ついつい涙腺が閉まらず、困りました。それなりに観客は映画館に入っていましたが、興行的に成功するのかどうか危ぶまれます。みなさんも、ホームシアターではなく、ぜひ映画館に足を運んで、大きなスクリーンで暗いなか、じっくり映像を見入ってくださいね。
庄内の方言の柔らかさ、優しさもいいですね。福岡弁も悪くはないと思うのですが、胸にゆっくり泌みこんでくるような庄内言葉は、聞く者の胸のうちをほんわかした気分に浸らせてくれます。
12月半ば、11月に受けた仏検(一級)の結果を知らせるハガキが届きました。もちろん不合格です。問題は得点です。合格基準点98年のところ、69点でした。あと30点も足りません。120点満点で、やっと5割に達したところです。8割以上とらないと合格しないというハードルは、今の私にとってあまりに高いものがあります。
実は、自己採点では、なんと75点をつけていました。6点もサバを読んでいたわけです。これまでは、1点か2点くらいの差しかなかったのですが、ついつい自分に甘く見てしまったようです。反省、反省と念じてしまいました。
この12月に58歳になりました。えーっ、そんなに生きてきたの・・・、という感じです。20歳になったのが、ついこのあいだ。弁護士になったのは昨日のように思えるのに、いつのまにやら弁護士生活も32年たちました。大局的な直感はかなり冴えてきたと本人は思っているのですが、具体的な法律条文とその解釈については、ますます心もとない限りです。いつも身近にいる若手弁護士に教えを乞っている有り様です。
お世継ぎのつくり方
著者:鈴木理生、出版社:筑摩書房
江戸時代、徳川幕府が250年間も続いた理由は、
男子の名義による相続
その男子の母親の出身や身分は問わない
すべての武士に適用される
以上は、逆にいうと、一般的には女子にも男子と同じ相続権があったこと、むしろ女子優先だったことを意味している。「農工商」では、女子相続が主流だった。
庶民は、武家とは正反対に、女子の誕生を待ち望んでいた。
10世紀から江戸時代まで、男を選ぶのは、女とその家族というより氏族全体の意向だった。男はタネを提供するだけで、その男のタネからできた子は成人するまで、女の家が育てた。女持ちの氏族が、その男に似合う適齢の女を「投資」して、権力財力を維持していた。いわば、「男買い」「男への投機」のようなものだった。
商家の場合は、当主といえば婿養子が常識であり、家付きの妻には頭があがらなかった。
江戸時代の女性は、物見遊山・芝居・信心などを口実として、男性を「囲ったり」、陰間(かげま)茶屋に通ったり、女性グループでの観光旅行などでも性的享楽を大いに愉しんでいた。江戸では、性の欲望を処理できた場所は、男は吉原一ヶ所に限られていたが、
女は七場所も認められていた。
家付きの妻は、性生活に不満があれば、七場所をはじめとして、自分用の寮に男を呼ぶのも自由だった。働きのいい女が、好みの男を自宅に飼っておく風潮は普通のこと。
そうだったんですかー・・・。開いた口がふさがりませんでした。日本の女性は、昔から強かったんですよね。私は弁護士をしていて、つくづくそう思います。もちろん、弱い女性もいることは認めますが・・・。
宇宙を読む
著者:谷口義明、出版社:中公新書
久しぶりに宇宙の本を読みました。この夏は、なぜかベランダに出て月の世界を眺めることが少なかったのです。暑かった割には曇天の夜が多かったのではないでしょうか。望遠鏡で月世界の運河をしばし眺めていると、俗世の憂さを忘れることができます。これは真夏の夜の寝る前の楽しみです。冬を迎えた今はベランダに出るなんて、とんでもありません。ところが、オリオン座など、冬空のほうが星はきれいに見えるんですよね。もう、あと一月もしないうちに除夜の鐘をつきに近くのお寺に出かけます。小一時間ほど山の中腹で空を眺めながら鐘衝きの順番待ちをします。寒い中、焚火にあたりながら星々を見上げます。
満月の明るさは一等星の26万倍もある。つまり、一等星が26万個も集まらないと満月の明るさには届かない。上弦の月でもその明るさは一等星の2万倍もある。ちなみに、太陽は一等星の明るさの1000億倍。これは満月の40万倍の明るさに相当する。
