弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年8月31日

今日、ホームレスになった

著者:増田明利、出版社:新風舎
 実に身につまされる本でした。なにしろ、私とまったく同世代の人々が、帰るべき家がなく、公園などで寝起きしているというのです。実に悲惨です。
 ところが、世の中には、ホームレスなんて気楽な稼業でうらやましいという意見があったり、働く意欲のない彼らには何の権利もなくて当然だと高言する人が少なくありません。私には、とても信じられません。冬には凍死寸前、夏は蚊に襲われ、いずれも安眠できない。若者に襲われたり、病気になったらどうしようもない。そんなホームレスに誰が好きこのんでなるというのでしょうか・・・。
 ホームレスになった理由は、失業・倒産、病気で高齢のために働けなくなったことなど。前職は、正社員、会社経営者、自営業者などが4割を占める。まさに明日は我が身かもしれないのです。50も半ばを過ぎた高齢で雇ってくれるところがどれだけあるでしょうか。路上警備の人々の日焼けした顔を見るたびにそう思います。
 家庭崩壊、熟年離婚。これらは、それまでの会社人間で家庭生活を放棄したツケがまわってきたとも言えるものです。私なんか、身震いしてきそうです。
 13人のケースが紹介されていますが、いずれも、悲惨です。大手総合商社の財務部次長だった52歳は、今や雑誌拾いで1日1000円の収入、食事はコンビニの廃棄弁当。ところが、今もスーツを着ている。
 49歳の外資系投資銀行ファンドマネージャーをしていた男性は、今はゲーム喫茶のサンドイッチマンが仕事。日当6000円。彼は、なんとボーナス込みで2000万円の年収を誇っていた人です。
 ゼネコン営業部長だったという56歳の男性は、雑誌拾いとアルミ缶回収で1日1500円の収入。体調不良で野垂れ死に寸前。
 自動車部品メーカーの管理職だった57歳の男性は首切りを仕事としているうちに、自分も解雇通告を受けてしまいました。雑誌拾いで収入は1日500円。意地悪した先輩や退職を迫った役員を包丁でメッタ刺しにする夢を何度もみるという。怖いですよね。本当に何回かありましたからね、そんなことが・・・。
 生まれ変わっても、サラリーマンにだけはなりたくない、もう嫌だね、と言います。よほど辛かったんですね。57歳だと、ハローワークに行っても求人ボックスさえないというんです。ああ、どうしましょ。
 ホームレスの男性の一週間の生活が紹介されています。本当に大変です。
 身体の清潔に気をつけている人は生き延びるが、そんなことどうでもいいと思っている人は短命で死ぬ。そんな統計があります。
 私も、家出してホームレスをしていた人から法律相談を受けたことがあります。全身から発散する独特の異臭に息が詰まりそうでした。本人はもう慣れて何も感じなくなっているのです。この本は、よく調べてあります。現代社会の矛盾をえぐるノンフィクションでした。

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2006年8月30日

イラクと自衛隊ブログ

著者:岡本 宏,出版社:アメーバ・ブックス
 バクダッドの危険はテロに巻きこまれること,サマワの怖さは自分がテロの対象になっていること。
 イラクではタクシーに乗ったら助手席に座らなければならない。日本の感覚で後部座席に座ってはいけない。ひと目で外国人と分かってしまい,テロリストの恰好の餌食となる。
 イラク派遣の自衛隊員に支給される危険手当は1日3万円。3ヶ月いたら、それだけで300万円になる。すごい高給優遇です。しかも、一日一時間だけ働けばいいのです。新聞報道によると、イラクに派遣された陸上自衛隊員は3ヶ月交代で、2年半のあいだに合計5500人。各方面隊は600人ずつ派遣したが、本隊は500人で、業務支援隊が  1500人。この500人のうち、自衛隊宿営地の管理と警備に各200人。したがって復興活動にあたったのは、なんと600人のうちわずか100人のみ。施設部隊50人と衛生部隊50人。しかも、活動時間は当初こそ1日3時間だったのが、路上爆弾攻撃を受けた2005年6月からは、なんとなんと1日1時間のみ。いやあ、驚きました。こうまでして、小泉首相はイラクに自衛隊がいた実績をつくりあげたかったのです。といっても、正当性がまったくない戦場で生命を危険にさらしたくなんてありませんよね。
 大切なのはGNN。義理(G),人情(N)と浪花節(N)。これは万国共通。
 ABCが大切。当たり前のこと(A)を,ボーッとしないで(B),ちゃんとやる(C)。
 昼間は41度,夜は32度。この32度でも肌寒い。湿度がないから。
 イラクでは昼食がメインで,ご飯を食べるのは昼だけ。夜はパンだけで,軽めの食事となる。だから,夜レストランに行って,ご飯を注文しても出てこない。
 イラク人は,見た目から10引いた年齢が実年齢であることがほとんど。それだけ苦労していることなんでしょうね。
 サマワでは,すべての女性が家庭から出ることはない。
 この本は,中日新聞社の写真記者がイラクのサマワに派遣されたとき,ブログで日記を書いたものをまとめたものですから,臨場感があります。迫真のドキュメントとありますが,まさしく危険と隣りあわっせだということが伝わってきます。ただ,著者がイラクにいたのは2004年3月24日までです。サマワは,その後,ますます危険地帯になったような気がします。
 そんなイラクとサマワの実情が日本人にほとんど知らされていない現実があります。そのうえで小泉政権はタカをくくっているのです。許せません。そして、航空自衛隊のほうはイラク全土を飛んでアメリカ・イギリス軍の支援活動をしています。日本人の多くは、自衛隊はイラクから完全撤退していると思っているんじゃないですか。
 あつ、そうでした。もうひとつ、海上自衛隊がいました。こちらはアフガニスタンの復興支援ということでインド洋まで出かけているのですが、いつのまにかイラク侵略戦争をすすめているアメリカ軍の補給活動までしています。
 マスコミって、こんな実情を報道していませんよね。ホントに困ったことです。

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2006年8月29日

ブロンド(上)

著者:ジョイス・C・オーツ、出版社:講談社
 本名ノーマ・ジーン。マリリン・モンローの生涯を小説で再現したものです。セックス・シンボル。ノータリンの金髪美女というイメージのあるモンローですが、その実情は、大変に勉強熱心な女優だったようです。
 ノーマ・ジーンは、おばあちゃんが大好きだった。この世でノーマ・ジーンのことを本当に愛している唯一の人だった。ノーマ・ジーンを傷つけようなどと思いもせずに、ただひたすらノーマ・ジーンを庇ってくれた唯一の人だった。
 内気な娘ノーマ・ジーンは、人目につかない子どもだった。
 ノーマ・ジーンの母親が入院したため、ノーマ・ジーンは孤児として女子寮に入れられた。郡の被保護者となってから、ノーマ・ジーンには3組の夫婦から養子縁組の申し出があった。9歳から11歳までのあいだのこと。
 彼女の瞳には訴える力があった。わたしを愛してちょうだい。だって、わたしは、もうあなたを愛しているんですもの。
 ノーマ・ジーンが孤児院から出られたのは、1938年11月のこと。里親に引きとられたのだ。高校でノーマ・ジーンは平均的な生徒だった。ごく普通の生徒だったが、容姿だけは特別だった。月並みな少女だったが、その顔にあらわれる、どこか神経を張りつめた、感じやすい、燃えあがるような輝きだけは特別だった。
 ノーマ・ジーンは里親のもとから一刻も早く離れるため、16歳になってまもなく結婚した。夫はやがて第二次大戦の兵士として戦場へ行った。18歳になって、ひとり暮らしができるようになって、ノーマ・ジーンは飛行機工場で働くようになった。
 ノーマ・ジーンは口の大きい割りには舌が長かったので、うまくしゃべれないことがあった。
 1994年12月号の雑誌にノーマ・ジーンの工場で働く写真がのった。そして、次々に雑誌のモデルとなった。
 共産党員だったオットーは、ノーマ・ジーンに「デイリー・ワーカー」や進歩党などのパンフレットを読ませた。ノーマ・ジーンは目を通し、理解しようとつとめた。
 マッカーシーによる赤狩り旋風が吹き荒れたアメリカで、ノーマ・ジーンは、こう言った。ああ、どうしてみんなこんなことばかりしているの。互いに、密告しあっている。哀れな人たちがブラックリストにのせられている。ハリウッド・テンの人々は刑務所に入れられてしまった。まるで、ここはナチのドイツみたい。
 尊敬するチャップリンは夕刊にも協力を拒否してアメリカを去った。
 オットーは共産主義者じゃない。もし、彼がそうだというのなら、わたしだってマルクス主義者になってしまう。マルクスは正しかったわ。宗教は民衆にとっての阿片だといったのよ。お酒や映画と同じよ。それに共産主義者って、民衆のために働いているんでしょ。それが悪いことなの?
 カリフォルニア大学ロサンゼルス校の夜間講座で、「ルネッサンスの詩」をテーマとする講座が開かれた。1951年秋のこと。木曜日の夜7時から9時までの授業。これにノーマ・ジーンは本名で出席した。
 祭壇という詩を教授に指名されて朗読することになった。その声はかすれているけれど堂々としたもので、息継ぎをせず力強く、精神的な感じであると同時に、セクシーでもあった。朗読を聞いていたみんなは教授をふくめて拍手喝采した。教授は、きみは詩人だよ。それも類い稀なね、とほめたたえた。もちろん、誰も彼女がマリリン・モンローという女優だということを知らなかった。
 雑誌にのっている彼女を見て、彼女が女優だと知ったクラスメイトが彼女に問いつめたとき、彼女は逃げ去り、二度と教室には戻らなかった。1951年11月の雨の降る木曜日のこと。
 ノーマ・ジーンの母親は精神病院に入っていた。女優になって、週給1000ドル、プラス経費に引き上げてもらってすぐ、母親は私立の精神病院に移した。そして、そのことは誰にも知られないように手配した。母親の死まで、モンローはずっと面倒を見つづけたのです。
 庭の芙蓉がようやく花を咲かせてくれました。爽やかなピンクです。炎暑が続いていますが、このピンクの花を見ると秋の近いのを感じます。

