弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年11月13日

石斧と十字架

著者:塩田光喜、出版社:彩流社
 パプアニューギニア・インボング年代記というサブ・タイトルがついています。今から20年前に2年間、日本人民俗学者としてパプアニューギニアに滞在して見聞したことをまとめたものです。
 その後20年たって、現地はずい分と変わっているのでしょうが、20年前のパプアニューギニアのことを知ることができます。それは現代日本人の私たちにとっても決して無意味のものだとは思えません。実に偶然のことですが、私が毎週かよっているフランス語教室で、パプアニューギニアで何年間か生活した女性が自分の体験記を本にしてベストセラーになったドキュメンタリー番組を見ながら会話の練習をしました。文明人として「未開の地」の生活の実際がどんなものなのか興味をもつのは、洋の東西を問わないのです。
 誰に対しても愛想よくふる舞わねばならない。それは、たった一人、客人として異人種の中で暮らしていかねばならない、しかも人々から心を開いてもらわなければならないフィールドワーカーである私に課せられた鉄の規則の第一条だった。
 ニューギニア高地には、生き馬の目を抜く厳しい生存の法則が存在する。ぼーっとしていてはいけない。村の中にも敵がいる。善良な人々だけと考えるのは幻想にすぎない。
 インボング族の食事は2回。朝、サツマイモを食べ、夕方も焼いたサツマイモを食べる。インボング族にはお湯を沸かす習慣がなかった。土器文化の育たなかったニューギニア高地では、飲み物は常に生水だった。人は土器なしでは湯を沸かすことができない。人々は湧き水を直接のむか、竹かひさごの器に入れて飲むか、いずれにしても生水を飲むのが常だった。白人が入って30年たっても、水をわざわざ湧かして飲む者はほとんどいなかった。しかし、著者は、生水と生肉は絶対に口にしてはいけないと厳しく注意されていた。肝炎にやられるからだ。
 インボング族においては、自然死や単なる病死は存在しない。人が死ぬのは、霊魂が神々の敵に及ぼした打撃の結果である。だから、病気の治療は、病気をもたらした相手を突きとめ、それに対して、その攻撃を止めさせる手を打つことにある。インボング族には、病気をもたらした相手を探す術がいくつもあり、その結果に応じて、攻撃を止める手段がいくつかに分かれる。
 インボング族は白人がやってきて、急に貧乏な立場へ叩き落とされた。白人たちは真珠母貝をたくさんもってきて、ブタ一頭と交換した。インボング族には、誰かの命令のもとに、共同で労働するという習慣はなかった。それを白人が銃の力を背景に強制したのだ。
 怒った子どもが実の父親の眉間を狙って石を投げつけた。その詫びに1000円を父親に渡し、父親もそれを収めて納得するということがあった。贈与や互酬が社会の精神として徹底するということはそこまで行くということなのだ。互酬が社会の精神として関係を支配するところでは、一般に権威というものは発達しない。各個人を超越してその上に立つ全体なるものも、個がその中に抱かれて安らう東洋的共同体の制度理念もここにはない。全体を人格として代表する権威者は現れえないのである。このため、伝統というものは、拘束力あるものとして、個人の上に君臨しえない。そして、権威の不在は、葛藤を暴力へと発散させる絶えざる傾向をうみ出す。だから、部族間の戦争が今でも勃発する。
 暴力が、この連鎖の上を流れることを止めさせる唯一の回路が賠償という贈与行為である。賠償が無事にすまされ、今度は両当事者が互いに対する贈与の連鎖の上を進んでいくなら、友敵関係は逆転する。暴力と互酬の、この等価で無媒介な反転可能な直接こそ、ニューギニア高地社会に権威と支配の発生を排除し、緊迫した新石器的自由と平等を成立させているものである。
 ちょっと難しい表現ですが、自由は戦争をもたらすものであるようですし、また、それを「お金」で解決することもできるということのようです。
 著者は、現地に総額30万円で人類学者と宣教師とは商売敵(がたき)、もっと厳しい言葉をつかうなら、天敵の関係にあるとしています。
 ここは一夫多妻制。夫はどの妻にも満遍なく愛を注いでやるというのが建前だが、現実には、若い方の妻、よく肥えた方の妻に心を傾けがち。一人でも多くの子どもを欲しがる夫にとって、閉経した妻は魅力が薄い。
 男に甲斐性があれば、女を何人めとろうが、文句を言われる筋合いはない。女を多く持つこと、そして子どもを多く持つこと、そして子どもを多くもてばもつほど、その男の名声が上がっていくのがインボング社会の仕組みである。その男の財力と男としての勢力を雄弁に示す標(しるし)であり、ものにした女の数は男の勲章なのだ。それが、この社会で尊敬される指導者となる必要条件でもある。
 そこで、一夫一婦制を説き、一夫多妻の慣行を神の名のもとに弾劾するキリスト教の教えは、夫の愛を失った妻たちにとって強い心の支えとなってくれる。キリスト教は現世の愛、肉の愛を失った女たちを通じて、インボング族のなかにとうとうと流れこむ。キリスト教が土着化しているようです。キリストとの出会いを語る女性説教師が登場するのに驚きました。キリスト教は現地社会にしっかり根をおろしています。
 インボング族は、足跡を見ただけで、誰かを言い当てることができる。インボング族の足は少年のころから大きく発達し、それぞれに個性的だ。とりわけ親指が大きく張り出している。村の子どもたちは、たいてい裸足だ。
 なーるほど、と思った本でした。500頁もある大部な本ですが、写真もあって大変わかりやすく、最後まで面白く読みとおしました。

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2006年11月10日

心臓にいい話

著者:小柳 仁、出版社:新潮新書
 心臓は、自ら音を出す唯一の臓器である。私たちの意思とは無関係に、定期的に音が聞こえているような臓器はほかにない。
 心臓は、安静時で1分間に70回拍動し、1回ごとに出ていく血液は70ミリリットル。最低でも毎回10万回も収縮をくり返し、7000リットルもの血液を全身に送っている。心臓から流れ出た血液は、30秒ほどで全身をめぐって再び心臓に戻ってくる。えーっ、そんなに早く血は身体中をめぐっているんですかー・・・。
 日本では、現在、30万人がペースメーカーをつかっている。
 ニトログリセリンに血管拡張性があることが分かった。ニトログリセリンには冠状動脈を広げる効果がある。私の依頼者にもニトログリセリンを持ち歩いている人が何人もいます。舌下錠です。心臓に激痛が走ったとき、舌下に1錠入れて10〜20分で効果があります。逆に30分たってもまだ苦しくて、2錠目が必要になるかどうかで、狭心症なのか心筋梗塞に向かいつつあるのか区別できる。そうなんですかー・・・。
 心臓は許される虚血時間が短い。4時間しかもたない。4時間のうちに血流を再開して、真っ赤な血を流してやらなければ、その心臓は蘇生しない。これに対して、肝臓は12時間、肺は8時間、腎臓では24時間の虚血時間に耐える。
 心臓移植をして、20年以上も生活している人がいる。現行の人工心臓の耐用期間は、長くても2〜3年。現在、人工心臓によって生命を維持している人は、日本国内に20〜30人ほど。
 心臓にとって、たばこは厳禁。ニコチンを注射すると、冠状動脈は攣縮してしまう。タバコは心臓にとって、百害あって一利なし。
 健康な心臓にとって、ストレスは必ずしも大きな問題ではない。真夜中から午前中にかけて心臓発作が起こりやすい。睡眠中には脳からの指示がないから。昼間のストレスを受けながら活動しているときには、心臓は元気よく働いてくれる。
 死ぬまで休みなく働いてくれる心臓がいとおしくなってくる本です。

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アップ・カントリー

著者:ネルソン・デミル、出版社:講談社文庫
 なんと1968年のテト攻勢をメイン・テーマとする現代アメリカ小説です。驚きました。実は、私も同じ1968年を扱った小説を書いていて、この年に何が起きたかについて調べていますから、よく分かります。
 1968年2月のテト攻勢は、私が大学1年生のときに起きました。本当に驚きましたよ。だって、サイゴン(現ホーチミン市)のアメリカ大使館が「ベトコン」の決死隊によって占拠されてしまったのですから。アメリカ万能ではないことを全世界に知らしめた画期的な事件でした。ベトナム戦争で戦死したアメリカ兵は5万8000人。ワシントンにある長く延々と続く壁に、その氏名が彫り込まれていて、観光名所にもなっています。
 1968年は、アメリカが最大の死傷者を出した悲しみの年だ。テト攻勢、ケサン攻囲戦、アシャウ峡谷の激戦など。私も、リアルタイムで聞いていました。
 1968年は、またマルチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師とロバート・ケネディ大統領候補の暗殺があった年でもある。そして、アメリカでも日本でも大学紛争があり、アメリカでは都市暴動まで起きている。
 このテト攻勢のさなか、アメリカ軍の中尉が大尉に殺されたのを一人の「ベトコン」兵士が目撃した。その状況を書いた手紙が30年たって発見された。この目撃者を調べてほしい。こんな依頼を、陸軍犯罪捜査部を退役した元准尉が、かつての上司から受けることから話は始まります。そして、ベトナム各地を、かつてのアメリカ陸軍第一騎兵師団の兵士として戦闘に従事した思いを抱いて歴訪します。ベトナム戦争の惨状が記憶に生々しくよみがえってきます。読者は、当然のことながら、ベトナム戦争を追体験させられます。実にすさまじい戦争でした。
 アップ・カントリーというのは、田舎のほう、という意味のようです。ベトナムにいたアメリカ兵がマリファナなと薬物に手を出していたことはよく知られていますが、軍事物資の横流しや文化財の持ち出しなどの犯罪も横行していました。この本は、30年前の犯罪が今も問題となることがあることを明らかにしています。それはアメリカ大統領選でケリー候補の軍歴が問題になったことでも明らかです。
 700頁もある分厚い文庫本で上下2冊の本です。長崎の福田浩久弁護士よりすすめられて読みはじめました。実は、今月末から6日間、ベトナムへ旅行するつもりなのです。大学生時代、ベトナム戦争反対を叫んで何度となく集会やデモ行進に参加していたものとして、また、ベトナム関係の本をたくさん読んだものとして、ベトナムにはぜひ一度行ってみたいと思っていました。

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トンマッコルへようこそ

著者:チャン・ジン、出版社:角川文庫
 博多駅そばの小さな映画館で映画をみてきました。韓国で800万人が笑って泣いた映画だとオビにかかれていますが、まさしく笑えるシリアスな映画です。感動大作というより、心あたたまるファンタジー映画という感じです。といっても、朝鮮戦争を扱っていますから、「JSA」「シュリ」「シルミド」「ブラザーフッド」ほどではありませんが、戦闘場面も出てきます。でも、どこか、ほのぼのとして、とぼけた雰囲気なのです。
 流れるテーマ音楽もぴったりなのですが、どこか聞いたような気がするなと思っていると、日本人の作曲で、あの宮崎駿監督の映画でテーマ音楽を作っている人でした。道理で、よく雰囲気が似ています。
 ときは朝鮮戦争のまっ最中。トンマッコルという山奥の村に、北へ脱出しようとしている、いわば敗残兵の人民軍兵士3人がやってきます。そして、南の韓国軍の脱走兵も2人流れてきます。そのうえ、偵察機が墜落してしまったアメリカ海軍大尉までやってくるのです。ところが、外部と途絶した生活を送っている村人は戦争が起きていることを知りませんし、武器のことにもまったくの無知です。鉄砲は長い棒でしかありませんし、ヘルメットは洗面器を逆さにして頭にかぶっているものに見えています。
 知恵遅れの少女が村の内外を自由奔放に飛びまわっています。この少女の笑顔が、また実に素晴らしいのです。純粋無垢を体現するかのように輝いているのです。
 村長が、村人を見事に統率している秘訣を尋ねられ、次のように答えます。腹いっぱい食わせることだ、と。なーるほど、ですよね。飽食と一般に言われている今の日本でも、餓死者が出ているんです。生活保護を受けられずに餓死する人がいるんですよ。
 私の依頼者にも、まともに食べられずにいる人は少なくありません。せいぜいコンビニ弁当かスーパーのタイムサービスで半値になった食品を買ってしのいでいる人が何人もいます。飽食日本とばかりは言えない現実があるのです。
 映画館のパンフレットによると、太白山脈の山奥に廃村となった土地を探しあて、  5000坪の広さの土地に理想郷トンマッコルを2億円かけてつくりあげたそうです。なーるほど、すごいものです。俳優の顔も実に生き生きとしています。
 それにしても、1950年代、同じ民族同士で殺しあったという戦争がひきずるものは、本当に大きいんだなと、つくづく思いました。

