弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2006年9月14日
霞ヶ関、半生記
著者:古川貞二郎、出版社:佐賀新聞社
5人の総理に内閣官房副長官として仕えた佐賀県出身の官僚が自己の半生を語った本です。なかなか読みごたえのある内容が語られていました。著者は平成11年夏に初期肺がんの手術をされたとのことです。今後のご健勝を祈念します。
内閣官房副長官は、自治省(総務省)や厚生省(厚労省)など旧内務省系の出身者から選ばれることが多い。副長官は各省庁を引っぱっていく仕事なので、バランスが必要。旧内務省系は公平な立場から国家全体を考える役所だと考えられている。
私の知人に自治省のキャリア官僚がいます。あるとき、雑談のなかで、旧内務省キャリアの名簿があるということを知らされ、ひっくり返るほど驚いてしまいました。内務省って、戦前あった役所だとばかり思っていましたが、この本にも出てくるように、今も生きている役所なんですね。げに、官僚の世界とは根深いものがあります。戦後60年以上たっているのに、内務省官僚だった人なんて、ほとんど現存していないのに(失礼、まだ生きている人がおられるとは思いますが)、役所の方は今も脈々と生きづいているのです。
午前8時前に自宅を出て、午後7時まで分刻みのスケジュール。帰宅するのは、夜9時か10時。それから11時か12時まで番記者と懇談する。一日に少なくとも20人と会って話をする。弁護士の私も一日に20人ほど会って話をすることは珍しくはありません。でも、私が会う人は、みなさん肩書きもお金もない人ばかりです。いわば身の上相談みたいなもので、元気にしてますか、くよくよしないで下さいね、と励ますだけのことがほとんどです。まあ、それでも、ここに来るとほっとします、なんて言ってくれる人がいますので続けています。
官房副長官は東京を離れられない。休日を除くと、8年間で東京を離れたのは、あわせて2週間だけ。ただし、千葉に菜園をもっていて、そこには通っていた。
身体が頑健。そして、気分転換が上手でないとつとまらない仕事だ。
閣議の様子が写真で公開されています。初めて見ましたが、円卓です。テレビで映されるのは、閣議前の閣僚応接室の様子。閣議室には、総理と全閣僚と、政務(2人)と事務の副長官そして内閣法制局長官の4人のみが陪席し、事務職員は入らない。
しかし、閣議の前に次官会議がある。明治19年(1886年)から続いている必要なシステムだ。たしかに、そうなんでしょうね。
首相官邸を新築する責任者として、近くに建った高層ビルから狙撃されないような手配もした。私も2度だけ首相官邸に入ったことがあります。司法制度改革審議会の顧問会議に陪席するためです。せっかくですから、トイレも使わせていただきました。さすがに豪華です。
著者の父親は農業。成績は優秀でしたが、音楽と習字は苦手。一万人に一人という音痴だったそうです。音痴なのは私も同じです。九大に一度すべって佐賀大学の文理学部に入り、翌年、九大に入ることができました。そして、大手の損保会社に入れず、長崎県庁に合格。県職員として勤めながら厚生省を目ざしたのです。長崎県庁では、法令審議会で条例づくりを担当しました。これが後で役に立ちました。
厚生省の上級職の学科試験には合格したものの、面接で不合格。このとき、著者は人事課長に直談判したというのですから、すごいものです。ちょっと真似できませんね。このように、著者はすべって、ころんで、しかし、しぶとく立ち上がっていきました。その苦労が報われたのです。誠実な人柄は、その苦労からも来ているようです。
厚生省に入って、昭和35年(1960年)の安保改定反対デモにも飛び入り参加したそうです。これもすごいことですが、これを今堂々と語っているところも偉いですね。もっとも、今は安保条約肯定論者だということです。
2年間だけ、警察庁に出向しています。このとき、報告書には、哲学を書くように指摘されたとのこと。なるほど、ですね。自分の頭で考えたことを書いてほしい、ということでしょう。
そのあと環境庁に出向します。このころ仕事に没頭して家庭をかえりみなかったことから、長男から、「また来てね」と手をふられたそうです。ふむふむ、仕事人間だんたのですね。
著者は公害健康被害補償法の立案と実施にも深く関与しています。私も、この公健法には密接に関わってきました。四日市ぜん息裁判の判決が下ったのは、私が司法試験の受験中だったでしょうか。この判決について、当時、現職裁判官だった江田五月氏をチューターとして招いて司法修習生の自主的勉強会で議論したこともありました。弁護士になって2年目から、日弁連公害委員会のメンバーとして、この公健法の改正を目ざして各種の提言づくりに関わってきました。
著者は田中角栄首相の下で内閣参事官となりました。国会が始まると、質問を各省に割りふり、その答弁を首相宅に午前3時に届け、午前7時には家を出る。午前8時に登庁して官房長官に説明する。3時間しか眠れないので参事官だと冗談を言っていた。すごいですね。官僚を目ざしたこともある私なんか、官僚にならなくて良かったと思いました。
厚生省に戻って、官房長となった。霞ヶ関では、自分の10の力を12と錯覚するくらいの自信がないとやっていけない。一方で、同程度の他人の力量は8くらいに見がちだ。そこで、人事に不満が生じる。それをふまえて公正を心がけるしかない。
OB人事も官房長の仕事。うまくやらないと不満が出て、ひいては組織の士気にも影響してくる。組織を生かし、人を生かし、その家族を生かす。この理想はなかなか難しい。 平成5年、東大卒でない初めての厚生次官となった。
内閣官房副長官の在任8年7ヶ月は、歴代最長。司法制度改革にも関わった。
この本を読んで最後に疑問に思ったのは、これほど人柄が良くてバランス感覚抜群の人が、なぜ福祉切り捨ての福祉行政をすすめてきたのか、ということです。今や、老人は病気をかかえていても病院に長くいることができません。リハビリだって、途中で問答無用と打ち切られます。そんな冷たい福祉行政となってしまいました。すべては軍事優先(サマワへの自衛隊派遣には惜しみなく大金をそそぎこんでいます)の結果です。そのような冷たい政治の中枢に、どうしてこんな心の温かい人が中枢に座っていたのでしょうか。不思議でなりません。