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2006年8月25日

梅原猛の授業,仏教

著者:梅原 猛,出版社:朝日新聞社
 稲作が始まったのは1万4000年前。小麦農業の発生より2000年も古い。これは,まだ教科書にのっていない。(間違いないのでしょうか・・・)
 世界の四大文明のうち,一番古いのがメソポタミア文明で、5000年前に始まったと言われている。次にエジプト文明、インダス文明,それから1000年遅れて黄河文明。
 ところが,実は,6000年前の中国・湖南省の城頭山で都市文明がおきていた。
 日本人は山には木があると思っている。しかし,山に木があるところは世界では少ない。ユーラシア大陸の真ん中に行ったら,山にはまったく木がない。中国でも,北のほうは山に一本の木もない。米をつくる南のほうには木がある。
 仏教のなかには,人間の自然支配ではなく,人間と生きとし生けるものとの共存という思想が含まれている。それが東の文明の,東の宗教の強みだ。
 紀元前5世紀前後に,その後の人類の精神世界を指導した聖者がほとんど全部生まれた。ギリシャ哲学をはじめたソクラテス。イエス・キリストの思想の先駆をなすと言われる第二イザヤ。インドの釈迦。中国の孔子。
 西洋の聖者であるソクラテスもイエス・キリストも殺された。しかし,東洋の聖者はそうではない。釈迦は涅槃で静かに死につく。孔子も畳の上で死んだ。
 西洋には,どこかに怒りの思想がある。聖者を殺した人間に復讐しようとする怒りの思想がある。東洋のほうはもっと安らか。あきらめの思想,悲しみの思想がある。
 釈迦は天国のことを説かない。人生とはこういうものだと言って静かに死んだ。釈迦の思想は一言でいうと,四諦,四つのあきらめ。苦諦とは,人生は苦であると悟ること。集諦(じったい)とは,苦の原因は愛欲であると悟ること。滅諦(めったい)とは,愛欲を滅ぼすことを悟ること。愛欲をなくしてしまうのは難しい。しかし,コントロールすることはできる。道諦(どうたい)とは,愛欲を滅ぼす方法を悟ること。戒・定・慧。規則を守る。集中力を養う。知恵を磨いて,人生を生きる。
 自己がよく調整されるとき,つまり自己管理をきちんとしたら,人は得がたいよりどころを得る。仏教というのは,カビ臭いものではなく,自己調節,自己管理の教えである。なーるほど,そうなんですよね。自己管理がよくできて,私は司法試験に合格することができました。その代償も払いましたが・・・。
 日本に入った仏教は,ほとんど大乗仏教。釈迦が死んで500年たって龍樹があらわれ,新しい仏教を始めた。そして,それまでの仏教を小乗,自分たちのを大乗と呼んだ。タイやベトナム,スリランカの仏教は小乗仏教。こちらが昔のままの仏教で,戒律も厳しい。たとえば妻帯を認めない。日本も戦前は,浄土真宗以外の坊さんは妻帯しなかった。ところが,戦後みな浄土真宗にならって坊さんも嫁さんをもつようになった。
 龍樹は,海の果ての龍宮に行ったら経典がたくさんあったとして,世に出したのが般若経という経典。あとの大乗仏教の人々も龍樹にならって,どこかで見つけたといって,新しい経典を次々につくっていった。華厳経,法華教などがそう。インドという国の人は,途方もない永遠の世界に生きているので,そういうことが可能だった。ひゃあー,そうだったんですか・・・。
 大乗仏教の特徴は,自利利他。悩んでいる民衆のなかへ入って人を救う。これが利他。これを強調する。人を悲しませないために,どうしても嘘を言わなくてはいけない。人を喜ばすために嘘をつくことは,ときに許されるけれど,人を欺すために嘘をいうのは許されない。
 仏教の教える四つの大切な道徳は,精進,こつこつ努力をする。禅定,集中力を養う,正語,正直であれ。忍辱(にんにく),辱めに耐えろ。
 一生,煩悩との闘いがある。あまり煩悩を断ってしまうと,今度はエネルギーがなくなってくる。煩悩を超えなくてはいけないが,むしろ煩悩をいい意味で利用するのが大切。これを四弘誓願(しぐせいがん)という。
 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
 煩悩無数誓願断(ぼんのうむしゅせいがんだん)
 法門無尽誓願学(ほうもんむじんせいがんがく)
 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
 なかなか読みあげやすい文句ですよね、これって。
 福沢諭吉の考えには,まずいところがある。脱亜入欧には,日本の亜細亜侵略理論になっている。
 親鸞は90歳まで長生きした。しかし,生きているうちは,ほとんど無名だった。京都の片隅の自分の弟の寺で,ひっそり死んだ。ところが,女系のひ孫に覚如が出て,その子孫の蓮如によって,教団の組織が飛躍的に発展した。そうだったんですかー・・・。
 靖国神社は,本当の神道を歪めている。日本古来の神道では,えらい人を神に祀ることはありえない。神に祀るのは,世の中を恨んで死んだ人。高い位につきながら殺されたりして世の中を恨んでいる人が怨霊になって世の中にたたりをするので,その魂を鎮めるために祀られているもの。
 明治以降,神道がおかしくなって、天皇そのものを崇拝するようになった。そして国のために死んだ人だけを靖国に祀る。戦争を始めた戦犯の東条英機まで祀る。これは日本の神道と違う。中国や韓国の,被害を受けた人を祀るのが日本の神道の精神なのに,靖国は違う。小泉純一郎はそのことをよく分かっていない。
 なーるほど,仏教について大変勉強になりました。

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あっと驚く動物の子育て

著者:長澤信城、出版社:講談社ブルーバックス新書
 巣から落ちたスズメの子を育てた観察記録が紹介されています。
 スズメは皿で水浴びをし、手にもったティッシュペーパーで体を拭いてもらうのが大好きになり、いつも催促するほどだった。食事で大好きなのは、ご飯に生卵の黄身をぬったもの。娘たちから口移しでもらっていた。
 遊びで一番好きだったのは、著者の妻の髪のなかにもぐりこんで、その中から顔を出したり、引っこめたり、ごそごそ髪のなかをはいずり回り、とんでもないところから顔を出してみんなを笑わせること。肩止まりも好きで、よく家族の肩巡りをした。
 丸三年を過ぎたころから、外に出てはスズメ友だちと遊んだ。帰ってくると、必ず肩に止まり、人の首をつつく。ただいまの挨拶だ。外泊することは一度もなかった。4年目の夏の終わりに死んだ。わが家にもスズメ一家がいます。スズメは人間と共存する動物なのです。ところが、家を出入りするときには、物音ひとつたてないように注意しているようです。家から出ると、やかましくさえずりあっているのですが・・・。
 エンペラーペンギンは、卵内のヒナはふ化する3〜4日前から音を聞く能力ができあがっていて、親の鳴き声を正確に記憶する。卵内のヒナも小さな声でピーピーと返事をする。その声を親も正確に記憶している。ふ化前の親子の鳴き交わしを卵内ピッピングという。鳥は巣を外敵に発見されないところにつくるので、親子確認は音に頼る。そのため聴覚器官がもっとも早く機能する。
 オットセイも同じ。メス親が海へ食事に出かけて戻ってくると、大きな声で呼びかける。何万頭も一緒にいる子どもたちは一斉に応答するが、メス親はその応答のなかから自分の子の鳴き声を探りあてて、その方向に向かう。最後は、鋭い嗅覚で自分の子を探りあてる。
 鳥もほ乳類と同じく、数を認識する。自分が三個しか卵をうんでいないのに、巣に四個の卵があると、おかしいと認識する。おかしいと思うと、その巣を捨てる。
 動物は繁殖の営みのなかで、必死になるときが二度ある。一度は、相手にプロポーズをして自分の遺伝子を子に伝えるとき。もう一度は、その子を危険から守るとき。なーるほど、ですね。人間も、もっと必死にならないといけないようです。
 アナグマはムジナとも呼ばれるが、非常に清潔好きで、寝室や育児室の下敷きはまめに取りかえる。生涯、一夫一婦制を守る非常に夫婦仲が良い。
 キジバトも生涯または長期にわたって一夫一婦を守る、仲の良い鳥だ。
 シャチの群れは平均30頭。メスが統率している。メスはオスの半分の大きさしかないが、統率は力ではなく、知能による。オスは統率力に欠ける反面、アザラシやシロナガスクジラなどを仕留める技術は抜群で、これを幼獣たちにも分配し、食糧調達の面でのヘルパーとしても機能している。
 厳しい生存競争を生き抜いてきた動物界の子育てドラマの数々が紹介されています。「エンペラー・ペンギン」の映画はとても、衝撃的でした。ブリザードの吹きすさぶ厳しい冬のなか,肩寄せあってじっと耐え忍んでいるペンギンたちの姿が忘れられません。

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維持可能な社会に向かって

著者:宮本憲一、出版社:岩波書店
 この本でもっとも驚き、かつ深刻だと思ったのは次の一文です。
 2005年6月のクボタ・ショックのとき、現場を訪れたのは高齢の学者のみで、学生や若い研究者は誰も来なかった。これが十数年前なら、若い研究者や学生がたくさん押しかけてきて、調査し、運動を手伝ってくれたことだろう。えーっ、そうなの・・・、それは大変だ。私は心底から、そう思いました。
 環境問題は、地球に優しい、というのが商品のコピーにはなっても、運動に参加する人は、むしろ激減しているというのです。そう言えば、私の身のまわりでも環境保護運動に力をいれているのは、むかし若かったという人ばかりで、20代、30代という若い人はほとんど見かけません。本当に残念なことです。
 「環境と公害」(かつての「公害研究」)は、発行部数は3分の1にまで減っている。環境問題はますます深刻化しているのに、影響力は落ちているのだ。
 沖縄はアメリカの植民地であり、日本は、かつてのソ連の衛星国の東ドイツと同じようにアメリカ帝国の衛星国である。いったい、日本人はドイツ人がベルリンの壁をこわしたように沖縄の基地を撤去できないのか。アメリカ軍への思いやり予算をやめ、アメリカ軍基地の公害をなくし、正当な賠償をもとめるべきだ。これは、日米安保条約の存廃とはかかわりなく取りくめること。このような常識的なことさえ日本政府が実行できないと言うのなら、まさしく日本はアメリカの衛星国にほかならない。私も、まさしく、そのとおりだと思います。
 アメリカではアスベスト訴訟が再び増加している。1990年代に沈静化するかにみえたアスベスト訴訟は1999年以降再燃している。2000年段階で、5万9000件の訴訟が起きている。被告8400企業、原告60万人の訴訟となっている。被告となっているのは、アスベストを直接製造した企業だけではなく、間接的な企業もふくまれる。これまでアスベスト関連で保険会社などが支払った賠償額は650億ドル。これは、9.11テロやハリケーンの被害を足したものより大きい。すでに73の企業が倒産した。
 日本人は日本病にかかっている。日本病とは、第一に長時間労働による余暇の貧困。
1987年の年間総労働時間は、フランス1643時間、西ドイツ1659時間、日本は2168時間。日本人は60日も多く働いていた。
 第二に住宅の貧困。うさぎ小屋と言われても仕方がない。第三に、深刻な公害・環境破壊。第四に、医療・福祉・教育などの施設・サービスの貧困。第五に、都市と農村の双方の危機。
 市町村合併は、区域が広がりすぎて、中心部をのぞいて周辺は衰退していく。高齢社会になるほど、コミュニティの存続のための狭域行政が必要だ。
 九州は道州制に熱心だと報道されていますが、私にはとても信じられません。大きいことはいいこと、では決してありません。役所が身近な存在でなくなるのは本当に困ります。歩いていけるところに福祉担当者がいる。そんな社会にしたいものですよね。むやみに公務員を減らしたら絶対いけないのです。もっとゆとりをもちたいものです。

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がんに負けない、あきらめないコツ

著者:鎌田 實、出版社:朝日新聞社
 著者は私と同じ、団塊世代。学生時代には全共闘の活動家としてヘルメットをかぶって暴れていたそうですが、ほのぼのとした心温まる今の文章からは想像できません。
 この本は、乳がんの患者だった40代の女性との往復書簡が中心となっています。本当に残念なのですが、この女性は51歳で亡くなられました。抗がん剤の限界のようです。
 毎年60万人の日本人が新しいがんにかかり、毎年30万人ががんで死ぬ。3人に1人ががんで死んでいる。日本全国に今300万人の人ががんにかかって生きている現実がある。そう言えば、私の依頼者にも、自分はがんだと言っている人が両手の数以上おられます。いくつものがんと共存している人も少なくありません。
 この本には信用できる抗がんサプリメントがあるかということも紹介されています。アガリクスもメシマコブもヤマブシタケも、みんな星一つでしかない。茶カテキン、イチョウ葉エキス、ポリフェノール、プロポリス、サメ軟骨エキスも、みんな星一つ。
 高麗人参は星一・五で、少し評価が高い。私は、実は、この高麗人参をかなり前から愛用しています。星一・五は、ほかに、リコピン、ビタミンC、E、コエンザイムQ10。
 星二つは、なんと、豆腐・みそ・納豆などの大豆製品。三つ星の抗がんサプリはない。
 抗がんサプリを盲信しないようにしよう。抗がんサプリは使い方を間違えると、かえって体を悪くすることがある。
 がんを予防できると明確に証明された食べ物はまだない。しかし、野菜や果物をたくさん食べることがよいことは、研究者の誰もが認めている。これを食べていればがんにならないという食べ物や栄養素は今のところない。
 お茶を丸ごとたべることを勧めていた広告塔のKさんは44歳のとき、がんで死んだ。アガリクスの広告塔だったMさんは69歳で、大豆を食べれば万病解決と説いていたOさんは65歳で、いずれもがんで死んだ。これを食べれば万全と信じている人に反面教師になる。そうだったんですか。広告塔だった人が死んだことは、やっぱり知らされないものなんですね。あたりまえのことでしょうが・・・。
 日中はがんばって仕事をし、夜は疲れてグッスリ休む。これが、交感神経と副交感神経のバランスがとれているときのリズムだ。無理が続いたり、心配ごとをかかえて苦悩する緊張状態が長く続くと自律神経のバランスが崩れる。心筋梗塞や脳卒中は、がんばりすぎて交感神経の緊張が重なったときに起きる。
 なるようにしかならないよ。ケセラセラ、なんていいながら、がんばらないほうが、結果的にがんと闘える。悪循環を断ち切って、がんばらない勇気をもったほうがよい。
 がんばらないというのは、副交感神経を刺激すること。あきらめないというのは、副交感神経を大事にしながらも、交感神経を少し刺激して、無理しない程度にがんばるということ。このがんばらない、とあきらめないのバランスは、自律神経のバランスとも一致している。
 著者は爪もみ療法を紹介しています。ちょっと痛い程度に爪の横を押す。すると、身体はびっくりして、血流を増やして刺激を洗い流そうと、副交感反射を起こす。体を温かい状態にするのは、とても身体に良い。体を冷やしてはいけない。冷房は発がんの原因になっている。私は、昔から冷房が苦手です。ですから、真夏でも背広姿がいいのです。

