弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年6月19日

典子44歳、いま伝えたい

著者:白井のり子、出版社:光文社
 映画「典子は、今」の主人公は今44歳。結婚して、2人の子どもの母親として元気です。私は、本を読みながら、涙腺がゆるんで仕方がありませんでした。
 幼いころ、いじめにあった話も出ています。それでも、ともかく前を向いて生きてきた典子さんの話に心を打たれるばかりでした。最近、ちょっと元気をなくしたな、なんて思っている人には最適の本です。きっと明日に向かって生きる元気が湧いてくると思います。
 典子さんの長女は福岡で勉強中とのことです。長男はまだ小学校5年生。典子さんと子どもたちのうつった写真も紹介されています。お母さんそっくりの長女で、一瞬、どっちが典子さんか分かりませんでした。
 典子さんは、話し方教室に2年間、週2回、休むことなく通ったそうです。それだけでもたいしたものですが、おかげで講演で堂々と話せるようになりました。典子さんは、 26年間勤めた熊本市役所を退職していま講演活動を始めています。私もぜひ一度、典子さんの話を聞いて、彼女から元気をもらいたいと思います。
 典子さんのお母さんは看護婦。眠れないため睡眠薬を常用していたところ、サリドマイドが入っていたのです。典子さんが生まれたのは1962年1月27日。母親と赤ちゃんが対面したのは、なんと生まれてから50日目。その間に、典子さんの指は切除されていました。
 子どものころの典子さんは、まったく手のかからない子どもだった。いい子にしていないと母親から見捨てられるかも・・・と子どもながら自己防衛していたのかもしれない。
この世に頼れるのは母親ひとりきりですから、その母親に嫌われないよう、いい子にふるまったのではないか・・・。そう書かれています。きっとそうなのでしょうね。
 典子さんは足でなんでもできるようになります。母親は、それをほめて、ほめまくります。足で絵を描くと、うまいね、芸術家だね。そうほめてもらったそうです。
 1968年。小学校に入学するのも一騒動でした。結局、小学校に入れたのですが、昼休みの時間に母親にトイレの介護に来てもらったのです。学校でのトイレは一回だけということなのです。大変なことです。それを中学、高校まで一日も欠かさず続けました。母親の努力に頭が下がります。母親は看護婦ではなく、昼休みに学校に行けるような仕事をしたのです。
 典子さんは中学生のとき、友だちの心ない言葉に傷つきました。言った本人は自覚がなかったのかもしれませんが・・・。その体験から、眼が沈んだ子どもを見かけたら、優しい笑顔で、そっと「だいじょうぶ」とささやいてあげてください、と書いています。
 高校生のころは編み物・縫い物が得意でした。珠算も三級を取ったのです。すごーい。
 典子さんが映画に出演したのは19歳のとき、1981年のことです。母親は、家庭内の事情に立ち入らず、また家庭内を撮らないという条件をつけました。なるほど、ですね。
 広島まで行くシーンがあります。熊本駅で切符を買う。どうやってか・・・。典子さんは、切符の自動販売機の前に立って通り過ぎる人を物色します。頼んだら必ず手伝ってくれる人を探すのです。もちろん勘です。自分の勘を信じるのです。一発必中でした。
 私はこれを読んで、自分の胸に手をあてました。私は典子さんのおメガネにかなう自信がありません。いつもせかせかしていて、なんだか他人の世話を焼くようにはとても見えないのではないだろうか・・・、と。
 映画の試写会には今の天皇夫妻も見に来ていたそうです。実は、私は残念なことにこの映画をまだ見ていません。サンフランシスコ映画祭で2度もグランプリに輝いたそうです。10年間にわたって世界の人々に勇気を与えたというので、 10年後にも受賞したのです。すごいことですよね、これって・・・。
 映画は大変な反響があり、ついに典子さんの勤務先に見学者があらわれるようになりました。典子さんにとっては大迷惑だったでしょう。でも、彼女の働いている姿を一度見てみたいと私も思ったことです。ですから、見物人をあまり責める気にはなれません。一日800通、一ヶ月に3万通の手紙が届き、6畳の部屋にぎっしり積み上げられたといいます。
 典子さんは21歳のとき、縁あって結婚しました。彼の両親はすぐ賛成したのに、典子さんの母親の方が反対したのです。人並みに家事ができるのか、育児ができるのか。その心配もよく分かりますよね。しかし、ちゃんと家事も育児もできたのです。そして、足だけで運転する車にも乗れるようになりました。
 典子さんは、自分が障害者であるとは思っていません。これも、すごいことです。
 こう書いているだけでも、なんだか生きる勇気がわいてきます。典子さんと子どもたちの笑顔が実に素敵です。
 アガパンサスの青色花火のような花が咲きはじめました。梅雨空によく似合う花です。東京の日比谷公園に見かけたとき、つい声をかけてやりたくなりました。

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2006年6月16日

不老不死のサイエンス

著者:三井洋司、出版社:新潮新書
 赤血球には寿命がある。120日。人間の身体に流れている血液中には、1マイクロリットルあたり、男性で420万個以上、女性で380万個以上の赤血球がある。1日につくられる赤血球は、なんと、2000億個。この赤血球には核がない。
 ところが、神経細胞は分裂しないので、ヒトが死ぬまで生き続ける。神経細胞には核がある。
 クローン生物をつくるときには、初期化の作業をする。スイッチが入る元の状態に戻す。
 ドリー(羊)の場合、初期化のために核を使用する乳腺細胞を飢餓状態に置き、いったん活動を停止した状態にさせた。そして、脱核卵子にその核を入れるときに、電気ショックと栄養を与えて、細胞核の活動を再開させた。この方法で初期化できるのは、細胞が飢餓状態になると、遺伝子が働きにくくなる。体細胞は、特定機能以外の遺伝子が働かないよう、使われない機能の遺伝子をロックしていたが、危機状態に陥ると、そんな悠長なことも言っていられなくなり、生き残るために、この際、ぜんぶ開けておこうとしたのだろう。こうして全能性をもたせた。ところが、ドリーは早く死んでしまった。その早すぎた死は、初期化が本当に完全ではなかったからではないか・・・。これまでつくられたクローン動物が完全に寿命をまっとうした例はない。マウス、ネコ、ブタ、ウシ、サル、いずれも、そうだった。なるほど、そういうことなのか・・・。
 カロリー制限は、下等生物から高等生物に至るまで、現在では、もっとも確実に寿命を延ばすことのできる方法である。カロリーを70%に制限すると、寿命が延びることが実証されている。
 100歳以上の高齢者を百寿者という。1950年には100人足らず。1970年でも300人あまりだった。ところが、1997年には8500人近くになった。その後も、急増し、2005年には2万5554人になった。
 エストロゲンというホルモンは、女性の生殖機能が続くときには必須だが、閉経後には分泌が減少する。それを補うと称して若いときの濃度を維持しようとすると、乳ガン、子宮ガンの危険が大変増える。
 スポーツ選手の特殊な能力は、遺伝で決まっていることが多いのは事実。もちろん、素質だけではなく、厳しい訓練も必要。訓練の過程で、素質があることを監督が見抜いて一流の選手へ育てていく。
 ヒトの遺伝子には、40億年の環境変化にどう対応してきたかという経験が詰まっている。いま使われていない遺伝子、必要ないと思われている遺伝子が、いつどんなときに力を発揮するかは、環境が変化してみないと分からない。つまり、種が存続するために大事なのは、今日現在すぐれていると思われている遺伝子に統一されていくことではなく、あらゆるタイプの、あらゆる特性をもった遺伝子が、今も生き続けているということ。大きな環境変化に対応できるよう、これからも否定されることなく生き続けていくことが大切にされなくてはならない。
 多様性の尊重って、ヒトが生き延びていくために絶対に必要なものなんですね。よく分かりました。

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沢木耕太郎、出版社:新潮社
 エヴェレストに挑んだ登山家の本は何冊も読みましたが、この本もまた、すさまじい山との格闘記録です。凍傷にかかって、両手の指を全部失い、さらに鼻の頭まで欠けてしまった女性がいるなんて、とても信じられません。なぜ、そうまでして自然の脅威とたたかいながら山の頂上をめざすのでしょうか・・・。
 ヒマラヤにあるギャチュンカンという山をのぼりつめる話です。ギャチュンカンとは、百の谷が集まるところにある雪山の意。8000メートルにわずか48メートル足りない7952メートルの高さ。
 極地法あるいは包囲法と呼ばれる登り方と、アルパイン・スタイルで登るやり方の2つがある。アルパイン・スタイルでは、ベースキャンプを出たら他の助けを借りないのが前提。シェルパや他の隊員による前進キャンプの設営やルート工作などの援助を一切受けない。固定されたロープに頼ることもしない。
 山野井泰史と妻妙子が登山する費用は総額150万円。スポンサーなしの自前。
 高度になれるため、山野井は鹿屋体育大学で低酸素室に入って訓練した。スポーツ選手の高地トレーニング用につくられた施設で、密閉された空間に4000メートル、5000メートル、6000メートルといった高さと同じ希薄な空気をつくり出している。そこで昼夜を過ごし、自転車をこぎ、ランニング・マシーンの上を走る。
 アルパイン・スタイルの登山は、できるかぎりの軽量化をはかる。たとえ100グラムでも削れるのなら削ってしまう。それでも、2人の荷物は合計で300キロになった。これは他に比べると極端に少ない。
 山で着る下着は化学繊維のものにする。綿だと汗を吸って水分を閉じこめてしまう。フリースなどの化学繊維のものはできるだけ新品がいい。そうでないときには洗っておく必要がある。清潔にするためというより、古くなったり汚れたりして繊維がつぶれたり目が詰まって保温力が格段に落ちてしまうから。そうなんですかー・・・。
 高地では、血液中の酸素が少なくなるため、赤血球が増える。赤血球の増加は、血液を濃くし、流れにくくする。それを防ぐには、水分を十分にとって新陳代謝をよくしておかなくてはいけない。登りはじめたら、どれだけ水分をとれるか分からないので、飲めるときに飲んでおかなければならない。やっぱり、生命の水なんですね。
 いよいよ登りはじめるときには、ひとり5キロ未満の荷物とする。食物の重量は850グラム。クライミング用のロープは50メートルのもの1本だけ。幅7ミリのものにするか、8ミリのものにするか迷う。少しでも軽い方がよい。しかし、丈夫なことも必要だ。ところが7ミリのロープにしたところ、岩の角で切れそうになってしまった・・・。このロープ1本にまさに命がかかっているのです。
 山の上では、なぜかコーヒーではなく、だれもが紅茶を飲みます。どうしてなのか、ぜひ教えてください。この本には、珍しく熱くて濃いココアを飲む場面が出てきます。紅茶もココアも、私の大好物です。
 寒さに弱い私には、まったく考えられもしない苦闘の連続です。たいしたものなんですが・・・。オオッ、ブルブル・・・。

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刑事の墓場

著者:首藤瓜於、出版社:講談社
 知人は警察官の妻です。団塊世代ですから、月給は50万円ほど。今度、夫が大都市周辺の署から田圃の真ん中にある田舎の署に移動したところ、なんと9万円も給料がダウンしたといって嘆くのです。ええーっ、そんなはずはあるまいに・・・。その理由(わけ)を訊くと、やはり例の報償費の分け前が大幅ダウンした影響なのでした。大きな署では人数が多いだけに報償費も巨費にのぼるのでしょう。そこは盆・暮れの雑踏警備で有名なところですから、ますます大きいようです。田舎の署には平和で事件も少ないだけに報償費を捻出する口実もないのです。まあ、それにしても、ちょっと署を異動しただけで月9万円も給料がダウンするなんて・・・、やっぱり異常な世界です。
 この小説は、挫折したエリート刑事が赴任した署は、刑事の墓場と呼ばれるところだったということから始まります。
 外勤の制服警官など皆同じようなものだ。上からあれこれ命令されることに慣れ切っていて、自分の頭で物事を判断することができない。
 知能犯係の刑事は、情報収集と称して新聞や週刊誌の記事を読んでいる時間が少なくないし、体調が優れずに外回りをしたくないときなど、一日中パソコンに向かっていても、捜査データを入力しているところだ、と言えば言い訳が立つ。
 所轄署勤務の警察官の人事権を握っているのは、その署の署長だ。毎年、定期異動の時期になると、県内の所轄署の署長が署内の対象者の異動方針を県警本部警務部に伝える。警務部の人事課は、各署長から提出された要望を勘案しながら、階級と部署に見合った役職にはめこんでいく。組織全体の整合性を保ちつつ、どこからも不平が出ないようにおさめるのは手間がかかるだけでなく、神経を消耗する作業だ。しかし、県警本部の人事課の仕事は、あくまで調整であり、それ以上ではない。
 こんな警察署が本当にあるのだろうか・・・。いまだかつて捜査本部が置かれたことのないような署。署員は、どこか別の署で問題を起こして流されてきた人間ばっかり・・・。でも、その連中の内部結束は固い。
 推理小説なので、最後の顛末は書けません。ええーっ、という感じだったとだけ書いておきます。そんな馬鹿な・・・。ちょっと変わった警察小説です。
 梅雨に入り、下の田圃に水が張られ田植えの準備がすすんでいます。去年はなぜか田植えされず寂しく思っていましたが、今年は大丈夫のようです。この田圃のおかげで、わが家は夏にもクーラーなしで過ごせます。水面を吹いてくる風が涼しいのです。夜になるとカエルの大合唱です。道路を大きな蛙がノッシノッシと歩いていて、車をあわてて停めました。自然との共存にも気をつかいます。