星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星。すこしをかし。尾だにながらましかば、まいて・・・。
これは清少納言の「枕草子」の有名な一節です。私の名前「昴」を「すばる」と読めない人も多いのですが、この「昴」(すばる)は、日本書紀にも出てくる古い言葉なのですよ。
すばるは、肉眼で見える星は6個だけだが、実は数百個もの星が集まっている。散開星団と呼ばれている。
七夕の織女星は見かけの等級は、一等星よりゼロ等星に近い明るさ。しかし、もし織女星が太陽と同じ距離にあったとすると、織女星は表面温度が1万Kと高く(太陽は6000K)、光度は太陽の1万倍もある。これでは、まぶしいどころではなく、人類は生命の危機に遭遇する事態を迎える。
太陽の表面の温度は6000K。黒点の部分の温度は4000K。そのため、周辺部に比べて暗くなり、黒く見える。
先日、星野村にある天文台で昼間、太陽と黒点を見る機会がありました。天文台に行くと、真昼間でも星が見えるのですよ。ご存知でしたか。
私たちの住む地球、そして太陽系をふくむ天の川銀河は、差し渡し10万光年もある巨大な銀河であり、そこには1000億〜2000億個もの星々が存在している。しかし、天の川銀河は、宇宙にたくさんある銀河の一つでしかない。
果たして、私たちの地球以外にも高度な文明をもつ星と惑星は存在するのでしょうか。
宇宙全体の質量のうち、陽子や中性子などのバリオンが占める割合はたったの4%でしかない。残る32%はダークマターで、73%はダークエネルギーとなっている。では、このダークマターとかダークエネルギーとは、いったい何者なのか。実は、まだ解明されていない、正体不明の存在である。
宇宙を撮影した写真は、これまた、この世のものとは思えないほどの美しさです。世界が未知なるものに充ち満ちていること、人間なんて、実にちっぽけな存在であることを実感させられる本です。やっぱり、たまには宇宙の本をひもとくべきだと反省した次第です。
2006年12月21日
ルビコン
著者:トム・ホランド、出版社:中央公論新社
賽(さい)は投げられた。
一か八か、運を天に任せる気になって、ようやくカエサルは軍団兵に全身命令を下した。
有名なルビコン川は、幅は狭いし、取り立てて特徴もなく、今では正確な場所すら分からない。しかし、このルビコンは正真正銘の境界線だ。これを越えたカエサルは、昔から守られてきたローマの自由を葬り、その残骸の上に君主制を打ち立てた。これは自由と専制、混乱と秩序、共和制と貴族制、ルビコン川を境にすべてが逆転した。このことは、ローマ帝国が滅びてからも、ローマの跡を継ぐ者たちの頭からは、いつまでたっても離れることはなかった。
カエサルは、紀元前100年7月13日に生まれた。
ローマ人は、生まれながらにして市民になるのではない。父親には、新生児の要不要を決め、要らない息子や娘(こちらの方が多かった)を捨ててこいと命じる権利があった。生まれたばかりのカエサルは、まずお乳をもらう前に、父親に高く持ち上げられて、この男の子は自分の子であり、ゆえにローマ人だと周りの者に示してもらった。生まれた9日目は、名前を付ける日だ。ほうきで家から悪霊を追い払い、飛んでいく鳥の様子で男の子の未来を占う。
ローマは「赤ん坊」にあたる言葉がない。子どもを鍛え始めるのに、早すぎることはないというのが、ローマ人の常識だった。新生児は大人の体型になるよう包帯でぎゅうぎゅうに縛られ、赤ん坊らしさは力づくで矯正された。一歳の誕生日を迎えられるのは、三人に二人で、その後、思春期まで生きられるのは、その半分にも満たなかった。
娘は、嫁いで家を出た後も父親が後見人をつとめたし、息子の方も、何歳になろうと、たとえ政務官に何度当選しようと、父親の保護下から離れることは絶対になかった。ローマの父親ほど、家長と呼ぶにふさわしい父親もいない。
ローマでは、誰もが法律に強い関心を寄せていた。市民は、法律制度のおかげで自分たちは市民として生活でき、権利が保障されているのだと、きちんと分かっていた。
男子は幼いころから、戦争へ行くため身体を鍛えるのと同じように、弁護士を開業できるよう一心不乱に頭も鍛えた。大人の社会では、弁護士業は、元老院議員が軍人以外に威厳を傷つけられずに行える唯一の職業だと考えられていた。法律は政治活動とは切っても切れないものであり、知らされないではすまされないもの。