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2006年8月24日

華族事件録

著者:千田 稔、出版社:新人物往来社
 実は、この本は何年か前に買って(2002年7月発行)、どうせキワモノだろうとそのまま棚ざらしにしていたのです。でも、華族について別の本(「華族」、中公新書)を読んだこともあって読みはじめたところ、案外に真面目な本で面白く読めました。偉人の子孫たちが親の威光の重さに耐えかねて自沈していったケースのなんと多いことか、驚くほどです。
 最後の将軍徳川慶喜の子孫は事件や問題を起こす者が少なくなかった。四男厚は自動車でひき逃げ事件をおこし、弟は自殺し、厚の次男の妻は不貞事件で世間を騒がした。これは慶喜の子が多かったことにもよる。正妻との4人の子は死んでしまったが、2人の側室には、それぞれ6人の子どもをもうけた。
 西郷隆盛の子寅太郎は侯爵となった。その妻が大散財をして、家屋敷は成金へ9万円で売却された。昭和43年の佐藤内閣で法務大臣となった西郷吉之助は寅太郎の三男である。
 岩倉具視のあとは公爵家となって、公家華族の筆頭だった。しかし、家計のほうは火の車だった。具視の孫の具張(ともはる)は300万円という巨額の借金をかかえてしまい、行方不明になった。
 東郷平八郎の孫娘が家出をして、浅草雷門の喫茶店で女給として働くようになった。新聞に知られて大騒ぎになり、客から問いつめられて本人が実家に戻った。
 北里柴三郎の長男俊太郎は赤坂芸者と心中を図った。
 勝海舟は明治20年に伯爵になり、明治32年に徳川慶喜の10男精(くわし)を長男の長女の婿として養嗣子として、家督を相続させた。ところが、この精が昭和7年に自殺してしまった。その生前、華族くらい馬鹿らしいものはないと友人に言っていた。
 華族の子弟に赤化した者が少なくないのを知って驚きました。こんなにもいたのですね。
 大河内子爵の嗣子正敏の長男信威は18歳ころから左翼芸術に関心をもち、昭和3年に、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の書記となる。昭和5年、父の正敏は貴族院議院を辞任した。この信威については、真面目な華族だから、社会問題に関心をもった、と書かれています。
 八条隆正子爵の次男隆孟(たかなが)は、東京帝大を卒業して日本興業銀行に入った。ところが、隆孟は、帝大時代から読書会、反帝同盟、新聞班などで左翼活動を始めていた。昭和6年10月、帝大前にいた学習院の在学生、卒業生を組織して弾圧下の日本共産党の資金源をつくる責任者となり、銀座の喫茶店で資金を共産党に渡していた。隆孟がとりこんだ学習院在学の華族とは、子爵松本貞宗の長男従五位直次、男爵山田貞春、男爵久本道秋の次男道春らである。女子学習院では、公爵岩倉具栄の妹靖子が含まれ、爵位をもたない者をふくめると男女30人あまりになる。たいしたものです。
 子爵森俊成の一子森俊守は明治42年生まれ。これは私の亡父と同じ生年です。東京帝大を卒業した。「資本論」読書会に入り、月3円を提供する共産党シンパとなり、赤旗などの共産党印刷物を配布していた。特別資金局の学習院班を結成し、ザーリヤの第二分隊長になる。昭和7年7月には、学習院班を片瀬、鎌倉、軽井沢、東京の四班に分けた。四班に分けることのできるほどの人数を獲得していたわけなんですね。
 公爵岩倉具春(ともはる)の三女靖子は学習院から日本女子大の英文科にすすんだ。純粋なクリスチャンだったのが、マルクス主義に傾斜し、ついに地下に潜った。靖子は共産党シンパとなり、資金を集め始める。上村従義男爵の嗣子邦之丞らと突撃隊を組織し、女子学習院の責任者となる。警察に検挙されたあと、転向したが、保釈されて実家に戻って自殺した。
 伯爵土方久敬(ひじかたひさよし)は左翼演劇活動にうちこみ、ペンネーム与志(よし)として、小山内薫らと築地小劇場をつくり、日本社会の現実を批判的にとりあげるプロレタリア演劇運動にすすむ。日本を抜け出し、パリ経由でモスクワに到着し、ソヴィエト作家同盟の大会で演説した。昭和8年には、共産党に6千円もの大金をカンパしている。これに対して宮内省は爵位返上の処分をした。戦後釈放されるまで与志は転向せず、戦後も劇場の演出家として活躍した。
 いやあ、すごいものです。華族の子弟にまで日本社会の悲惨な現実が見えていたことを意味すると思います。今の日本ではどうなんでしょうか。財界の大物や社長族の子弟に社会の現実は見えているのでしょうか。社会奉仕のボランティア活動をふくめて、社会改革の運動に身を置いている若者はどれだけいるのでしょうか。私は大学生のとき、セツルメント活動に4年近くいそしみました。地域の現実を見て、足を地に着けた活動の大切さを学ぶことができました。弁護士活動の原点として、今も忘れていません。

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2006年8月23日

異端の大義(上)

著者:楡 周平,出版社:毎日新聞社
 組合の執行部に選出される社員は,選挙で選ばれることになっているが,候補者については前任者から事前に人事部の了解を取り付けることになっている。何しろ組合執行部には,表にできない会社の秘密といえる情報を見せることになるからね。とくに,委員長・書記長・賃金部長といった団交前の事前交渉の席に着く三役は,将来の幹部候補生と目される人間があたることになっている。
 組合執行部の役職にある者には,それぞれに自由裁量でつかえる予算枠が認められている。書記長は2000万円,賃金部長は500万円。教宣部長でも400万円。
 組合との団交は出来レースということ。団交なんて、儀式。ベースアップやボーナスの額は三役と人事との間の非公式の事前交渉で、おおよその落としどころが決まる。あとは、連中の面子を立ててやるような形を整えてやればいい。なにしろ,事務・技術職からは月5000円,一般職からは月3000円の組合費を徴収している。シビアな交渉の末に,少しでも要求に近い条件を勝ちとったということにせんと,格好がつかんからね。
 日本の企業内組合のほとんどがこのような実情にあるようです。これが,結局のところ,会社執行部の独走を許し,無法地帯を会社につくってしまったように思います。少数・異端者に対して排除の論理でのぞんでいると、結局のところ、日産のように最後には企業そのものの存立が危うくなってしまうのだと私は思います。最近発覚したトヨタの欠陥車隠しも同じことだと思います。
 日本の労働組合に存在感がなくなってもう20年以上になります。30年前の国鉄のスト権以来,日本ではストライキが死語になってしまいました。私にはそれでよいとはとても思えません。非正規労働者の増大は企業にとっても本当に喜んでいていいのですか。職場の団結力と活力を阻害しているのではありませんか。
 余人をもって代えがたい仕事なんて,どこの会社にもあらへんよ。誰かがいなくなれば,その後を継ぐ者が出てくるもんや。私も,そのとおりだと思います。ポストにすわると,たいていの人はポストにふさわしい活動をするものなのです。私も実例をたくさん見ています。
 有力取引先からの縁故入社は,いわば人質。業務のうえで戦力にならなくても,別の点で会社の業績に貢献することは事実。この典型があの有名な電通だということは前に紹介しました。
 田舎では高校時代に成績のいい者の多くは,一番近くにある国立大学の教育学部を選ぶ。東京の名だたる一流校に入る実力があるのに。そして,大学を卒業すると,大企業への就職など念頭になく,故郷に戻って教員か役場の職員を目ざす。なぜなら、企業に入って夢をかなえられるのは,ほんの一握りでしかない。少ない可能性に賭けるより,確実かつ安定した道を選ぶ。
 組織に身を置く者の一人として会社側に立つのか,あるいは苦楽を共にしてきた仲間の側に立つのか自分の立場を明確にして事にあたらないと,苦しい思いをするだけでなく,双方に無用の混乱をもたらす。
 会社のなかには,常に理不尽ともいえる決断を迫られ,それを実行することを命じられている人間がいるものだ。それを乗り切れなければ,次に切られるのはあなただ。
 会社の方針にしたがって東北の工場を閉鎖する任務を命じられたエリート社員の苦悩が伝わってくる本です。

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2006年8月22日

父の国、ドイツ・プロイセン

著者:ヴィプケ・ブルーンス、慧文社
 ヒトラー暗殺計画に連座して処刑されたドイツ国防将校の娘によって、父親の日記がよみがえります。
 子どもというのは、あえて言うなら、親には、いわば供給源としてしか興味をいだかない。関係は自己中心的。どれだけ自分を守ってくれるか、世話をやいてくれるか、支えてくれるか。両親がどういう人間で、どんなことを感じ、幸せであるかどうかということは子どもの前を素通りする。
 本当にそうなんですよね。私は大学生のときまで、自分が大きくなったのは自分ひとりの力だとまるで錯覚していました。思えば恥ずかしいことなのですが、本当のことなので仕方ありません。親をバカにしきっていたものです。さすがに弁護士になって私も少し考えを改め、さらに親の一生をそれぞれ本にまとめてみて、親にも素晴らしい劇的な人生があったんだと気づかされたのです。父親のときには死んでから、母親のときにはボケはじめてからのことです。一冊の本にまとめる過程で、やっと親と対話することができました。
 プロイセン・ドイツでは、女性の左側を歩くのは、その女性に敬意を表し、慣例に従って礼儀正しく、距離を保っていることを示す。右側を歩くのは夫。右側は所有のあかしであった。
 1934年。ヒトラーがSAのムーム以下を射殺した事件が起きました。母親の日記には、こう書いてあります。
 ヒトラーがSAと党の内部で血を流しての大掃除をやった。きっとしようがなかったのでしょうけど、こんなふうにやるのは、これが最後であってほしい・・・。
 もちろん、これが最後ではありませんでした。夫も、ヒトラーによって処刑されてしまうのです。
 1934年8月。ヒンデンブルクが86歳で亡くなったあと、ヒトラーはドイツ国の大統領と首相を兼務した。ドイツ軍人は全土で新たな宣誓をさせられた。もはや憲法とか祖国ではなく、ドイツ国と民族の総統アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に無条件に服従し、勇敢なる軍人として、いかなるときにも命を賭ける用意がある、と。
 この年、ドイツでは国民投票が行われました。ヒトラー賛成票が3800万票。反対票は430万票。無効票90万票。このように1割の反対が出た。しかし、ドイツ国民の大多数はヒトラー当選を祝ってお祭り騒ぎした。
 1936〜37年のドイツ経済はうまくいっていると思われました。なにしろ失業者が600万人から50万人に減ったのです。ドイツの輸出は活気を呈していました。
 父親のH・G・クラムロート少佐は身内のベルンハルト中佐(32歳)がヒトラー暗殺のための爆弾を調達しているのを知って黙っていました。ドイツ国防軍の司令官以下、参謀本部員は、党(ナチス)とSSの暴徒とは一切かかわりあいをもとうとしなかった。ナチ党でないもので固めるという人事がおこなわれていた。だから将校仲間では、転覆計画がおおっぴらに語られていた。
 1944年8月15日、2人は絞首刑を宣告された。ベルンハルトは爆薬調達のかどで、クラムロートはベルンハルトたちを密告しなかったことで有罪とされた。
 ヒトラーは既に判決を下していました。
 まともな弾丸など使うまでもない。その辺の裏切り者と同じ絞首刑だ。執行は判決言い渡し後2時間以内。即刻吊せ。あわれみなどいらん。家畜のように吊せ。
 両親の日記が残っていて、それを娘の目で再現していくというのは、スリリングな作業だということがよく分かる本です。
 最近、ドイツのノーベル文学賞までもらった高名な作家が17歳のときナチスに入党していたことを自伝で初めて告白して話題となっています。ドイツでは今もナチスの負の遺産の清算を真正面から議論していることが分かります。それにひきかえ,日本では東条英機の孫娘が戦犯として処刑された父親を神とあがめたてまつり,父親は悪くなかったと堂々と開き直り、それをマスコミはそのまま黙認して批判すらしませんでした。日本では,今もって負の遺産を清算しようとしていないことを意味しています。日本が侵略戦争を起こした事実をきちんと認め,その反省から戦後日本の平和が守られてきたことを私たちは思い起こすべきだと思います。

