弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年7月 4日

テレビと権力

著者:田原総一朗、出版社:講談社
 活字メディアとは醒めたメディアで、読者は冷静に読む。テレビは、声、怒鳴り方、目の光り方、表情、身ぶり、手ぶりと、あらゆる表現手段を総動員して、視聴者に訴えるメディアで、言葉は表現のワン・オブ・ゼムに過ぎない。テレビでは、山崎拓、小泉純一郎が、顔を晒し、怒りを満面に込めて、唾を飛ばさんばかりの口調で、海部首相の傀儡ぶり、その無惨なまでの軽さ、経世会の傲慢さを、これでもか、これでもかと糾弾する。
 活字メディアでは、論理がすべてだが、テレビでは論理でさえ、ワン・オブ・ゼムなのだ。ここに新聞とテレビの大きな差異がある。
 活字メディアでは、言葉としてつじつまがあっていればよいのだが、テレビでは言葉としてつじつまがあっていても、全身の反応が矛盾を露呈させてしまう。
 著者は、60年の安保改定反対運動を次のように批判します。
 実は、岸安保は吉田安保を、よりアメリカと対等の条約に近づけようと図っての改正、つまり改善だったのである。
 私は、これに大きな違和感を覚えました。これは、要するに、あくまで安保条約を是としたものです。それを前提として、ベターかベストか選べというものだと思います。まさしく悪魔の選択です。そこには、安保条約をなくせ、という視点は、そもそも欠落しているのです。「よりアメリカと対等となる」という論理は、アメリカの従属を前提としています。私は、こんな奴隷根性を拒否します。
 著者は、テレビの世界で生き続けていくための条件は三つある、と言います。一つは、一定程度の視聴率をとること、二つは視聴者から一定程度の評価を受けること、三つは、スポンサーに降りられないことです。そのためには、企画力と実現力がすべて、です。
 ところで、私は久しぶりに「一定程度」という言葉にぶつかりました。これは、私が大学生になった、今から30年以上前の学生運動家の口癖のような用語です。私には、ものすごく違和感がありました。著者が今も、その学生運動用語を引きずってつかっていることに驚いてしまいました。
 著者が松下幸之助に取材した話が面白いので少し紹介します。
 部下を抜擢するとき、頭のよし悪しは関係ない。むしろ、頭のいい人物はダメ。小ざかしいよりは鈍な人物の方がいい。健康も関係ない。健康に自信のある人は社長が先に立って走るから、よくない。誠実も関係ない。人間は誠実にもなるし、不誠実にもなる。それは経営者の問題だ。その人間に期待して、もっている能力をどんどん使ってやると、その人間はいやでも誠実になる。会社から評価されたら、会社への忠誠心が湧き、誠実にもなる。では、何なのか?
 松下は、運です、運のない人はあきまへん、これが第一です、と答えた。そして、それは顔を見たら分かるという。
 愛嬌のない人間はあきまへんわ。明るい魅力、それがないと人間あきまへん。社長が暗い、愛嬌のない顔をしていると、その下で働く社員がみな暗くなる。みんな評論家みたいに、後ろ向きの批判ばかりするようになる。ところが上司に愛嬌があって前向きだと、みんな前向きの提案をするようになる。
 なーるほど、そうなんですね・・・。いい話を聞きました。みなさん、いかがですか。
 最近、日本経団連の会長になったキャノンの御手洗冨士夫は23年間もアメリカに住んでいた。ところが、御手洗はアメリカ的経営はダメで、日本式がいいと主張する。御手洗は、一番が従業員の生活の安定、二番目が株主への利益の還元、三番目が社会貢献、四番目が持続的発展をするための自己資本をうみ出すこと。今も、これをちゃんと実行してくれているのでしょうか・・・。
 どうして日本は宴会・接待が多いのか。その理由は二つある。
 会社のなかで、あるいは取引先とトラブルが起きたとき、日本では、まあ一杯ということで、料理屋や飲み屋で酒をくみかわしながら話をつける。アメリカでは、すぐに弁護士を呼んで訴訟にもちこむ。料理屋をもうけさせるか、弁護士をもうけさせるのかの違いである。アメリカのビジネスは、徹底して質つまり付加価値の勝負だ。日本では、義理と人情と浪花節が生きている。
 私の娘は田原総一郎なんて大嫌いだと言います。いつも偉そうに威張りくさっていて、しかも、自民党を陰に陽に応援するから、とても好きになれないというのです。私も同感と言いたいところですが、テレビをまったく見ない私は、幸いにも田原総一郎のいやな面も見なくてすむのです。

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