弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年7月14日

旅と交遊の江戸思想

著者:八木清治、出版社:花村書房
 文化元年(1804年)、筑後国は福嶋町(八女市)の作右衛門一行19人が伊勢神宮へお参りに出発しました。72日間の旅です。伊勢神宮だけではありません。厳島神社、金比羅宮、高野山、京都・奈良の神社仏閣もこまめにまわっています。
 そして、40年後の天保14年(1843年)にも、今度は同じ福嶋町の清九郎一行17人が、ほとんど同じ順路で68日間の旅をしています。順路ばかりでなく、途中に立ち寄った社寺、高野山の宿院、京都・大阪の宿泊先などもほとんど共通しています。つまり、規格化・画一化された観光旅行のコースが設定されていたのです。
 そして、天保6年(1835年)には、筑前国須川村の古賀新五郎重吉以下総勢76人に及ぶ一行が、ほぼ似た順路で68日の旅行をしています。
 いずれも旅行日記が残っていて、道中、どこで何を食べたのかまで記録されているのです。伊勢神宮は信仰から娯楽へと性格を変えていたと著者はみていますが、まったくそのとおりでしょう。
 2月から4月にかけての農閑期とはいえ、2ヶ月もの旅行を20人とか70人の集団で農民がしていたという事実に圧倒されてしまいます。
 元禄時代に日本に滞在していたドイツ人医師ケンペルは、自らの見聞にもとづいて、日本人について「他の諸国民と違って、彼らは非常によく旅行する」と書いています(「江戸参府旅行日記」)。
 貝原益軒は福岡藩士でしたが、江戸へ12回、京都へ24回、長崎へ5回も出向いています。旅人益軒と呼ぶのは、ぴったりの言葉です。益軒にとって旅は楽を得る方法であり、とかく旅行は辛いものという考えとは無縁でした。
 文人墨客の遊歴は、体のよい出稼ぎだったという評価があるそうです。文化人たちは、全国を旅行して、地方の富裕な人々から家宝の鑑定を依頼されたり論語を講義して謝礼をもらっていたのです。

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