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2006年8月21日

最勝王

著者:服部真澄,出版社:中央公論新社
 空海がまだ佐伯真魚(さえきのまいお)と呼ばれる少年のころから話ははじまります。真魚は四国・讃岐の国造(くにのみやつこ)の家柄に生まれました。
 小説家の想像力の豊かさに驚きます。どれだけ資料の手がかりがあるのか知りませんが,ディテイルをふくめた描写に圧倒される思いで読みすすめていきました。
 末尾の主要参考文献に密教や大蔵教,大日教,金光明教などの教典の注釈本があげられています。それらを読んで,この本に取り入れてあるのですから,すごいものです。ついつい感心しました。また,開法寺(どこにあるお寺なのか知りませんが)の秘蔵の板彫阿弥陀曼荼羅を開帳してもらったそうで,曼荼羅についてもその意味が解説されています。
 大陸へ通じる海路をゆく船を,つくのぶねと呼ぶ。遣唐使の舶が四隻を連ねて走ることが慣習になると,四の船(よつのふね)とも呼ばれるようになった。
 当時の唐に盛んだったのは天台宗と秘密宗の二派だった。秘密宗とは,どうも密教のことのようです。秘密宗が重んじている経典は,「大昆盧遮那成仏神変加持教」(だいびるしゃなじょうぶつべんかじきょう)。
 このなかに60心の迷いを乗りこえなければ,仏法の修行者として世間を超越したことにならないとされているそうです。いくつか紹介します。
 貧心(とくしん)。ものごとに染まり,むさぼる心。
 無貧心(むとくしん)。染まるべきものにも染まらず,善きものすらも求めようとしない心。
 智心(ちしん),知ったかぶり,思い上がる心。
 決定心(けつじょうしん)。師の仰せであれば,お説のとおりと,何でも従ってしまう心。
 疑心(ぎしん)。何を聞いても疑うだけの心。
 暗心(あんしん)。疑うべくもないことまで疑う心。
 明心(みょうしん)。疑うべきことすら信じてしまう心。
 人心(にんしん)。人との縁を損得ばかりで計る心。
 女心(にょしん)。何ごとも欲の欲するままに行う心。
 自在心(じざいしん)。一切を我が意のままにしようと思う心。
 商人心(しょうにんしん)。必要のないものまでも一網打尽に集めるだけ集め,取り捨ては後回しにし,とにかく利を得ようとする心。
 農夫心(のうふしん)。まず広く尋ね回ってから,求法するに等しく,無駄にあちこちを耕してしまう心。
 狗心(くしん)。しきりに尾を振る犬のように,もの足りぬ結果でも大満足しきって狎れる心。
 狸心(りしん)。狸のようにあたりを窺い,怯えて,そろそろとしか進まぬ心。
 迦楼羅心(かるらしん)。党を組み,翼を得ることなしには事に臨まぬ弱き心。
 いやあ,いくつも該当するんじゃないかというものがあります。これをすべて乗りこえるなんて,とても不可能のように思います。みなさんは,いかがですか・・・。
 60心は,喩え(たとえ)である。これら心の相は,およそ人であれば誰しもが内奥に持つものであり,60は仮に挙げられた数に過ぎず,煩悩妄心は複雑怪奇,無量無数である。仏法の奥の深さを垣間見る思いのする本でした。

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2006年8月18日

人物を読む日本中世史

著者:本郷和人、出版社:講談社
 高校の必修科目から日本史が外れされているのを知って、腰が抜けるほど驚きました。世界史の方は必修科目です。日本史、とくに明治以降の現代日本史を日本はもっと重視すべきではないでしょうか。
 鎌倉時代、現金収入の欠乏に苦しんだ朝廷は、実のない官職を売りに出した。これを成功(じょうごう)という。大納言とか蔵人頭(くろうどのとう)という、朝廷の施政に必要不可欠な官は対象にならなかった。買ったのは御家人たちで、幕府の許可を得て、競って官職を購入していた。たとえば、左衛門少尉(さえもんのじょう)という官職を得るのに100貫文の銭を上納した。これは今のお金で1000万円にあたる。
 平安時代の仏教は、庶民がどうなろうと関心がなかったのではないか。大乗仏教は自分の解脱(げだつ)を目ざし、人々の解脱を目ざす。このときの「人々」とは、ごく限られた一握りの人々、貴族ほかに限定されていたと解釈すべきである。根本的な問題として、日本では経典はついに日本語に翻訳されなかった。漢文の読めない愚昧な衆生などは、僧侶の眼中にはなかったのだろう。
 新儀非法(しんぎひほう)という中世のはやり言葉があります。それは新儀である。非法である。すなわち、新しいことは、すなわち悪であり、認められない。古いことは良いこと。世の中は新しくなればなるほど悪くなる。
 北条重時は子どもたちに残した家訓に次のように書いている。時としてどんなに腹が立つことがあっても、人を殺してはいけない。こんなあたりまえのことを、わざわざ言わなければならないほど、当時の武士は人を殺していた。たとえば、我が家の前を通るやつはとっつかまえて、弓の標的にしろ。庭の隅に生首を絶やすな。斬って斬って斬りまくり、新鮮なのを補充しておけ。えーっ、中世の武士って、こんなに残忍だったのですか・・・。想像を絶しますね。
 いろいろ日本史の裏を知ることのできる面白い本でした。

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赤ちゃんの値段

著者:高倉正樹、出版社:講談社
 厚労省の統計によると、2000年度から2003年度までの4年間で106人の養子が日本から海外の養親に斡旋されている。しかし、これは、指定8業者の報告をまとめた数字。106人の養子が海外に渡ったあと、どうなったのかの確認はされていない。
 斡旋業者のなかには1人550万円の寄付を強要するところもある。
 日本人養子は、健康で、薬物汚染されていないため、海外で人気がある。養子輸出国は、かつては韓国。今は、一人っ子政策の陰で女児の捨て子が横行する中国である。
 1955年の日本の中絶件数は117万件。未成年は1万4000件で全体の1%。2003年は31万件で、4分の1に減ったが、未成年は4万件、13%と増えた。しかし、統計上の数字の3倍ほど実数はあるとみられている。
 日本人の赤ちゃんを養子にするには、総額で200〜300万円の費用がかかる。
 日本の家庭裁判所を通さない海外養子縁組が非常に多い。日本人の赤ちゃんは、アメリカの移民法にもとづき、養子縁組を前提とした孤児としてビザを取得し、移民として入国する。アメリカ人の養親は、本国に戻ったあと、地元の家庭裁判所に必要書類を出し、養子縁組の手続を完了させる。アメリカ国務省の移民ビザの統計によると、1996〜2003年度の8年間で、334人の日本人が養子として入国している。
 アメリカ国務省の統計によると、アメリカが海外から受け入れた養子の総数は2004年度は2万2884人。ここ15年間で3倍となった。トップは中国からで7,044人。ロシア5,865人。グアテマラ(3246人)、韓国1716人。
 韓国は、かつては孤児輸出国を自称する海外養子の一大供給国だった。韓国保険福祉部の統計によると、1986年度に8680人。1980年代は、6000〜8000人の養子を海外に出していた。うち6割以上がアメリカ向けだったが、フランス、スウェーデン、デンマークも多かった。しかし、政府が抑制策をとり、1990年以降は2000人前後で推移している。
 インターネットの競売サイトに赤ちゃんが競売にかけられたことがある。1200万人の値がついた。
 養子は、養親が自分をありのまま受けいれるかどうかを確かめるため、わざと嫌がることをする時期がある。これを試しの時期という。通常は半年ほどで落ち着きを取り戻す。そこではじめて親子としての信頼関係が確立する。
 養子たちはルーツ探しを始める。フランスでは200年以上前から、母の名前を開かさないままの出生届を出して出産する権利が認められている。世間体を気にして中絶するのを防ぐためだ。

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明治天皇の一日

著者:米窪明美、出版社:新潮新書

 天皇の一日を朝から晩まで刻明に紹介した本です。万能の独裁者というものが、実はいかに窮屈なカゴの鳥のような生活をしているか、よく分かり、大変面白い本です。これでは自由気ままに動きまわっている庶民に独裁者があこがれるのも無理ないと思えてきます。
 明治天皇の起床時間は午前8時。おひーる、という甲高い一声で関係者の活動が始まる。朝8時の起床をゆっくりしていていいな、と思う人もいるでしょうが、それは若い人のセリフです。年をとると早起きになるものです。私は毎朝7時に起床していますが、実は、朝6時前に目が覚めることがしばしばです。30代のころには絶対になかった現象です。ところが、天皇は目が覚めても勝手に床を離れることはできません。なぜなら、朝6時に天皇が「おひーる」になってしまったら、宮殿につとめる関係者全員の出金が朝6時を前提とした体系に変わるから。天皇の時間に対する几帳面さは、性格によるものではなく、周囲に対する配慮から。身分社会は上に位置するものが一方的に恩恵をこうむる社会ではない。
 天皇の寝室は朝陽の届くところにはない。奥まった一室にあり、窓もついてない。だから起きても、今朝は晴れているのか、曇っているのか、雨が降っているのかだって見当もつかない。なんだか可哀想ですね。
 天皇が目を覚ますと、侍医が健康チェックする。脈を計り、舌を見る。それはいいけど、検便が毎回されるというのが驚き(どうも、これは今も続いているようです・・・)。
 朝食は一人でとる。「おなかいれ」という。食事は、すべて当番侍医が「おしつけ」、つまり毒味をすませたもの。熱々の料理に舌鼓を打つというわけにはいかない。
 天皇は食事中以外、椅子にすわらず、一日中ずっと立ちっぱなし。
 明治天皇は下働きの者が自分の前に顔を出せないような旧来の制度を改めなかった。その一方、臣下に迷惑をかけたままで平気な人物でもなかった。そこで、天皇は自分が下働きの者の側へ行かない引きこもりの道を選択する。
 明治天皇が空箱を再利用したり、軍服に何度もツギをあてて古びたまま着ていたというのも驚きです。ところが、ダイヤモンドも大好きだったのです。うーん、人間って、やっぱり複雑な存在なんですね。
 天皇は、お風呂にも自由にははいれません。天皇の体を洗うのは女官です。いいなあと、ついうらやましくなります。でも、上半身と、下半身とを担当する女官が違うのです。ケガレの問題があるというのです。なんだか、信じられません。
 便器は、黒の塗箱で、モミガラを底に敷いて、その上に美濃紙を重ねて置く。これを検便する。検便が終わったら、皇居の堀に捨てる。なんということを・・・。
 明治天皇は刺身が嫌いで、鶏肉を軽くあぶって、熱燗のお酒をそそいだ鶏酒を飲んでいた。ヒレ酒のヒレを鶏にかえたもの。
 夜は皇后と寝るのではない。アンマとハリを好んでいた。それが終わると、女官(権典侍)は、日ごとに交代していた。一人の女性が天皇を独占することはできないというシステムだった。うーん、ここまで来ると、好き放題にやっていたというより、なんだか哀れな独裁者という気すらしてきます。

