弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年8月29日

ブロンド(上)

著者:ジョイス・C・オーツ、出版社:講談社
 本名ノーマ・ジーン。マリリン・モンローの生涯を小説で再現したものです。セックス・シンボル。ノータリンの金髪美女というイメージのあるモンローですが、その実情は、大変に勉強熱心な女優だったようです。
 ノーマ・ジーンは、おばあちゃんが大好きだった。この世でノーマ・ジーンのことを本当に愛している唯一の人だった。ノーマ・ジーンを傷つけようなどと思いもせずに、ただひたすらノーマ・ジーンを庇ってくれた唯一の人だった。
 内気な娘ノーマ・ジーンは、人目につかない子どもだった。
 ノーマ・ジーンの母親が入院したため、ノーマ・ジーンは孤児として女子寮に入れられた。郡の被保護者となってから、ノーマ・ジーンには3組の夫婦から養子縁組の申し出があった。9歳から11歳までのあいだのこと。
 彼女の瞳には訴える力があった。わたしを愛してちょうだい。だって、わたしは、もうあなたを愛しているんですもの。
 ノーマ・ジーンが孤児院から出られたのは、1938年11月のこと。里親に引きとられたのだ。高校でノーマ・ジーンは平均的な生徒だった。ごく普通の生徒だったが、容姿だけは特別だった。月並みな少女だったが、その顔にあらわれる、どこか神経を張りつめた、感じやすい、燃えあがるような輝きだけは特別だった。
 ノーマ・ジーンは里親のもとから一刻も早く離れるため、16歳になってまもなく結婚した。夫はやがて第二次大戦の兵士として戦場へ行った。18歳になって、ひとり暮らしができるようになって、ノーマ・ジーンは飛行機工場で働くようになった。
 ノーマ・ジーンは口の大きい割りには舌が長かったので、うまくしゃべれないことがあった。
 1994年12月号の雑誌にノーマ・ジーンの工場で働く写真がのった。そして、次々に雑誌のモデルとなった。
 共産党員だったオットーは、ノーマ・ジーンに「デイリー・ワーカー」や進歩党などのパンフレットを読ませた。ノーマ・ジーンは目を通し、理解しようとつとめた。
 マッカーシーによる赤狩り旋風が吹き荒れたアメリカで、ノーマ・ジーンは、こう言った。ああ、どうしてみんなこんなことばかりしているの。互いに、密告しあっている。哀れな人たちがブラックリストにのせられている。ハリウッド・テンの人々は刑務所に入れられてしまった。まるで、ここはナチのドイツみたい。
 尊敬するチャップリンは夕刊にも協力を拒否してアメリカを去った。
 オットーは共産主義者じゃない。もし、彼がそうだというのなら、わたしだってマルクス主義者になってしまう。マルクスは正しかったわ。宗教は民衆にとっての阿片だといったのよ。お酒や映画と同じよ。それに共産主義者って、民衆のために働いているんでしょ。それが悪いことなの?
 カリフォルニア大学ロサンゼルス校の夜間講座で、「ルネッサンスの詩」をテーマとする講座が開かれた。1951年秋のこと。木曜日の夜7時から9時までの授業。これにノーマ・ジーンは本名で出席した。
 祭壇という詩を教授に指名されて朗読することになった。その声はかすれているけれど堂々としたもので、息継ぎをせず力強く、精神的な感じであると同時に、セクシーでもあった。朗読を聞いていたみんなは教授をふくめて拍手喝采した。教授は、きみは詩人だよ。それも類い稀なね、とほめたたえた。もちろん、誰も彼女がマリリン・モンローという女優だということを知らなかった。
 雑誌にのっている彼女を見て、彼女が女優だと知ったクラスメイトが彼女に問いつめたとき、彼女は逃げ去り、二度と教室には戻らなかった。1951年11月の雨の降る木曜日のこと。
 ノーマ・ジーンの母親は精神病院に入っていた。女優になって、週給1000ドル、プラス経費に引き上げてもらってすぐ、母親は私立の精神病院に移した。そして、そのことは誰にも知られないように手配した。母親の死まで、モンローはずっと面倒を見つづけたのです。
 庭の芙蓉がようやく花を咲かせてくれました。爽やかなピンクです。炎暑が続いていますが、このピンクの花を見ると秋の近いのを感じます。

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