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2006年6月15日

やむをえぬ事情により・・・

著者:フレッド・フレンドリー、出版社:早川書房
 映画「グッドナイト&グッドラック」のもとになったエド・マローの相棒だったプロデューサーの回想録です。この本では、マッカーシー放送以外のCBSテレビの取り組みも紹介されています。
 マローは第二次大戦中から活躍していました。真珠湾が攻撃されたとき、ルーズヴェルト大統領と一緒にいた唯一の報道人だったし、チャーチルとはロンドンの地下深くの防空壕にある首相の戦闘司令所で同席していた。
 マッカーシー旋風が吹き荒れていた1954年の冬ころ、放送業界は恐れおののいており、マッカーシーの攻撃演説に呼応して国策がうち出されることがしばしばだった。
 マッカーシーによってディーン・アチソン(のちの国務長官)は「赤いディーン」というレッテルを貼られたし、マーシャル元帥も反逆者扱いを受けた。
 マローはテレビで次のように述べました。
 ウィスコンシン州出身の新進上院議員は、調査と迫害との一線を何度も踏みこえた。彼が主として成しとげたことは、大衆の心に共産主義の内的脅威と、外的脅威についての混同を生じさせたことでした。我々は反対意見と虚実とを混同してはいけません。告発と証言とは違い、確信は証拠と正当な法の手続によって得られるということを常に忘れてはいけません。他人を恐れて歩くことはやめましょう。マッカーシー上院議員のやり方に反対の者も、それを認める者も、沈黙を守っているときではありません。彼がこの恐怖を生み出したのではありません。彼はただ、比較的上手に、それを利用しただけです。
 そうですよね。いま同じように、5年間も続いて日本をすっかりダメにしてしまった小泉純一郎の政治手法に反対する人も、それを認める人も、声をあげてその当否を議論すべきなのではないでしょうか。マスコミで真正面からの議論があまりにも少ないことに、私は残念でなりません。
 エド・マローのこの放送のあと、トルーマン元大統領夫人、グルーチョ・マルクス(コメディアン)、アインシュタインも賛成の意を表明しました。
 映画にも出ていましたが、この番組のスポンサーだったアルコアは、エド・マローを信頼し、スポンサーをおりることはありませんでした。アイゼンハワー大統領も記者会見のなかで、マローを私の友人だとわざわざ言って、讃辞を送ったのです。もちろん、このことは夕刊の見出しを飾りました。
 ニュース解説で重要なのは、優れた判断力と確かな抑制力をもっていると思われる真面目なジャーナリストを信頼することである。そのとおりだと私も思います。
 CBSはボストン警察が賭博場と密接な関係にあることを暴露するドキュメンタリー番組をつくって放映しました。この顛末も紹介されています。日本では、この種の報道がまったくないのではありませんか・・・。警察の捜査費ごまかしの追及もあまりに及び腰だったと思います。独走していた北海道新聞が警察に逆襲されたとき、他のマスコミは見捨ててしまった気がしてなりません(もし、違っていたら訂正します。ご一報下さい)。
 グレシャムの法則。悪貨は良貨を駆逐する。この法則はテレビ編成ばかりでなく、その視聴者にもあてはまる。今日の放送ジャーナリズムにおける編集者、プロジューサー、記者は興奮したり、とことんまでやりとげるということがほとんどなくなっている。
 短期的には経済的利益を生むつまらない番組が電波を満たしていくにつれて、嗜好がつくり出されるのである。ちょうどう広告が、食事や喫煙やドライブに影響を与えるように、これによって国民の嗜好がつくられる。今のテレビ編成についての作る側の弁明は、我々は人々が望んでいるものを与えているのだ、というもの。しかし、現実に起こっているのは、洗脳された視聴者たちが自分たちの好みのものを選び、その一方、もっと深遠なものを好む性向をもった人々は視聴者たることをやめてしまうといった事態である。
 そうなんです。私もテレビをほとんど見なくなってから30年ほどになりますが、ちっとも困っていません。困るのは、今どんな広告をやっているかを知らないことだけです。
 ある日、ウォルター・リップマンは、今日のテレビの窮状を次のように言い表しました。
 要するに、この国に三台の巨大な印刷機しかない、というのと同じこと。これにしても、たったの三台だ。われわれは、これをどうしようというのか、どう利用しようというのか、しかし、この三台の印刷機は、そのほとんどの時間を宣伝物の印刷についやしており、そのほか漫画本を印刷している。なるほど言い得て妙ですね。お互い、気をつけましょう。

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2006年6月14日

脳は眠らない

著者:アンドレア・ロック、出版社:ランダムハウス講談社
 幸いなことに私はすぐに眠れます。いつもは夜12時に寝て、朝7時に起きます。目覚ましはシャンソンです。しばらくフランス語をじっと聞きとるのです。といっても、朝4時半とか5時ころに、トイレに行くことが多くなりました。これも加齢現象なのでしょう。それでも、そのあと布団に入ると、しばらく眠ることができます。出張してホテルに泊まるときには、夜11時に寝て、朝6時に起きるようにしています。その方が体調に良いからです。
 ところが、よる眠れないことがたまにあるのです。なぜだろう、と考えると、あっ、分かった・・・。そうなんです。夜7時すぎにコーヒー、紅茶そして日本茶を飲んだら、目が冴えてしまって眠れないのです。夜にコーヒーをガブガブ飲んでも平気な家人にいつも気のせいだと笑われていますが、こればかりはどうしようもない事実なのです。ですから、私は、夜7時すぎにはカフェインのはいったものは飲みません。椎茸酒その他のリキュールと水を飲んでいます。数年前から、夜にビールを飲むことはなくなりました。身体が欲しがりません。外でのビールも、今ではコップ1杯も飲めば十分です。もっとも、これは肥満を気にしているせいもあるのですが・・・。
 夢の定義は難しい。目がさめてから語ることのできる睡眠中の精神的な体験を夢と呼ぶ。
 人が眠っているあいだも、脳は驚くほど活発に働いている。眼球が激しく動いているときに、被験者を起こすと、ほぼ例外なくはっきりと夢を覚えている。
 健康な大人の睡眠は5つの段階がある。入眠前のリラックスした状態で、脳は騒音など周囲の影響をしだいに締め出していき、やがて規則正しいリズムの脳波、アルファ波が見られるようになる。アルファ波は、無心で穏やかな気持ちになったときにあらわれるパターンだ。アルファ波が出ると、続いて睡眠の第一段階に入る。いわゆる寝入りばなで、この段階では入眠時幻覚と呼ばれる、短い夢のような視覚的イメージが浮かぶ。たいがいは、その日の体験に関連したもの。続いて、睡眠の第二段階、10〜30分ほど続く浅い眠りの段階に入る。そこから脳波は、波長の長いゆっくりとしたデルタ波になっていく。除波睡眠と呼ばれる。第三、第四段階の深い眠りに入った。寝言は、睡眠中どの段階でも言うことがあるが、夢遊病の人が歩いたりするのは、第三、第四の深い眠りの段階だけだ。深い眠りが15〜30分続くと、再び第三、第二と段階を上がり、最初のレム睡眠に戻る。筋肉は完全に弛緩(しかん)しているが、眼球は動き、手足もぴくぴくと動くことがある。ところが、生理的には非常に興奮した状態にあり、呼吸は乱れ、心拍数は増え、男女とも性器が膨張する。就寝から最初のレム睡眠に入るまで、50〜70分ほどかかり、その後はおよそ90分ごとにレム睡眠がくり返される。合計すると、大人では一晩の睡眠の四分の1がレム睡眠で、さらに4分の1が深い眠り、残りが第二段階の浅い眠りである。
 ほぼすべての夢が視覚的なイメージをともない、聴覚的な要素の入る夢は50%、手触りや気配といった要素をふくむ夢は15%足らずで、味や臭いつきの夢はめったにない。そう言われたら、そうですね・・・。
 レム睡眠は、生存のために必要な行動のイメージ練習に役立っている。
 夢と空想は違う。子どもたちの空想では、いつでも自分が主人公だ。ところが、夢の中では、しばしば攻撃を受ける犠牲者となり、友好関係であっても受け身の参加者になる。子どもたちは、夢のなかではふだんの自分を思い浮かべる。しかし、空想のなかでは、なりたい自分を想像する。なるほど、そうなんですか・・・。
 睡眠の役割の一つは省エネ。眠らなければ、体温調節機能を維持できない。だが、夢を見ているときは、脳は覚醒時以上にエネルギーをつかい、体は麻痺している。そのため、レム睡眠中の哺乳類は天敵に対して、まったく無防備だ。
 人間の胎児の脳は、ほとんど一日中、レム睡眠の状態にある。新生児は1日16時間以上眠るが、その半分がレム睡眠。レム睡眠は、神経システムの発達を促す。
 新生児が眠りながらにっこり微笑むとき、神経回路を接続する作業が行われている。新生児は、成長してから役立つ対人関係のスキルをレム睡眠中に練習している。人間でも他の動物でも、レム睡眠中に、脳の配線工事が行われている。
 私たちの見る夢は、より下等な動物から受け継がれたメカニズムであり、遺伝子に書きこまれた生存のためのプログラムと、日々の体験から得た重要な情報が、レム睡眠中に脳のなかで処理され、統合される。夢では、言葉よりも感覚、とくに視覚的なイメージが大きな比重を占める。だから、人間の夢のルーツは、初期の哺乳類にあると考えられる。
 レム睡眠のたびにペニスは自動的に勃起する。その感覚情報が脳に伝わり、脳はそれを説明するためにエロティックな筋書きをつくる。生理的な反応のほうが先で、脳はそれにあわせた夢を紡ぎだしている。そうだったんですか・・・。
 大人の夢には、歩く、友人と会話する、セックスするといった行動が現実の生活と同じで、頻繁に出てくる。ところが、読む、書く、計算するという行為は、夢に現れない。こうした活動は人類の歴史において比較的に新しいからだ。夢のシナリオの多くは有史以前の時代によくあった脅威を再現したものと考えられる。
 夢のなかで抱く感情の3分の1はネガティブなもの。夢ではポジティブな感情はあまり抱かず、恐怖を感じることが覚醒時より際だって多い。
 睡眠中に脳が果たす重要な役割には、昼間抱いた感情、とりわけストレスとなる感情や自信喪失につながる感情を処理することがある。朝、気持ちよくめざめて、新しい一日を始めるには、ネガティブな感情を夜のうちに処理しておく必要がある。
 こうなると、夢は私たちが生きていくうえで、本当に大切な役割を担っているということになります。
 睡眠中は、新しい記憶を取りこむには最適の時間帯だ。脳は日中の雑多な仕事、たとえば自動車にひかれないように注意といったことから解放されている。加えて、化学物質のバランスなど、睡眠中の脳の生理的な状態が記憶の整理と強化にもってこい。
 むずかしい楽曲をマスターするには眠るのが一番。まず一度練習する。2日ほどたってもう一度やってみると、そのあいだに練習をまったくしていなくても、突然、弾けるようになる。新しいスポーツなり楽曲なりを習得するとき、練習効果を最大にするには、少なくとも初日の晩は起きる前の第二段階の睡眠をとりそこねないよう、たっぷり睡眠をとることだ。
 人は意識があるから、夢を見る。夢の大切さがよく分かる本です。