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2006年8月17日

心って、こんなに動くんだ

著者:西條昭男、出版社:新日本出版社
 この出版社は子ども心をしっかり呼びさましてくれるいい本を出しています。「歌いたくなる写真集」も素敵でしたが、子どもの詩や作文もいいものですね。読んでると、ほのぼのとした気分になってきます。ありがとうと、お礼を言いたくなる本です。
 友だちができてうれしいな ぼくのこころは遊園地
 これは、暗くとがった目をしていた茶髪の小学校5年生の書いた文章です。友だちのできなかった翔太君でしたが、2学期になって遊び仲間ができたあとに書いたのです。友だちができてどんなに喜んでいるか、よく分かる言葉ですよね。著者は、担任としてそうか、よかったな、うれしいなと翔太君の肩を思わずたたいて喜んだそうです。そんな教師に受けもってもらって翔太君は本当に良かったですね。
 跳び箱の発表です。クラス全員が見守るなかで、一番高いレベルのグループから順にパフォーマンスをします。レベルの低いグループから始めると、なんで、あんな低いのが跳べないんだ、という目が先に働いてしまうからです。
 一番高いレベルのグループには茶髪の子や目立ちたがり屋やエネルギーがあふれて集団からはみ出しそうな子もいる。そして、危険をともなう高さに挑戦してクリアする快感。みんなの前で披露するかっこよさ。花形です。十分にエネルギーをつかい、自己表現ができ、みんなから大きな拍手をもらって満足した茶髪や突っ張り気味の子どもたちは、最後に三段の子どもたちの発表が始まっても、決して冷やかしたり、バカにはしないものです。それほど運動神経がいいとは言えない私は、跳び箱は苦手でした。さかあがりや懸垂もうまくありませんでした。ドッジボールにしても、うまく球をストレートに飛ばせませんでした。それでも、音楽の時間よりはまだましでしたが・・・。音楽は悲惨でした。音痴というか(そうなのですが・・・)、音感が悪く、声域が極端に狭くて、もうどうにもしようがありませんでした。
 まわりに気づかい、牽制しあいながら暮らしがちな子どもたち。すっきりしない友だち関係で悩んでいる子どもたちにとって、そのモヤモヤを書きつづり、新しいステップの糸口を見つけだしていくことは十分に意味のあることなんだが・・・。
 現実は複雑であり、生きることは単純なことではない。語るべき自分を深め、受けとめてくれる他者を自分のなかに取りこみながら人間は成長していく。なるほど、そうなんですよね。でも、なかなかそんな人にめぐりあえないものですが・・・。次に、私の心に残った詩を紹介します。
 いいなあと思っている
       5年 香代
 私は、いいなあと思っている。
 いつも、いつも、
 いいなあと思っている。
 みんなもっているのに。
みんな いいなあと思っている。
私はもっていないのに みんなもっている。
それは お父さん
べつに かなしくない。
べつに イヤじゃない。
でも、
いつも、いつも、
心の中では、
いいなあ と思っている。
 私のお客さんに都市銀行の独身寮の管理人をしている人がいます。単身赴任の人もたくさんいるそうです。毎週欠かさず自分の家に帰る人もいれば、そんなに遠くもないのに、ほとんど自宅に帰らない人もいるそうです。はじめのうちは毎週帰っていたのに、そのうち夜遊びして、彼女をつくり、家に帰らなくなる人は珍しくないとのこと。たまに帰ると高校生の娘が他人行儀に敬語をつかってきたので、びっくりしたよ・・・、なんてこぼす父親もいたそうです。家庭崩壊につながるケースが、やはり多いようです。そして、うつ状態になる人が目立ち、近くの松林は首吊り自殺の名所になっているといいます。単身赴任は、やはり非人間的なものなんですね。
 お盆休みに仏検(準一級)の結果を知らせるハガキが届きました。残念ながら不合格でした。口頭試問で2点足りませんでした。合格基準点22点のところ,20点しかとれなかったのです。まあ実力どおりといえばそのとおりなのですが・・・。また,来年も挑戦するつもりです。
 庭の食用ヒマワリを見慣れない小鳥が一心不乱に食べていました。同じような形をしているのに,なぜか見分けるのですね,不思議な気がします。

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2006年8月11日

犬と話をつけるには

著者:多和田 悟、出版社:文春新書
 あの有名な盲導犬クイールの訓練士が犬語の話し方を教えます、とかいてありますので、楽しみにして読みました。
 犬社会では上下関係の位置づけがはっきりしていて、若い犬が成長してボス格の先輩犬を追い落とす政権争いがしばしば起こる。ところが、著者の家で飼っていたボブとバーディーの関係は生涯変わらなかった。うーん、そういうこともあるんですね。
 犬は未来を考えない生き物である。犬が行動を起こすきっかけは、快と不快の感情のみ。
 犬は後悔しない生き物である。人間と違って、ノーと言われても、こうした自分が悪かったなどとは思わない。
 犬はほめられるのが大好きな生き物である。犬をほめるときには即座というより早く。賞罰は、犬が良いこと、悪いことをしたときではなく、しようと考えたときに与えるべき。そうだ、それでいいよ、こうするのはダメだよと、現在進行形のつかい方のほうが、より効果的に犬に伝わる。
 著者は飼い犬のバーディーには生まれてから一度も人間の食べ物を与えていない。だから、食事時にバーディーが人間の食べ物を欲しがることはまったくしない。テーブルの上の物を狙ったりすることもない。人間の食べ物は食べてはいけないと学ぶと同時に、一度も食べた経験がなければ、犬はそれをほしがったりしないものだ。なるほど、そうだったんですか。一貫性をもたせることが大切だと著者は強調しています。大いに反省させられました。
 犬は使命感はもてないが、達成感はもてる生き物である。盲導犬にしても、ゲームの開始にはりきるのであり、ストレスがたまっているわけではない。盲導犬の多くは、14歳まで長生きしている。一般の家庭犬より寿命が短いというのは誤解にすぎない。
 飼い犬の写真日記が紹介されています。いかにも幸福そうな、みち足りたワンちゃんの顔に心がいやされます。

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木槿の咲く庭

著者:リンダ・スー・パーク、出版社:新潮社
 日本統治下の朝鮮で生き抜いていこうとする兄と妹の物語です。1940年から45年までの5年間の彼らの生活が生き生きと描かれ、日本人として切ない思いにかられます。
 そこで理不尽な圧制者として登場するのは、なにより日本人であり、日本軍人なのです。 朝鮮の慣習では、祖父が赤ん坊に命名することになっている。これって、今も続いているのでしょうか。今の日本では、子どもの命名は、若い両親が姓名判断の本をみたり、自然な英語読みになるようにしたものが多いように思いますが、いかがでしょうか。
 兄妹は創始改名を余儀なくされます。強制ではなく、自発的な行為だと今も主張する日本の人々がいますが、民族の誇りを無視するとんでもない思いあがりの主張だと思います。
 食事のときは、食べることに集中する。これもまた、朝鮮の昔からの作法のひとつだ。うーん、食事のときって、にぎやかにおしゃべりしながらの方が美味しくいただけると思うんですが・・・。
 抗日運動にいそしむ人々が出てきます。いわゆる地下にもぐり、それを助ける人々がいます。民族の誇りを奪ったら、それに反発する人々が出てくるのは当然のことです。
 金属や宝石類は根こそぎ供出させられます。燃料の確保、そしてぜいたくは敵だとして、国家があって国民のいない国づくりに邁進していきます。
 日本軍の神風特攻隊に朝鮮人兵士も志願します。勇気がないなんて馬鹿にされないためです。なかには、日本軍を同士討ちにしてやろうと目論んだ特攻隊の兵士もいました。それでも、アメリカ軍の弾幕の前に無駄死にを重ねるばかりでした。
 第二次大戦中を生き抜いた兄と妹は、朝鮮戦争をふくむ戦後の朝鮮・韓国をどう生きのびていったのでしょうか。気になるところです。

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名将・佐竹義宣

著者:南原幹雄、出版社:角川書店
 江戸時代、秋田藩主の佐竹家は初代義宣から12代義堯まで続いた。明治維新のとき、東北でただ一藩だけ新政府側についた。つまり反徳川だったわけである。
 佐竹は秋田の前は水戸にいた。関ヶ原の戦いでは西軍に属した。徳川家康が勝ったあと、秋田転封となった。義宣33歳のときのことである。
 秀吉の小田原城攻めに佐竹義宣も参戦した。義宣はときに21歳。ところが、すぐには小田原へ駆けつけることができなかった。強敵の伊達政宗が背後にいたからだ。正宗は 24歳だった。この北条攻めのときから、義宣は石田三成にすがるようになった。上杉とともに石田一派の会盟を結んだ。佐竹義宣は次第に反徳川の旗幟を鮮明にしていく。それを危ぶんだのが父の佐竹義重。義重は家康になんとか取り入って、佐竹家の安泰をはかろうとする。父子の葛藤が続く。
 義宣は家康との戦いに備えて水戸城をさらに堅固なものにすすめていった。そして、家康は会津の上杉討伐の軍をすすめることを宣言し、佐竹義宣にも出陣を命じる。応じるべきか、蹴るべきか。義宣は佐竹百万石を安堵する覚書を家康から下され、討伐軍に加わると返事した。そして、家康は上杉討伐の途中で石田三成の挙兵を知り、一転して南下を始める。いや、家康は江戸城にぐずぐずと滞陣していた。福島、池田、浅野、細川、黒田らの豊臣系諸将たちに万全の信頼をおいていなかったし、常陸の佐竹がいつ水戸を出て江戸を急襲してくるか心配でもあったからだ。しかし、関ヶ原は徳川方の圧勝に終わった。
 戦後、上杉は旧領のほとんどを没収され、米沢30万石に大減封された。島津と佐竹の処罰は最後まで決まらなかった。慶長6年の正月、家康は大阪城で諸大名の参賀を受けたが、島津義弘と佐竹義宣はその列に加わらなかった。慶長7年3月に島津家の処分が決まり、本領が安堵された。佐竹は最後になった。
 佐竹は最後まで反徳川を貫き、しかも江戸時代を生き残った。うーん、こんな家もあったのですね・・・。

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三国志誕生

著者:尾鷲卓彦、出版社:影書房
 三国志は私が中学生から高校生にかけての愛読書でした。水滸伝とあわせて、そのスケールの大きさに圧倒され、英雄や豪傑たちの知謀と勇敢さに手に汗にぎる思いで読みふけったものです。
 この本は、魏王曹操を見直せと提唱しています。
 曹操の家系は漢の高祖劉邦の時代から400年続いた漢の名門中の名門だった。後漢末の豪雄袁紹は、それに比べるとやっと後漢のはじめころから記録の残る豪族にすぎない。
 中国王朝のトップに立ち絶対的権力を保持する皇帝は、膨大な数の官僚群を通して全中国を支配した。その政治の場である朝廷をうずめる大臣官僚たちはまた、皇帝権力の暴走を制約しようとする一種の敵対集団でもあった。その意味で、皇帝の立場は孤独そのものと言ってよかった。宦官たちもまた、朝廷や社会から見放された孤独な集団だった。そのため、皇帝と宦官とのあいだには奇妙な連帯と相互援助の関係が生じていた。そして、実は曹操の祖父の曹騰は宦官だった。宦官として30余年にわたって、順帝、沖帝、質帝、桓帝の4人の皇帝に仕えたというのですから、よほど人間ができていて、能力もあったのでしょう。宦官も養子をとって、子どもがいました。
 付録として曹操文言集がのっています。これを読むと、曹操という人物が、なかなか大人物であることが、なるほど、よく分かります。決して命しらずの豪傑というばかりではなかったのです。
 徳のうすい私だが、官位高く、重責を担っている。さいわいにも国家安定の機運にめぐまれた。天下を平定させ、異民族も帰順し、なにごとも順調に、ひさしく幸福を教授している。
 もし漢に、私という人間がいなかったら、一体どうなっていただろうか。帝を称し、王を称する者がいく人でていたことか。勢力が強大になったうえ、私が天命というものを信じないため、あいつは不遜な考えを抱いているという者もいようが、まあ、勝手にさわぐがよい。
 また三国志を久しぶりに読み返して、気宇壮大な気分に浸ってみたいと思いました。

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西武争奪

著者:日経新聞、出版社:日本経済新聞社
 西武のもつ2兆円の資産をめぐる攻防戦の実情が明らかにされています。資産家一族の果てしない争奪戦は読み手を嫌な気分にさせてしまいます。
 でも、長く弁護士をしていて、大金持ちでなくても、小金持ちでも親子、姉弟、身内が遺産をめぐって醜くいがみあうケースを多々みてきました。その醜い争奪戦の渦中に身をさらし、一方の身を置いてお金(大金です)をいただくわけですから、弁護士は骨肉の争いを他人事のようにつき離して語るわけにはいきません。
 本書にも、弁護士が何人も実名で登場します。でも、なんとなく弁護士の影は薄いですね。役に立たないと思われたら、簡単に切って捨てられる役まわりでしかありません。
 舞台は、もちろん西武グループです。その総帥の堤康次郎は西武グループの創業者であり、政治家となって衆議院議長までつとめた政財界の大物です。妻のほかに内縁関係(はっきり言うと妾でしょう。もちろん、今はそんな言い方はしません)の女性が2人いました。後継者となった堤義明はその女性の一人との子でした。
 この本は、村上ファンドと堤義明を結びつけたのは、オリックスの宮内義彦だと指摘しています。村上ファンドに200億円を投資していた宮内義彦は、今も小泉政治の指南役として、なんでも自由化を唱えています。強い者だけがますます富んでいくのが何が悪い、と開き直る、とんでもなく強欲な財界人です。
 西武グループの幹部には、絶対に欠席が許されない三大行事があった。元旦の墓参、創業者の命日、そして堤義明の誕生日(5月29日)である。全員が顔をそろえて義明への忠誠を誓う。
 この本の最後に西武は誰のものか、という章があります。西武グループという巨大企業が堤義明という一個人によって私物化されていたというのは恐ろしいことではないでしょうか。会社がオーナーのワンマン社長の言いなりになるというのは、アメリカでは珍しくないようですが、日本もどんどんアメリカナイズされ、悪くなっていくばかりです。会社というのは、顧客すなわち国民あっての会社なのではありませんか・・・。

