弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年9月22日

1968年、世界が揺れた年(後編)

著者:マーク・カーランスキー、出版社:ソニー・マガジンズ
 1960年代後半になって、フランスは消費社会に変わった。突然、フランス人は車を持つようになり、家庭に屋内トイレが設けられるようになった。とはいえ、1968年までに屋内トイレを設けた家庭は、パリの半数にすぎなかった。
 1958年、フランスは17万5000人の大学生がいたが、1968年には53万人と、イギリスの倍になっていた。ところが、フランスの学生は4分の3が落第して退学したため、学位取得者はイギリスの大学の半数でしかなかった。だからこそ、ドゴールは最初のうち学生運動を歯牙にもかけていなかった。ドゴールは、運動に関わる学生は単に目前の試験を恐れているのだと考えていた。大学には学生たちが溢れ、パリ大学だけで16万人の学生を抱えていた。学生がデモを始めれば、その大義に共感したデモ参加者が数えきれないほどに膨れあがることになった。
 フランス共産党は、初めから学生たちのすることすべてに反対していた。そんな偽りの革命家どもは正体を暴かれてしかるべきだ、ジョルジュ・マルシェ書記長はこう言った。労働組合も同調しなかった。労働者もドゴール政権に怒りをつのらせていた。だけど労働者は革命を望んでいなかったし、ドゴール政権を転覆させることには関心があったが、それ以外の学生たちの問題については、どうでもよかった。労働者が望んでいたのは、労働環境の改善であり、給料値上げであり、有給休暇を増やすことだった。労働者と学生は、別々の運動だった。労働者が望んだのは、賃金や工場の抜本的改革。学生が望んだのは、生活の抜本的な改革だった。
 学生運動の高名な指導者であるコーン・ベンディッドはユダヤ系だった。左翼運動には多くのユダヤ系が参加していた。
 68年6月23日、ドゴール支持者は43%の票を勝ちとり、国民議会での絶対多数を獲得した。左派は国民議会の半数を失い、ニューレフトの学生は議席を得ることができなかった。
 1968年秋、ビートルズは最初の自主制作レコードをリリースした。片面がレボリューション、もう片面がヘイ・ジュードだった。
 アメリカで黒人暴動が起こるたびに、法と秩序を指示する白人有権者が増え、黒人とその権利にうんざりする人が増えた。人種差別撤廃運動に対する白人側の巻き返しは、一般にホワイト・バックラッシュと呼ばれた。ニクソンは、このバックラッシュ票をかき集めた。
 1968年の1年間のうちに1万4589人のアメリカ兵がベトナムで戦死し、アメリカ人戦死者の総数はそれまでの2倍となった。1968年は、もっとも犠牲の多い年だった。ひどい一年の締めくくりがリチャード・ニクソン大統領の誕生だった。
 この年、ビアフラで100万人が飢えに苦しみ、ポーランドとチェコスロバキアで理想主義が叩きつぶされ、メキシコで大虐殺が起こり、世界じゅうの反体制派が殴られたり無惨な目にあわされた。そして誰よりも世界に希望を与えた二人のアメリカ人が暗殺された。
 クリスマスの日、3人の宇宙飛行士が月面から100キロの軌道を周回し、上空から月面が灰色の荒涼としたでこぼこであることを明らかにした。
 1968年。私は大学2年生でした。6月から学園紛争が始まりました。いえ、他人事(ひとごと)のような紛争という言葉をつかいたくはありません。それに一兵卒としてかかわったものとしては、やはり学園闘争と呼びたいのです。大学がもっと学生の叫びと要求を真剣に受けとめてくれるものになってほしいと心から願っていました。ただ矛盾するようですが、もう一方では、勉強したくないという気持ちも強くありました。大学受験のような、押しきせの講義に対して反発していたのです。もちろん、好奇心の方は人一倍ありました。まったく矛盾する存在であり、行動でした。まさに20歳前後の分別のない年頃だったのです。この年に体験したことは貴重な青春のひとこまとして、今でも私の原点となっています。

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