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2006年11月 9日

東アジアのなかの日本古代史

著者:田村圓澄、出版社:吉川弘文館
 女王卑弥呼の政権を支えたのは、女王卑弥呼が祭る「神」ではなく、「異国の皇帝」であった。魏の皇帝の支持と援護を失うならば、卑弥呼は、倭の女王であることはできなかった。女王卑弥呼は巫女(みこ)であった。卑弥呼は神権政治を行って以降、その姿を見る人は少なくなっていた。
 倭は尊卑の差序によって区分される、身分社会であった。大人ー下戸ー奴婢の3階層に大別できる。3世紀の倭の「クニ」は、邪馬台国の女王卑弥呼の支配下にあったが、しかし、女王卑弥呼が支配する倭は、倭の一部だった。
 実在が確認できる最古の倭王と考えられる応神大王(天皇)はいうまでもなく、架空の存在とみられる第一代の神武大王にはじまり、以後のすべての倭王は自己の宮をもち、その宮に住んでいる。この一大王一宮の制度・慣行は、古代中国の各皇帝、朝鮮半島の各王朝においては見られない。倭王のみに固有の制度・慣行だった。同一の宮が、2人またはそれ以上の倭王によって住居として使用されていた例はない。「古事記」では、33代の推古大王まで、「日本書紀」では39代の天武天皇まで、ひとりの例外もなく一倭王一宮の慣行を厳守している。それを打ち破ったのは、天武天皇の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)の出現である。倭王の宮は、もともとは神を祭る場であった。そうだったんですか・・・。認識を新たにしました。
 倭の大王の即位は、群巨の衆議による。そうだったのですか・・・。現大王が次の大王を指名して自動的に決まるということではなかったのですね。
 太宰府設置以前の筑紫には、太宰府と同類の役所は存在しなかった。太宰府は、来日する新羅使を上陸第一歩の筑紫の地において、「蕃国」の客としての賽礼で送迎する官衙(かんが)であり、701年(大宝元年)に制定された大宝律令によって設置された。
 太宰府が設置されるころの日本の情勢もよく分かる本です。
 北部九州の山に、開創者が海の彼方の人であるとする山がある。英彦山は魏の善正、雷山(前原市と佐賀郡との境にある)は天竺の清賀、背振山は天竺の徳善大王の十五王子とする。これは、渡来系の集団がこの山に定住していたからではないか。うむむ、そうだったのでしょうか。でも、天竺って、インドのことじゃなかったかしらん・・・。
 蘇我馬子は崇峻(すしゅん)大王を公開の場で殺害したが、誰もとがめることはなく、かえって当然視された。非は崇峻大王にあると当時の人々は考えていた。
 当時の倭王には「倭王の軍」はなかった。倭王が指揮・統率する「国軍」は存在しなかった。ムスビノ神の祭祀を本務とする倭王が、軍事力とかかわりをもたなかったのは、当然といえる。
 隋の煬帝が無礼だと考えたのは「日出る処」と「日没する処」との対比の箇所ではない。問題は「天子」にあった。天子はただ一人であり、隋の皇帝である煬帝であった。煬帝意外に天子はありえない。天命にそむく倭王の大王は許せなかった。
 聖徳太子の「太子」は倭の制度にもとづくのではなく、仏教経典に根拠をもつ名称である。「天皇」制の成立以前において「太子」が存在する理由はない。「摂政」を厩戸王の史実とすることにはためらいがある。聖徳太子は実在していたのか、著者も疑問を投げかけているようです。
 たまには、日本の古代史をふりかえってみるのも大切だと思いました。だって、いま、女性天皇を認めるかどうか大騒ぎしているわけですからね。私は天皇制なんて早いとこ廃止したほうが、みんなのためだと思います。だって、雅子さんがなんであんなに毎週のように週刊誌でバッシングされなくちゃいけないんですか。可哀想じゃないですか。あれも、改憲勢力が、女性天皇なんか認めたら日本はとんでもないことになるんだと警告するために叩いているのだそうです。支配層、実は権力を握った一部の人間の道具にすぎない天皇って、ホント、哀れなものなんですね。週刊誌の見出しを眺めるたびに、そう思います。天皇一家には基本的人権は保障されていないし、権力を握る連中には社会的常識も通用しないんですね。

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2006年11月 8日

攻防900日

著者:ハリソン・ソールズベリー、出版社:早川書房
 昭和47年発行の本です。図書館から借りました。2段組み400頁で上下2冊の大部な本です。第二次大戦のとき、ヒトラーのナチス・ドイツ軍に包囲されたレニングラードの無惨な実情が、ことこまかに、これでもか、これでもかと描かれていて、読む人の気分を重たくさせます。でも、戦争って、こんなにひどいものだったんだ。そこから目をそむけてはいけないと思い、じっと耐えて最後まで読み通しました。
 安倍タカ派内閣のもとで、麻生だとか中川だとか、好戦的な連中が戦争をあおり立てています。本当に無責任な政治屋としか言いようがありません。戦争がどんなに悲惨なものか、この連中に読ませたいものです。でも、信じられないことに安倍内閣の支持率は68%だそうです。日本人には、そんなに流されるだけの人が多いのでしょうか・・・。
 この本を読むと、ヒトラーの世界征服という、とんでもない野心はともかくとして、スターリンの見通しのなさに呆れ、かつ怒りを覚えます。そのうえ、自分の非を認めず、責任を他になすりつけながら、権力保身に汲々とし、部下の将軍たちを冷酷・無情に次々と射殺していくのです。スターリンによるすさまじいばかりの粛正テロルのあとナチスに攻めこまれて大苦戦してなお、それをやり続けるのですから、まさしく狂気の沙汰としか言いようがありません。
 それでも、日本人は当時のソ連を笑ってすませるわけにはいきません。東条英機も昭和天皇も同じことでしょう。決して自己責任は認めなかったのですから。小泉前首相だって同じことです。あれだけ勇ましいことを言っておきながら、週刊誌にイタリアへ脱出か、なんて書き立てられているのです。無責任さは共通しています。こんなことを書いていると、一人でますます腹が立ってきました。あー、やだ、やだ。
 1941年6月。ヒトラーは独ソ不可侵条約を無視して、一方的にソ連領内に侵入した。スターリンは、挑発に乗るなと、その直後まで叫んでいた。つまり、まさかの不覚をとったのだ。そんな馬鹿なトップをもっていたソ連軍はたちまち崩壊させられた。
 ナチス・ドイツ軍は、ついにレニングラードを完全に包囲した。外部から食糧を搬入することもできない。レニングラードの人口は340万人にふくれあがっている。いったいどうするのか。
 最初に死んだのは老人ではなかった。若者、それもとくに少ない配給量で生きてきた 14歳から18歳だった。男は女より先にくたばった。健康で丈夫な者の方が、慢性廃疾者より先におさらばした。これは配給量の不均等の直接結果だった。12歳から14歳までの配給量は、12歳までの幼児の量とまったく同じ。1日にパン塊の3分の1、たったの200グラム。これは労働者の配給量の半分。しかし、成長期の元気な子どもは、労働者と同じ量を必要とした。若者たちが先に死んだのはこのため。配給量は男女同じで、労働者は一日パン400グラム。他の食物合計200グラム。しかし、男たちは活動的な生活をするから、もっと食糧が必要だった。それがないため、男は女より早く死んだ。
 古い皮革を煮てゼリーパテをつくったり、セルローズを煮出してスープをつくったりして、親は子どもを生きのびさせようとした。
 飢えは、性別を事実上なくした。人は性欲をなくし、性衝動が消えた。女はお化粧をしなくなった。口紅も食糧として食べた。化粧クリームはバター代わりに代用パンに塗って食べた。工場の浴場に男女の従業員が一緒に裸になって入っても、何も起きなかった。
 あとで飢饉が緩和して、配給がふえてくると、男女ともフロント・ラブ(前線愛)に芽ばえた。
 人は愛犬を食べた。さすがに自分の手では飼い犬は殺せず、知人に頼んだ。ネコも鳥も姿を消した。ネズミはドイツ軍の前線へと逃げ出した。
 闇市では人肉が売られているという噂が立った。本当かもしれないと人々は思った。食糧を貯蔵していた倉庫が焼失したあと、その土を掘り返して、売りに出された。鍋で煮出し、麻布でこして精製するのだ。
 1942年1月に餓死した市民は1日に4000人。月に12万人にもなる。レニングラードは、包囲が始まったとき、難民10万人をふくめて250万人の人口があった。 900日の包囲が終わりに近づいた1943年末、その人口は60万人だった。100万人の市民が包囲中に疎開した。また、10万人は、前線に徴兵された。すると、少なくとも、100万人が餓死した計算になる。
 その責任はヒトラーのナチス・ドイツにあるが、スターリンにも責任を分担してもらわなくてはいけない。しかし、実のところ、レニングラードが包囲を破ったあと、なんと、レニングラード包囲戦をたたかい抜いた将軍たち、そしてジダーノフやポプコフ市長などは、スターリンの毒牙にかかって、一斉に粛正(銃殺)されてしまったのだ。スターリンは自分に並ぶような英雄を許さなかった。戦争の非情さは、こんなところにまで貫徹したのです。
 恐るべきノンフィクションでした。前に紹介したスターリングラードの戦いもすさまじいものがありましたが、レニングラードの飢えとのたたかいの凄絶さには、度肝を抜かれてしまいます。

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2006年11月 7日

階級社会

著者:橋本健二、出版社:講談社選書メチエ
 日本にも階級社会がある。日本は階級社会である。一昔前にこんなことをいうと、とんでもない変人か、あるいは極端な政治思想の持ち主とみなされかねなかった。1970年代から90年ごろにかけては、大部分の日本人が平等幻想・中流幻想にどっぷり浸かっていて、日本には階級がないというのは、とくに証明を必要としない自明の事実のようにみなされていた。
 ええーっ、そうなんだー・・・。私は驚いて、著者の年齢を急いで見てみました。1959年生まれです。団塊世代のひとまわり下というわけです。
 団塊世代の私が大学生のころは、労働者階級というのは厳然として生きた言葉でした。社会変革の原動力は労働者階級だと、私も信じて疑いませんでした。チャランポランな学生は、規律を身につけた労働者に学ぶ必要がある。先輩たちから、そう教わりました。ところが、セツルメント・サークルに入った私の目の前にあらわれる労働者は必ずしも規律正しい人ばかりではありませんでした。どこを、どう学んだらいいのか、正直いって戸惑いもありました。だから、階級意識を身につけろと言われても異和感があったのです。それにしても、日本が階級社会だというと、とんでもない変人か、あるいは極端な政治思想の持ち主だなんて、わずか10年で、すっかり世の中が変わっていたのですね。
 ところが、今や、またまた日本は階級社会だといって、何ら不思議でない状況になっている。100円ショップが急成長する一方で、高級ブランドも多くの客を集めている。「中流」の人々に支えられてきたダイエーや西友などの大手スーパーは凋落が著しい。自動車は、低価格の軽自動車とレクサスのような高級車と二極分化傾向をみせている。マンションも一般サラリーマン向けの売れ筋は4000万円台から3000万円台へ移る一方、都心にある1億円以上の高額物件の売れ行きが伸びている。
 エリート大学の入学者の大部分は高所得の家庭に育った、私立中高一貫校の若者によって占められ、勝ち組と負け組の格差は世代を超えて続いていくことになる。
 東京の下町と山の手の格差は大きくなっている。平均所得も高額所得も比率が際だって高いのは、千代田・港・渋谷の三区。ところが、墨田などの東部は低くなり、品川などの西部はほぼ現状維持。こうやって都内でも格差は拡大しつつある。
 1962年の日本レコード大賞は橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」、新人賞は倍賞智恵子の「下町の太陽」だった。それぞれ同じ題名の映画ができた。私は見た覚えがありません。この映画は、まさに当時の日本には厳然とした階級差があることを描いているのだ、とこの本は指摘しています。なるほど、と思いました。
 次に「巨人の星」「あしたのジョー」が取り上げられます。私も大学生のころ愛読しました。マンガ週刊誌の発売日が待ち遠しいほどでした。私の住んでいた大学の寮(駒場寮)では、寮生がマンガ週刊誌の廻し読みをしていました。
 この劇画原作者の梶原一騎は、東京・下町の生まれで、彼こそが常に階級にこだわり続け、上層階級を憎悪し、下層階級を擁護し、作品の中では、いつも下層階級とともに上層階級を打倒しようとし続けた、稀有な書き手だった。いやー、そうだったんですかー。ちっとも知りませんでした。なるほど、そうなんですね。愛読者の一人として、ご指摘はまことにごもっとも、と思いました。
 経済格差をあらわすジニ係数でみると、日本は、アメリカ、ポルトガル、イタリアに続いて経済格差の大きい国となっている。日本は平等な国だという一昔前の常識は、今ではまったく通用しない、いまや日本は貧困者の多い国なのである。
 フリーター、無業者層を特徴づけるのは、その下層的性格である。フリーターは、きわめて低賃金の労働者である。企業は、多くの若者たちを労働力の所有者とみなさなくなってきている。高卒者を採用しない理由にもっとも多いのは、高卒の知識・能力では業務が遂行できないから。肉体的労働力のみしか所有しない人々は、通常の労働条件のもとでは資本に収益をもたらさない。つまり、搾取不可能な労働力なのである。フリーター、無業者が増加したのは、企業が低賃金の非正規雇用労働者を広く活用する方針に転じたから。
 資本家階級の女性は4割、旧中間階級の女性は6割が、それぞれ同じ階級の男性と結婚している。つまり、結婚には階級の壁があり、同じ階級所属の者同士が結婚する同類婚的傾向がみられる。貧困化しているのは、女性たち、しかも一部の女性たちである。貧困の女性化、シングル女性への貧困の集中傾向がある。
 格差拡大を擁護する人々にとって、それを裏づける統計はない。むしろ、格差拡大の容認は人間に対する侮辱である。所得格差が拡大すると、社会的信頼感が損なわれ、連帯感や社会的結束が衰退してしまう。市場メカニズムによって形成された大きな格差を放置し続ける社会では、長期的には、人材を育成して適切に配分するメカニズムが崩壊する危機に瀕するだろう。
 人間に、人間の社会の流れを変えることのできないはずはない。労働時間の短縮こそが、そのカギである。うむむ、鋭い。何度も膝をうって、同感、同感と叫んでしまいました。