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2006年6月13日

市長、お覚悟召されい

著者:ポンポン山ゴルフ場買収疑惑追及市民の会、出版社:かもがわ出版
 住民訴訟で元市長に47億円を支払えという判決を最高裁で確定させた京都市民の素晴らしいたたかいを紹介しています。市長個人に47億円の賠償を命じても、とても現実的ではないでしょう。しかし、一罰百戒の大きな効果はあります。そして、市長の無法を許した京都市議会の多数派の議員についても厳しい審判が下ったと思われます。
 ところが、この本を読むと、実は、さらにまだまだ奥深い謎があって、それは未解明のままだというのです。何のことか・・・。なんと京都市が支払った47億円がどこに消えたのかが分からないというのです。ええーっ・・・と、のけぞってしまいました。
 どうやら金丸信に30億円、そして小泉純一郎の政争で負けてしまった野中広務に、それぞれ消えてしまったようなのです。うむむ、日本の闇は底深いものがある。改めて、そのことを痛感させられました。
 京都と大阪の境に位置する里山にゴルフ場建設計画がもちあがったのは1990年1月のこと。それに反対する市民運動が起き、ポンポン山ゴルフ場をつくることに反対する市民は駅頭でビラまきをした。一人一人に声をかけて配ります。
 「読んでくれはりますか。このビラ一枚5円かかっているんです」
 アキ瓶1本を酒屋に運んでもらえるのが5円。苦労してつくったビラを駅のゴミ箱に捨てられてはイヤなのです。その思いはしっかり京都市民に伝わっていきました。そして、その甲斐あって、ゴルフ場建設計画はつぶれてしまったのです。京都市は建設不許可決定を出しました。ところが、京都市当局は、「企業の存続を危うくすることにもつながりかねない」として、47億円もの高値で買収することにしたのです。当初は反対していた京都市議会もある日、一転して共産党を除いて同意してしまいました。なぜか・・・。
 共産党の市会議員が市議会で市長を追及したときのセリフが、この本のタイトルになっています。
 市長、あなたの答弁を聞いておりますと、蟻地獄の蟻がもがけばもがくほど深みにはまっていく、そういう姿を連想します。・・・市長、お覚悟召されい。
 京都市は、その企業が20億円で買ったのに、それより27億円も高い、47億円の補助金を支払ったというわけです。信じられないデタラメさです。それを自民党も民主党も共産党を除くオール与党が承認したというのですから、開いた口がふさがりません。なんのための議会なのでしょうか・・・。
 澤野順産・不動産鑑定士(横浜)の評価によると、14億円にもならないというのです。この件で、京都選出の代議士に5000万円、市議に300万円のお金が流れたというタレコミもあったそうです。さもありなんと思います。
 京都市と企業側で調停がありました。この企業側の代理人となった弁護士は金丸信の選挙区である山梨県の弁護士でした。うむむ、なんだか臭ってくるぞ・・・。そして、京都市が47億円を振りこんで支払った先の企業は、1回も法人所得税の申告をしないまま解散してしまいました。
 京都市が47億円を振り込んだ日は、1992年7月8日。これは参院選の公示日。受けとった企業が解散したのは、1993年2月のこと。いったい、47億円もの税金はどこに消えたのか。
 1993年3月6日、金丸信の自宅などが東京地検特捜部によって捜索された。このとき、債券50億円をはじめ、現金をふくめて60億円が押収されている。では、このなかに入ってしまったのでしょうか・・・。
 京都市長だった田辺氏は2002年に死亡。ところが、その助役だった佐藤達三氏は、その後、福岡県の部長に転職しているというのです。許せませんよね。
 私も、ずっと住民訴訟にかかわっていますが、裁判所の冷たい壁を乗りこえることができないで、本当に残念です。行政の過ちを正す使命を忘れた裁判官があまりに多いという気がしてなりません。生活保護の不正受給で何万円かをごまかしたりすると、すぐに逮捕されたりするのに、何十億円という巨額のお金が消えてしまっても、誰も、何の責任を問われないというのです。ほんとに、おかしな話です。

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2006年6月12日

生きることと自己肯定感

著者:高垣忠一郎、出版社:新日本出版社
 いま、「よい子でないと見捨てるぞ」という脅しの教育や子育てのなかで、見捨てられて自分の無価値感や自己否定感に打ちひしがれていたり、「見捨てられる不安」におびえ、自由にありのままの自分を表現したり主張したりできずに、我慢を強いられている子どもが圧倒的に多い。
 髪をトサカのように立て、眉毛を剃り落としたツッパリスタイルの子どもたちは、相手を威嚇する外面の印象とは裏腹に、自分の弱った心を守る鎧(よろい)をかぶっているのである。なるほど・・・、ホント、そう思います。誰だって、自分を守りたいのです。
 子どもが甘やかされて育っているから自己中心的で、耐性が育っていないなどと簡単に決めつけては見えない姿がそこにある。いま、多くの子どもたちの身体と心は、アドレナリンの分泌過剰な闘争=逃走体制に入っているのではないか。ふだんから、とても緊張している子が多い。不安と恐怖がそれに油を注いでいる。
 人間にとって一番辛いことのひとつは、見捨てられ、無視されることだ。とりわけ、自分の身近な、親密な関係がほしい人々に見捨てられ、無視されるほど、辛く恐ろしいことはない。オレを見捨てないでくれ、私に関心をもってちょうだい、見てちょうだい、という恐怖心と、見捨てられていることへの怒りがいろいろの逸脱行為へと駆りたてている。
 私は、これらの文章を読んで、なるほど、そうなんだと、目からうろこの落ちる思いでした。まったく同感です。私自身の体験というものではありませんが、すごく分かる気がします。子どもの安心基地であるべき家庭のなかで、安心感を与えられない子どもがいる。本当にそうだと思います。
 自分の存在が受け容れられ、大事にされているという手ごたえを感じられない。むしろ、「よい子」でないと見捨てられるという不安におびえ、親の前ではきわめて「よい子」を演じている。
 病気のときに看病してもらえるとか、いけないことをしたときにきちんと叱ってもらえるとか、失敗したときに許してもらえるとか、そういう経験を通して子どもは「自分が見守ってもらえている」という安心感を得る。そして、そのことが「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感を子どもにもたせる。
 いま、「競争原理」の支配のなかで、子どもたちは、「あなたがあなたであってはダメなんだ」というメッセージをシャワーのように浴びながら育っている。しかし、自分で自分の人生を選んでいくためには、それを支える心が育っていなければならない。自分の頭で考え、自分の心で感じたことに依拠して、自分の人生を選んでいくことができるためには、「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感がなければならない。
 自分が愛され、共感され、受け容れられているという手応えや安心感がないから、その埋めあわせに過大な賞賛を求める。しかし、その背後には、共感的に響きあってもらえない空虚さ、悲しみが隠されている。近寄るな、オメーなんか、ダイッキライ、と激しい怒りとともに突き放しても、それを受けとめてほしい。こんなに怒っている私のそばにいて、逃げないでそれを受けとめてほしいというメッセージが込められている。感情をぶつけた相手に、それをしっかり受けとめてほしいのだ。それをしっかりと受けとめ、聴きとらないでその場を離れたり、その子を拒絶したりしてしまうと、その人は再びその子どもを見捨てたことになる。その子は、いっそう見捨てられたという想いを強めることになる。
 うーん、ここまでくると、本当に難しいですね・・・。頭のなかでわかっていても、いざ実行するとなると、大変です。
 心を見捨てられた人間は、自分のほんとうの感情が分からなくなる。
 日本の社会は、見捨てられて自己肯定感をもてぬ不安を、しゃかりきにがんばることによって覆い隠そうとする子どものようだ。
 日本人にとっても、自己肯定感は、自分が他人や社会とうまくつながり、歴史に支えられているという自覚があって、はじめて生まれてくるものなのである。脅しは、人の自由な心を殺す。いかに多くの人々や子どもが自分の心を押し殺して生きていることか。
 脅しは脅される人間の心の自由を奪うだけでなく、脅す人間の心の自由をも奪っている。なぜならば、脅しの背後には不信と恐怖の感情がのさばっているからである。
 大切なことは、自分とたたかわないことを教えること。自分の心に生じる感情は、生じるべくして生じているのだから、耳を傾けながら、そのままにしておけばよい、晴れのち曇り、曇りのち雨、嵐が吹こうが、晴れになろうが、天気みたいなものである。憎しみの感情が生じても、放っておけば、黒い雲のように、そのうちに消えていく。
 それをねじ伏せようとすれば、するほど、相手はねじ伏せられまいとしてばんばる。ねじ伏せようとするエネルギーが、相手にエネルギーを与えているようなものなのである。
 自分とたたかわない心が、「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感のもたらすものである。自分の心に生じるさまざまな気持ち、感情をそのままに受け容れたらいい。
 いい文章ですね。しみじみとした思いで、書きうつしました。ほんとうにすっと胸にしみこんできます。肩の荷がさらに軽くなりました。私は、よく肩が凝っていますね、と言われます。先日も、理髪店でマッサージしてもらったときに言われました。やはり、見知らぬ人からの難しい相談を受けて、身構えることが多いからでしょう。
 教育基本法を改正して愛国心を押しつけようとする小泉純一郎の考えは根本的に間違っていると、つくづく思います。ぜひ、みなさんに一読されますよう、強くおすすめします。心が軽くなりますから・・・。
 カンナの花が咲きました。黄色にオレンジの斑点が入っています。ほのかな恋心を燃やし続ける爽やかな青春のイメージです。隣りにトケイソウも花を咲かせています。見れば見るほど時計の文字盤そっくりの花です。アジサイの純白の花が咲いて梅雨に入りました。

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2006年6月 9日

生命の起源、地球が書いたシナリオ

著者:中沢弘基、出版社:新日本出版社
 石油は古代の生物の遺骸が地中深くに堆積したものという説は間違っているという本を読んだことがあります。地球の地下深いところではさまざまな化学反応がすすんでいると思いました。
 私が弁護士になった30年ほど前は、まだヴェーゲナーの大陸移動説は有力になっていましたが、とんでもないと批判する学者が何人もいました。でも、今や地球上にある大陸が移動したというのは通説です。だけど、大陸が動くなんて、考えてみたら、すごいことですよね。なにしろ、この不動の大地が実は浮きつ、沈みつしているというのですからね。地球内のマントルの流れに乗って浮き沈みがあるわけです。
 地球上の最古の生物化石は固いところでは19億年前、状況証拠からすると27億年前のもの。よくぞ、そんなことが分かりますね。学者って、すごいですよね。
 生命は海洋ではなく、地球の内部で発生した。生命は地下で発生して、海洋に出て適応放散した。これが著者の考えです。なるほど、と思わせる記述がありますが、よく分からないところでも多く、これ以上はここに紹介できません。

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戦場の犬たち

著者:河村喜代子、出版社:ワールド・フォトプレス
 戦場で働く犬たちの写真集です。かわいい犬。味方にとっては頼もしい存在。しかし、敵にまわしたら、小憎たらしい存在でしかない。
 戦場でいち早く軍用犬としてつかいはじめたのは第一次大戦時のドイツ軍。フランス軍では少しだけ。イギリス軍とアメリカ軍は遅れをとった。
 アメリカ軍が犬を本格的に戦場へ連れ出したのは第二次大戦のとき。はじめは民間のボランティアに頼った。30種、1万9000匹も志願してきた。身体検査を受けて合格した犬は55%。あとで5犬種にしぼられた。ジャーマン・シェパード、ベルジャン・シープドッグ、ドーベルマンピンシェル、コリー、ジャイアント・シュナウザー。
 シェパードとドーベルマンとコリーの3犬種は私にも分かりますが、あと2犬種は聞いたことがありません。グアムに上陸した海兵隊は72匹の犬を連れていった。
 訓練を受けた犬は、1万425匹のうち8300匹は歩哨犬になった。また、3174匹が海兵隊へ引き渡された。偵察犬は900メートル離れた敵の存在も察知した。伝令犬には忠誠心のある犬が選ばれた。地雷犬は金属と非金属の地雷を見つけ、地雷につながるワイヤーを探した。しかし、あとでロボットに代わった。
 戦争が終わると、兵士たちは故郷に帰る。民間出身の犬は訓練解除訓練を経ないと民間には戻れなかった。軍隊で身につけた行動スタイルを捨て、安全な犬に戻るための訓練である。ところが、軍にとって、そんなことは面倒そのもの。たかが犬ではないか。うーん、そう言っても、戦場でいわば兵器の一部となってしまった軍用犬を平和な町のなかに野放したら、どんなことが起きるか分からないでしょう・・・。
 ベトナム戦争に従軍した犬4000匹のうち、戦死281匹、本国に帰還したのは、わずか200匹足らずでしかない。残りの犬は病気になったり、置き去りにされ、そのうち毒物を注射されて殺されたのです。
 戦場の犬の写真を通して、そこにおかれた兵士たちの苛酷な状況を想像することのできる写真集でもあります。

