弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年7月20日

陣屋日記を読む

著者:成松佐恵子、出版社:雄山閣
 いやあ、日本人って、本当に記録を残すのが大好きなんですねー。もちろん、私もその一人なのですが・・・。まあ、おかげで江戸時代の人々の暮らしが実によく分かります。
 奥州守山藩なんて言われても、まったくピンときませんよね。それもそのはずです。石高わずか2万石。藩士は200人ほどで、お城もない。元禄13年(1700年)に成立し、幕末まで170年のあいだ存続した。所在地は現在の福島県郡山市。水戸藩の支藩です。守山陣屋に定詰(じょうづめ)の藩士は10人にもみたなかった。
 この守山陣屋に御用留(ごようどめ)と呼ばれる陣屋日記が、なんと143冊も残っているのです。郡奉行サイドでしたためた郡方政務日誌といえる内容なのです。これを学者の指導を受けた素人が解読していき、一冊の本をまとめたわけです。本当にすごいことです。日本人って偉大なんですね・・・。
 守山藩の藩主はずっと江戸にいて、参勤交代の義務はなかった。そこで、江戸と守山陣屋のあいだでは御用状と呼ばれる書面が頻繁にやりとりされている。
 郡奉行にとって人口減少の著しい領内の農村対策が最大の課題だった。
 郡奉行の下に位置するのは目付で、なぜか頻繁に交代している。化政期20年間に13人が入れ替わり江戸から着任した。
 郡奉行が借用金に関する不正が発覚して捕縛され入牢の身となり、結局領外追放という厳しい処分を受けたこともあった。
 庄屋は守山藩では、すべて陣屋が任命した。世襲でもあった。たまに「役儀不当」として罷免されることもあった。
 治安維持に関してみると、博打が全国的に流行していて、文化年間に3回も老中触れが出されている。守山藩でも文政年間に12回も摘発があった。しかし、十分な取締効果はあげていない。
 それでも守山陣屋わずか10人の武士で6000人もの領民を支配していけたのは、村役人を通じての間接統治があったからこそ。
 陣屋日記で紹介されているなかで注目すべきは訴訟沙汰の多さです。
 文化文政におこされた訴訟11件のうち、8件が他領より訴えられ、そのうちの6件のべ24人が個人的な金銭債務で訴えられている。利息つき無担保の、いわゆる金公事(かねくじ)である。金公事のほかにも、川筋を上流の村が閉め切ったため不漁になった下流の村が訴え出たり、神社の神職間の紛争もおきている。
 日本人は実は昔から訴訟(裁判)が好きだったことが、この本からも分かります。といっても、江戸時代には判決にいく前に調停(内済)させられることが多かったのです。扱人(あつかいにん)と呼ばれる第三者が介入して話をまとめようとします。
 農民が集団で村を抜け出して水戸本藩に越訴(おっそ)しようとしたり、他領(二本松藩)に駆けこんだりしています。決して百姓はおとなしくはなかったのです。
 庄屋が商用と称して領外へ出かけることも多くありました。その期間も2〜3ヶ月から最長6ヶ月もあったのです。年に4、5回、多いときには10回もありました。
 湯治や参詣を目的とした外出も多かったようです。1回30日ほども温泉に湯治に行っていました。三斗小屋に26日間行ったというのが記録に出てくるのを見て、私の大学時代の4泊5日の夏合宿をなつかしく思い出しました。
 守山藩には、文化文政の20年間に90歳に達した者が男12人、女21人いました。養籾(やしないもみ)2俵(9斗)が生涯わたされることになっていた。およそ一人一年分の食い扶持にあたる。要するに、90歳になったら老後の心配はしなくてよいということなのです。今の日本はどんどん福祉の切り捨てがすすんでいて、老後の不安が高まっています。週刊誌に「高齢者の税金が10倍。これが小泉政治の本質」という記事が出ていました。まさしくそのとおりです。年寄りを大切にしない社会では日本も長いことありません。
 欠落(かけおち)は守山藩では草隠(くさがくれ)と呼ばれていた。文化期の9年間に1年に平均10件、21人が草隠人が出ていた。村でなにかの不祥事をおこすとお寺に駆入り救いを求めるということが次第に習慣化していた。
 面白いですね。このようにして江戸時代の実相がどんどん分かっていくのですね。江戸時代は決して暗黒の世紀ではなかったのです。

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