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2006年11月 6日

江戸八百八町に骨が舞う

著者:谷畑美帆、出版社:吉川光文社
 花のお江戸では、水辺の屍(しかばね)は、町の風景のなかにすっかり溶けこんでいる。江戸の辻番所の規定には、池や川に死体が漂っているのを目の当たりにしても、とりあえずは届けなくてよいとなっていた。つまり、水死体は、きちんと処理しなくてもよく、たとえ見つけても、ぽーんと遠くに突き流してもよかった。ええーっ、ウソでしょう。と、言いたくなる話です。時期によるが、江戸の町は、実際、水辺を中心に死体がごろごろしていたと考えてもよい。なんと、なんと、そんなー・・・。
 江戸時代、火葬は土葬に比べて少なかった。二代将軍秀忠の正妻お江与(えよ)の方が1628年(寛永5年)に火葬され、埋葬されたのは、当時としては非常に珍しいことだった。墓が飽和状態になると、墓域全体に盛り土して、人工的に新たな埋葬地をつくりあげていた。
 町人層の人骨から骨梅毒が11.5%認められたのに対して、武家層からは3.5%だった。梅毒は江戸時代に大流行していた。杉田玄白は、年間の診療患者1000人のうち、700〜800人は梅毒にかかっていたと回想録で述べている。
 日本人の平均寿命は、1960年代までは、せいぜい50歳程度だった。19世紀までは、死産や早世などで、子どもが死ぬのは当たり前だった。人が成人まで生き残る確率は、きわめて低かった。江戸時代、死亡率全体の7割が乳幼児であった。
 江戸に出て来て白米を食べるようになると、江戸煩(えどやみ)になった。今でいう脚気(かっけ)にかかったということ。
 江戸時代の人々は義歯(入れ歯)をつかっていて、お墓にも入っていた。
 老人(60歳以上)が23%を占める墓地がある。長寿者は、地域の知恵袋として尊敬の対象となっていた。
 老人が楽しく生きられる社会は楽しい。老人が幸せに生きているということは、将来、老人になるであろう、いま壮年期を迎えた人たちにとっても、先々への不安を払拭することになるから。まことにそのとおりですよね。いつのまにか老人になるのも間近な私は、つくづくそう思います。
 江戸時代の定年は自己申告制だった。自分で仕事を続けていけるかどうかを自らで判断し、隠居願いを出した。その後の生き方を自分自身で決めていくことができた。なるほど、それもいいですよね。といっても、弁護士である私は、あまり早々と隠居したくはありません。ボケ防止のためにも、隠居は先送りするつもりです。
 江戸時代の庶民層の身長は、男性が155〜156センチ、女性では143〜145センチだった。ところが、縄文時代には、男性が158センチ、女性が147センチというのが平均だった。そして、弥生時代になると、男性163センチ、女性150センチに伸びた。古墳時代には、さらに男性163センチ、女性は152センチだった。なぜ、江戸時代に身長が低くなったのか。それは、食生活で油脂・タンパク質の摂取量が極端に少なかったからだろう。
 葛飾北斎の描く庶民の顔は、丸顔で低い鼻をもち、反っ歯の強いもの。これに対して喜多川歌麿の描く美人画に登場する人々は、細面で高い鼻をもっている。
 江戸時代、ハンセン病の治療薬として、漢方薬の大風子(だいふうし)が中国から輸入されていた。この輸入量からして、日本には50万人のハンセン病患者がいたとみられている。
 江戸時代に日本を訪れた外国人は、日本人には皮膚病と眼病を患っているものが多いと驚いている。江戸には下水道がなかった。というのも、排水のなかでもっとも大きな問題となる糞尿を下肥(しもごえ)として再利用していたから。生活排水は道にまいて地下に浸透させていた。排水として出されるものは、せいぜい米のとぎ汁くらいだったので問題とならなかった。
 江戸時代の人々の生活に改めて目を開かせる本でした。

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2006年11月 2日

霞っ子クラブ

著者:高橋ユキ、出版社:新潮社
 人気ブログが単行本になったものです。手軽に、さっと読めます。中味は裁判ウォッチングです。平均年齢27歳の4人娘による裁判傍聴記なのです。
 副裁判官という言葉にぶつかり、えーっと、思いました。裁判長の左右にいる人を指しているようです。でも、副裁判官というと、なんだか準裁判官っていう感じですよね。実は、私の業界では副裁判官という呼び方はしません。
 スーパーで1394円の万引きをして正式裁判になった事件が紹介されています。本当にそんな事件があるんです。しかも、少なくないんです。そして、結果は懲役1年前後の実刑になってしまうことが多いんです。なぜかって言うと、たいてい常習だからです。所持金8000あって、600円の梨を万引きしようとして、求刑が懲役5年というケースにもぶつかっています。何億円も業務上横領した会社トップは大弁護団をかかえて争い、無罪になったりします。ホント、矛盾を感じますよね。
 裁判所や弁護士会館の地下にある食堂も紹介され、4人娘のコメントがのっています。私の大好物でもある弁護士会館地下のソバ屋のごまだれせいろウドンも紹介されています。これって、安い(580円)うえに本当に美味しいんです。ぜひ一度、食べてみてください。そして、農水省の地下食堂と売店もおすすめです。ここも安くて美味しいのです。
 法廷における裁判官、検察官そして弁護士たちの、あっ、もちろん被告人も、彼らの生態がきわめてリアルに、かつ情け容赦もなく、こと細かに紹介されています。こんな女性たちが傍聴席にいたら、気になって仕方がないでしょう。
 実際の裁判はどう進行しているのか、それを知るために役に立つ本です。

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山の学校の子どもたち

著者:長倉洋海、出版社:偕成社
 アフガニスタン北部のパンシール峡谷にある小さな山の学校の子どもたちが生き生きと学んでいる様子を紹介した写真集です。1980年からアフガニスタンを撮りつづけている写真家が標高3000メートルの山村に暮らす子どもたちの素顔を撮りました。どの子の顔も、実に生き生きと輝いています。はじける笑顔に圧倒されそうです。
 家から学校までは平均1時間。なかには2時間かけてやってくる子もいます。上流と下流の10の集落から170人ほどの子どもたちが毎日通ってきます。
 早朝の仕事を終え、朝食をとったあと、子どもたちは学校へ出かける。お母さんは、子どもと交代で放牧に行った。学校はお昼で終わる。そのあとは、放牧の仕事につく。
 朝8時から授業が始まる。校舎には窓ガラスも扉もない。たまに放牧中の牛が入ってくると、授業は中断する。教科書が足りないから、一緒に見る。椅子がないから、石を並べてすわる。
 休み時間になると、男の子たちはサッカーに打ち興じる。女の子たちは縄飛びをする。まるで日本の子どもたちを同じです。
 昼食は家からもってきたナンを食べる。学校のそばを流れる用水路の冷たい水を飲む。家で刈り入れが忙しいときには、子どもたちは学校を休んで仕事を手伝う。子どもたちも貴重な労働力なのだ。
 夕方、放牧から戻り、家畜を家に入れると、一日が終わる。
 山の学校の校舎は、戦争中は、難民の避難所としてつかわれ、学校は閉鎖されていた。この学校の机と椅子は、日本人がプレゼントしたもの。日本人のボランティアがここでも活動しているんですね。
 パンシール峡谷というと、ソ連軍がアフガン・ゲリラによって待ち伏せ攻撃などを受けて苦戦したところ、というイメージがあります。写真でみると、パンシール峡谷って本当に美しい地方のようです。でも、戦争のため、子どもたちの身内の多くが殺されているという現実もあります。
 アフガニスタンの山に住む子どもたちの様子を知ることができる素晴らしい写真が沢山あります。

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生者の側

著者:高岩 震、出版社:影書房
 「ベトナム・解放30年の現在(いま)」というサブ・タイトルのついた写真集です。
 著者が1993年から2002年にかけてベトナムで撮った写真が紹介されています。10年のあいだに計6回、のべ5ヶ月ほどベトナムに通ったというわけですから、ベトナムの庶民の暮らしぶりがよく分かります。
 元ホーチミンルートの村にも入っています。そこには鉄屑回収業者がトラックで村にやってくるのです。250キロ爆弾を1つ見つけると、1万円。これは農家の年収近くになります。戦後20年たっても、これだけの鉄が回収されています。なにしろ、アメリカ軍は、ベトナム戦争のとき、第二次大戦中に全世界でつかった砲爆弾の3倍を、狭いベトナムの国土に叩き込んだのです。今でも、人の足が入っていないヤブのなかに入ったら地雷の心配があるといいます。
 枯れ葉剤によって出来上がった禿山が延々とつらなっている光景は、見る者の心を寒々とさせます。
 自転車に乗って通学途上の女子高生たちの写真があります。みんな純白のアオザイ姿です。その凛々しさに目が魅かれます。
 大学生たちが休日に海水浴へ出かけます。ところが、あいにく海が荒れていて遊泳禁止。そこで、砂浜で、人間綱引きをしました。綱はつかわず、前の人の腰に両手をあてて、二手に分かれて引っぱりあうのです。
 ベトナムの娘さんと結婚する日本人の商社マンも紹介されています。ふっくらした美人の花嫁さんです。どうぞ、末永くお幸せに。
 ベトナムの人々は商売上手で有名です。中国人(華僑)にも負けないようです。
 ベトナムの最近の様子を紹介する綺麗な写真集です。

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ドイツ病に学べ

著者:熊谷 徹、出版社:新潮選書
 ドイツは世界最大の輸出国。EUのなかでも最大のパワーを誇っている。ユーロは、今やドルと円に並ぶ第三の基軸通貨としての地位を確立した。2005年以降は、中国や中東、日本の機関投資家がドル偏重を改めて、ポートフォリオの多角化を図るために、ユーロを積極的に買っている。
 ドイツからの輸出の44%はユーロ圏向け。ユーロ導入によって為替リスクを減らし、域内での競争を高めるので、ドイツ企業に利益をもたらす。今後、ユーロ圏が拡大すればするほど、最大の輸出国ドイツにとっては有利になる。
 ドイツの2004年の自動車生産台数は557万台で、アメリカ、日本に次いで世界第3位。ドイツ企業の強みは、プラントや工作機械、環境関連技術の輸出である。
 ドイツの電球は寿命が長いので有名だし、ドイツの平気は今も外国に人気がある。
 2005年には、ドイツのGNPの成長率は、わずか0.9%。日本は2.7%だった。
 ドイツの財政赤字は2002年から4年連続してGDPの3%をこえ、基準違反国となった。ドイツの失業率は12.7%、失業者は529万人。1994年以降、失業率が10%をこえる状態が12年間も続いている。
 国土の面積は日本と同じくらいで、人口は日本より35%少ない。旧ドイツの人口は、統一からこれまでに150万人も減っている。12年間でも120万人減っている。2005年ころから、国内で仕事が見つからないので、スイス、オーストリア、オランダ、デンマークなどへ移住するドイツ人が急増している。
 ドイツはストライキが最も少ない国として有名だった。労働者に強い発言権を与える制度が、労使間の情報交換とコンセンサスにもとづく決定を促進し、ストライキによって労働時間が失われるのを防いできた。
 離婚件数は1991年に14万件だったのが、2003年には57%も増えて21万件となった。
 1900年に制定された閉店法が今も生きている。ただし、今では平日は夜8時、土曜日も夕方6時まで買い物できる。もっとも、日曜日は、今でもパン屋やガソリンスタンドを除くと原則として禁止されている。
 ドイツでは、売春も合法的なビジネスとして認められている。売春婦には、年金、失業保険、健康保険などの社会保険の対象とする法律がある。つまり、売春婦も社会保険料や税金を払わなくてはならないかわりに、失業したら別の仕事につくための職業訓練を受けられる。
 ドイツのホームレスは、2002年に37〜45万人いる。貧困層は1,100万人。
 自己破産は、2005年に4万9000件。2006年には6万6000件。その主な理由は、失業、クレジットカードのつかい過ぎ、離婚。300万世帯が債務超過に陥っているとみられている。ドイツの自殺者は1万2000人。日本は3万人で、人口10万人あたりにすると23.6人。これに対してドイツは14.5人。
 年収1億4000万円をこえる市民が1万2400人いる。国民の0.02%。日本は、140万人で、国民の1.1%。所得格差は、日本の方が格段に大きい。
 この本は、日本とドイツの社会の状況を大変よく分析していると思いましたが、NHK記者だったせいでしょうか。今の日本のマスコミ論調とまったく同じで、何でも自由化を礼賛し、労働者保護の諸立法を経済発展の障害とみる傾向が強すぎます。私には、それがいささか気になりました。