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2006年8月10日

真説ラスプーチン(上)

著者:エドワード・ラジンスキー、出版社:NHK出版
ロシアの怪僧ラスプーチンと言えば、世界史でも習う有名な人物です。ロシア革命のうみの親とでもいうべき妖怪です。1869年にシベリアの農夫の子としてうまれた一介の農民(ムジーク)が、ロシア皇帝一家を思うままに操るようになっていった過程と、その理由を探った本です。ロシア皇帝が強大な権限をもちつつ、庶民の生活にあこがれていたという逆説的な状況も知ることができました。なーるほど、そういうことでもあったのか、全能の皇帝は孤独にさいなまれていたのか・・・、と思いました。
 ラスプーチンの死をロシアの民衆がどう受けとめたのか、その紹介が衝撃的です。
 1916年12月19日。ロマノフ王朝最後の12月。ペトログラードの小ネヴァ川に一つの死体が上がった。その両手は縛られたまま、上に持ち上げられていた。さんざん叩きのめされ、銃弾をうちこまれながら、氷のように冷たい水中でなおも生き続け、自分を縛った縄から身を振りほどこうとしていたことが分かる。その後、何日ものあいだ、川には大勢の人たちが水筒や水差しや桶をもって押し寄せてきた。この恐ろしい死体が浮かんだばかりの川の水を汲んでいく。人々は、この水によってロシア全土に知れわたった死体の信じがたいほどの魔力を汲みとろうとしたのだ。いやあ、すごいですね。死体の魔力を信じる人が大勢いたというのです・・・。
 ラスプーチンは皇后から長老と呼ばれていた。長老とは、とても年を取っていて、多くの経験を積み、高齢のおかげで、およそ地上のすべてを捨て去った人間をさす。ところが、実は、ラスプーチンは皇帝よりも若かった。だから、ラスプーチンは自分の年齢を何歳も多く偽っていた。
 若いラスプーチンは鞭身派の信者となった。鞭身派は、魂への聖霊の降臨に備え、極端な禁欲を説く。柳の枝や組みひもで自らを鞭うつ鞭身という儀がある。ところが、肉欲の抑制は、なんと際限のない淫蕩を通じて行われるという。熱狂的な儀式の際に、信者間の手当たりしだいの性交があるのだ。新興宗教にはよくある話ですよね、これって・・・。
 なぜラスプーチンがロシア皇帝夫妻に喰いこめたか、その謎が明かされています。皇帝は庶民とのつきあいを求めて一生懸命になっていたのです。それだけ全能の皇帝は不安が強く、足を地につけたがっていたということです。
 皇帝も皇后も、自分の宮殿にいながら、自由を奪われた奴隷でしかなかった。
 いまの日本の皇太子夫婦も、実は同じようなものではありませんか。週刊誌の毒々しい見出しを見るにつけ、可哀想だなと私は思います。もちろん、私はそんな週刊誌を買って読もうとは思いません。時間のムダでしかありませんから・・・。
 レーニンは鞭身派について、革命家は鞭身派に戦略的に接近すべきだとしているそうです。鞭身派が政府に由来するすべてのことを情熱的なまでに忌み嫌うからだ。
 ラスプーチンは断固として反戦の立場をとった。ストルイピンも皇后もラスプーチンも、みな戦争に反対した。ストルイピンを倒したのは国会でもなければ、右翼でも左翼でもなかった。しかし、ラスプーチンを攻撃したせいで息の根を止められた。
 当時のロシアの政治状況がもうひとつ分からないのが少しもどかしいところですが、怪僧の実像をかなり知ることができました。
 庭のフェンスにノウゼンカズラの橙色の花が咲いています。炎暑の夏が続いていますが,さすがに夜は涼しいものです。いまはちょうど満月です。寝る前にベランダに出て望遠鏡で月面をじっくり観察するのが,私の真夏の夜の楽しみです。はるか彼方の月世界を眺めると,地上の雑念をしばし忘れることができます。
 14日から16日まではお盆休みをとります。

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2006年8月 9日

大国ロシアになぜ勝ったのか

著者:偕行社日露戦史刊行会、出版社:芙蓉書房出版
 日露戦争当時、ロシア軍は機関銃をもっていたが、日本軍はもっていなくて、ロシア軍の機関銃に、ロシア軍の機関銃に悩まされたという説があるが、それは間違いだ。日露戦争は、双方が歩兵用火器として機関銃を本格的に使用した世界初の戦いとなった。
 日本は明治23年に水冷式のマキシム機関銃を購入し、明治32年からは空冷式のホチキス機関銃に切り替えて量産した。ただし、たびたび故障し、攻撃での用法が確立されていなかった。
 日露戦争の開戦前に中国の地理について、日本軍はよく分かっていなかった。そして、ロシア製の地図は日本軍の地図に比べて非常に正確なものであった。それで、日本軍がロシア製の地図を初戦ころの戦闘で入手しえたのが大きな助けとなった。
 ロシア軍はシベリア鉄道を利用してハルピンまでのべ129万5000人の兵員を輸送した。馬匹は23万頭、物資は950万トン。これは日本軍の予測をはるかに上まわった。
 日本軍(陸軍)が、対ロシア戦に備えて兵站の研究を始めたのは、開戦半年前の明治36年(1903年)夏のことだった。
 日露戦争に参加した将兵95万人のうち27%の25万人が輜重(しちょう)輸卒だった。補給品の糧秣の85%は追送、15%が現地調達。馬は将兵の5分の2だったが、消費は全将兵の倍を要し、馬草の輸送には多大の容積を必要とした。
 日清戦争のときの将兵は草鞋(わらじ)をはいていたが、日露戦争では、短靴と脚絆(きゃはん)だった。
 韓国には、当時の日本が感じていたほどのロシアに対する危機感はなく、それを日本と共有することもなかった。
 日本軍は8万人のロシア人捕虜を得、ロシア軍は200人の日本人捕虜を得た。ロシア人捕虜については、糧食費を日本兵士の倍額近く出し、しかも調理を自由にさせたので、捕虜たちは満足していた。日本に帰ってきた捕虜を冷遇したのは軍ではなく、郷里の人々だった。勝利に酔い、忠勇美談が喧伝されるなかにあって、帰還捕虜は白眼視された。
 日露戦争にのぞんだ日本陸軍の将帥には、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争を戦い抜いてきた経験があり、胆力を備えていた者が多かった。このうえ、士官学校、陸大卒業者が各級の指揮官、司令部参謀を固め、中堅将校以上にも日清戦争を経験した者が多くいた。
 ロシア陸軍の将兵は主として世襲貴族から補充され(全体で5割)、多くの参謀将校、将官、士官は軍事教育を十分受けておらず、指揮経験すらなかった。
 旅順要塞の攻略をめぐっては、死傷者5万9400人という犠牲の大きさが大きな問題になっている。情報収集と攻撃準備がきわめて不十分であったことによる。
 日本軍は、ロシア軍の徹底した防諜体制によって、旅順要塞の実態をほとんど知らなかった。情報だけでなく、要塞攻撃法の研究も不十分で、要塞攻撃用の火砲と弾薬も準備不足であり、攻城材料である対壕器具や坑道用具の調達計画もまったく無視されていた。
 旅順の戦いは、203高地を占領したあとも1ヶ月ほど続いている。
 この本は、第一次世界大戦の要塞攻略戦として名高いベルダンの戦闘において、ドーモン堡塁の争奪戦だけで、ドイツ軍の損耗は28万人、フランス軍にいたっては44万人にのぼっていることを忘れてはならないと指摘しています。戦争に明け暮れていた西欧列強の人々にとって要塞攻略の困難さを熟知していたからこそ、6万人者死傷者を出しながらも旅順要塞を攻略した乃木将軍が有名になったとしています。うーむ、なるほど、そうなんですか・・・。
 この戦いによって、乃木という人は悪魔の権化か、戦いの魔神のように思われ、乃木軍の兵は血の鬼か火の鬼で、ただ死を求めて、敵と組み討ちしなければ止まらないものとまで恐れられていた。
 この本は、最後に、司馬遼太郎が「坂の上の雲」のあとがきで、「日露戦史」を痛烈に批判していることに反論するコメントを書いています。「氏の小説家としての主観的判断によるもので公正ではない」という穏やかな言い方ですが、きっぱり批判していることは見逃せません。

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2006年8月 8日

変化する社会の不平等

著者:白波瀬佐和子、出版社:東京大学出版会
 先日受けたフランス語の口頭試問のテーマは、勝ち組と負け組という最近の現象についてどう考えるか、ということでした。これを3分間でスピーチするのです。日本語でも何と言っていいかよく分かりませんが、フランス語だったら、ましてや手に負えない難問です。
 人々は物事を否定しようとしない巧妙さをどこかでもっている。既存の体制を根底から破壊し、新たな体制へと転換させよう、などという気構えはあまりない。恵まれない環境で育ち、どうがんばっても不当な評価しかうけない。そんな時でも、かれらは怒りをストレートに発しようとしない。不透明な世の中で、彼らはあきらめと妥協が奇妙にブレンドされて、現状を受け入れる。しかし、現実を受け入れることは、現実を直視することと必ずしも一致しない。物事を直視することを逃れ、複雑な物事を解明しようとすることから目を背けようとする。その回避が、簡単に諦めて現実を肯定しようとすることになる。
 なかなか鋭い指摘だと思います。なるほど、ですよね。
 格差が問題になるのは、格差が単なる差、違いではなく、その違いによって発生する社会的、経済的な優位性・劣位性が介在するからである。これは所得の高低にとどまらず、威信や名誉を含む社会的地位を決定し、人々の実質的な生活水準を決定する。
 所得格差の程度をあらわす代表的な指標がジニ係数である。ジニ係数が小さいほど所得分布は平等であり、1に近ければ不平等であることを示す。
 男性の生涯未婚率は1995年の8.99から2000年の12.57へと大きく上昇した。女性も生涯未婚率は恒常的に上昇しているが、男性ほど大きな変化ではない。
 2001年時点で、50代の男性一人暮らしの過半数は未婚者である。かつて離別者の占める割合が4割以上だったが、2001年には離別者は3分の1に減り、未婚者が過半数となった。同じく50代単身女性の離別者割合は1986年の23.4%から、2001年の46.7%へ、2倍にも増えた。現在、静かに、しかし確実に増えつつあるのは、仕事をしていない独身の中年層なのである。
 1990年代以降、若年無業だけでなく、中年齢層の独身無業者がふえつつある。
 2002年で89万人にのぼる。そのうち49万人は、働くことを希望していながら職探しをしていない「非求職型」、もしくは働く希望を表明していない「非希望型」である。
 また、中年無業者の4人に1人は過去に一切の就業経験をもっていない。それは病気やケガをかかえているから。したがって、健康や医療面での対応も考えなければいけない。
 団塊の世代の一人として、なかなか考えさせられるデータです。正直いって、どう考えたらよいのか見当がつきません。でも、たしかに50代の人で病気やケガのため働けないという人が多いのは実感します。精神病院に入通院している人が、私のクライアントにも何人もいます。
 相続税の対象は死亡件数の5%ほど。残念ながら、私の父もその一人でした。相続税をおさめた人々を分析してみると、課税価格10億円超は金額で16.8%、5億円超10億円未満16.9%(6.0%)、1億円超5億円未満59.7%(73.0%)、1億円未満6.7%(18.7%)となっている。
 相続税の税率を下げろという意見も強いのですが、必ずしも賛成できないのはこんな事情もあるからです。やはり、できるだけ平等になるためには相続税率はかなり高くても仕方がないように思います。いかがでしょうか・・・。
 暑いなか草むしりをしていると,脱皮したヘビの白い抜け殻が出てきました。先日見かけたヘビは若くて元気が良かったので,きっと脱皮したばかりだったのでしょう。水不足のせいか,キウイの雄木がしぼんでいました。キウイは雄木と雌木があります。わが家の雄木は実は5代目です。雌木の方は盛んに繁っているのですが,雄木の方は人間の男性と同じで,ひ弱なのです。たっぷり水をまきましたので,生きのびてくれるとうれしいのですが・・・。