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黄砂、その謎を追う

著者:岩坂泰信、出版社:紀伊国屋書店
 この春、福岡には何度も黄砂の襲来があり、春霞のような状況が生まれました。ただ、先日の新聞によると、黄砂は光化学スモッグの原因物質を吸収する働きもしているそうで、有害無益の極悪人とは決めつけられないようです。
 いえ、この本によると、海中のプランクトンの栄養にもなっていて、日本人にも貢献していると言います。大気から海面に落下する黄砂は微生物にとって大切な物質になっている。海の動物プランクトンが黄砂を食べる。そして排泄物と一緒に再び海中に放出する。このようにして黄砂がミネラルや栄養素をプランクトンに供給している。そのプランクトンを魚が食べる。
 黄砂は空飛ぶ化学工場でもある。大気中の硫黄酸化物や窒素感化物を吸収しているのだ。
 黄砂は中国大陸から奥地から出発して、太平洋へ流れ出し、日本列島をこえて、アメリカ大陸にまで届いている。
 韓国の気象庁は黄砂について3段階の警報を出す。レベル3になると、老人と子どもの外出は禁止され、屋外行事は中止される。サッカーの試合も延期される。
 中国では黄砂といわず、一般には砂塵暴という。
 ラクダは砂漠で砂塵嵐がやってくると、自分の顔を埋めることのできるくらいの大きさの穴を掘り、そこに顔を突っこみ、嵐のあいだに気管に砂が入らないようにして呼吸する。
 中国大陸の2キロメートル上空は黄土高原の砂嵐から、6キロメートル上空はタクラマカン砂漠の砂嵐から飛んできたことが判明した。
 著者は敦煌で黄砂を測定する調査に従事しています。私も、敦煌には一度行ったことがあります。町の周囲は荒涼たる砂漠が広がっていました。お墓も砂漠にあります。いずれ砂に埋もれてしまうのでしょう。
 タクラマカン砂漠は黄砂を巻き上げる力のある砂漠である。私もウルムチからトルファンに向けて砂漠のなかを突っ走ったことがあります。どこまでも一直線でした。そして風が強いのです。黄砂が舞いあがるわけを実感しました。風が強いのを利用して、たくさんの風力発電機があり、壮観でした。

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2006年6月 8日

コールセンターのすべて

著者:菱沼千明、出版社:リックテレコム
 インターネットに接続できるケータイ(ブラウザホン)の利用者は6000万人をこえた。私のケータイもインターネットを利用できるのかもしれませんが、私はまったくつかえません。
 最近、IP電話というのがあるそうです。依頼者から教えられました。海外に留学することになった子どもとタダ同然の電話で話せるというのです。すごいものです。IP電話では距離にかかわらず、一定金額の時間料金体系となっている。ただし、同じプロバイダーでなければいけないという制約があるし、電源が別に必要となる。
 アメリカでは銀行の営業店窓口でかかっていた顧客1人に対する対応コストがテレホン・バンキングによって2分の1から3分の1に削減された。これがインターネット・バンキングだと100分の1にまでコストが削減できるとされている。
 日本のコールセンターは、オペレーターが49席以下が7割を占めており、比較的中小規模が多い。ただし、金融業では大規模化がすすんでいて、半分以上が50席以上になっている。
 顧客からの電話は理路整然としないことが多く、そのペースにのって話すと時間がかかりすぎる。だから、マニュアルが必要となる。20秒以内に80%のコールに対応できることを目標とすることが多い。
 コールセンターのオペレーターに必要なものは、応対スキルに25%、LS意識やパーソナリティ、聞き方、意欲などの人間性に75%を配分する工夫が必要。面接するのも、採用した人を面倒みる人が直接あたるのが望ましい。
 オペレーターのスキル評価は、習熟度、経験、サービス、商品知識、電話対応能力、平均通話時間、ミス発生率、苦情発生率などによって評価されてきた。
 何らかの不都合があったとき、50人に1人のユーザーが企業に連絡をとる。ほとんどの人は不満を感じても連絡しない。しかし、そのうちの20%は黙ってほかのブランドに乗り換えてしまう。消費者は満足すると、5〜9人に伝えるか、不満なときは9〜10人に伝える。つまり口コミは、満足よりも不満の方が伝わりやすい。
 私の知人にNTTの104対応の職場で働く人がいました。彼女によると、深夜に話し相手を求める男性が104に電話してくるのだそうです。もちろん有料ですし、テレホン・セックスするわけでもありません。ただただ話し相手が欲しくて電話する男たちが大勢いるのです。それだけ淋しい孤独な男性が世の中に多いというわけです。
 私は電話が好きではありません。長電話なんて、大嫌いです。突然かかってくる電話は、さっさと終わらせたいといつも思っています。昔も今も、私にとって大切な人とは電話より手紙の方がいいと考えています。

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2006年6月 7日

うぬぼれる脳

著者:ジュリアン・ポール・キーナン、出版社:NHKブックス
 つがいのサルを17年間、継続的に全身の映る大きさの鏡のある環境に置いたが、年間5000時間以上も鏡にさらされたにもかかわらず、2頭とも、自己認知の徴候をいっさい示さなかった。つまり、鏡に映った自分の姿を何者か理解することができなかったというわけです。
 女性は、自分の声に対する好感度評価は、いろいろな自己関連の刺激のなかで、もっとも高かった。つまり、自分の手や筆跡と比較して、自分の声は呈示刺激のなかで、もっとも好ましいと評価される率が高かった。
 ところで、自分の声は自分のものと分かりにくい。それは、他人が聞く自分の声は空気を通して伝わるが、自分のしゃべる声はそれだけでなく、骨伝導によっても聞こえるから。
 ユーモアを理解するのは、脳の右半球が関与している。主として右前頭葉が寄与している。病的な嘘は右半球と関係している。病的な嘘は、作話と呼ばれる障害とは違う。作話の場合、患者は一般に嘘をついている自覚がなく、その嘘で得をすることも通常はない。また、作話をする患者は記憶障害があり、欠失部分を埋めようとして嘘をつくと考えられている。「心の理論」の嘘とみなされる嘘の場合は、だます相手の心のなかに入りこまなくてはならない。作話をする患者たちは、それをしていないし、彼らの嘘は信じがたいものが多い。真の欺瞞は、だます相手の心を考慮に入れる。
 左利きの人(右半球優位になる機会が多い人)は、右利きの人よりも、実際に欺瞞の検知にすぐれている。つまし、もしあなたが左利きなら、右利きの人よりも嘘を見破る可能性が高いということです。えーっ、本当にそうなのでしょうか・・・。ぜひ、体験を教えてください。
 人はよく嘘をつく。配偶の機会を確実にするのに有用だとわかっている場合はとりわけそうだ。人間は、いくつかの理由から、ほかの霊長類よりもこの種の欺瞞を得意とする。人間は、ほかの類人猿とは違って、生涯にわたる一夫一婦婚の関係をつくることが多いので、おそらくそれが欺瞞を実践する舞台を設定するのだろう。
 生殖の機会を最大にしたがる男は、ほかの場所で配偶相手を探し求めるし、婚外の関係をもった女性は、生まれた子どもを夫に扶養させるために、自分の子どもだと思わせなくてはならないだろう。こうして妻は夫をだまし、夫は妻を欺く。
 実験の結果、女性は欺瞞者を見分けるのがうまく、男性はあてずっぽで推測していた。ところが、男性は女性より成績が悪かったのに自分の判断に自信をもっていて、非常に成績の良かった女性の方が、それほど確信をもっていなかった。
 女性は、男性が嘘をついているときのほうがそれを判断するのがうまく、女性が嘘をついていたときにはそれほどでもなかった。つまり、女性の欺瞞検知器は、配偶の機会が問題となっているときに敏感に働くようになっている。すなわち、女性は配偶がかかわる可能性があると、男性の嘘をより敏感に察知する。
 ふむふむ、そうなんだー・・・、本当にそうなのかなー・・・。ホントのところを知りたいと恋する女性にふられた私はつい思ってしまいました。いえ、嘘をついたつもりはまったくないのです。はい。

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2006年6月 6日

古文書はこんなに魅力的

著者:油井宏子、出版社:柏書房
 古文書(こもんじょ)がすらすら読めたら、どんなにいいことでしょう。これは、私の長年の夢です。とてもかなえられそうもありませんが、それでもこうやって未練がましく古文書解読の本に手を出してしまいます。つれあいの亡き父親も古文書解読に挑戦しておられました。カルチャー教室に通って勉強していたのです。それだけでもすごいと尊敬していました。
 この本は本文だけ読むと、いかにも楽しい語り口なので、いまにもスラスラ古文書の難解なくずし文字が読めそうな気がしてきます。でも、くずし字にいろんなパターンがあるのを知ると、すぐに腰くだけになってしまうのです。ひぇーっ、ここまで字をくずしてしまうの・・・、と叫びたい気持ちです。でも、私の手書きのくずし字を解読して、ほとんど間違いなく素早く入力してくれる事務局の毎日の苦労を思うと、そんなこと他人事(ひとごと)みたいに言っておれないでしょ、と自戒させられてもしまうのです、ハイ。
 この本の面白いところは、2つの実例を紹介しているところです。まずは京都の相良郡山城町の庄屋であった浅田家文書です。そこに出てくる利助氏の顛末が紹介されています。当時31歳の利助氏は農業のかたわら綿を扱う小売商をしていたのですが、商売に行き詰まって、村を出奔(しゅっぽん)してしまったのです。6人家族でしたが、欠落(かけおち)したのです。この場合、欠落とは男女が手をとりあって逃げるということではなく、失踪したという意味です。借金を返せなくなって村を逃げて出ていったのでした。40貫匁の借銀(ここは関西ですから銀本位制です)をかかえていました。換算の仕方で異なりますが、今の2700万円から2億円にあたります。いずれにしても、相当の借金ではあります。夜逃げするのも当然のことでしょう。村役人は借銀返済のため、利助氏に所持している家屋敷・諸道具・田畑のすべてを売り払い、稲小屋に住めと裁定しました。利助氏はそれに納得できず、村を出たのです。そして、近隣の村で百姓の手伝い、紙商内の手伝い、農業の手伝いをしたあと、3ヶ月ほどして村に帰ってきました。村役人は、それを受け入れて帰村許可を当局に願ったのです。そして、それは認められました。そのころは、帰村を願ったら認められていたのです。村としても貴重な労働力を逃がしたくなかったからす。
 古文書には、主語がときどき分からなくなるので、注意するように、とされています。古文書の解読はやっぱり難しいのです。利助氏は村へ戻ってからは大工職で生計を立てていたようです。その顛末も分かって、勉強にもなる楽しい本です。
 次に、江戸は日本橋の白木屋の奉公人六兵衛の話です。そうです。白木屋と言えば、映画「男はつらいよ」のタンカバイにも出てくる、あの白木屋です。天保10年(1839年)から、安政6年(1859年)にかけて、白木屋の日本橋店の奉公人を取り調べた記録が残っているのです。店に対して何らかの不正を働いた奉公人120人の事例が記録されています。日本人って、昔から記録魔がいるのですよね。私は、それほどではありません。
 六兵衛は仙台様の御屋敷に掛売り代金の回収に出かけたはずなのに、帰って来ませんでした。9日後に居所が判明して戻されました。いったい、そのあいだ六兵衛はどこで何をしていたのでしょう。その謎が解き明かされていくのです。たしかに難しいくずし字にもだんだん慣れてきた気がします。
 白木屋では、手代たちが、3月、5月、9月の節句前、10月の恵比須講前、そして盆・暮と年に6回掛取りに回っていました。ただし、手代の心構えとしては、この6回に限らず、常々からお客様に油断なく催促して、少しでも残掛を減らすように工夫することが肝要であるとされていました。
 実は、六兵衛は、この掛売りの回収がうまくいかないのを悩んで、成田不動尊へ参籠するつもりになり、それが途中で気が変わって、実は日光に向かったのでした。苦しいときの神頼みに走ったのです。ところが、帰る途中で、知りあいの商人に出会い、もう一度、日光に出かけ、そして一緒に江戸に戻ってきました。
 江戸と山城(京都)で書かれたくずし字はほとんど同じだった。江戸時代全般にわたって、ほとんど全国的にくずし字は同じに統一されていた。青蓮院流が江戸時代に大衆化した御家流に全国統一されていたのだ。方言はいろいろあっても、書き言葉の方は文字は同じだった。これが日本の特徴だそうです。
 やっぱり、くずし字は難しい。でも、チャレンジしたい。そんな気にさせる本です。
 グラジオラスが咲きはじめました。ピンクのふちどりのある白い花です。清楚な印象を受けます。日曜日に青梅がザル2杯分とれました。ラズベリーの赤い実もなりはじめました。夜、ホタルを見に出かけると、見物客の方が多いくらいでした。

