弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年6月26日

謎の豪族、蘇我氏

著者:水谷千秋、出版社:文春新書
 私は奈良に行ったことはありますが、残念なことに飛鳥地方にはまだ一度も行ったことがありません。石舞台古墳とか飛鳥寺(588年に蘇我馬子によって建立された日米最古の本格的な寺院)、そして蘇我氏の本拠地であった甘樫岡の発掘現場をぜひ見てみたいと思っています。
 著者は天皇中心で日本の歴史をみるべきではないと強調しています。なるほど、と思いました。飛鳥寺を建立した蘇我馬子は崇峻天皇(大王)と反目し、ついに馬子は大王を殺害してしまいました。ところが、当時の王族や豪族は、馬子が大王を殺させたことを知っていたのに、馬子を糾弾した形跡がないというのです。
 馬子は対立する穴穂部皇子と物部守屋を殺し、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を大王に立てた。だから、崇峻は馬子によって大王になれたのに、馬子に反抗した。だから馬子から殺されても、周囲の者は誰も馬子を批判することはなかった。崇峻が殺されて1ヶ月後には推古天皇が即位している。この間に混乱はなく、かえって王権は安定したように見える。
 要するに、当時は馬子政権だったというわけです。これは推古朝になっても変わらなかった。推古天皇は自分の意志から厩戸皇子(聖徳太子)に王位を譲らなかった。これは直木孝次郎の説であり、著者も賛成しています。実子の竹田皇子を後継者に考えていたというのです。厩戸皇子は推古天皇が死ぬより前に、49歳で天皇になれないまま死んでいました。ところが、蘇我馬子が80歳で亡くなった。石舞台古墳は馬子の墓とみられる。
 大化改新があったことには否定的な見解も有力です。著者は、皇極4年に蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされ、政権中枢が一新したこと、クーデターのあと、部民制の廃止、畿内制の成立、冠位の改訂、官制の改革などがあったことは争いがない、としています。
 蘇我氏の出自が渡来系かどうかについて、著者は否定的です。渡来系は、自らの系譜を隠そうとしなかったからです。蘇我氏の祖先を渡来人とする説に私は魅力を感じてきましたが、著者は史料上の根拠に乏しいと切って捨てます。うむむ、残念です・・・。
 蘇我氏渡来人説が一般に信じられてきた背景には、この説が古くから日本人に定着してきた蘇我氏逆賊史観とうまく適合してきたことにあるのではないか。つまり、蘇我氏は渡来人なので日本の天皇への忠誠心が薄かった。だから、天皇をないがしろにし、これにとって代わろうとしたのだという理解だ。うーん、そういうことか・・・。
 蘇我氏は、もとは、葛城氏の傘下にいた。大和に入った継体大王の一族を大伴氏と蘇我氏とが積極的に自らの勢力圏に迎え入れた。葛城氏とちがって、継体大王を支持し、その大和定着を積極的に支援した。いや、継体の支持・不支持をめぐって、蘇我氏と葛城氏は対立し、結局、蘇我氏が勝利をおさめたのだろう。そこで、蘇我氏は、葛城氏の正当な後継者として認められ、葛城氏がもっていた権益と地位を受け継いだ。
 そのころ、王権には混乱が相次いだ。弱体化していた王権が蘇我氏と連携することによって実力を回復していった。つまり、蘇我氏あっての王権、蘇我氏と結びつくことによって王権が力を回復していったのだ。なるほど、そういう見方ができるんですね・・・。
 物部姓を名乗る百済の官人がいた。物部と名乗っていたが、あくまで百済国の中級官人だった。倭から百済に移住した物部氏の男性と百済人女性との混血児とみられ、主として両国の外交交渉に介在していた。
 6世紀末以降、飛鳥地方は政治・経済・文化の一大中心地となっていった。その開発をはじめにすすめたのは倭漢氏(やまとのあやうじ)だった。彼らには、これを可能とするだけの土木・建築の技術力・動員力があった。一方で彼らは蘇我氏の配下にあって、事実上、その私兵として働いていた。蘇我氏を軍事面、土木建築面で支えた。
 蘇我氏の配下にあって渡来系豪族が活躍した。倭漢氏は軍事と土木・建築、鞍作氏は仏教と仏像製作、王仁後裔氏族は実務官僚。大陸の先進文明を身につけた彼らの知的レベルは当時の倭人系豪族たちをはるかに凌駕していただろう。蘇我氏の比類なき権勢は、こうした渡来人の能力の上にあった。彼らをつかいこなした蘇我稲目・馬子にも相当な才があっただろう。そして、蘇我氏のもとにいた渡来系豪族の多くは、大化改新後も変わらずに重用されていた。
 日本に仏教が伝来したのに当時の大王や豪族たちがどう対応したか、諸説がある。著者は次の二つを指摘しています。一つは、国内に仏教受容に抵抗する勢力が存在した。二つは、仏教受容は天皇ではなく、蘇我氏の主導ですすめられた。つまり、仏教の受容は天皇以下の支配層の一致した意思ではなかった。
 冠位十二階制定の実質的な主体は、厩戸皇子というより、むしろ馬子だった。十二階に組織された官人=中央豪族の頂点に立ち、実質的にこれを統率していたのは馬子だった。中央豪族によって構成される官僚集団の、いわばトップの座に君臨していた。
 馬子は、冠位をもらう側ではなく、与える側だった。ただ馬子には、大臣の地位のあかしとなる紫の冠が天皇から与えられていた。
 蘇我氏が逆賊ではなかったとする指摘は大いに納得できるものでした。
 アガパンサスの隣りにポワポワっとした毛糸の花のようなリアトリスの紫色の花が咲いています。ヒマワリがぐんぐん伸びてきました。今年は食用ヒマワリも植えているので楽しみです。コスモス畑にもなりつつあります。梅雨空の下で、水田の苗が勢いよく毎日伸びています。

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