ローマには、現代の検察にあたる公的機関がなかった。起訴はすべて個人でおこなわなければならない。だから、個人的恨みを法廷に持ち込むのも朝飯前だ。被告が重大犯罪で有罪と認められたら、表向きは死刑が宣告されることになっていた。しかし、実際には、ローマには警察組織も刑務所制度もなかったので、死刑判決を受けた者は、こっそり国外に亡命することができた。身の回りの資産を没収される前に国外に持ち出せば、亡命先で裕福に暮らすことさえ可能だった。ただ、政治生命は完全に絶たれる。犯罪者は市民権を剥奪されるだけでなく、再びイタリアに一歩足を踏み入れるようなものなら、だれに殺されても文句は言えなかった。
裁判では、どんな卑劣な策略も、どれほど悪質な暴露話もとことん非道な中傷も、勝つためなら平気だった。裁判は、選挙をもしのぐ、生死をかけた戦いだった。
裁判はスリル満点の観戦スポーツだった。だれでも自由に傍聴できる。目の肥えた法廷ファンは、いつでも、たくさんのなかから見たい裁判を選ぶことができた。弁論家にとっては、傍聴人の入り具合が自分への評価のバロメーターになった。
ローマ人の常識では、法律を研究するのは、弁論家の才能のない人間のすること。巧みな話術こそ、法廷での才能を測る本当の物差しだった。群衆や傍聴人を相手に、その心をつかみ、笑いや涙を誘い、お決まりのジョークでどっと沸かせたかと思えば、一同をジーンと感動させる。ときには説得し、ときにはアッと驚かせ、世の中の見方を変えさせる。こういうことができてこそ、一流の法廷弁護人と言える。だから、ローマでは、原告と俳優をどちらも同じ「アクトル」という言葉で表していた。
ブルータス、おまえもか。
シーザー(カエサル)の言葉は有名ですが、当時の法廷弁論術についての紹介は大変面白いものがあります。日本でも、いよいよ裁判員制度が始まります。フツーの市民から成る裁判員に対して、どれだけ分かりやすい言葉で話しかけ、理解してもらうことができるか、弁護士も検察官も、本当の力量が問われる世の中になりつつあります。
2006年12月20日
和を継ぐものたち
著者:小松成美、出版社:小学館
この国にはまだ、あなたの知らない仕事がある。オビにそう書かれていますが、実際そのとおりでした。うむむ、すごーい。つい何度もうなってしまいました。
香道というのがあるそうです。初めて知りました。一定の作法にもとづいて香木を焚(た)き、その香りを鑑定するのが香道です。香りを楽しむことを、聞くと表現します。まさしく風雅の道です。室町時代、足利義政のころ香宴の指導的役割をつとめ、香道の始祖といわれる三條西(さんじょうにし)実隆(さねたか)からはじまり、今も23代公彦(きんよし)が香道にいそしんでいるのです。
香りをゲーム形式で楽しんでいるのは、恐らく日本だけ。ヨーロッパの香水とくらべると、日本の香木の香りは香水ほど強くないので、鼻のなかに前の匂いがずっと残ることはない。香りが強烈でないから、繰りかえし繰り返し、長いあいだ楽しむことができる・微(かす)かな匂いだからこそ、今まで続くことができた。公家が愉(たの)しんだ練香のつくり方は、代々名家の秘伝だった。練香は、練り固めたあとに壺にいれて10日ほど土の中に寝かせてからでないと使えない。だから、すぐに薫物あわせなどの遊びはできない。
楊貴妃は、自分のつくり方で練香をつくり、それを飲んでいた。そうすると、身体の中からいい香りがしてくる。うへーっ、本当でしょうか。今そんなものを商品として売りに出したら、爆発的に売れるんじゃないでしょうか。
香木は、樹液が固まるとき、空気中にある細菌と結びついて樹脂ができ、それが沈着して固まったもの。やがて木が朽ちて倒れて土の中に埋まると、木の部分が腐ってなくなるが、樹脂の部分は残る。それを現地の人が探し出すというのが昔からの採取法だった。
和ローソクをつくり続けている人がいます。昔ながらのハゼの木の実から絞ってつくる製法です。和ローソクは、仏教伝来にともない中国から入ってきた。奈良時代には和ローソクがあった。本体はハゼの木の実を絞ったものを原料とし、灯芯はイグサ科の灯芯草をつかう。畳表用のイグサとは別のもの。