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2006年6月 5日

グッドナイト&グッドラック

著者:ジョージ・クルーニー、出版社:ハヤカワ文庫
 映画をそのまま本にしたものです。この映画は福岡・天神の映画館で見ました。今も映していますので、まだ見てなかったら、ぜひ見てください。
 いまどき珍しい白黒フィルムの映画ですが、それが余計に時代を感じさせる迫真のストーリー展開です。かつては、テレビもこんな青臭い正論を堂々と論じていたんだと改めて感嘆しました。今は田原総一郎をはじめ、あまりにも小泉・自民党べったりで嫌になってしまいます。マローは、マスコミ人向けの講演会で、こう言いました。
 50年後、100年後の歴史家が、もし現在の三大ネットワークの一週間分のテレビ番組を見たならば、彼らはこの世にはびこる退廃と現実逃避、一般社会との隔絶を感じることでしょう。今の我々は裕福で肥え太り、安楽さの中に浸り切って、不快な、または不安をもよおすニュースにはアレルギー反応を起こします。マスメディアもそれに追随しています。だが我々はテレビの現状を直視しなければなりません。テレビは人を欺き、娯しませ、そして現実から目をそらさせる。そのことに、制作者も視聴者もスポンサーも気づかなければ、手遅れになってしまうのです。
 ええっ、これっていつの講演なんだろう・・・。なんと今から50年前の1958年 10月15日のことなんです。昭和33年10月です。まさか、と思うでしょ。今はテレビはもっと堕落がすすんでいます。1950年2月にアメリカで始まった赤狩り旋風に CBSのエド・マローが敢然と反旗をひるがえしたのでした。
 マローは、あまり表情を変えず、平板だが、よく通る語り口でテレビに向かって話した。
 マローの家は貧しくて、高校を卒業しても、大学に進学させるだけの家計の余裕がなかった。そこで、マローは自分で稼ぎはじめた。森林監督の仕事だ。そしてカレッジに入り、スピーチ学部に所属した。大学卒業してマローはCBSに入り、第二次大戦中のイギリスに渡り、ロンドン空襲を実況中継して有名になった。マローがマッカーシーの赤狩りを問題だとして取りあげようとしたとき、CBSの経営陣は、こう言った。
 経営は編集に介入しない。だが、編集が何百人という従業員の身を危うくさせることは許せん。
 それを乗りこえて、マローはマッカーシーを次のように厳しく弾劾した。
 ウィスコンシン州選出の新進上院議員の行動は、同盟諸国に驚きと狼狽を与え、我々の敵国を有利にしました。これは彼一人の責任でしょうか。彼が恐怖を生みだしたのではなく、それをうまく利用したにすぎません。ブルータス、悪いのは運命の星ではない。我々自身なのだ。グッドナイト、そしてグッドラック。
 このマローの番組を、およそ4000万人のアメリカ人が見ました。CBSには、2日間で1万3000件がマローを支持し、1400件がマッカーシー支持の電話をかけてきた。電話と電報の洪水は、1万件以上。手紙は数日間で7万5000から10万通に達した。良識あるアメリカ人はマッカーシーを苦々しく思っていて、マローのような勇気ある告発を待ち望んでいたのです。
 ニューヨーク・タイムズは、次のようにマローの番組を高く評価しました。
 ジャーナリストとしてのはっきりした責任感と、勇気に裏づけられた報道だった。これまで弱腰のそしりをまぬがれないテレビ報道の中にあって、しっかりとした市民権を主張した画期的な番組であった。
 マローは、マッカーシーと違って、イージー・カム、イージー・ゴーではない。取りつきやすく忘れやすいのとは違って、もっと深いところから考えさせる。マローの言い分は、緩効性である。そのかわり忘れないし、しっかりと根づく。要するに、マローは目覚めなのである。教育なのである。
 マローはマッカーシーに反論して、こうも言いました。
 マッカーシーのやり方を非難したり、反対したりするものは誰でも、共産主義者だと見なされる。それが真実なら、この国は共産主義者だらけということになる。
 なるほど、そのとおりです。今の日本にもぴったりあてはまる言葉ではないでしょうか。
 テレビが単なる娯楽と非難のための道具であるだけなら、もともと何の価値もないということなのです。テレビは単なる電線と真空管の詰まった箱にすぎないことになります。
 今の日本のテレビって、ほんとうに何の価値もないんじゃありませんか。いえ、むしろ有害な存在なのでは・・・。

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2006年6月 2日

血染めの銭洗弁天

著者:伊藤昌洋、出版社:作品社
 鎌倉にある銭洗弁天には私も何度か行ったことがあります。この本では、マネーロンダリングに通じるものとして登場してきます。なるほどマネーロンダリングは銭洗ですね。
 主人公は司法研修所を出ているのに弁護士でなく、予備校の講師として働いています。実は父親は高名な弁護士でした。この点は中坊公平元日弁連会長をモデルとする記述になっています。その妻(主人公の母)が、ある日、惨殺されます。東京で弁護士会副会長までした高名な弁護士の妻が玄関先で殺された事件を想起させます。そのとき、弁護士である父は女性と2人で海外旅行中だった。母を殺したのは父が追及していたカルト宗教の信者。ここはオウム真理教がモデルになっています。
 そして、主人公が拾われる法律事務所はマネーロンダリングをやっているのです。なにやら、あの「ローファーム」を想起させる場面です。ところが、いかにも日本的なのは、悪徳弁護士のはずが、いかにも人間味をもつ人物として描かれているところです。
 大沢在昌の「新宿鮫」を思わせるチャイニーズ・マフィアが登場したり、いろいろマネーロンダリングについて学ばされたり、盛りだくさんの社会派ミステリーになっています。
 公害訴訟や住民運動に熱中したあげく、経営に行き詰って解散した法律事務所があるという話がでてきます。本当でしょうか?
 また、医療過誤訴訟で原告(患者遺族側)がうまくいってなかったところ、看護日誌を出させたのが凄いアイデアで、それ一つで逆転勝訴したという記述があります。ええーっ、そんなバカなー・・・と思いました。これって凄いアイデアなんていうもではありませんよね。
 少年時代には秀才と呼ばれ、将来の日本を背負って立つ大志を抱いたはずの彼らが自分でも気づかないうちに、この世の中に生きるうちに少しずつ心が蝕まれ、いつの間にか金に支配され、良心も清潔さも麻痺し、自己を省みない人間に堕落していくんだ。こういうセリフが出てきます。これは、たしかに弁護士になった人は、私をふくめて大いに自戒すべき指摘だとつくづく思います。

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藤沢周平、心の風景

著者:藤沢周平、出版社:新潮社
 藤沢周平の故郷であり、映画「蝉しぐれ」などに出てくる海坂藩のモデルとなった山形県鶴岡市は私にとっても思い出深いところです。弁護士になって2年目からだったと思いますが、山形地裁鶴岡支部まで何回も通いました。石油ショックのとき石油元売りメーカーが「千載一遇のチャンス」として闇カルテルを結んで価格をつりあげました。それによって損害を蒙った消費者が元売り各社を訴えたのです。この裁判は東京地裁と山形地裁鶴岡支部に同時に提訴され、私も原告弁護団の末席につらなりました。原告弁護団員としては恥ずかしながら何の貢献もできませんでしたが、あたかも一人前の弁護士のような顔をして毎回の法廷に鶴岡支部にまで通いました。
 当然のことながら前泊します。冬の寒い日に近くの温海(あつみ)温泉に泊まったり、大勢の原告団との打合せに参加し、法廷にのぞみました。
 静かで落ち着いた城下町であること、鶴岡生協が住民をよく組織していること、灯油は温かい地域に住む人間にとって想像できないほど不可欠のものであること、などなどを身にしみて体感しました。
 この灯油裁判は、消費者を敵にまわしたら大変のことになることを石油業界だけでなく、産業界全般に深く自覚させるきっかけとなった大きな意義のある裁判でした。この裁判を通じて、再任拒否された宮本康昭元裁判官や後に国会議員となった岩佐恵美氏と知りあうこともできました。お二人ともエネルギッシュであり、理論的に秀れていて、いつも感嘆していました。
 この本には、藤沢周平の「蝉しぐれ」を傑作とほれこんだ井上ひさしが、小説に出てくる海坂藩の城下町を地図に示したものまで紹介されています。しかも、小説上の矛盾点まで指摘したのは、さすがは井上ひさしです。
 映画「蝉しぐれ」のオープンセットがそのまま残されており、有料で見学できるそうです。ぜひ、また行ってみたいところです。
 私は司法修習生のころ、同期生(今は石巻市で活躍している庄司捷彦弁護士)からすすめられて山本周五郎の本を夢中になって読みふけりました。江戸情緒たっぷりの周五郎ワールドにずんずん身が引かれました。藤沢周平にこのところ熱中しているのは、山田洋次監督の映画の良さにも影響されています。

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「無言館」ものがたり

著者:窪島誠一郎、出版社:講談社
 五月の連休に熊本城内にある美術館に出かけ、「無言館」の絵画を鑑賞してきました。
 残念ながら、「無言館」そのものには、まだ行ったことがありません。「ちひろ美術館」など、信州方面にはたくさんの素晴らしい美術館があるようなので、ぜひ訪れてみたいと考えています。
 本のはじめにカラーグラビアで絵が紹介されています。伊沢洋の「家族」という絵があります。裕福な家族が一家団欒している情景が描かれています。描いた本人も登場しています。いかにも幸福そうな、落ち着いた雰囲気の絵です。ところが、絵にも登場している弟さんの解説によると、当時はこんな裕福な家庭ではなく、これはまったく兄の想像の産物だというのです。そうなんです。絵は期待をもって夢幻の境地が描かれることもあるわけです。それはともかく、たしかな技量です。これだけの画才をもつ人が、あたら戦病死してしまったというのは、本当にもったいないことです。
 自分の愛する妻や恋人の裸婦像もあります。いずれも、愛情たっぷりの表現です。筆のタッチにそれを感じることができます。「温室の前」というタイトルの絵はいかにも戦前らしい装いの若い女性が3人坐って話をしている情景が描かれています。麦わら帽をかぶり、白いワンピース姿の女性がいます。今もいそうではありますが、戦前のハイカラ女性という方がピンときます。
 「無言館」美術館は、1997年(平成9年)5月、長野県上田市郊外にオープンしました。第二次大戦で戦病死した画学生の作品と遺品が展示されています。美術学校に学ぶ画学生ですから、その腕前は確かなものです。戦没画学生は、たいてい20代です。画をみればみるほど、あたら才能を喪ってしまったことが、国家的な損失だと惜しまれてなりません。こんな話が紹介されています。
 画学生は戦場に行っても、とてもマジメだった。絵の勉強に一生懸命な画学生であればあるほど、戦場でもいちばん前線に立って戦った。絵筆をにぎって一心に絵を勉強していた情熱と同じように、だれよりも前に出て敵と戦った画学生が多かった。
 なんということでしょうか・・・。言葉に詰まります。
 絵を描きたい。絵を描きたいと叫びながら、ついに生きて帰って二度と絵筆をにぎることのできなかった画学生たち。父や母を愛し、兄弟姉妹を愛し、妻や恋人を愛し、そして祖国を愛しながら、聖戦という美名のものに戦場にかり出され、飢餓と流血の中で死んでいかねばならなかった・・・。みんな、20歳台、30歳台の若さだった。
 「無言館」をつくるとき、戦没画学生の作品を見世物にして金もうけをたくらんでいるのではないのか。それではあまりにも画学生たちが可哀想だ。そんなものは、国につくらせたらいいのだ。
 こんな非難の手紙も舞いこんできたそうです。私も、その気持ちも、まったく分からないじゃありません。しかし、待てよ、という気もします。国によって殺されたのは事実だとしても、国がそのことを自覚し、反省していないときに、国につくらせるのを待っていたら、いつまでたってもできっこない。そのうちに画学生の遺族の方まで死に絶えてしまう。そんなことでいいのか・・・。
 反対に、国のつくった美術館ができたとしても、画学生の遺族が国に作品を預ける気になるだろうか、だから、ぜひつくってほしいという手紙も来たそうです。私は、やはり、こちらにひかれます。
 著者は、戦没画学生の遺族をたずねて全国をまわりました。その反応はいろいろありました。でもでも、善意の資金も得て、美術館を開館することができました。
 やはり、平和っていいな、戦争って理不尽なものだな、つくづくそう思います。
 ゴールデンウィークに、いい絵画を見て、心が洗われました。ぜひ、長野に出かけよう。そう思ったものです。