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2006年8月 7日

近所がうるさい

著者:橋本典久、出版社:ベスト新書
 福岡の岩本洋一弁護士から面白い本だよ、と言ってすすめられた本です。本当に面白い本です。というより、はっきり言って大変勉強になりました。ありがとうございます。これからも、みなさん、いろいろ面白い本があったら、ぜひ教えてください。騒音トラブルに悩む人、その相談を受けた弁護士にとって必読の書だと思いました。
 有名なピアノ殺人事件が紹介され、詳しく分析されます。1974年夏、神奈川県平塚市の県営団地で起きた殺人事件です。母親と8歳、4歳の2人の娘の3人が刺し殺されました。犯人は上の階に住む男でした。死刑が確定した今もまだ執行されていないそうです。事前に包丁を購入し、周到に殺害の機会を狙っていた確信犯なのに・・・。
 精神鑑定を受け、パラノイアと診断されている。階下の亭主が自分を狙っており、ピアノ騒音もいやがらせの一つだと妄想をふくらませていた。相手の攻撃に備えて護身用のナイフを持ち歩き、部屋には手製の槍を備えていた。犯人は控訴を取り下げ、一審の死刑判決が確定している。
 団地というのは大変に閉鎖的な空間である。この事件の本質は、自殺願望をもったパラノイア患者による特異な犯罪とみるべきではないか。著者はこのようにみています。
 騒音というものが他人との直接的で密接なつながりを構成し、またそれを強く当事者に印象づけるものであるということは、他の環境要素にみられない騒音の大きな特徴である。
 ピアノの振動は床に伝わり、その床や、さらに伝わった壁などから大きな音が発生する。車のエンジンの低音は、窓を通して部屋の中に伝わってきた場合に、車種にもよるが、ブーミングによってかなり大きく響くことがある。ブーミングとは、低音の特定の周波数の音が、部屋の共鳴によってとくに大きく響く現象である。
 いま、いい住宅の3条件とは、隣人、隣人、隣人だ。性質(たち)の良くない隣人がいれば生活の質が保てないだけでなく、悪ければ生活自体が破壊されてしまい、邸宅どころの話ではない。
 動物は外敵が現れれば、それに備えるために相手の情報を細心の注意を払って収集しなければならない。敵の音を聞き逃さないことは動物の生存のための不可欠の本能である。
 動物のもっている聴覚特有の本能的な働きが、現代社会に生きる人間の場合にも、トラブルに巻きこまれたときに現れてくるのではないか。
 愛情ある夫婦関係では、夫のいびきや妻のいびきがしていても、お互い平気で眠っている。敵対していないため、とくに情報収集して相手に備える必要がない。ところが信頼関係が薄れてきて相手を疎ましいと思うようになると、とたんに相手のいびきが気になりはじめ、相手の音を聞きこんでしまうため眠れなくなる。もし、あなたの連れあいが、あなたのいびきがうるさくて眠れないと言いだしたら、確実に、相手はあなたを敵だと思いはじめていると考えてよい。
 うむむ、そうだったのか、やばいぞ・・・。実は、わが家にも危機が迫っているようです。助けて・・・。
 重量床衝撃音については、床の仕上げをいくら軟らかくしても、ほとんど効果はない。床自体をガッチリさせなければ音は小さくならない。つまり、重量床衝撃音は床構造に依存する。建物がたってからでは何の対策もとれない。この既存不適格ともいえる集合住宅は、日本全国に無数に存在している。もともと、集合住宅というのは元気な子どもが自由に騒ぐことも許されないような歪(いびつ)な住空間である。それは戸建住宅よりはるかに濃密な関係をいろいろの面で強要される。
 上階音の測定を専門機関に依頼すると、20万円ほどかかる。
 なかなか裁判にならないのは、これまでの裁判によって認められた慰謝料が1人30万円程度と低いこと、相手が依然として隣りに住んでいることによる。
 最近終わりましたが、私も隣家から飼犬の鳴き声がうるさいと訴えられた裁判をしばらく担当していました。原告と被告は、今も隣り同士に住んでいますので、裁判の終わり方も難しいものだとつくづく思ったことがありました。
 きのうの日曜日、炎暑のなか久しぶりに近くの山にのぼりました。わが家から頂上(388メートル)まで、ちょうど一時間です。午前11時に出て、お昼を頂上でとろうというのです。はじめの30分はだらだら坂で、森林浴を楽しみます。あと30分は健脚コースになります。夏草が伸びて珍しくヤブこぎまでしました。半ばバテ気味になりながら、なんとか頂上にたどり着きました。360度見晴らしのいい場所があり、そこで上半身裸になって汗をふき、持参のミネラルウォーターを飲んで人心地を取り戻します。以前はビールでしたが、最近はビールを飲みたいと思わなくなりました。水がとても美味しいのです。梅干しをたっぷり入れた海苔巻きおにぎりを口にほおばります。爽やかな風が吹いてきて、虫の声を聞きながらのおにぎりは最高です。トマトも一個丸かじりしました。しばし至福のときを味わい、ゆっくり山をおります。揚羽蝶がたくさん飛んでいました。黒い蝶、黄色い模様の入った蝶など、大型の蝶が悠然と飛んでいきます。道端の木に小鳥の集団が鳴きかわしていました。立ちどまって見てみるとメジロでした。熱中症にかからないようにと注意されての3時間でした。家に帰って昼寝していると雷がゴロゴロ鳴り出しました。夏本番はまだ続きます。

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2006年8月 4日

殿様の通信簿

著者:磯田道史、出版社:朝日新聞社
 「土芥寇讎記」(どかいこうしゅうき)という江戸時代の秘密報告書があるんだそうです。元禄時代に幕府隠密が全国をまわって、各地の藩主・家老について評価したものです。とても面白い内容です。
 「どかいこうしゅう」というのは、殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を親の仇のようにみる、という意味だそうです。初めて聞く言葉です。
 江戸時代には250の藩があって、だいたい13代あたりで明治維新となったので、およそ大名(殿様)は3000人ほどいたとみられる。
 徳川幕府は、足利・織田の子孫は優遇する。豊臣の子孫は殺す、という方針をとった。吉良家は足利の子孫だったので、高家としては破格の優遇をうけた。
 三大将軍・家光は、岡山の池田光政が謀叛するかもしれないと心配した。そこで、岡山と姫路のあいだに赤穂城が築かれた。そこで、浅野家は武断派の雰囲気が漂っていた。
 ところが殿様の内匠頭が奥の閨房で女と戯れ、ちっとも表の政務に出てこない。仕方なく、大石が筆頭家老として藩政を取り仕切った。それで藩士は大石の言うことをきく習慣ができていた。ふーん、そうだったんですか・・・。
 岡山の池田光政の子どもの綱政については、生まれつき馬鹿、愚か者で、分別がないと書かれていました。ところが、著者は綱政の書を見て、そんなことはないだろうと判定しています。
 綱政には、なんと70人(男子21人、女子31人。このほかにも18人ほど・・・)の子いたというのです。徳川家斉の55人をはるかに上まわります。いったい、その子たちはどうしたのでしょう・・・。
 綱政の遺言の一つは次のようなものです。政事においては、極重悪人といっても、十に一つも許すべき道理があれば、きちんと穿鑿(せんさく)して、重罪を軽くするのを真の政事と心得よ。仁愛慈悲第一の事、だったのです。これでは「生まれつき馬鹿」という評価は確かにあたらないでしょう。
 前田利家の言葉が紹介されています。
 子どもを悪くしてしまうのは、親のせいである。絶対に、子のことを親が悪く言ってはいけない。なかでも、他人のまえで自分の子を悪しざまに言うのが一番いけない。子どもに悪いところがあったら、こうしたほうがよいと、子ども本人に丁寧に教えてやればよいだけだ。
 うーん、なかなかいい言葉ですね。わたしなんか、胸に手をあてて、かなりズキズキとした痛みを感じます。
 殿様稼業も決して楽ではないということを思い知らされる本です。

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御社の営業がダメな理由

著者:藤本篤志、出版社:新潮新書
 新聞で大きな広告をうっていましたので、つい気になって読んでみました。センセーショナルな題名ですが、書いてあることは至極もっともな、いわばオーソドックスな営業展開をすすめている本だと受けとめました。
 営業セミナーや営業研修に、いくら時間と資金を費やしても、さしたる効果は得られない。営業センスとは、第一印象がよいこと(明るさ、信頼できると感じさせる話し方など)、ポジティブで負けず嫌いな性格、記憶力、質問に簡潔にこたえる能力、洞察力、的確なヒアリング能力、人の悪口を言わない性格。このなかでもっとも重要なのは、洞察力とヒアリング能力。
 営業マンにとってもっとも大切なことは、ひたすら勤勉に営業先をまわって、可能な限り確率の母数を広げること。門前払いをくわされたときには、すぐ次のセールス先に移動することができ、無駄な時間をつかわなくてすんだと喜ぶべき。まあ、ものは考えよう、ということです。
 営業日報を書くなんてムダなことだからやめよう。著者は、こう提案しています。
 日々、営業日報に記載するという作業が、営業マン一人一人の貴重な営業時間を奪いとっている。標準社員の無意識的な怠慢時間、つまり結果的怠慢時間の温床となっている。営業日報を記載する作業は、営業マンを働いているつもりにさせるだけ。現実問題として、営業日報に書かれたウソは絶対に見抜くことができない。
 強い営業組織をつくるためには、営業マネージャーに課したノルマをきれいさっぱりと外さねばならない。どんな営業マネージャーであっても、自分のノルマが達成できるまでは、決して部下の行動を管理できない。営業マネージャーは、一人の部下から一日30分のヒアリングをすること。そして同行営業をする。
 営業マネージャーの部下は、多くて7人までが限界。それでも、一日に4時間ほどのヒアリングをして、クロージング案件に顔を出し、さらに社内の会議や調整に追われる激務の日々となる。
 うーん、そうなんですか・・・。そう言われたら、きっとそうなんでしょうね。そう思います。
 営業の方程式とは、結果的怠慢時間を減らす努力に会社全体で取りくむことにより、営業量を増やし、そして会社の発足以来積み上げてきた、今まで経験してきた営業を行ううえで必要な知識を集約し、社員の頭の中に積み上げていくこと。なーるほど、ですね。標準的社員のやる気を引き出す、そのためにムダな時間を削るということのようです。
 何事につけ、真理は単純ななかにあるようです。

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うちのネコが訴えられました

著者:山田タロウ、出版社:角川書店
 アメーバブログ第1位とオビに書かれています。「実録ネコ裁判」を一冊の本にしたものです。裁判に一度も関わったことのない人にとっては、その顛末がきっと面白いのだと思います。
 実は、私も目下、お隣りに住む暴力団員から、おたくのネコがうちの高級外車を傷つけたとして損害賠償を求められた裁判を扱っています。といっても、裁判を起こしたのは私の方です。コワーイお兄さんと直接交渉するのは遠慮したいので、裁判所を中に入れることにしたのです。
 「うちのネコ」がその車の上に何回も乗って爪でキズつけたというのが先方の主張です。でも、何の証拠があるわけでもありません。車の上に「うちのネコ」が乗っている写真もなければ、「うちのネコ」がその高級外車を傷つけたという証拠もないのです。いや、おまえのところの白いネコが車にキズつけているのをオレは確かに見たんだという「証言」があるだけなんです。それで100万円の請求です。
 この本では高級外車BMWの上に被告の飼いネコがたびたび乗って、その爪で傷をつけたとして、修理代金110万円が請求されています。そして、ネコが車の上で寝ている写真などが証拠として提出されています。裁判の2回目で2人の証人が調べられ、原告と被告の本人たちも証言します。なんと、定刻の5時を過ぎて、6時ころまで証人調べがおこなわれました。ええ、ときどきあるんです。裁判所では5時前に終わるのがあたりまえではありますが、まれに夜8時とか9時すぎまであることも絶無ではありません(ただし、私は経験したことはありません)。
 原告が当然のことながら立証に失敗して、原告の請求は棄却となりました。あっ、これは本人訴訟です。弁護士のところに相談に行ったのですが、合計したら弁護士費用が20万円以上かかるだろうと言われて、自分でやることにしたのでした。
 そうなんです。裁判は自分でもできるんです。でも、それには相当勉強もしてから行くようにしてくださいね。裁判を甘く見ていたらいけません。
 といっても、弁護士をつけない本人のほうが勝つことがないわけではありません。そんなときには大金をいただいている弁護士としては、本当に申し訳なく思ってしまいます。トホホ・・・の心境です。
 朝、わが家から出た蛇が隣家へ遊びに出かけているのを見つけました。1メートルくらいの長さの元気な蛇です。暑いなか、ご苦労さん、と声をかけてやりました。真紅の朝顔、爽やかなブルーの朝顔が咲いていて、雨戸をあけるときが楽しみです。夏本番は今しばらく続きそうですね。いただきもののウナギを食べて精をつけながら、この夏を乗り切るつもりです。