一本のローソクを完成させるのに、5日から一週間かかる。和ローソクは原料が植物なので、溶けたときの香りが自然で心地いい。洋ローソクはパラフィンなどの石油をつかうので、仏壇などのススがべったりしているが、和ローソクだと簡単に洗浄できる。
流鏑馬(やぶさめ)をはじめ、日本古来の弓馬道(きゅうばどう)を伝える武田流。日本古来の馬術は西洋の馬術とまったく異なる。乗り方も、鞍鐙(くらあぶみ)も全然違う。西洋馬術では、なるべく馬に負担をかけず、馬の操作をしやすくしてある。それで障害を飛んだり芸をしたり、そういうことに適した鞍の構造になっている。
日本馬術のポイントは鐙。鞍ではなく、鐙に重きをおく。鐙をきちっと踏み、上体を立ち透かすという乗り方は、日本だけの発想。たとえば戦闘では、槍や弓をもったら手を離して鐙と脚だけで馬を操作する。それができるからこそ槍や弓を使いこなせる。日本の鞍や鐙は、そのために機能的かつ合理的なつくりになっている。
ところが、明治になって西洋一辺倒になった結果、日露戦争では、ロシアのコザック騎兵に敗れてしまった。黒澤明監督の「七人の侍」「影武者」には、この武田流の馬術が正しくとり入れられている。ひゃあ、そうだったんですかー・・・。
流鏑馬は難しいのでは、という問いかけに対する答えは次のようなものです。
座禅を組むと、いわゆる無我の境地が訪れるというけれど、それが馬上で起こる。的が異様にゆっくりと近づいてきて、なんでこんなに大きい的なんだろう。これならどこを射っても当たるんじゃないかと思える。また、弓を構えると的まで白い線が伸びて、矢を離すと、その線のとおりに進んで的に当たる。
ホントにこの世はまだまだ知らないことだらけですね。
2006年12月19日
戦争大統領
著者:ジェームズ・ライゼン、出版社:毎日新聞社
コンドリーザ・ライスはブッシュ大統領と親密な結ぶつきはあるが、重要な案件を実行する能力や権限に欠けていた。外交政策を立案したのは、副大統領府や国防長官官房など、ふつうでは考えられない部署で、それもごく少数のスタッフによって行われた。
ホワイトハウスでは政策が議論されないのが、あたりまえになっていた。ブッシュ大統領の上級補佐官が正式な会議を開いてイラク侵攻の是非を議論したことは一度もなかった。きちんと機能する管理機構が欠けていることが、ブッシュ政権の外交政策の大きな特徴になっている。そのため、ろくに検討もされずに過激な決定が実施されてきた。
ええーっ、ウソでしょ。そう叫びたくなる記述です。
ブッシュ大統領は、FBIや国防総省を除外して、CIAにアルカイダ幹部の処理を一任した。FBIでなく、CIAを第一の担当部局にしたのは、法執行機関を中心にテロと戦うというクリントン時代のやり方を一変させるためだった。アルカイダは法執行機関が対処する問題ではなく、国家安全保障に対する脅威であるというのがブッシュの判断だった。だから、アルカイダ幹部をアメリカに連行して公判にかけるというやり方はしない。
大人数の捕虜を拘禁する収容所を運営した経験のないCIAが、手荒な手段を用いてもよいというゴーサインをもらうと、それまではジュネーブ条約を遵守することで定評のあったアメリカ軍もルールを変えた。CIAの収容所が、ひそかに世界各地に建設された。一ヶ所はアフガニスタンにあるが、もう一ヶ所は厳重秘となっている。タイやポーランド、ルーマニアなどにも収容所がある。CIAは、被収容者の身許を明らかにしていない。
NSAは、ターゲットとするアメリカ人ほとんどすべての電子メールを傍受する能力を備えている。インターネットの知られざる本質のひとつは、インフラをアメリカが独占していることで、世界中の電子メールのトラフィックの大部分は、アメリカ国内にあるキャリアのネットワークを一度は経由する。つまり、ドイツとイタリア間の電子メールがアメリカを通って送られることがある。ブッシュ大統領の秘密命令によって、NSAはアメリカ国内の無数の電子メールに加えて、海外の電子メールをなんの制約もなしに詳しく調べられるようになっている。
NSAがプログラムによって電話と電子メールを監視している海外在住の対象者は7000人に及ぶ。アメリカ国内の500人の通信もターゲットになっている。NSAは一日平均数千件の電話や電子メールなどのアメリカ国内の通信を傍受している。