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2006年6月 1日

米軍再編

著者:江畑謙介、出版社:ビジネス社
 テレビでおなじみの軍事評論家による米軍再編の解説書です。なにしろアメリカの基地再編のために日本政府が3兆円も負担しようというのです。小泉純一郎の個人資産で3兆円を負担するというのなら、私も何も文句は言いません。でも、私たち国民の税金を3兆円もアメリカ軍にささげるというのですから、私は絶対に許せません。この4月からリハビリ期間は6ヶ月までと制限されてしまいました。ほとんど寝たきりの私の老母も、そのおかげで病院を追い出されてしまったのです。国民の医療・福祉予算の方はバッサリ削るのに、アメリカ軍のためには必要性に疑問があっても惜しげもなく巨額の税金をそそぎこむというのです。あきれるというより、怒りに全身が震えます。本当に身体がわなないてしまいます。政治って弱いものを救うためにあるっていうのは絵に描いたモチ、なんですか。とても黙ってはいられません。
 アメリカの国防予算は2004年度に4013億ドル。世界の軍事予算の総額8000億ドルの半分を占めることになる。アメリカは、2002年1月から、アメリカ本土の基地を整理統合する計画をすすめている。本土の基地には25%の余剰があるので、それを閉鎖・縮小して予算を削減しようというもの。
 日本は、イギリスと並んで、アメリカ軍の全世界展開を支えるもっとも重要な戦略展開拠点と位置づけられている。他には、グアム(太平洋)とデイエゴ・ガルシア(インド洋)のみ。
 日本は、戦略的に重要な位置にある。価値観が近く、政治的に安定し、高度の技術と経済力をもち、既に相当の規模でアメリカ軍基地のインフラが存在しているという条件をもっている。つまり、アメリカは日本を、アメリカ軍の全世界展開における、太平洋をこえた最重要前進拠点の一つと位置づけている。ですから、アメリカが日本の基地を手放すなんて、考えられもしないことなんです。
 基本的にはアメリカ軍のミサイル防衛システムは在日アメリカ軍基地と司令部を守るためのもの。日本にアメリカ軍部隊を置いていても、施設の維持経費はもとより、運用経費の多くまで日本が負担してくれるので、アメリカ軍の経費は他の国に置くよりずっと少なくてすんでいる。だから、無理してまで在日アメリカ軍部隊を削減する必要はない。
 横須賀港を出たすぐ前の海面につくられた艦船消磁施設は、海上自衛隊と共用ではあるが、西太平洋における唯一の施設だ。消磁施設は鋼鉄の艦船にたまる磁気を除去するためのもので、磁気感応機雷や魚雷に対する防護には書かせない施設である。これがないと、一定期間ごとに消磁施設のあるハワイやアメリカ本土に戻らなくてはならない。
 原子力空母を日本に配備するときの問題点は、横須賀に原子炉関係の修理・整備機能がないこと。
 アメリカ軍が硫黄島をつかいたがらないのは、厚木から1250キロも離れた洋上にあること。2時間もかかるし、途中で天候状態が悪化したときに引き返すかどうか難しい判断を迫られるから。三沢基地は冬の天候が悪くてダメ。年間で通算2週間も訓練できない。
 ラムズフェルド国防長官は、イラクのフセイン政権を倒せば、イラク国民は歓呼の声でアメリカ軍を迎え、イラク国家の再建において、アメリカ軍に積極的に協力してくれるはずだと、勝手に思いこんでいた。しかし、もちろん、現実はまったく違っています。
 アメリカ軍のシー・ベース構想は、海岸から46キロ(25海里)以上はなれた洋上より高速輸送手段で重装備を陸揚げし、兵員はヘリコプターやチルトローター型輸送機で内陸にある目標に対して攻撃をかけるというもの。1日1000トンの補給を要する。
 2005年4月時点で、ヨーロッパにいるアメリカ軍は6万2000人(うち3000人は予備兵力)。ヨーロッパにあるアメリカ軍施設は5ヶ国に236ヶ所。冷戦期のピークからいうと3分の1に減った。
 韓国にいるアメリカ軍は3万7500人。2008年までに、その3分の1。1万2500人が削減される計画だ。在韓アメリカ軍は、公式には一兵、一機も湾岸地域には派遣されていない。この10年間に、アメリカ軍も韓国軍も大きく近代化して能力が高まった。しかし、北朝鮮の軍隊は10年前と変わらない。こと通常戦力に関する限り、相対的に近代化されていない北朝鮮による軍事力による脅威は大きく減少した。
 キューバにあるアメリカ軍のグアンタナモ海軍基地については、1903年以来、アメリカが借用しているものなので、今も年間4000ドルの借地料を支払っている。
 世界中に我が物顔でのさばっているアメリカ軍のおかれている状況が概観できる本です。
 肥後菖蒲が咲きました。色は濃い赤紫で、なにやら高貴な気品を漂わせ、ふかふかのビロードの膚ざわりなので、つい触ってみたくなります。黄色のワンポイントカラーが混じっているので、人目を魅きつけ鮮やかさもあります。

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2006年6月30日

旭山動物園・革命

著者:小菅正夫、出版社:角川ワンテーマ新書
 5月の晴れた日曜日に、はるばる旭山動物園まで出かけて見物してきました。これだけ話題になると、やっぱり見たいものですよね。福岡から東京経由で旭川空港に降りる手もありますが、私は札幌からJRで行きました。朝8時の特急に乗って、バスをつかって午前10時前に着きました。入場料こみのJRセット券です。山の斜面にある広々とした動物園で、観光バスが続々やってきていました。
 予定時間が2時間ほどしかありませんでしたので、園内マップを片手に見落としのないよう、話題の動物たちを急いで見物しました。まあ、そんなに慌てることはありませんでしたけどね。
 残念なことに、ペンギンの散歩は見ることができませんでした。あれは冬だけのイベントなんですね。円柱トンネルを目の前で泳いで通り抜けていくアザラシは、幸い2回も見ることができました。行っても全然見れない人もいるそうです。気まぐれというか、彼らの気のむくままなので、これは仕方ありませんね。ホッキョクグマのダイビングは迫力がありました。先祖はヒグマだそうですね。ヒグマのなかから、海に住んでみようと思った連中が出てきて、ホッキョクグマになったのです。デッカイ身体ですが、水中での身のこなしがあまりに軽々としていたのに目を見開きました。
 オランウータンにも面会できました。オスの顔の大きさは迫力があります。顔の周囲がエラのように広がっていることを知りました。ここでは、残念ながら高いところの綱渡りは見れませんでした。
 子どもたちが小さいときには、私は何回も動物園に連れていってやりました。大人にとっても楽しいところなんですが、さすがに一人で行く気にはなりません。このところ、自然と動物園から足が遠のいていました。でも、旭山動物園ほど有名になると、おじさん、おばさんたちが観光バスで続々やって来るのですね。子どもがいなくても平気です。若いカップルも大勢きていました。
 虎のオリはタテが6ミリ感覚、横は15ミリ感覚。人間の目は、横にたくさん仕切があると、わずらわしく感じる。ところが、タテの間仕切りは少しくらい密であってもいいという。だから、こんな間仕切りになっているそうなんです。
 猛獣たちが人間の都合で狭いオリに閉じこめられているのは可哀想ですが、ゴメンネといいながら、いつも動物園を楽しんでいます。
 著者は私と同じ団塊世代です。動物園をよみがえらせようとがんばっている姿に同世代として励みになります。

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鴉(からす)よ、闇へ翔べ

著者:ケン・フォレット、出版社:小学館文庫
 第二次大戦中、秘密任務を帯びた50人のイギリス女性がイギリス軍(SOE)によってナチス・ドイツ占領下のフランスへ空路送りこまれました。そのうち36人は生き延びましたが、残る14人は命を落としました。この小説は、その実話にもとづいています。 ときはノルマンディー上陸作戦がはじまる寸前のことです。そうです。映画「史上最大の作戦」のことです。ナチス・ドイツの通信施設が有効に機能していると、ことは厄介です。上陸作戦を台無しにしてしまう危険すらあります。フランス現地にいるレジスタンス勢力と力をあわせて、この通信施設を叩きつぶしておきたい。イギリス軍は、そう考えました。この通信施設を外からレジスタンスの武装勢力に襲わせたところ、失敗してしまいました。あとは、清掃作業員に化けて内部に侵入して爆破するしかありません。そこで、女性ばかりの特攻隊が組織されます。そのメンバーの顔ぶれがすごいのです。殺人罪で服役中の女囚を刑務所から連れ出します。太った爆破専門家もいます。きわめつきは、女装したホモの男性です。
 ドイツ側も、ロンメル元帥の腕ききの部下を派遣して通信施設を守ろうとします。もちろん、ゲシュタポもいます。両者は反目しあいながらも共同作戦をすすめていきます。
 ドイツ側に捕まったレジスタンスは簡単に白状させられていきます。そうですよね。私なんか、いの一番にイチコロでしょうね。ちょっとした拷問でも、とても耐える自信なんて、ありません。あることないことペラペラしゃべってしまうでしょうね。でも、白状したところで、どうせ殺されてしまうのが捕虜の悲しい運命です。あー、戦争なんて、嫌いだ・・・。平和が、やっぱり一番です。私が小泉純一郎の、あのノッペラした顔が嫌いなのは、脳天気な顔で私たち日本人を戦争に引きずりこもうとしているからなんです。
 イギリスの女性が次々にフランスへ飛び立っていったのは、彼女らの愛する男性たちがどんどん死んでいっているのに、自分たちだけ安閑としているわけにはいかないということでした。戦争で身近な人が殺されると、きっとそういう気分になるのでしょうね。イラクで毎日のように自爆テロが起きているのを知るにつけ、そう思います。
 文庫本で800頁近い厚さですが、映画を見ているようで、スラスラと読めてしまいました。イギリス映画「シャーロット・グレイ」を思い出させる本でした。

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脳のなかの倫理

著者:マイケル・ガザニガ、出版社:紀伊国屋書店
 普通の性交による場合でも、精子と卵子が合体してできた胚の6割から8割くらいは自然に流産している。ひぇーっ、そうだったんですか・・・。
 加齢とともに脳は「やせる」。20歳から90歳までのあいだに脳の容積は5〜10%も少なくなる。なるほど、そうなんでしょうね・・・。
 脳の回転が鈍くなるのは、ミエリンが失われることによる。ミエリンに覆われたニューロンは、いわば高速イーサネットに接続したコンピューターで、ミエリンのないニューロンは普通の電話回線でインターネットにつないでいるようなもの。
 結婚して家族を持つことには人を社会生活に適合させるという効果がある。その輪からのけ者にされた男性は、欲求不満のはけ口を求めて暴力的な行動に向かう恐れがある。男女比がアンバランスになると、社会が攻撃的になってしまう。うんうん、なるほど。
 リタリンという薬を飲むと、SAT(大学進学適正試験)の点数が100点以上アップする。ふむふむ、そうなのか、知らなかったぞ、これは・・・。
 脳は、本人が気づく前に、いくつもの決断をしている。たしかに、そう思います・・・。
 ポリグラフをつかったウソ発見テストには科学的な妥当性がないに等しい。
 脳指紋というのがあるそうです。これは、人種も年齢も性別も、母国語が何かも関係なく、英語の知識も必要ない。ただ、画像に見覚えがあるかないかに応じて生じる脳の活動の記録のみ。この脳指紋法には、思想の自由の侵害にあたるという批判もあるそうです。
 人間の脳は、過去の記憶が間違うようにできている。私たちは、入ってくる情報をことごとく自分に都合よく解釈している。
 記憶が消えやすいおかげで、脳は些細な情報でパンクせずに、重要な情報だけを残しておける。そうですよね、なんでもかんでも覚えていたら、気が狂ってしまいますよね。
 記憶は私たちをだます。というのも本当は顔の一部しか見ていなくても、脳が残りの部分をひとりでに充填するか、想像力で補うかして、顔全体のイメージを完成してしまうから。そうですか・・・、つくりあげるのですね。
 信念を生み出すのは左脳。左脳は、世界から受けとった情報に何らかの物語を付与する仕事をしている。女性よりも男性の方が自説を頑なに手放さない傾向がある。
 人間の脳が、このように科学的に分析されていくと、なんだか心の奥底まで見透かされてしまうようで、怖い気もしますね。

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2006年6月29日

サフィア

著者:ヨハンナ・アワド・ガイスラー、出版社:清流出版
 2005年12月のイラク国民議会の選挙で初議席を占めたイラク女性議員の半生を描いた本です。オビにある文章を紹介します。
 イラクの若い女性政治家、サフィアは父がシーア派のベニ・タミム族を率いる有力な族長で、サダム・フセインの政敵だった。サダムの影響力が強くなり、サフィアが4歳のとき、レバノンに一家で亡命を余儀なくされた。その後も、ヨルダン、サウジアラビアを転々とし、ついに父はサダムの命令で暗殺されてしまった。父の遺志を継ぐべくサフィアは、混乱するバグダッドにいち早く帰還した。2004年9月、エジプト大使に指名され、エジプト2005年12月の選挙で念願の議席を得た。
 いま、サフィアは40歳。サフィアとは、アラビア語で、清純、を意味する。
 サダム・フセインは婚外子の烙印を押されていたが、出身地であるティクリート出身のスンニ派を軍隊と警察の主要なポストにつかせ、彼が目をかけた者も同じことをして、軍と治安機関の中枢に強大なティクリート一派が育った。ティクリート派はバース党の中核となった。そのおかげでサダム・フセインは彗星のように出世できた。
 サダム・フセインの策略は、いつも、ある部族の主要人物を重要な地位につかせたり、贈り物をしたりして喜ばせ、それと同時に脅迫して、その部族の支持をとりつける、飴と鞭のやり方だった。サダム・フセインは、部族の長の選挙に介入し、誰を最高位の族長にするか指図した。主に二番手か三番手にいる者を上に持ち上げた。逆らうのは自殺行為だった。この方法で介入された部族は、その忠誠関係も権力構造も崩壊した。競争が始まって、一族の団結が崩れたからだ。
 ソ連はサダム・フセインのために巨大な要塞を建てた。そこに、サダム・フセインは政敵を投獄し、拷問した。ドイツの企業は、サダム・フセインの兵器庫を建設した。ロシアとフランスは、イラク軍の軍備拡張をめぐって競争した。アメリカもイラクの高度武装化を強力に支援した。CIAは、イラン革命政府に対する戦争のための情報をサダム・フセインに流した。
 サフィアは女性なので族長にはなれない。しかし、もちろんベニ・タミム族からの支持は得ていた。
 イラク国民の60%が女性なのに、イラクの支配機構50のポストのうち、女性に与えられたのはわずか4席にすぎなかった。サフィアがポストを争ってなれなかった役職についた女性は数週間後に殺され、その後を引き継いだ女性も息子を爆殺されてしまった。
 サフィアはクルド人の男性と結婚した。そして、サダム・フセインがアメリカ軍の侵攻によって倒されたあと、アメリカ軍の輸送機に乗ってバグダッドに帰っていきました。
 イラクの族長クラスの女性の生きざまとパワフルな活動が伝わってくる本です。
 ただし、サフィアは宮殿育ちの女性ですから、主としてイラク上流社会の人々の生活が紹介されており、庶民のレベルの目線には乏しい気がします。