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2006年8月 3日

赤ちゃんは世界をどう見ているのか

著者:山口真美、出版社:平凡 赤ちゃんはもっとも身近にいる、未知の生命体だ。
 なーるほど、そうなんですよね。これは3歳未満の体験を誰も何ひとつ語ることができないということからくるものにもよります。
 姿形は私たちと同じ人間ではあっても、何を見て何を考えているか、まったく分からない。私たちの近くにいるにもかかわらず、赤ちゃんは別世界の住人なのだ。
 赤ちゃん学は、この30年ほどですすんだということです。ちょうど私の弁護士生活と重なっています。少しは私の認識も進歩したでしょうか・・・。実はまったく心もとないものがあります。クライアントには決してそんなことは言えませんが、実は法律の知識がかなり怪しくなってきているのです。今では絶えず弁護士になりたての若手に確認しておかないと不安です。ホントのことです。いえ、なにも若年性のアルツハイマーにかかったと「告白」しているのではありません。ちょっとでも縁が遠くなると、その分野についての知識が急速に忘却していくということなんです。これは、まったくの自然現象です。少なくとも本人はそう考えています。
 先天性の白内障を手術して治したとき、どうなるか。よくても色が分かる程度で、形や景色を読みとるには、ほど遠い。つまり、網膜に光が到達しただけでは世界は見えない。風景も文字も、実は、あらゆるものが、見るのはとても難しいこと。眼があるというだけで、見えることにはならない。
 胎児のときから音を聞き、生まれた直後でも眼が見える。生まれたばかりの新生児の視力は0.001程度。生後半年でも0.2程度の視力しかない。眼の水晶体(レンズ)の焦点は大人にあわせてできているので、赤ちゃんの小さな眼球にはあわない。レンズの焦点は眼球が成長したときにあうよう、網膜のうしろで結ばれるようになっている。
 見る経験は、受け身の状態ではムダだということが分かっている。自ら積極的に環境に関わりながら見ることが必要なのだ。動きを見ることは、形を見ることとはまったく異なるものだ。脳の異なる部位が働いている。
 赤ちゃんには、目新しいモノに注目し、見慣れたモノには注目しないという特性がある。赤ちゃんにとって、人間の顔は、目や鼻、口といった部分ではなく、それらが並ぶ配置こそが大切なのだ。たとえば、赤ちゃんは、生まれてから2日間、母親の顔を見た時間が11時間から12時間を超えると、お母さん顔を好むようになる。これも、生まれたばかりの赤ちゃんをじっくり観察して分かったものなんです。学者ってすごい忍耐力と想像力を必要とするんですね。
 ところが、ニホンザルは、育てられた種の顔を好む。たった3時間の見る経験で、お母さん顔への好みが成立する。ヒトの6倍の速さだ。すごーい。
 生後3ヶ月の赤ちゃんは、サルの顔もヒトの顔も同じように分けへだてなく個体を区別する能力がある。しかし、生後7ヶ月になると、大人と同じように、サルの顔では個体の区別はできなくなり、ヒトの顔だけを区別するようになる。これは母国語の習得に似ている。生まれてすぐの赤ちゃんは、あらゆる言葉の母音を聞き分ける能力をもつ。ところが、生後10ヶ月になると、自分の母国語を聞き分ける能力だけを残し、他の言語の母音は聞きとりにくくなる。
 学習とは、何でも受けいれた段階から、自分の環境にあるものへと特化することをさすのだ。なーるほど、そうだったんですか・・・。社新書

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2006年8月 2日

テレビ政治

著者:星 浩、出版社:朝日新聞社
 テレビと政治と世論の危ない関係。新聞とテレビ、国民により影響を与えているのは、テレビで86.5%。これはオビの言葉です。本当にテレビは世論操作の有力な道具です。小泉首相を批判するコラムを書いたら、すぐにコラムを批判する投書が80通も来たそうです。がんばっている首相に失礼だとか、かわいそうだという内容の投書です。私にはとても信じられませんが、恐らく本気なのでしょう。小泉べったりに洗脳されている日本人がかなりいることを意味しています。
 小泉改革のおかげで、郵便局の離島での集配が廃止に追い込まれています。なんでも効率(もうかるかどうか、だけです)から、田舎の不採算局が次々に廃止されていくのは必至です。でも、小泉は、選挙のときにはそんなことはないと断言して国民を欺きました。
 そして、いま高齢者に地方税が10倍になるという重圧がかかっています。「週刊ポスト」が大きな特集を組みました。そんなことは分かっていたはず。小泉はそう言うでしょう。でも、小泉を支持した高齢者は、まさか自分のフトコロを直撃する改革があるなんて夢にも思いませんでした。
 リハビリを6ヶ月で打ち切るという新たなシステム改悪は、私の母にも及びました。たしかに、うちの母にとってリハビリは、もう客観的には効果が期待できません。でも、身内としては、それでもいいのです。カッコだけでもリハビリ中ということでいいのです。必要なお金も負担します。でも、6ヶ月たったからといって、せっかく入った病院を追い出されてしまいました。弱い者いじめの小泉改革のおかげです。
 この本は、朝日新聞の政治記者とメディア政治の研究者の二人による共著です。朝日の記者は東大大学院政治学研究科の特任教授でもありました。
 小泉首相が閣議で解散を決めた8月8日夜の記者会見を中継したNHKの視聴率は、なんと27%という異例の高率となった。投票率が高いと自民党は不利という最近の選挙の傾向とは逆の結果となった。選挙への関心が高まり、ふだん棄権していた有権者が投票所に足を運んだことが、自民党の圧勝につながった。つまり、多くの国民が小泉にだまされて自分の首をしめに投票所に向かったことになります。
 東大の石田英敬教授は、総選挙の真の敗北者はテレビだと主張する。なぜなら、コイズミ劇場にテレビが支配されてしまったから。
 刺客騒動は話題を呼び、世間の関心を集め、当初あまりパッとしなかった毎分視聴率も急上昇した。こうなるとテレビ制作者は弱い。やはり数字がとれた方がいいと考えてしまう。自民党内のお家騒動は、人気時代劇の「暴れん坊将軍」のように、見ていて面白い。ここを小泉はうまく利用した。
 小泉の作戦は、国会議員を飛びこえ、さらには自民党員まで越えて一般有権者の支持を集めることだった。それによって、党員や国会議員への影響力を高めようとしたのだ。
 小泉が国会議員や支持団体の枠をこえて投げかけた「自民党をぶっ壊す」というメッセージは大衆的人気を博した。新聞は権力を批判するが、テレビはコントロール可能。テレビは商売だと割り切って接していた。
 小泉は、ワンフレーズ・ポリティクスという批判に対して、「いくつも話すと、もっとも不快な部分を拡大して報じられる。一つのことしか言わなければ、どのメディアも仕方なくそれを報じる」と切り返した。
 テレビでくり返し唱え続け、なおかつ、そのメッセージをいくらか実現させることで国民に一定のリアリティーを感じさせる。これが小泉の戦略だった。
 日本は世界最大の新聞大国である。毎日、朝夕刊あわせて7000万部以上が発刊されている。それでも、今やテレビにかないません。日本人は、このまま流されていくだけなのでしょうか。

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2006年8月 1日

朴正熈、最後の一日

著者:趙 甲済、出版社:草思社
 「ヒトラーの最期の10日間」を思い出させる本です。独裁者の孤独な生活が描かれています。最近みた韓国映画「大統領の理髪師」を、映像という点で視覚的に想起しました。
 韓国では、最近、朴正熈を見直す動きが強まっています。その娘が野党の代表者として人気を集めているのは、その具体的なあらわれでしょう。でも、私には、野蛮な軍人であり、民主化を阻んだ独裁者としか思えません。
 朴正熈が側近の金載圭KCIA部長から宴会場で射殺される一日を詳しく描いた本です。図と写真もついていて、状況がよく分かります。朴正熈が射殺されたとき、2人の若い女性が宴会にはべっていたというのを知っていましたが、なんだかいかがわしい状況を想像していました。でも、女子大生と女優の2人はギターをもちこんで歌っただけのようです。それどころか、宴会場は車智?・青瓦台警護室長とKCIA部長の激しい応酬でトゲトゲしい雰囲気だったようです。
 1979年10月26日、朴正熈はKCIA部長に射殺された。62歳だった。この年の10月初め、金載圭の命令で、KCIAの元部長・金炯旭がパリで暗殺されていた。 
 青瓦台の本館には、職員が夕方6時に退庁したあとは。525坪の本館に大統領と2人娘のほかは、宿直当番の秘書室職員と警護官のみ。都市のなかの孤島になった。
 朴正熈の書斎兼執務室には600冊の本があったが、小説やエッセイ・詩集は一冊もない。彼は実用主義者だった。「金日成」「資本論の誤訳」などの日本語版もあった。
 その日、朴正熈の演説には、いつもの張りがなかった。独特の、鉄を叩くようなキンキンと響く声ではなく、力が少し抜ける感じだった。
 映画「シルミド」で有名になった金日成暗殺部隊の創設を命じたのは、朴正熈でした。
 朴正熈大統領と、その側近だった金桂元、金載圭、車智?の3人の元軍人は身長が164センチと小柄だった。
 車智?は傲慢、金桂元は調整力不正、金載圭は肝臓病病み。
 権威主義的な政権の核心においては、最高権力者の耳と目を独占しようとする競争が熾烈さを増す。誰よりも先に情報を提供し、権力者の公的的な先入観をつくりあげることが、この権力ゲームのやり方だ。車智?室長が影の権力者の地位を、こうしたゲームに活用していたため、秘書室長と情報部長は常に一歩出遅れた。
 車智?は佐官将校として除隊したにすぎないのに、陸軍大将出身の秘書室長と陸軍中将出身の情報部長、それもずっと年上の2人を、まるで部下のように扱った。
 朴正熈は、郷里の後輩であり、陸士の同期生であり、そして自分の庇護のもとで育ててきた金載圭を甘く見ていたのか人前で金載圭の無能力さをなじることが多々あった。
 この日の宴会では、車智?と朴正熈がまるで口裏をあわせたかのように金載圭を一方的に追いこんだ。これが決定的な要因となって、激しやすい金載圭は車智?を殺してしまおうと思いつめ、そのためには朴正熈が邪魔となった。朴正熈はあの傲慢な車智?を偏愛してきた。そして今夜も一緒になって私を追いこんでいる。許せない。金載圭の鬱屈した感情は殺意へ変わった。
 金載圭は朴正熈の射殺直前に2人の部下に警護員たちの暗殺指令を下したが、そのとき自由民主主義のために、と言っている。KCIA部長は、長期政権に対する国民の不満を確認していた。釜山での非常戒厳令事態をふまえての認識だ。
 金載圭は、まず車智?の右手首をうった。そのあと数秒して、足もとがふらついたままの姿勢で朴正熈を見下ろし、胸をうった。朴正熈は「何をしておる」と言ったまま、目を閉じ、胡座をかいたまま動かなかった。金載圭の拳銃(ワルサーPPK)はこの2発をうったあと故障して動かなくなり、金載圭はあわてた。
 金載圭の部下に倒された警護官たちは防弾ベストを装着していなかった。
 金載圭の頭のなかには、朴正熈の殺害までのスケジュールしかなく、それ以降の行動計画は何ひとつ考えていなかった。現場にいて殺害状況を目撃した2人の女性は20万ウォンの小切手をもたされて帰宅させられた。現場保全も遺体の安置も、支配確保もまったくなされていない。
 大変緊張しながら2時間かけて一気に読み通しました。緊迫した状況がよく伝わってきます。そして、このあとに登場するのが全斗煥です。軍人って、本当に嫌な人種です。昔も今も、洋の東西を問わず、人殺しと自分の栄誉しか考えていない連中ばかりですから・・・。

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