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2006年11月 1日

パティシエ世界一

著者:辻口博啓、出版社:光文社新書
 店での仕事のすべてはコンクールで優勝するため、さらに言えば、自分の店を持つためのものだった。僕は一文無しだったし、たとえどんなに節約して、こつこつ貯金しても、5年や10年で店を持てるだけのお金がたまる計算にはならなかった。
 しかし、世界的コンクールで優勝すれば、きっと僕の良さを分かってくれるスポンサーが現れると思った。世界ナンバーワンになることが、僕にとって店を持つ近道だと、当時からそう考えていた。
 田舎から東京に出た。何のコネクションもない大都会で、じゃあ、成り上がるためにはどうしたらいいかを考えた。
 僕がコンクールに強いと言われるのは、食べていくため、成り上がるため、生活をつかみ取るため、そういう明確な目的を持って取り組んでいたからだと思う。ある程度の生活の保障がある人たちとは違って、飢えるってことが、どんなに恐ろしいことか分かっていたから。うーん、すごいですね。このハングリー精神で、見事にパリで開かれたお菓子の世界的コンクールで優勝してしまうんです。
 うちのシュークリームは1日200個の限定品。1個200円。実は原価割れの値段。つかっている卵は秋田の比内鶏(ひないどり)が産んだもの。店で10個800円で売っている。卵をこれに変えたら、味が劇的に変わり、自分でもびっくりした。バニラビーンズはタヒチ産。香りも、のびもいい。牛乳は低温殺菌。風味がいい。
 新しいものは、試作したら必ず商品になる。100%。というのは、試作前から頭の中で、味もデコレーションも含めて完全に出来あがっているから。僕の頭の中は基本的にお菓子だけ。今、僕にとってお菓子づくりは仕事であると同時に、趣味でもあるし、遊びでもある。でも、好きなことに打ち込んでいるからこそ、仕事としてお金をもらってもいいんじゃないかと思う。
 うちのプリンは、濃厚で、まったりしているんだけど、大人の感じが忍んでいるような・・・、そんなイメージを味にしてみた。
 うちでつかうアーモンドはスペイン産のみ。スペイン産は、丸みがあって、やや皮が堅く、中に含まれる油脂分が多い。この油脂分に旨みや香りが含まれている。カリフォルニア産に比べて、値段は3倍もする。しかし、味わい深いし、香りも抜群。
 うちの店では、チョコレートを1日に何十キロもつかう。バレンタインシーズンになると、毎日100キロくらい使う。ええーっ、そんなに大量につかうなんて・・・。
 人間って、不思議なことに、ひとつ手を抜きはじめると、これも、あれも、となってしまう。
 朝食は、いつも厨房で店のパンを食べる。飽きない。美味しい。なーるほど、すごい自信なんですね。こうまで言われると、私も食べたくなります。
 店を建ちあげる前、スポンサーとしてある女性に決めた。あなたの本当につくりたいものが作れるお店をやっていいわよ。この一言で決めた。それで、とりあえず、1億5000万円渡され、店を探しはじめた。半年前も店を探しまわって、やっと決めたのが今の店。今では、自由ヶ丘の人の流れを変えたとも言われているらしい。自由ヶ丘はパティスリー激戦区だということです。
 実は、オープンして半年間は、毎日、ポリバケツ2個分も捨てていた。今では、お菓子が売れ残ることは、ほとんどない。年に2度、ケーキが100個も残る日がある。大雪の日と台風の日。そんな日でも同じ量のケーキをつくる。そして、その残ったものをスタッフが楽しみにして食べる。月曜日も、夕方まで商品に余裕がある。うーん、ということは、月曜日の夕方に行くしかないみたい。
 店の朝は早い。スタッフは5時半。シェフは6時半。9時半に毎朝15分から30分間のミーティングをする。スタッフは、3人の枠に30人の応募がある。
 人生は、いつも思いどおりにはいかず、みんな一度は負けると思う。劣等感にさいなまれる時期もあると思う。でも、それさえバネにしてしまう強さと継続が何より大事。それがまた感性にフィードバックしてくると思う。実は、この最後の文章に出会ったとき、ぜひこの本を紹介しようと私思ったのです。さすがにコンクールで世界一になった人の言葉は違います。見習いたいものです。
 先日、能登に行ってきました。著者は七尾出身の人です。そこのホテルで、親しい友人から有名なパティシエだと聞かされ、さっそくお菓子も買ってきました。なるほど、評判を裏切ることのない味でした。ぜひ今度、上京したとき自由ヶ丘まで足をのばしてこようっと。

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2006年11月30日

他人を見下す若者たち

著者:速水敏彦、出版社:講談社現代新書
 今の子はすぐに怒ると多くの先生たちが言う。それはすべての子どもがすぐに怒るというのではなくて、極端に怒りやすい子どもの数が多くなったということ。
 飛行機のなかで暴言を吐いたり暴れたりする粗暴な迷惑客がこの4年間で5倍にも増えた。子どもだけでなく、大人のほうも同じようです。
 会社では、最近の成果主義の悪影響で、上司や同僚をバカにする社員が増えている。迷惑行為をする人は、周囲の状況、そして社会常識をまったく無視し、自分だけのルールで行動する。そして、それを否定されると、すごく攻撃的になる。
 今の子どもたちは、たとえ内面的に喜びの感情が芽ばえていても、それを抑制している。子どもは言葉や表情で喜びを表現するのを抑制するが、文章には表現しやすいようだ。
 今の子は個人の損得には敏感になったが、社会の損得や他者の損得には共感できず、鈍感になった。日本の若者は、あまり自分に自信をもっていない。
 現代の学生は、クラスなりグループなりを自ら組織することが大の苦手である。リーダー不在なので、まとまって行動することはなく、同じ学科を専攻している者同士でも、一度も会話しないで卒業することも珍しくない。全体のために働くことに対し、煩わしさを露わにする。
 中高年層でうつになる人が多いというが、最近は子どものうつも増えている。うつ状態の子どもは、小さなことですぐに傷つき、めそめそする。そして、気分が沈みがちで、しばしばため息をつく。
 現代の若者は、赤ちゃんのときの誇大自己をそのまま持続させている人が多いように思われる。公の場での発言は、年輩の人のほうが自己批判的、自己卑下的な言動が多く、若くなるにつれて自己肯定的、さらには自己高揚的な言動が多い。
 人間は、本来、常に自分を高く評価していたい動物である。人は自分よりも優れた人物について知りたがっているというよりも、自分よりも劣っている者についての情報を求めたがっている。下方比較の傾向がある。自己高揚欲求は、とくに自尊感情に対する脅威を感じたときに強く働き、その結果として自分よりも下位にある者との比較によって、自分の幸福感を増大させようとする。
 人の自信は、新しい人間関係にある周りの人たちから承認され、賞賛される経験を通じて形成されることが多い。ところが、そんな親密な周りの人たちが少ない社会では、個人の自信も形成されがたい。
 人間は個性化も大切だが、その前に社会化が必要だ。子どもたちに達成感や自己効力感をもたせる環境を設定する必要がある。
 タイトルは刺激的ですが、書かれている内容はしごくもっともなことばかりで、胸に手をあてて私も思いあたるところがいくつもありました。私の子育ても、あれで良かったのかなとつい反省させられてしまいました。といっても、もう遅いのですが・・・。

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2006年11月29日

レーニンとは何だったか

著者:H・カレール・ダンコース、出版社:藤原書店
 レーニン神話を解体する、というのがオビの言葉です。うむむ・・・。私は大学生のころ、レーニンの本はかなり読みました。愛読したといってよいでしょう。その理知的で、鋭い分析に、身も心もしびれる思いでした。
 レーニンの父はロシア人だが、その母はカルムイク人だった。モンゴルの血を引き、アストラハンで結婚した。レーニンが父親と同じく、かなり目立ったアジア系の風貌をしており、とくに切れ長の目をしていたのは、この祖母の血によるものである。
 そして、レーニンの母方の祖父は、ジトーミルのユダヤ人で、ユダヤ人商人とスウェーデン女性との子どもであった。だから、レーニンの中には、ロシア人、カルムイク人、ドイツ人およびスウェーデン人の血が混じっている。また、正教、ユダヤ教、プロテスタント人、そしてカルムイク系の仏教も間接的には受け継いでいる。
 レーニンの母親はロシア語、フランス語、ドイツ語の3カ国語を話し、ピアノの名手だった。レーニンの父は高い教養がある。この父も祖父母も、医学あるいは数学の高等教育を受けている。
 レーニンの家は農奴の働いていた領地を有しており、世襲貴族の家柄であった。
 マルクスのロシア人嫌いはよく知られている。しかし、マルクスは常にロシアのことが気がかりだった。うへぇー、そうだったんですかー・・・。知りませんでした。
 レーニンは1906年の国会解散のころ、選挙を議会白痴症と名づけて攻撃した。このころ、レーニンは労働者の蜂起を呼びかけていた。
 1908年、レーニンの党は崩壊しつつあった。1910年には党員は1万人を下まわり、5年前の10分の1になった。社会民主党の組織は消滅していた。
 1910年、マリノフスキー事件が起きた。マリノフスキーはレーニンが目をかけていた活動家の一人だったが、ツァーリの政治警察(オフラーナ)の一員でもあった。当時の左翼陣営には政治警察の手先がうじゃうじゃしていた。
 1917年、皇帝は参謀本部に引きこもり、相変わらず不人気な皇后は大臣の選任を決定し、頻繁に大臣の首をすげ替えた。今や、精神異常の女性の気まぐれだけで政治が行われている。こんな不安感がロシア社会に広がっていた。
 ドイツ当局にとってレーニンは、ロシア政権を崩壊させるために握っている切り札であった。革命の火ぶたを切るために、レーニンは講和を説き、軍隊を解体へ駆り立てる。
 1917年、ドイツにとって戦力を西部戦線へ集中することが急務だった。戦争が二つの戦線で展開する限り、ドイツの決定的勝利は不可能なのだ。ドイツは講和と革命のプロパガンダをまかなうための多額の資金をレーニンに提供した。持参金つきでレーニンはロシアへ帰還することができた。レーニンがドイツから大金をもらってロシアへ帰ったというのは本当のことなのでしょか・・・。
 レーニンは新聞発行手段を握っていた。その資金の出所の一分はドイツから支給されたお金だった。これは他党の資金とケタ違いだった。この本は、レーニンがドイツからもらったお金がいくらだったかまでは明らかにしていません。
 1917年夏、レーニンが発行する「プラウダ」は9万部だった。そして、レーニンの党の各種新聞の総部数は32万部だった。ボリシェヴィキの印刷機は、毎日、莫大な数のビラを印刷した。
 1917年の4月から7月にかけて、ケレンスキーはレーニンを危険な扇動者とみなしながら、長いあいだ過小評価し続けていた。
 1918年1月1日、レーニンは一斉射撃を受けた。車の後部座席に押しつけられて辛うじて銃弾を免れた。
 議会はボリシェヴィキに敵対していた。市内の多くの人士も同様だった。しかし、政府、軍など、すべての権力機関はレーニンの手中にあった。レーニンは議会のはじまるときにいても議員たちが実際に審議を始めようとするとき、これ見よがしに議場から退出した。 全国各地にソヴィエトが出現した。ソヴィエトの参加者数が増大していくと、会議は効力のないものとなった。イニシアティヴは、もっとも活動的で、もっともボリシェヴィキに操作されやすい要素、すなわち兵士たちに委ねられるようになった。
 120人の協力者で仕事をはじめたチェカーは、1年後には職員3万人以上となった。
 トロツキーは、生まれたばかりの彼の軍隊に、敵とみなされた者を情け容赦なく鎮圧し、見せしめの死刑をどしどし執行せよとの指示を与えた。至るところで、良心のためらいもなく銃殺が行われた。戦闘で捕らえられた白衛軍兵士や農民ばかりか、自軍の兵士や将校も厳しい鎮圧を遂行する力に欠けたときには銃殺された。軍は、さらに兵員を増強した。早くも1918年秋には、100万の兵力を擁していた。
 1918年末、レーニンは反抗する農民たちに対してテロル的措置を命令した。
 レーニンは、きわめて早くから、迅速な解決の方を好む意向を表明していた。ロマノフ家の人間を一人残らず、つまり優に100人あまりを皆殺しにする。この提案が1918年7月16日の夜に実行された。ニコライ2世だけでなく、皇帝一家の幼い子どもたちまで殺された。レーニンの殺害せよ、銃殺せよ、流刑にせよという指示の大部分は常に隠密裡に出されている。
 1912年、レーニンは革命の輸出の可能性を信じるのを止めると、直ちに全努力をソヴィエト国家の建設に捧げ、党とチェカー、軍という、己の手によるすべての手段をこの目標のために動員した。
 レーニンは反動的聖職者集団への処刑を実行すべきだと命じた。処刑の数が多ければ多いほど、うまくいくだろう。処刑執行に関するレーニンの指令は遵守された。レーニンの指示どおり、1922年に8000人近くの教会に仕える者たちが粛正された。
 この本は、ロシア革命の内情がレーニンにとってもひやひやするほど危ない綱渡りの連続であったこと、レーニンは、そのなかでむき出しの暴力をためらわずに実行してきたことを暴き出しています。なるほど、戦争と内乱状態では、そういうこともあったんだろうな。平和主義者レーニンというわけにはいかなかったんだろうな。そう思いました。その負の遺産をスターリンはますます大規模に拡大していったということなのでしょう。
 それにしてもタイトルは気になります。何者だったか、ではなく、レーニンとは何だったか、というのです。レーニンは物ではないのです。いくら何でも、という気がします。