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2006年6月28日

脱税、許すまじ

著者:渡辺房男、出版社:NHK出版
 タイトルだけみると、国税当局サイドの本かと思ってしまいますが、読んでみると必ずしもそういうものではないことが分かります。いったい税金は何に使われているのか、何のために増税がなされてきたのか、史実によって具体的に明らかにしているのです。
 それはともかく、この本には日本で税務署が誕生するまでの情景がよく描かれています。NHKディレクターをやっていたという著者の筆力には脱帽です。
 明治20年(1887年)3月19日。所得税法が交付され、7月1日から施行された。国民の反発を抑えるために、官の介入を可能な限り避けるべく、申告納税制度を採用した。必要経費を控除した所得金額が300円以上の富裕層に限定した。彼らなら所得をごまかさないだろうと予測した。所得税調査委員会がもうけられ、そこには質問、調査権が与えられた、しかし、一般の職員には認められなかった。そして、富裕層は正直ではなかった。
 明治25年(1892年)1月、2回目の衆議院選挙が実施された。当時は制限選挙であり、投票できるのは地租や所得税など直接国税15円以上の納税者のみ。つまり、年収1000円以上の人々ということ。投票は記名押印が義務となっていて、誰が誰に投票したか、すぐに分かる仕組みだ。
 明治29年(1896年)11月1日、全国各地に504の税務署が設置された。
 明治11年以来、地租の税率は地価の2.5%に固定されたままだった。明治政府はなんとかしてこれを引き上げたかった。日清戦争後しばらくは好況だったが、その後は景気も低迷していたため、租税の5割を占める地租に手をつけるしかない。ところが、有権者の大半が地主層なため、地租値上げ案は帝国議会で何度も否決された。それが原因で、松方正義、伊藤博文、大隈重信という三内閣が短期間のうちに倒れてしまった。
 明治32年、所得税法が改正され、税務署員に所得税の課税に関する調査権と質問権が与えられた。所得調査委員会は単なる諮問機関に格下げとなった。
 問題は税金のつかいみち。公平だろうが、不公平だろうが、税金は国家に吸い上げられるもの。増税はすべて軍艦や大砲のためのお金だった。これからも戦争のための増税が続くだろう。
 これは登場人物に語らせたセリフです。まさしく、そのとおりになりました。でも、今、小泉純一郎のもとで同じことがすすんでいますよね。歴史はくり返す、です。
 当時の選挙は普通選挙ではありません。有権者はわずか96万人。日本全国の成年男子の8%のみ。92%の貧乏人はカヤの外におかれていました。
 明治政府は朝鮮支配のために海軍の増強を図った。明治15年から、酒税とタバコ税を引き上げ、売約印紙税、証券印税、菓子税を創設し、しょうゆ税を復活させた。これらが、2664万円の海軍増強8ヶ年計画の財源となった。明治20年に新設された所得税も中国(清)との戦争にそなえた海軍拡張策のためのものだった。明治33年の中国での義和団事件の勃発で、酒税・砂糖消費税などの間接税を増やしていった。
 主人公は税務署の直税課長という職にあったエリートコースの道を歩んでいたところ、税制の矛盾に気づき、ついには一転して平民新聞の編集補助の仕事に就くようになるのです。
 小説としても大変面白く、税務署誕生秘話を手にとるように知ることができました。大牟田の永尾廣久弁護士の書いた「税務署なんか怖くない」(花伝社)も面白い本でしたよ。パート?、パート?あわせて1万2000部売れたそうです。まだ在庫がありますので、ぜひ注文してやってください。

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2006年6月27日

セブン・イレブン、覇者の奥義

著者:田中 陽、出版社:日本経済新聞社
 私は極力、コンビニは利用しない主義です。といっても、近くに店がなければ仕方ありません。もはやコンビニを利用しないでは生活できないようになってしまいました。残念です。パパ、ママ、ストアーは衰退の一途をたどり、今や絶滅寸前の品種となってしまいました。嘆かわしいことです。はやく保存措置を講じないといけないと思うのですが。
 消費者の行動は経済学では説明できない。心理学で考えなければいけない。
 鈴木敏文会長の言葉です。なるほど、ですね。セブン・イレブンの1店舗の1日あたり売上高は64万円。ローソンは49万円、ファミリーマートが47万円。
 1日あたりの来客数もセブン・イレブンは1000人をこえ、ローソンとファミリーマートは1000人に届かない。セブン・イレブンの経常利益は1782億円。ローソンはその4分の1の423億円、ファミリーマートは5分の1以下の317億円。セブン・イレブンで自社所有の車は会長車のみ。あとは、トラックなど、すべてリースだ。
 セブン・イレブンの出店戦略は、きわめて明快。同一地域に集中して大量に出店する。これをドミナント(高密度多店舗出店)方式と呼ぶ。同一地域にセブン・イレブンが多数あることで消費者の認知度が上がり、支持も高まる、という考えにもとづく。
 セブン・イレブンの店舗は1万1000店をこえるが、出店地域は34都道府県。ローソン(8000店)ファミリーマート(7000店)が全県に展開しているのと好対照だ。
 ええーっ、セブン・イレブンって、全国どこにでもあるのではないんですね。はじめて知りました。セブン・イレブンの品ぞろえは2500品目。スーパーに比べて、きわめて少ない。
 セブン・イレブンでは、土地・建物をオーナーが用意したときには、オーナーに対する年間所得の最低保証が1900万円、そうでないときには1700万円となっている。売上総利益の43%をチャージ(経営指導料)として支払う仕組みだ。
 私の父は酒類販売店をしていましたが、病気のため権利を売ったところ、買った人は何年かしてセブン・イレブンに業態を変更しました。その人に話を聞いたことがあります。
 それまでは好きなときに魚釣りなどに出かけていたが、セブン・イレブンに変えてからはそれがまったくできなくなった。このように嘆いていました。コンビニのオーナーが、オーナーとは名ばかりで、現代の小作人と呼ばれるのも道理です。
 コンビニの目玉商品がおにぎりです。私自身は意地でも絶対買いませんが、買ってもらったのを食べたことはあります。セブン・イレブンでもっとも販売個数が多いのは「おにぎり」。年間11億個以上。一店で一日あたり3万2000円売れる。コメの共同購入をしていて、年間8000億円にのぼるそうです。コメの炊き方についても、科学的な検証を経て、火加減や水に浸しておく時間、一つの釜で炊くコメの量などを決めておくことで、どこの工場でも同じ味のご飯を炊けるようになった。でも、これって気色悪くありませんか。おコメに化学調味料がまぶしてあるっていう噂もありますが、どうなんでしょう。
 セブン・イレブンは毎週火曜日に全国のOFC(オーナーすなわち加盟店主に店舗運営を指導する相談員)1500人を東京の本部に集め、一日、会議をする。
 午前11時から鈴木敏文会長が30分間、講話をする。単品管理の考え方をOFCに徹底するのだ。単品管理とは、どの商品を、どれだけ発注して、どのように売り場に並べるか、という仮説を立てることが必要だ。仮説を立てるには、天候、気温、店舗周辺の情報を把握する必要がある。
 この毎週の会議に年間30億円の費用をかけている。しかし、逆にいうとそれだけのコストをかけてもいいだけのメリットがあるというわけだ。
 小売業とは教育産業。同じことを繰り返し言い続けて、やっと店舗のレベルが向上する。そのレベルと維持し、さらにレベルアップをするためには、また同じことを言い続ける。ダイレクト・コミュニケーションをやめるつもりはない。鈴木敏文会長は断言する。今は衝動買いの時代だ。だから、待ちの商売ではなく、攻めの姿勢が大切なのだ。
 レジのところに、精算のとき店員が必ず押さなくてはいけないテンキーがある。キーの色は青とピンク。青は男性、ピンクは女性客。数字は12、19、29、49、50となっている。年齢層を意味する。これによって、どんな客が、どんな商品を、いつ、何個購入したか、データとして蓄積される。
 お客の受けとるレシートにも、仕掛けがある。レシートに印刷される広告やお知らせの内容は人によって異なっている。個々の顧客層にふさわしい商品やサービスの情報をレシートに盛りこみ、次の購買を誘おうという作戦だ。
 セブン・イレブンの出入り口の蛍光灯は並行になっている。外から見ると蛍光灯の本数がたくさん見えることで天井が明るく感じられ、入りやすい雰囲気をつくっているのだ。
 日本のセブン・イレブンに陳列している商品の99.99%は本部が推奨する商品で、そのすべてが共同配送センターを経由して店に届けられる。
 あなたは、こんなに管理されているコンビニでこれからも商品を買い続けますか・・・。私は、イヤです。店内にも人間らしさを取り戻したいものです。

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2006年6月26日

謎の豪族、蘇我氏

著者:水谷千秋、出版社:文春新書
 私は奈良に行ったことはありますが、残念なことに飛鳥地方にはまだ一度も行ったことがありません。石舞台古墳とか飛鳥寺(588年に蘇我馬子によって建立された日米最古の本格的な寺院)、そして蘇我氏の本拠地であった甘樫岡の発掘現場をぜひ見てみたいと思っています。
 著者は天皇中心で日本の歴史をみるべきではないと強調しています。なるほど、と思いました。飛鳥寺を建立した蘇我馬子は崇峻天皇(大王)と反目し、ついに馬子は大王を殺害してしまいました。ところが、当時の王族や豪族は、馬子が大王を殺させたことを知っていたのに、馬子を糾弾した形跡がないというのです。
 馬子は対立する穴穂部皇子と物部守屋を殺し、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を大王に立てた。だから、崇峻は馬子によって大王になれたのに、馬子に反抗した。だから馬子から殺されても、周囲の者は誰も馬子を批判することはなかった。崇峻が殺されて1ヶ月後には推古天皇が即位している。この間に混乱はなく、かえって王権は安定したように見える。
 要するに、当時は馬子政権だったというわけです。これは推古朝になっても変わらなかった。推古天皇は自分の意志から厩戸皇子(聖徳太子)に王位を譲らなかった。これは直木孝次郎の説であり、著者も賛成しています。実子の竹田皇子を後継者に考えていたというのです。厩戸皇子は推古天皇が死ぬより前に、49歳で天皇になれないまま死んでいました。ところが、蘇我馬子が80歳で亡くなった。石舞台古墳は馬子の墓とみられる。
 大化改新があったことには否定的な見解も有力です。著者は、皇極4年に蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされ、政権中枢が一新したこと、クーデターのあと、部民制の廃止、畿内制の成立、冠位の改訂、官制の改革などがあったことは争いがない、としています。
 蘇我氏の出自が渡来系かどうかについて、著者は否定的です。渡来系は、自らの系譜を隠そうとしなかったからです。蘇我氏の祖先を渡来人とする説に私は魅力を感じてきましたが、著者は史料上の根拠に乏しいと切って捨てます。うむむ、残念です・・・。
 蘇我氏渡来人説が一般に信じられてきた背景には、この説が古くから日本人に定着してきた蘇我氏逆賊史観とうまく適合してきたことにあるのではないか。つまり、蘇我氏は渡来人なので日本の天皇への忠誠心が薄かった。だから、天皇をないがしろにし、これにとって代わろうとしたのだという理解だ。うーん、そういうことか・・・。
 蘇我氏は、もとは、葛城氏の傘下にいた。大和に入った継体大王の一族を大伴氏と蘇我氏とが積極的に自らの勢力圏に迎え入れた。葛城氏とちがって、継体大王を支持し、その大和定着を積極的に支援した。いや、継体の支持・不支持をめぐって、蘇我氏と葛城氏は対立し、結局、蘇我氏が勝利をおさめたのだろう。そこで、蘇我氏は、葛城氏の正当な後継者として認められ、葛城氏がもっていた権益と地位を受け継いだ。
 そのころ、王権には混乱が相次いだ。弱体化していた王権が蘇我氏と連携することによって実力を回復していった。つまり、蘇我氏あっての王権、蘇我氏と結びつくことによって王権が力を回復していったのだ。なるほど、そういう見方ができるんですね・・・。
 物部姓を名乗る百済の官人がいた。物部と名乗っていたが、あくまで百済国の中級官人だった。倭から百済に移住した物部氏の男性と百済人女性との混血児とみられ、主として両国の外交交渉に介在していた。
 6世紀末以降、飛鳥地方は政治・経済・文化の一大中心地となっていった。その開発をはじめにすすめたのは倭漢氏(やまとのあやうじ)だった。彼らには、これを可能とするだけの土木・建築の技術力・動員力があった。一方で彼らは蘇我氏の配下にあって、事実上、その私兵として働いていた。蘇我氏を軍事面、土木建築面で支えた。
 蘇我氏の配下にあって渡来系豪族が活躍した。倭漢氏は軍事と土木・建築、鞍作氏は仏教と仏像製作、王仁後裔氏族は実務官僚。大陸の先進文明を身につけた彼らの知的レベルは当時の倭人系豪族たちをはるかに凌駕していただろう。蘇我氏の比類なき権勢は、こうした渡来人の能力の上にあった。彼らをつかいこなした蘇我稲目・馬子にも相当な才があっただろう。そして、蘇我氏のもとにいた渡来系豪族の多くは、大化改新後も変わらずに重用されていた。
 日本に仏教が伝来したのに当時の大王や豪族たちがどう対応したか、諸説がある。著者は次の二つを指摘しています。一つは、国内に仏教受容に抵抗する勢力が存在した。二つは、仏教受容は天皇ではなく、蘇我氏の主導ですすめられた。つまり、仏教の受容は天皇以下の支配層の一致した意思ではなかった。
 冠位十二階制定の実質的な主体は、厩戸皇子というより、むしろ馬子だった。十二階に組織された官人=中央豪族の頂点に立ち、実質的にこれを統率していたのは馬子だった。中央豪族によって構成される官僚集団の、いわばトップの座に君臨していた。
 馬子は、冠位をもらう側ではなく、与える側だった。ただ馬子には、大臣の地位のあかしとなる紫の冠が天皇から与えられていた。
 蘇我氏が逆賊ではなかったとする指摘は大いに納得できるものでした。
 アガパンサスの隣りにポワポワっとした毛糸の花のようなリアトリスの紫色の花が咲いています。ヒマワリがぐんぐん伸びてきました。今年は食用ヒマワリも植えているので楽しみです。コスモス畑にもなりつつあります。梅雨空の下で、水田の苗が勢いよく毎日伸びています。