CIA上層部は、何年も前からイラク情報の収集に重大な欠陥があるのを承知しながら、イラクには大量破壊兵器があるという情報を強引に広めてきた。イラクではスパイを勧誘できないという致命的欠陥を当時のCIA上層部はみな承知していた。
CIAのバグダッド支局長は、状況の悪化を率直に報告書に書いた。しかし、真実を告げるという、許されざる罪を犯したことになった。2003年夏に同支局に勤務している人員は80人以下だった。同年末には300人以上となっていた。支局長は、その年のうちに突然、失脚した。
2005年夏、CIA長官はイラクでアメリカは敗北を喫しつつあるという秘密のブリーフィングを受けた。CIAが率直になったのは、イラク戦争が失敗になったことが多くのアメリカ国民に明らかになったあとのことだった。
2006年12月18日
瀕死のライオン
著者:麻生 幾、出版社:幻冬舎
自衛隊のなかに特殊作戦群(SOG)が存在することは報道されています。陸上自衛隊の精鋭である第一空挺団の隊員を中心とする300人編成です。2004年3月、防衛庁長官の直轄部隊です。指揮官は群長と呼ばれ、一等陸佐であること以外は秘密です。対テロ、対コマンド部隊ということですが、それ以上は何も公表されていません。
内閣情報調査室(CIRO、サイロ)は、内閣総理大臣の決断を直接支える情報機関であり、トップの内閣情報官は、歴代、警察官僚が占めています。その活動一切が非公開です。この本は、この2つの組織の実態をベースとしています。
特殊作戦群の隊員の訓練状況が描かれていますが、実にすさまじいものです。まずは人殺しなること、そのうえで、自分の頭で考えろ、というのです。両者は根本的に矛盾します。本当によく考えて人を殺せるものなのでしょうか・・・。そして、その訓練はすべて英語です。いかにもアメリカ軍のもとで訓練されてきたことを思わせます。
付与した設想を復唱しろ。
なんとも奇妙な日本語です。タスキングしたシナリオを復唱しろ、とルビがふってあります。日本の自衛隊は、大小兵器のサイズがすべてアメリカのものと同一になっていて、日本独自のサイズはないといいます。アメリカは日本軍が独立することを恐れて、許さないというのです。そして、アメリカ製兵器のもっとも大事な部分の製造方法は日本に教えていません。武器・弾薬についてもアメリカの言いなりになるしかない構造なのです。
残念ながらアメリカの国家戦略と日本の安全保障とは、必ずしも一致しない。
こんなセリフが出てきます。考えてみれば、まったく当然のことです。アメリカが自国のことを優先させる。言いかえると、日本をあとまわしにするのは当然のことです。自分の国の利害を考えず、まっさきに日本をアメリカが守ってくれるなど、万に一つも考えられることではありません。しかし、自民党を支持する多くの日本国民が、何かあったらアメリカは日本を守ってくれるはずだと盲信しています。恐ろしいことです。
そしてまた、軍隊というものは自分(軍隊)を守るものであって、国民を守るということはないことも自明のことです。国民は、軍隊にとって邪魔で馬鹿な集団に過ぎません。このことは戦前の日本だけでなく、洋の東西で証明し尽くされてきた真理です。軍隊は、自分に余裕のあるときに限って、ついでに一般国民のことを考えるに過ぎません。軍隊に化した集団に思いやりなんて期待するほうが無理というものです。ですから、防衛省なんてつくって、彼らを野放しにしたらいけないのです。
自衛隊の特殊作戦群が北朝鮮に潜入し、ある行動を起こすというストーリーです。まるでありえない状況というわけにはいかないところが怖いところです。
瀕死のライオンというのは、スイスのルツェルンにあるライオン像のことです。私も、何年か前に見てきました。大きなライオン像です。スイスはヨーロッパ各国へ傭兵を輸出していました。フランス革命のときに、チュイルリー宮殿でルイ16世を守って生命を落とした786人のスイス傭兵に対する慰霊碑としてつくられた像です。
ルツェルンには大きな湖があり、白鳥が優雅に泳いでいました。
日本のスーパー自衛隊員が活躍する小説を読みながら、日本の平和を自衛隊にまかせていたら危ない、軍隊に頼って平和は守ることはできないと、つくづく思ったことでした。