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2006年11月28日

日本人はなんのために働いてきたのか

著者:河原 宏、出版社:ユビキタ・スタジオ

 明治維新後、近代国家としての日本の成功は、しっかりとした中産階級を育てたことにあった。今も、この階層が薄弱な国の基礎は脆(もろ)い。せっかく育てたひと握りの知識層が外国に移住しはじめると、将来の可能性は閉ざされる。
 現代日本では、バブル期までにあった一億層中流の幻想は崩れた。少数の上昇組は金が金を生む金権至上になり、資産を2世、3世に伝えるほかに関心はない。その他の大部分は、ゆっくりか急速にかの差はあっても、中流の座から滑り落ちる運命にある。しかも、経済以上に、日本人から覇気・元気・活気・生気などのバイタリティーが消滅した。こうして四無主義、つまり無関心、無責任、無気力、無感動が生まれる。これが現代日本を表現する精神である。
 大正14年にうたわれた金々節を紹介します。
 金だ金カネ この世は金だ
 金だ金カネ その金ほしや
 バカが賢く見えるも 金だ
 酒も金なら 女も金だ
 神も仏も坊主も 金だ
 金だ 本から本まで金だ
 みんな金だよ 一切金だ
 金だ金だよ この世は金だ
 金、カネ、金、カネ、金、カネ、金だ
 そして、次は昭和4年(1929年)12月29日の新聞記事です。
 金!金!人の世のオールマイティ!金!
 金は現世のみならず、あの世まで征服して、ついに地獄の沙汰まで支配するに至った。人は何のために働き、何のために生きるのかと問えば、ただ一言、金、と答える。これが一般世間の哲学なのだ。
 ええーっ、これって今の日本とまったく同じセリフじゃん。そのまま、今の世相をあらわす言葉として通用するじゃん。つい、そう思ってしまいました。
 1900年から1950年までの半世紀のうちで1930年代は、自殺者数も人口10万人あたりの自殺率も、ともに一番高かった。この時代は前途に希望が見いだせない、生き甲斐に乏しい時代だったと言える。
 日本で顕在化している、人々の議会制度に対する不信感は、具体的には、各種選挙における棄権率の増大という形で広まっている。なんど選挙をして投票してみても、結局、権力を握るのは、特権層か、それにつながる人たちだという思いは、多くの人の意識の底に沈澱している。
 二大政党の対立は、必ずしも議会制度の活性化としては作用しない。多くの場合、二大政党は、装飾の部分に相違を残しながら、本質的には類似のものになってしまう。選挙民は、どっちか選べといわれても、カレーライスとライスカレーのどちらが良いかを選ばされるようなもの。つまるところ、選挙への関心と情熱を失わされる。
 こんな本があるそうです。ハックスリイの『すばらしい新世界』
 労働者階級になる幼児は、本や花を本能的に嫌うようにしつけられる。なぜ、労働者は本を嫌悪するように造られなければならないか?
 成長した彼らは、本など読んで、働く時間をムダにしてはならない。
 花や景色や自然については、どうか?
 これを愛してみても、生産労働には、何の役にもたたない。とりわけ自然愛好の欠点は、それがただで手に入るということ。働く者には幼児の段階から、世の中、ただで手に入るものがないことを、身にしみて刷りこんでおかなければならない。うむむ、そうだったんですかー・・・。認識を改めました。

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2006年11月27日

コバウおじさんを知っていますか

著者:チョン インキョン、出版社:草の根出版社
 韓国の新聞マンガにコバウおじさんというものがあるのは私も知っていました。韓国の世相と政治を庶民の立場から鋭く風刺したハイレベルのマンガです。なんと45年間も連載したというのですから、本当にたいしたものです。日本でも、それほど息の長いのはないでしょう。サザエさんは世相を反映していますが、政治批判はほとんどないでしょう。フジ三太郎には少し政治批判を感じていましたが・・・。
 韓国の学生運動は、日本と違って最近まで盛んでしたが、このところいささか低調のようです。そのかわり、労働運動は相変わらず過激なようです。労働者がデモやストライキをするときには赤いチョッキをユニホームのように着ます。
 コバウおじさんの作者である金星煥(キムソンファン)は、1932年10月、ソウル近くの開城(今の北朝鮮)で生まれました。父は抗日運動に関わっていて、5歳のときに旧満州に移り住みました。
 戦後、朝鮮が独立し、金星煥は高校生のときからプロのマンガ家としてデビューします。まだ17歳というから天才的です。やがて、朝鮮戦争が始まります。1950年6月25日のことです。金星煥は、多くの死体を目撃し、ショックを受けます。コバウおじさんは、この朝鮮戦争のさなかに生まれました。
 コバウのコは高で、名字。バウは岩という意味で名前。高は、韓国民族の孤高な精神を、バウは岩のような剛直な性格をあらわす。年齢は55歳。その後、ぜんぜん年をとりません。
 コバウおじさんには頭に一本しかない髪の毛がある。平常時は先が少し曲がっており、驚くとまっすぐに立つ。呆れ返ったり困ったりすると、ぐにゃぐにゃになる。だから、髪の毛の状態でコバウおじさんの気持ちが読みとれる。
 コバウおじさんは無表情な顔をしている。これは、思ってもいない感情を、迎合して派手に表現する、おかしくもないのに追従的に笑う習慣のある日本人とは別だという表現でもある。コバウおじさんは、無表情な顔で淡々と状況を伝える。これが、もし表情豊かで、可愛いキャラクターだったら、かえってこのマンガのインパクトは大きくなかっただろう。冷静なジャーナリストの役割をつとめているため、読者はかえって素早くその内容を理解し、共感できた。なーるほど、鋭い分析ですね。
 金星煥は、政府によって連行され、即決裁判にかけられて、大統領を侮辱した軽犯罪で450ファンの罰金刑を言い渡されたことがあります。
 コバウおじさんが休んだ日は読者からの問い合わせが新聞社に殺到し、政府の方があわてて政府の干渉によって休載したと思われないように金星煥を呼びつけ、干渉しないことを約束してマンガを描かせたというエピソードも紹介されています。それほど、国の内外で注目されるマンガでした。
 マンガの絵は変えられないとしても、セリフは何百回も変えさせられたと金星煥は語っています。わざと締め切り間際に入稿して、変えにくくもしていたそうです。
 著者は韓国うまれの女性です。自分でもマンガを描きます。小泉首相を風刺したマンガがいくつか紹介されていますが、なかなかの出来です。
 日本の新聞マンガも、もうひとつビシッと今の世相と政治を厳しく批判してほしいものだと、つくづく思いました。

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2006年11月24日

天皇の牧場を守れ

著者:横田哲治、出版社:日経BP社
 宮内庁の御料牧場(農場)は、大久保利通によって明治8年に開設され、以来130年になるが、鶏インフルエンザ、牛のBSE、豚の口蹄疫などの法定伝染病と無縁である。
 御料牧場では、鶏舎は三重の網で囲われている。カラスなどの中型の野鳥が入らないための大きめの網、スズメなどの小鳥が入らないためのネット、そしてさらに細かいネットが張られている。鶏インフルエンザのウイルスは、野鳥からの感染も心配なのだ。
 茨城県では570万羽の鶏が鶏インフルエンザのために処分された。そのうち、世界一の養鶏業といわれるイセファーム(株)では、350万場が処分された。これは、ウインドレス鶏舎(窓がない)である。御料牧場は、その近くにあるけれど大丈夫なのです。なぜか?
 御料牧場は、天皇家のライフライン。週2回、白い車で皇居へ搬入している。御料牧場では、第1に鶏の移動をしない。第2に鶏の糞便をつけたトラック、人、長靴などを十分に消毒する。第3に、野鳥や動物などを鶏舎に近づけない。
 鶏は生後700日たつと病気への抵抗力が低下する。そこで、御料牧場では、400〜500日で鶏のヒナを入れる。さらに、エサも工夫している。にんにくやとうがらしを加え、サプリメントを加えることもある。
 600万羽の鶏を処理するにも、お金がかかる。1羽につき500円を要する。つまり、600万羽で30億円かかる。そして、鶏インフルエンザは、人間も感染して風邪や高熱をひきおこす。死亡率は65歳以上で80〜90%という高率だ。
 現在に日本の食料自給率は40%(カロリーベース)だが、天皇一家の食事には輸入農産物はまったくない。すべて国内で生産された安全な食料だ。良質な卵は一ヶ月おいても、美味しく食べられる。家畜の健康管理には、4人の獣医師が目を光らせている。
 御料牧場は400頭のめん羊を飼育している。サフォーク種という、鼻の黒い肉用の品種。ここの羊の肉の旨さの秘密は、飼養管理にある。とりわけ餌が重要だ。
 御料牧場では、たとえ輸入飼料でも、可能なかぎり有機栽培の穀物をつかっている。有機栽培の資料は一般より30%以上も割高だが、そんなことは問題としない。
 このように、天皇一家は純国産の食料で健康保持を図っているわけです。ところが、私たち庶民は、いつもアメリカべったりの自民党政府によって、またもや狂牛病の心配のあるアメリカ牛肉を押しつけられつつあります。庶民がどうなろうと知ったこっちゃない。大切なのは、ご主人様であるアメリカ様のご意向だ。そんな安倍政権には、ほとほと呆れてしまいます。

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萌えるアメリカ

著者:堀淵清治、出版社:日経BP社
 米国人は、いかにしてMANGAを読むようになったか、というのがサブ・タイトルです。アメリカで日本のマンガを読む人が増えていて、オタク族であることを自慢気に高言する人がいて、ついにやおい系マンガ愛好者までいるというのです。そして、いまや「少年ジャンプ」がそのまま「SHONEN JYUMP」としてアメリカで発売されているというのですから、ビックリします。なんと、毎月20万部も売れているそうです。まあ、たしかに日本のマンガはストーリーがよく出来ていると私も思います。
 私はマンガは大学生で卒業した気分です。大学生のときは、少年マガジン、少年サンデーを毎週欠かさず読んでいましたし、「ガロ」のカムイ外伝なんて、歴史書物を読むような気分でじっくり読んでいました。その後は、手塚治虫のマンガを読んだくらいで、電車のなかで大人が少年ジャンプを読みふけっているのには、ちょっと異和感を感じたものです。
 2005年のアメリカ、カナダにおける日本マンガの単行本市場は210億円、北米における日本アニメのDVD売上総額300億円に急速に近づきつつある。しかも、このところ売上総額が横ばい傾向にあるアニメに対して、マンガのほうは、2002年に売上総額が1億ドルに達してから、2003年に1億2500万ドル、2004年に1億4000万ドルと、その市場規模は順調に拡大してきた。
 日本とアメリカの本の違いがある。日本は右開き、アメリカは左開き。だから印刷は反転印刷した。そして、翻訳も難しかった。
 苦難のときを迎えて、それをなんとか乗り切り、ヨーロッパにも進出しました。ところがドイツでは90年代末に爆発的に広がったものの、イギリスではもうひとつ。ふむむ、やはり、国民性の違いなんでしょうかね。
 やおい系というのは、男性キャラクターの同性愛をテーマにした女性向けのマンガやアニメ・小説のこと。女性が読者なので、男性同士の同性愛の実態とはかけ離れた幻想にもとづいている。そこでは、マッチョな肉体美とかギリシャ彫刻のような精悍さではなく、あくまでも女性たちが創り出した中性的な美しさがある。
 海外の日本マンガ・ファンは自分たちのことをOTAKUと誇らし気に呼んでいる。
 うむむ、アメリカで日本マンガがそんなに健闘しているのか。初めて知りました。著者は団塊世代より少し下の年代です。アメリカに渡ってヒッピー文化に触れながら日本文化をアメリカに伝えようと苦闘してきたようです。
 たかがマンガ。されど、マンガ。そんな気にさせる本でした。

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滅びゆくアメリカ帝国

著者:高野 孟、出版社:にんげん出版
 イラク戦争の失敗に気がついたアメリカ国民はブッシュ共和党を敗退させました。武力一辺倒のネオコン一派は総退場で、残るは親王ブッシュのみとなりました。でも、ブッシュの言いなりだった小泉首相と、その後継者である安倍の方はまだ何の教訓も引き出さず、開き直って逃げ切ろうとしています。そして、それを許してしまうマスコミの不甲斐なさに歯がみする思いです。
 石油屋出身のチェイニー副大統領と、軍産複合体マフィアの戦争好きラムズフェルド国防長官の強硬派コンビをユダヤ系中心の実権派スタッフが支え、それが在米ユダヤ人ロビーを経由してイスラエル右派につながっているというネオコン支配の病的な構造がある。裏を返せば、イスラエル右派がネオコンを通じてホワイトハウス中枢にまで浸食して暗愚の大統領(もちろん、ブッシュのこと)を操作する仕掛けは不変である。
 2003年のアメリカの経常収支赤字は5400億ドルで、80年代末の4倍、対GDP比で5%をこえた。国全体の消費と投資を貯蓄ではとうていまかなえず、2004年度で5000億ドル近い空前の財政赤字を出してもまだ足りず、1日あたり15億ドルずつ外国から借り入れしている有り様だ。今後10年間の財政赤字は5兆ドルに達すると見込まれている。
 アメリカの国債残高は、過去4年間に7860億ドル増えて1兆8400億ドルに達した。その増加分の半分以上の4040億ドルを日本が引き受けた。その結果、外国のもつアメリカ国債の4割にあたる80兆円は日本がもっている。それが単なる紙切れと化すリスクについて、日本政府は国民に説明していない。これって恐ろしいことですよね。
 絶対君主制のサウジアラビア、国家テロの常習者であるイスラエル、強権政治のパキスタンやウズベキスタンは、アメリカのいう「ならず者国家」のリストには入っていない。それは対テロ戦争でアメリカに協力しているからだ。
 アフガニスタンとイラクに対する派手な戦争は、アメリカの強さではなく、弱さの表れだ。経済的にみて、アメリカはモノもカネも全世界に依存して生きるほかなくなっている。それを維持できなくなる不安から、ことさら好戦的な姿勢をアメリカはとり、自国が世界に必要不可欠な存在であることを証明しようとしている。
 著者はこの指摘に同感だとしています。私も、なるほど、と思います。
 ある統計によると、イラクの夫婦650万組のうち、200万組がスンニ派とシーア派の組みあわせだ。また、それらのどちらかとクルド人の取りあわせも少なくない。彼らは、もちろん殺しあいを望んでいない。ひゃあー、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。どこでも戦争を挑戦したがる好戦的な人間はいるものなんですよね。
 大多数のアメリカ人は、なぜ自分の国アメリカがイスラム世界で、これほど憎まれているのか、まったく理解できていないし、しようとしていない。しかし、日本人はそれを笑うことはできない。東南アジアで日本がどう見られているか、について日本国内にいる日本人も同じく無知なのである。アメリカ人とまったく同じこと。日本人に自覚がなくても、日本は世界第4位の軍事大国なのである。だから、安倍内閣は防衛省へ昇格させようとしているのです。
 アメリカは世界最大の武器輸出国である。いわば最大の死の商人なのである。あー、やだ、やだ。こんなアメリカに追随して一緒に滅びるなんて、まっぴらごめんです。

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2006年11月22日

逃亡、くそたわけ

著者:絲山秋子、出版社:中央公論新社
 精神病院から若い患者2人が逃亡します。別に恋愛関係にあるわけではない男女のカップルです。開放病棟に入院中でしたから、逃亡するのは簡単でした。
 女性は躁鬱病の患者で、躁状態にあります。2人は男性の車に乗って逃避行の旅に出ます。もちろん、行くあてなんかありません。ただ何となく、九州をぐるっとまわる旅です。
 秋月〜甘木〜大分〜国東半島〜阿蘇。そのうち、どうにも薬が欲しくなり、途中で見つけた精神科にかけこみます。薬をもらって一息つくと、再び旅に出かけるのです。鹿児島の長崎鼻にたどり着きました。九州を縦貫したわけです。九州各地の名所案内を読んでいる気分にさせてくれます。
 2人の若者の微妙な心のゆれを描いている不思議な小説です。福岡の岩本洋一弁護士が、とても面白いから読んでみたらと教えてくれて読みました。
 九州弁をつかっても、実は名古屋弁も少し顔を出しますが、小説はできるんだなと思い知らされました。

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藤沢周平 父の周辺

著者:遠藤展子、出版社:文藝春秋
 藤沢周平の一人娘である著者が父のことを語っています。ほのぼのとした味わいの語りなので、ゆっくり舌に文章をころがしながら味わいました。
 藤沢周平を私が読みはじめたのは、比較的最近のことです。山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」を見たころからでしょう。今度の「武士の一分」もぜひ見たいと思っています。封建社会のしがらみのなかで、必死に生きている人間の姿が、胸にぐっときます。そして、見終わったあと(本の方は、読み終えたとき)、なんとなく爽やかなのです。といっても、テーマは、案外、重たいものばかりなのですが・・・。
 今から30年前、弁護士になるころは山本周五郎を愛読していました。いま石巻で開業している庄司捷彦弁護士から勧められて読みはじめて、止まらなくなってしまったのです。周五郎の江戸下町人情話は実にいいですよね。なんか、こう、しっとりとした情緒があります。胸にじわっと沁みてきます。
 藤沢周平の本名は小菅留治(こすげとめじ)。山形県鶴岡市の生まれです。周平は省内方言でいうカタムチョ(頑固)でした。若いころ結核で療養生活を余儀なくされました。
 周平はギターもピアノも上手に弾けたそうです。教員時代に身につけたのです。
 著者の生みの母親は病死して、周平は後妻を迎えます。幸い娘とはうまくいったようです。周平の妻は秘書その他もろもろの用をこなしました。
 妻は仕事の進み具合を体重で分かるというのです。締め切り間際になると、体重が2キロから3キロは減ってしまうのです。妻は夫・周平の仕事をきちんとしているかどうか訊くため、「体重はいま何キロ?」と訊いたのだそうです。体重が減っていたら仕事をきちんとした証拠で、変わっていなければ仕事をしていないことになるというのです。まさに作家の仕事というのは、心身をすり減らすものなのですね。
 周平は自律神経失調症であり、閉所恐怖症でした。やっぱりそうなんですね。あんなにこまやかな性格描写ができるということは、自分の心身の状態にどこか不安がなければ無理だと私は思います。健康そのものの人に人間のゆれ動く心理描写がどれだけ出来るのか、私には疑問があります。
 著者の母、すなわち周平の妻の趣味は周平でした。冗談ではなく、本人が言っていたそうです。他に何の趣味も持たず、ひたすら周平のために尽くしてきました。たとえば、周平が原稿を書き上げると、誤字脱字のチェックをします。それも、周平の原稿用紙に直接書き込むのではなく、別の紙に何頁の何行目などと書いて編集の担当者に渡していたそうです。周平の原稿は直しの手が入ってない完成版だったそうです。よほど推敲していたのでしょう。
 周平の一日はとても規則正しかった。朝7時に起床。7時半に朝食。白いご飯と味噌汁。納豆、のり、チーズは毎日欠かさない。朝食のあと2階へ周平は上がり、妻が周平の仕事場に入ることはない。周平は2階に上がると、横になって新聞を読む。肝炎のため必要なことだった。
 午前10時、散歩に出かける。途中で喫茶店に立ち寄りコーヒーを飲む。
 午前11時に帰宅して、自分あての郵便物を受けとり2階へ上がる。1時間ほど仕事する。昼食は12時ちょうど。そのあと、また2時間は横になり、CDを聴きながら昼寝する。その後、夕方6時まで、みっちり仕事をする。夕食はきっちり6時にとる。7時半に風呂に入り、夜9時から10まで仕事をする。11時に寝る。
 作家は自由気ままな生活をしているより、規則正しい生活をしている方が偉大な仕事が出来ると誰か有名な人が言っていました。藤沢周平も同じだったんですね。私も、毎日、同じように過ごしています。大作家を夢見て・・・。
 土曜日(18日)から一泊で鹿児島に行ってきました。桜島が雨に煙っていました。

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2006年11月21日

真相、イラク報道とBBC

著者:グレッグ・ダイク、出版社:NHK出版
 イギリスはアメリカのイラク戦争に加担し、今も続けています。そのイギリスのBBCは大量破壊兵器の有無をめぐってブレア政府と対立し、ついにBBCのダイク会長は辞任させられてしまいました。そのダイク前会長が、その内幕を暴露した本です。日本でも、NHKがこれほどの気骨を示してくれたら、私も受信料を払うのですが・・・。
 ダイクは1947年、ロンドン近郊の庶民の町で、保険外交員の子として生まれました。私と同じ団塊世代です。
 仕事以外のことはすべて放り出し、編集室の床の上で寝ないと一人前のプロデューサーとはみなされないという時代が、かつでのテレビの世界にあった。しかし、今や、その考え方はまったく意味がない。ダイクは、休暇をしっかり取るべきだと言い続けた。休暇は家族の問題だから。
 資本が労働を商品のように売ったり買ったりするやり方は、ますます通用しなくなっていた。企業の経営を成功させたいのであれば、企業で働く人々をまともに使わなければならない。現代の資本主義の下では、企業が成功したいと願うなら、そこで必要なのは、熱心な労働者であり、満ち足りた労働者である。もっとも効率的に人間が働くのは、恐怖心によってではなく、物事を決めるプロセスに参加させ、組織が目ざす目標の設定に参加させ、達成をともに祝うことによってである。
 ダイクは2000年1月にBBCの第13代会長に就任した。ダイクはパブリックスクールにもオックスフォードもケンブリッジも通ったことのない初めてのBBC会長だった。しかも、BBC勤務の経験もなかった。
 放送メディアが中心にもつ役割のひとつが、時の政府に対して疑問を投げかけ、いかなる圧力に対しても抵抗に立ちあがるというもの。ダイクは政府がBBCに圧力をかけてこようとすれば、抵抗してたたかうという姿勢を明快にうち出した。
 官庁街で働く人間の多くはイラクに大量破壊兵器があるかのような新聞報道が間違っていることを知っていた。しかし、危機を強調する報道内容を正しいものにしようとはしなかった。ブレア首相の官邸が、そのような新聞の見出しを求めていたから、イラクに大量破壊兵器があることを前提として、「攻撃(終末)まで45分」という大見出しをうっていた。しかし、本当にそれでよいのか。
 ダイクは結局、追放されてしまいました。逆に、大きなウソをついてイギリス国民をだましたブレアは、今もなおイギリス首相であり続けています。本当に不思議な世の中です。
 イラクで日本の航空自衛隊がいま何をしているのか、NHKは60分の特集番組を組んで放映して国民に知らせるべきではないでしょうか。イラク戦争に日本はアメリカ軍と一緒になって加担しているという現実を・・・。日本人はイラク戦争の傍観者ではありえないのです。
 日曜日に仏検(一級)を受けてきました。手元に残してある答案用紙を見ると、なんと一回目に受けたのは1996年でした。それから毎年あきもせず受けてきたのです。我ながら感心します。というのも、一級に合格できるような実力はまるでないことを認めざるをえないからです。1問目の動詞を名詞に換えて文章を書きかえるのは全滅、2問目の最適の動詞を入れるのも全滅。3問目あたりからようやくヒットするのがあり、長文読解になるとまあまあ、書き取りはぐっとよくなる。そんな感じです。やっと6割とれたかなという成績です。でも、さすがにフランス語の文章に怖さはなくなりました。これが長くやってきた取り柄です。

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2006年11月20日

思想としての全共闘世代

著者:小阪修平、出版社:ちくま新書
 私は全共闘世代と呼ばれることに反発を感じます。いつも、全共闘と対峙する側で行動していたからです。といっても、司法試験に受かって司法修習生となり、弁護士になってからは、もと全共闘の活動家だった人と親しくなり、今もつきあっている人が大勢います。だから、今でも全共闘自体を積極的に評価する気にはなれませんが、そのメンバーだった人まで否定する気はありません。
 著者は、私とほとんど同じ団塊世代です。同じ東大駒場寮に生活していたようです。
 この本を紹介しようと思ったのは、実は、次のような文章にぶつかったからです。
 当時の学生運動家の活動の一つにセツルメントというサークルがあった。いまでいうボランティア活動なのだが、貧しい家庭の子弟の勉強をみたりする活動だった。その底には、おおげさにいうと贖罪意識さえあったのだと思う。自分が社会的エリートの道を進んできたことが貧しい人々を踏み台にしてきたかもしれないことへの贖罪感であり、それを生み出したのは戦後民主主義の平等主義であった。
 なぜ、この本にセツルメントのことが突如として登場してくるのか、前後の脈絡からはよく分かりません。でも、「当時の学生運動家の活動の一つ」としてセツルメントがあげられると、私にはかなりの異和感があります。といっても、それが間違っていると断定するわけでもありません。たしかに、セツルメント活動をしているうちに「目覚め」て学生運動の活動家に育っていった人はたくさんいます。セツルメントは、いわば学生運動の活動家を輩出する貯水池のような大きな役割を果たしていました。
 「貧しい家庭の子弟の勉強をみたりする活動だった」というのも、物足りません。これはセツルメント活動の一つの分野でしかありません。私自身は青年労働者と交流する青年部に属していました。法律相談部は戦前からの伝統を誇っていましたし、保健部や栄養部など専門分野と結びついた活動もありました。そして、「自分が社会的エリートの道を進んできた」ことからくる贖罪意識があったと言われると、ええーっ、そんなー・・・と、いう感じです。大学が大衆化していて、一つのセツルメント・サークルだけで100人を軽くこえ、川崎セツルメントや氷川下セツルメントは、それぞれ150人ほどのセツラーをかかえていました。学生セツラーは10以上の大学から来ていました。全国セツルメント連合大会は、年2回、1000人も全国から集まるほどの大衆的なサークルでした。むしろ、学生が根無し草のようで、現実に地についていない、将来どう生きていったらよいか不安だという多くの学生の心をつかんで地域で活動していたのです。そして、セツルメントがボランティア活動だと言われてもピンとこないところがあります。地域のなかでの自己発見の活動でもあったからです。著者の指摘は、セツルメント活動の外にいた人には、そう見えていたんだな、と思いました。
 著者は全共闘世代が体制を批判していたのに、卒業したあと積極的な企業戦士になっていったからくりの秘密を次のように分析しています。
 これまで自分が批判していた現実を肯定するために、自分が「現実的」であることをことさらに正当化せざるをえなかったケースも多かったはずだ。なまじ学生運動の経験があるだけに、声は大きいし、政治的な駆け引きもできる。陰謀をたくらむこともできる。場合によっては、労組つぶしも、お手のものである。
 この分析は、かなりあたっているのではないかと私も思います。
 著者は予備校で教えてきました。子どもたちが変わっていると言います。
 90年代の半ばころから、生徒たちの印象は明らかに変わった。そとづらは「よい子」が増えた。自分が思いついた、ものすごく狭い範囲の「分かり」にとらわれている印象が強い。必要以上に深入りせず、他人と距離をもつ、という態度が目立ってきた。
 うむむ、これでは結婚しない若者が増えても不思議ではありませんよね。結婚って、男女の泥臭い、裸のつきあいをするわけですからね。
 花伝社から1968年の東大闘争とセツルメントを描いた「清冽の炎」第2巻が発刊されました。なかなか売れそうもない本ですが、ぜひみなさん買って読んでやってください。著者が大量の在庫をかかえて泣いています。

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2006年11月17日

栄家の血脈

著者:王 曙光、出版社:東洋経済新報社
 中国の国家副主席にまでのぼりつめた栄毅仁の一生をたどった本です。今も、栄家は中国大陸と香港で栄華を極めていますが、その繁栄の源(みなもと)を明らかにした440頁もの大作です。
 中国最大の民族系実業家として繁栄し続ける栄家五世代が記録されています。それは、清王朝の末期から、辛亥革命、中華民国期、抗日戦争期、国共内戦・中華人民共和国成立期、新中国建設期、文化大革命期、改革開放期という、激動する中国近現代史の七つの時代と重なっています。
 栄毅仁は国共内戦期に大陸に残ります。新中国建設期に毛沢東に出会い、躍進したものの、文化大革命のときには地獄に落とされてしまいます。そして、改革開放によって、?小平によって支えられ、再び大きく躍進するのです。
 今、栄家を継ぐ栄智健は香港にいながら、中国政府からも守られて自由自在に活動することができる。その富の源泉は、中国政府のトップ情報をいち早く入手できることにあるのです。
 その栄智健は、若いころ、文化大革命のさなかに栄家一族の人間として大きな迫害を受けました。辺地の水力発電所の技師として5年ほど勤務した経験もあります。ところが、父の栄毅仁が?小平の引きたてによって出世すると、息子である智健もたちまち出世していきます。もちろん、才能あってのことではありましょうが・・・。
 この本を読むと、中国ははたして社会主義(共産主義)の国なのか、改めて疑問に思えてなりません。官僚統制の強い国だということは良く分かるのですが・・・。また、毛沢東の文化大革命の負の遺産を今なお中国が引きずっていることも痛感します。なにしろ、日本でいう団塊世代、つまり、私の世代が、中国ではほとんど活躍していないというのです。紅衛兵として華々しく活動していたので、かえって失脚してしまったということのようです。地道に勉強しないと、結局、社会から受けいれられないということのようです。
 それにしても、この栄家という存在は、日本の財閥をはるかに越えた力をもっているようですね。本当に、そんなことでいいのでしょうか・・・。

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ぼくと1ルピーの神様

著者:ヴィカス・スワラップ、出版社:ランダムハウス講談社
 テレビのクイズ番組に出場。12の質問のすべてに正解し、なんと10億ルピーの賞金を獲得した少年がいます。それが、ラム・ムハンマド・トーマスです。
 フランスの通貨でユーロであること、最初に月に降りたった宇宙飛行士がアームストロングであること、現在のアメリカ大統領がジョージ・ブッシュであることを知らないのに、とびきり難問ぞろいのクイズ12問の全問に正解したというのです。ですから、インチキが疑われても当然です。なにしろ、ラム・ムハンマド・トーマスは、レストランのしがないウエイターでしかなく、まったく学問に縁が遠いからです。
 では、番組スタッフと組んでインチキをしたのか。アメリカでも日本でも、そんなことがあり、内幕が暴露されて大問題になったことがあります。でも、ここではそんなこともありえません。では、いったいどうやって12問全問正解が可能だったのか。
 この本は、ラム・ムハンマド・トーマスの生いたちをたどることによって、少しずつ謎解きをしていきます。このあたりが、小説として本当によく出来ていると感心してしまいました。なにしろ、インド社会の矛盾と悲惨な現実を、読者は次々に、ちゃんとちゃんと学ばされるのです。
 教会の神父は同性愛にふけり、隠し子をもっている。孤児院で子どもたちをもらい受ける悪党は、もらい受けた子どもに芸を仕込んでは盲目の障害児に仕立て上げ、列車で乞食をさせてもうける。
 その状況を少年はなんとか生き延びていきます。そして、その状況でつかんだものがクイズの質問と正解につながるのです。まさに奇跡です。それがほとんどわざとらしさを感じさせないのは、作家の筆力もさることながら、少年の置かれている悲惨な境遇に心を魅かれ、つい応援したくなるからでしょう。
 少年は売春宿で働く少女と恋をし、なんとかして身請けするお金をつくろうとします。また、重病人を助けるためにも大金が必要となります。そのため、このクイズ番組に応募して出場することになったのです。なかなか巧みな筋書きです。
 ラムというのは典型的なヒンドゥー教徒の名前で、ムハンマドはイスラム教徒の、トーマスはキリスト教徒の名前。だから、ラム・ムハンマド・トーマスという変わった名前は、ありえない名前なのです。
 心あたたまる、そしてゾッとする現代のおとぎ話でした。

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狼花

著者:大沢在昌、出版社:光文社
 新宿鮫とも呼ばれる鮫島警部は、今回はナイジェリア人の大麻取締法違反事件の捜査に従事するようになります。
 基本的にクスリをやる奴に利口はいない。夢がない、未来がない、生きていても楽しいことのない奴が、最後の楽しみで手を出すのがクスリだ。ガキがクスリをやる国は、もう終わりだ。日本はそうなりかけている。
 残念ながら、そのようです。
 日本がこれまで犯罪の少ない、治安の良い国だと言われてきた理由は何か。それは、日本警察が優秀だったからではなく、遵法意識が高く、犯罪者の検挙に協力を惜しまない国民性による。しかし、金持ちが増える一方、自分はどんなにがんばってもああはなれないと悟った人間が、一瞬で高額の対価を得る手段として犯罪を選ぶ。貧富の差の拡大が犯罪を多発させる。そんなに単純ではないとしつつ、これを肯定していますし、私も、そう思います。
 ヤクザの世界では、10人が10人、暴力的な人間というのではない。暴力がまったくダメというのは向いていないが、殴りあいにいくら強くても出世できるとは限らない。逆に、腕っぷしし自信のある人間は、トラブルを力で解決したがる傾向があって、一時的には存在が目立つが、いずれはダメになる。本当にケンカが必要なときにはためらわず、とことん、いく。だが、それ以外のときには、なるべくおとなしくしている。それが一番だ。なるほど、きっと、そうなんでしょうね。
 この本は、日本警察のトップが外国人犯罪集団を排除するため、日本の最有力暴力団と組もうとしている事実を指摘しています。うむむ、そんなことを本当にしていいのだろうか・・・、とついつい思ってしまいました。
 そして、闇マーケットの主催者は、実はかつて学生運動が盛んなときにスパイとして潜入していた公安刑事だったというストーリーです。この本の末尾に「公安警察スパイ養成所」(宝島社)という本が紹介されています。私も読みましたが、たしかに、そのような現実があったようです。そして、スパイに仕立てあげられた青年は自殺してしまいます。スパイの非人間性を示す悲惨な話です。でも、スパイって、まさに日陰の身ですよね。マフィアに潜入した捜査官の本を読み映画を見たことがありますが、学生運動の潜入捜査官って、大義名分も何もない、単なる密告稼業ではないんでしょうか・・・。人間としての性格がひねくれてしまうでしょうね、きっと。結婚して、子どもに対して、自分の職業を誇らしく語ることができるのでしょうか。
 新宿あたりの犯罪の現実は、いつ読んでも、かなり重たい気分にしてしまいます。

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2006年11月16日

私のように黒い夜

著者:J・H・グリフィン、出版社:ブルース・インターアクションズ
 衝撃そのものでした。オビに、世界に衝撃を与えた幻の「奇書」と書かれています。「奇書」だというのには異和感がありますが、世界に衝撃を与えた、というのはなるほど、そうなのだろうと思います。
 著者と、その周囲の人々は、この本を刊行したあと、いつ自分と家族が殺されるかと本気で心配したといいます。いえ、キリスト教やイスラム教の原理主義者から襲われるというのではありません。一見するとフツーの白人からテロ攻撃を受けるかもしれないと恐れたのです。
 では、いったい著者は何をしたのでしょうか。白人の作家が紫外線で皮膚を焼き、白斑病の治療薬を飲んで黒くなり、顔に黒い顔料をすりこんで、頭もそって黒人に化けてアメリカ南部の町々を渡り歩いたのです。そうなんです。たったそれだけのことで、まるで別世界に入りこむのです。そこでは非人間として扱われます。黒人がアメリカで、どんな差別待遇を受けているのか、それを告発するレポートを書いたのです。おかげで白人至上主義から強烈な反発を喰らいました。それは、まさしく自分と家族の身の危険を感じるほどのすさまじさでした。
 といっても、実は、これは今から34年前のアメリカでの話です。正確には1959年10月から12月、ミシシッピー州のニューオーリンズなど南部の町での体験記です。
 黒人になったとたん、彼はトイレにも自由に行けなくなった。黒人用のトイレは町はずれの不便なところにしかない。普通の店には入れないし、トイレを利用するなんて、もってのほか。下手すると、水だってありつけない。黒人用トイレにたどり着いて、そこで水を飲むしかない。
 一生この町に住んでいたって、調理場の下働きとして以外、有名なレストランには黒人は絶対に入れない。黒人は二流の国民どころか、十流の国民としか扱われていない。
 ただし、軍服を着ている軍人、とくに将校はめったに差別をしない。これは、おそらく軍隊における無差別待遇のためだろう。
 白人の女には、目を向けてもいけない。下を向くか、反対の方を向くようにするんだ。映画館の前を通ったとき、外に白人の女のポスターが出ていても、それを見てはいけない。
 白人の男は、すべて、黒人の性生活について病的なまでの好奇心を示す。黒人は人並みはずれた大きな性器と千変万化の性行為の体験をもった、疲れを知らないセックス・マシーンであるという、判で押したようなイメージを心の底に抱いている。一見すると紳士の男たちが、相手が白人なら、たとえどんな社会の落伍者であっても示す遠慮というものを、相手が黒人ならば示す必要がないというのを見せつける。
 白人のオレたちは、お前たち黒人に恩恵を施している心算(つもり)なんだ。お前たちの子どもに白人の血を分けてやってな。白人の男たちは、黒人の女を抱きたがっている。これは、それを合理化する言葉なのです。
 このあたりのやり方を教えてやる。白人のオレたちは、黒人のお前たちと商売はする。それに、もちろん黒ン坊の女は抱く。しかし、それ以外は、オレたちに関する限り、お前たちは完全に存在しないも同然なんだ。お前たちがそういうこと頭に叩きこんでおけば、それだけお前たちは暮らしよくなるってわけだ。
 著者が本を出してから受けとった手紙は6000通。そのうち、罵りの手紙はわずかに9通だけ。多くの好意的な手紙が最南部の白人から来た。これは、南部の白人は、一般に異端視されるのを怖れて隣人には隠しているが、実際には、見た目よりもはるかに立派な考えをもっていることを示している。しかし、彼らは黒人を怖れる以上に、仲間の白人の差別主義者を怖れている。
 当時のアメリカ国民は、人種差別という忌まわしいことが行われていることを否定し、この国では、あらゆる人を人間としての特性で判断していると心から信じていた。しかし、この本は、それをまったく間違っているとした。
 そんな真っ当なことを言うと、近所の人にアカ、つまり共産主義者と言われてしまう。だから、アメリカには勇気ある立派な共産主義者が少なからずいることを「証明」してしまった。
 著者が恐れたのは根拠なきことではありませんでした。実は、一度、KKK団につかまり、容赦なく叩きのめされてしまったのです。それでも著者は生きのびて人種差別とのたたかいを続けました。1年間に7人の同僚・友人を失ったことがあります。そのうち自然死は1人のみで、残りの6人は殺されたのです。
 こんな厳しい状況で敢然とたたかったわけです。さて、40年たって、いまのアメリカに人種差別は本当になくなったのでしょうか。好戦的なライス国務長官の姿を見るにつけ、アメリカにおける人種差別は手を変え、品を変えて残っていると私は思わざるをえません。みなさん、いかがでしょうか。
 最後に付言します。ご承知のとおり、今どき白人、黒人とは言いません。アメリカ系アフリカ人とかアフリカン・アメリカ人と言います。でも、40年前のアメリカの実情を紹介した本なのですから、ここでは、この本にあるとおり昔ながらの白人と黒人としました。言葉だけ変えても意味ないからです。

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2006年11月15日

マネーロンダリング

著者:平尾武史、出版社:講談社
 山口組五菱会系ヤミ金融グループによるマネーロンダリング事件では、100億円ものお金が規制の網をくぐり抜け、香港へ送金されていました。この本は、そのカラクリを追跡しています。
 クレディ・スイス香港の最低の預入額は 100万ドル。日本円で1億円以上ということ。行員の年間の預金獲得ノルマは9000万スイスフラン(70〜80億円)。信じられないケタです。こんな巨額の預金を集める銀行があるんですね。
 最近の新聞記事に、スイスの銀行が日本支店を開設したことが紹介されています。それは日本のリッチ層をターゲットとしている。そのターゲットとは、1人10億円以上の金融資産をもつ層だ。いや、実は50億円以上をもつ層が狙い目だ。これは、不動産を含まない資産なんです。すごいことです。
 クレディ・スイス香港の日本人顧客は200人で、預け入れ資産は2000億円。クレディ・スイス香港のプライベートバンクの顧客には、会社経営者や多額の遺産を相続した人、医師などが多い。1人のリレイションシップ・マネージャー(RM)がかかえる顧客は40人ほどで、顧客1人あたり平均10億円ほど預かっている。まるで別世界の金額ですよね。これって・・・。
 香港への送金手数料は5%。といっても、40億円送るというのですから、手数料だけで、なんと2億円になるわけです。まったく想像を絶します。
 実は、海外へ200万円以上を送金しようとすると、国外送金調書という書類が必要になる。送金する銀行が税務署へ提出する。そして、送金額が3000万円をこえると、外為法にもとづいて、送金する本人が税務署・日銀に報告することが義務づけられている。そして、窓口をクリアしても、決裁する本店の担当者が書類をチェックして怪しい金融庁へ疑わしい取引として送金の事実が報告される。金融庁が少しでも犯罪に関与すると判断した情報は、警察庁、検察庁、税関などに提供される。だから、個人が一度に10億円を送金するなどというケースは本来ならありえないこと。
 ヤミ金の帝王の住居は東京の一等地のマンション。1ヶ月の家賃が85万円もする。トップの梶山は、芝にある超高級マンションの34階に、家賃92万円の一室を借りていた。
 梶山の配下の奥野は、まだ26歳でしかないのに、ヤミ金融で35〜40億円も稼いだ。梶山は1949年うまれ。静岡の商業高校を卒業して、塗装工などをしていた。上京して、稲川会に入ってヤクザとなる。そのうちヤミ金融を始めた。その後、山口組へ転身する。
 ヤミ金の顧客リストにはアルファベットが付されている。Kは警察に通報する客、Sはお金を借りて、そのまま逃げる客(詐欺)。Bは弁護士に相談した客、Gはごねる客。
 梶山はラスベガスでVIP待遇を受けていた。いくつかランクのあるうち鯨と呼ばれる最上級のもの。特別待遇だ。
 スイスのチューリッヒにあるクレディ・スイス本店にあった梶山の51億円はすべてクレディ・スイス香港から送られていた。梶山の預金は、ほとんど現金ではなく、香港で購入したユーロやドル建ての社債、株式の形で入金されていた。
 暴力団がヤミ金でボロもうけして、そのお金を国内の規制の網をくぐり抜けてスイス銀行に少なくとも51億円を預けていたという手口をかなり暴いています。
 そして、この51億円が犯罪被害者のもとにスンナリ全額が還付されたら何も問題ないのですが、現実には、そうはなりません。私の依頼者にもヤミ金融に大金をだましとられたと訴える人は多いのですが、この梶山グループからだと判明したのは、なんとたったの1人だけでした。そうすると、残ったお金は全額国庫に没収できるのか、それとも被告人の手元に戻ってしまうのか、ということが問題になります。被害者が不明だからといってだましとった被告人の手元に戻るなんて、絶対におかしいですよね。一応の立法措置ができましたが、要は被害者が被害者だと名乗りをあげないとどうしようもないということです。そして、そのための条件整備がさらに求められています。

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2006年11月14日

ベトナム戦争のアメリカ

著者:白井洋子、出版社:刀水書房
 アメリカにとってのベトナム戦争がいつ始まったのかについて、第二次大戦直後の  1945年とする説がある。つまり、ベトナム戦争は30年戦争だというもの。
 1945年10月、日本の敗戦から2ヶ月後、ベトナムの植民地支配の復活を狙ったフランスの1万3000人の戦闘部隊をサイゴンまで運んだのは12隻のアメリカ商船隊だった。そして、そのフランス軍兵士たちは、アメリカの提供した近代的なアメリカ製装備で武装していた。
 1945年8月末、フランスのドゴール大統領はワシントンを訪問し、トルーマン大統領と会談した。このとき、アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対しないことをド・ゴールに約束した。この会談が、その後の30年におよぶインドシナでの戦争をもたらした。
 ホー・チ・ミンの起草したベトナム民主共和国独立宣言の冒頭には、アメリカの独立宣言とフランス革命の人権宣言の一部が引用されている。ところが、アメリカの知識層はそれを知って喜ばなかった。野蛮なアジア人が勝手に利用したことで侮辱されたと感じたのだ。うむむ、そうだったんですか・・・。
 ベトナムでのアメリカの戦争は、アメリカ国民からも「汚い戦争」と呼ばれた。それは、政府と軍部によってウソと秘密で塗り固められていたからだ。
 アメリカの情報機関は、1961年時点で南にいるベトコン1万7000人の80〜 90%は現地の人間であり、北に依存しているとは認められないとしていた。実のところ、CIA報告(1964年)はドミノ理論にしばられてはいなかった。南ベトナムの共産主義勢力の力の源は南ベトナム自体にある、としていた。
 1963年11月、ベトナムのゴ・ジン・ジェム大統領がクーデターで暗殺された。その時点でアメリカ軍はベトナムに1万6500人いたが、ジェム大統領は反米感情を隠さなかった。だから、軍部クーデターが起きたとき、アメリカは黙認した。
 その3週間後、テキサス州・ダラスでケネディ大統領もまた暗殺された。ケネディ大統領が暗殺されなかったとしても、アメリカ軍が撤退していたとは考えられない。
 1964年7月末に起きたトンキン湾事件のとき、実はアメリカ軍艦艇は隠密の偵察摘発活動に従事していた。だからアメリカ政府は事件の詳細を明らかにできなかった。
 詳細を知らされなかったことから、アメリカ国民は北ベトナムへの報復爆撃を支持し、ジョンソン大統領の支持率は、一夜にして42%から72%へと跳ね上がった。
 アメリカが北ベトナムへの爆撃を公然と開始したのは、1965年2月。南ベトナム解放戦線が南ベトナム中部にあったプレイク米軍基地を攻撃したことへの報復として北ベトナムが爆撃された。
 1965年3月、アメリカ軍海兵隊2個大隊3500人が沖縄からダナンに上陸した。
 実は、アメリカ国内では無差別で残虐な皆殺しによる先住民征服のための戦争が数限りなく繰り返されてきた。アメリカ兵にとって、ミライでの虐殺事件は、ごく通常の作戦行為でしかなかった。むしろ、あたりまえの作戦を命令され実行してきたことが、軍法会議にかけられるほどの犯罪だったと知らされたときのショックの方が大きかった。
 ベトナムに送られたアメリカ兵士たちのなかには、アメリカ本国へ帰還したあと、戦争神経症に苦しむものが続出した。アメリカ軍によるベトナム民衆への残虐行為の実態を伝えられたアメリカ社会がベトナム帰還兵に対して「赤ん坊殺し」「訓練された殺し屋」「麻薬常習者」などのレッテルを貼って冷遇したことは、帰還兵のPTSD症状をさらに複雑で深刻なものとした。
 疎外感や抑鬱、戦場の悪夢、不眠、人間関係をはじめとするあらゆる状況での忍耐心や集中力の欠如などの症状が、帰還して何年もたってから発現することが多く、しかもこれらの症状は発現して長期間続いた。ベトナムからの帰還兵300万人のうち50〜70万人がPTSD症状を抱えていた。そして、既婚者の38%が帰還後6ヶ月内に離婚した。帰還兵全員の離婚率は90%。
 帰還兵の40〜60%が恒常的な情緒適応障害をもつ。帰還兵の事故死と自殺は年に1万4000人。これは全米平均を3割以上も上まわる。5万8000人の戦死者のほか、戦後15万人以上の自殺者を出した。50万人の帰還兵が逮捕・投獄され、1990年現在で今なお10万人が服役中、20万人が仮出獄中だった。麻薬・アルコール依存症は 50〜75%。帰還兵の失業率は40%で、その25%が年収700ドル以下だった。
 帰還兵の自殺者は1993年までに2万人となった。日本の自衛隊の自殺率は一般に38.6(これは10万人あたりの自殺者数)。ところが、イラクに派遣されて帰国した7600人の自衛隊のうち既に6人が自殺している。自殺率は78.9。つまり、一般の2倍の自殺率。
 ちなみに、日本の自衛隊員の自殺者数は、2000年度73人。2001年度59人、2002年度78人、2003年度75人、2004年度94人であり、10年間で合計673人であった。さらに、アメリカ陸軍の2005年に自殺した兵士は前年より16人増えて83人。その4分の1はイラクかアフガニスタン出征中。現役兵全体に対する自殺率は12.4。
 2003年にイラク戦争が始まってから1年間にイラクより帰還したアメリカ陸軍と海兵隊の兵士22万人をアメリカ陸軍病院の医師が調査したところ、帰還兵の35%が精神疾患を訴えた。診断したところ、19.1%の兵士に精神疾患が認められた。12%がPTSDだった。調査に回答した帰還兵の半分以上が「イラクで殺されるのと同じ大きな危険を感じた」と述べ、帰還後、2411人が自殺を考えたと回答した。
 別の統計では、イラク戦争が始まってから2005年12月までにイラク国内で45人、帰還後24人の合計69人のアメリカ兵が自殺している。

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