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2006年6月23日

犯罪統計入門

著者:浜井浩一、出版社:日本評論社
 犯罪を科学する方法、というサブタイトルがついています。このごろ日本では極悪犯罪ばかりだ。戦後いちばん少年非行が多い。こんな話がマスコミなどで多いように思いますが、事実は異なります。でも、犯罪統計というのは、かなり操作できるものであることも、この本は明らかにしています。
 最高裁判所の判決に、次のようなものがあります。
 訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的な証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りる。
 これは、髄液の採取・ペニシリンの注入とけいれん発作による死亡との因果関係が争われた、いわゆる東京ルンバール裁判の判決です。この本は、一見もっともらしい言葉が並んでいるが、言語明瞭・意味不明の最たる文章だとしています。そう言われたら、そうですね。これは、最後は裁判官が証拠を評価して、オレが通常人の代表として判断すると言っているにすぎない。このようにコメントしています。なるほど、ですね。
 窃盗の47%は自転車盗などの乗り物関連。少年刑法犯の7割近くは窃盗と横領。横領のほとんどが遺失物横領。
 1999年から2000年に、暴力的色彩の強い犯罪の認知件数が統計のうえで急増した。これは、警察の対応の変化による。警察が通達を出し、広く国民にキャンペーンして、被害届などを積極的に受理したことによる。
 近年、公判請求の比率は上昇傾向にある。また、3年をこえる刑の言い渡しも増加している。判決の刑期が長期化している。
 新しく受刑する人間は、1948年に最多の7万人。1992年に戦後最低の2万人。2003年は、6万人になった。
 満期で出所する人と、途中で仮出獄する人とでは、再入所率に20%の差がある。なーるほど、ですね。
 日本の死刑についてみると、一審判決で死刑を言い渡される人は、この10年間で最高18人(2002年)、最低1人(1996年)です。そして、死刑を執行される人は、1人から6人までとなっています。
 今どこの刑務所も収容者が満杯になって困っています。これ以上、犯罪に走る人が増えない手だてをみんなで考えるべきです。厳罰に処せばいいという考えは安易すぎます。

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駆込寺と村社会

著者:佐藤孝之、出版社:吉川弘文館
 離縁(今の離婚)のための駆込寺といえば、鎌倉の東慶寺と上野国の満徳寺が有名です。この二寺は幕府から縁切寺(えんきりでら)として公認されていました。しかし、縁切寺は、決してこの二寺だけではありませんでした。
 駆け落ち(結婚)のときにも縁切りのときにも、いずれも寺院への駆け込みがありました。戦国時代には寺院に駆け込むことを「山林に走り入る」と言われていました。そして、江戸時代には、村や町の寺院は、すべて駆込寺だった、というのです。いやー、これには私も驚いてしまいました。なーんだ、そうだったのか・・・、という感じです。
 寺院に人々が駆け込むとき、それには実にさまざまな意味がありました。第一に、謝罪・謹慎の意を表明するということです。いわば詫びの作法のひとつでした。二つ目に、裏を返せば、処罰・制裁でもあったということです。たとえば出火したとき、火元は一定期間の入寺が罰として課されていました。第三に、保護・救済を求めて、また調停を求めるというものです。
 博奕(ばくち)、喧嘩口論、わがまま、不届、理不尽、不埒(ふらち)などと称される不法・違法・不行跡があったとき、当人は非を認めて寺院に駆込、寺院の関係者を仲介者として詫びる行為は入寺でした。
 男女が駆け込む先は、寺院ばかりではなく、神社や神主方ということもありました。
 犯罪を犯した者が寺院へ駆け込んだときには、入寺とは言わず、駆込ないし駆入などと呼ばれて区別されていました。たとえば、入寺したことで赦免する犯罪を出火のときに限定しました。それ以外の犯罪については、入寺による赦免を認めなくなりました。
 寺社や地域の有力者に対して、結婚・離婚を目的とする駆込が多発するようになりました。ある有力者宅には、1年間で離縁46件、駆落8件、連れだし・嫁盗み5件などの駆け込みがあったそうです。
 入寺は、すぐれて江戸時代的な営みだった。明治に入ってからは、明治国家の形成とともに姿を消していった。著者は、こう述べています。
 江戸時代の人々の生活について、目を洗われる気がしました。

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核の軛

著者:ウィリアム・ウォーカー、出版社:七つ森書館
 誰も欲しがらないものを生産する工場を、しかも、その管理と廃棄が重荷になるのが分かっていて、なぜ、運転するのか?
 その理由は、20年以上前の契約があり、日本が国内で対処しきれなかった問題をイギリスは引き受けることになっているからだという。しかし、その結果、日本は国内の事態をさらに悪化させることになる。
 六ヶ所の再処理工場の建設費は、構想段階で7000億円と見込まれていただ、結局、2兆1800億円にまで膨らんだ。そして、2004年の経産省の試算によると、発生する使用ずみ核燃料の半分(6万6000トンのうちの3万2000トン)を六ヶ所再処理工場で再処理したのちに廃棄物を処分したとき、核燃料サイクルバックエンド全体で40年間に18兆8000億円のコストがかかると見積もられている。なんとも巨大な金額なので、まったくピンときません。でも、それが国民全体の役に立つ必要不可欠なものならともかく、電力企業の私益のためにつかわれるに過ぎないのだったら、まったく許せないことです。
 日本全国の電子力発電所から毎年とり出される使用ずみ核燃料の量は1000トンあまりで、六ヶ所再処理工場の処理能力は年間800トンだ。
 日本の原発から出る使用ずみ核燃料の大部分は、イギリス・フランスとの委託契約にもとづき、フランスのファーグ再処理工場とイギリスのセラフィールド再処理工場で再処理されてきた。その総量は7100トンにのぼる。
 2004年末の時点で、日本は43.1トンのプルトニウムを保管している。そのうち37.4トンはイギリスとフランスに保管されており、日本国内にあるのは5.7トン。このように大量のプルトニウムを消費する見通しがまったく立っていないのに、なぜ六ヶ所再処理工場の操業開始を急ぐのか。この疑念が日本内外から投げかけられている。
 電力市場に競争原理が全面的に導入されると、原子力は他の電力と太刀打ちできない。そこで、イギリス政府は大急ぎで措置を講じ、10年間は原子力が一定の供給割合を維持できるようにした。日本も同じなのではありませんか・・・。
 プルトニウムは空輸の安全性に疑問がある。そこで、アメリカは、民生用プルトニウムについて、日本とヨーロッパ間の空輸を禁止した。以降、プルトニウムは海上輸送するしかなくなった。
 使用ずみ核燃料の再処理は労多くて、利少なし、である。その必要性と妥当性を今も言い張っているのはイギリス・フランスと日本だけ(このほか、ロシアとインドも)。
 この問題は、よくトイレのないマンションにたとえられます。どんなに、そのマンションが有用だったとしても、人間(ひと)はトイレがなければ住み続けることはできません。しかも、核廃棄物は悪臭で鼻がひん曲がるという程度ですむものではありません。その人と、次代以降の運命を左右しかねない重大な影響力をもっているのです。
 テロリストが原子力発電所を狙ってテロを仕掛けてきたとき、日本は決して万全な国ではありません。そのことを、私たちはもっと重大なこととして自覚すべきです。

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2006年6月22日

愛犬王・平岩米吉伝

著者:片野ゆか、出版社:小学館
 犬の集団のリーダーが決まるときの優先順位が紹介されています。第一に性別。オスであること。第二に年齢。年長優先です。第三に気性の強さ。第四に才能。敏捷な立ちまわりで優位を獲得する。最後の第五に体力。要するに、年長の雄で、気性が強く知恵のあるものがリーダーとなります。犬の世界でも、腕力だけでは上位を占めることはできないのです。なーるほど、ですね。
 平岩米吉は昭和4年(1929年)から自由ヶ丘に住むようになりました。当時の自由ヶ丘は一面の田園地帯です。お寺のほか、水田と竹藪のなかに七面鳥やブタを飼う農家が点在していました。そのなかで、1000坪の敷地に多くの犬を飼いました。フェンスで囲うのですが、金網の下は30センチほど地面を掘って埋めていました。犬は穴掘り名人なのです。
 犬は人間の言葉を理解するのでしょうか?
 犬は単語の意味をまったく理解していないわけではない。固有名詞としては、自分や家族の名前、よく訪ねてくる人の名などは覚える。普通名詞では、食物や動作に関係あるものが大部分。勉強とか進歩など食物や動作と無関係で形のないことは理解しない。動詞も、座や伏せ、待てなど犬の行動と関連のあるものほど理解度が高い。しかし、行けと行くなが正反対の意味だと認識させるのは難しい。犬が言葉を聞くときに集中するのは、言葉の初めの方で、語尾については、ほとんど気にとめていない。
 米吉は、犬が電話を通した飼い主の言葉にどのように反応するか、という実験もしています。1回目は恐がり、2回目は分かり、3回目になって命令をきいたということです。米吉は、犬にも夫婦愛や伴侶を守ろうとする強い使命感があることを発見しています。すごいですね。妻は夫の帰りを待つ。食事もしないで、ひたすら待ち続けるのだそうです。
 米吉は日本最後の狼も飼っています。
 狼は犬と違う。敏捷性が高く、顎の力が強く、興味をもったものや自分の所有物と思ったものは、簡単にかみ砕いてしまう。狼ならではの声は遠吠えのみ。
 米吉が一匹の犬を可愛がると、犬はそれにこたえる。しかし、それが行き過ぎると・・・。深い愛情は、いいかえれば相手をいかに独占するかということ。その関係に立ち入る者は自分たちの幸せを脅かす敵だ。自分以外のすべての存在が敵となる。喜びと落胆と嫉妬と警戒のなかで、常に神経をピリピリさせながらイリス(愛犬)は、米吉の愛情を貪欲に求め続けた。
 イリスの母犬が死んだとき、イリスは絶えず立って行っては動かぬ母の臭いを嗅ぎまわり、その口や鼻や目や鼻をいつまでも舐め続けていた。母犬が棺に納められ、地面の下に姿を消していくとき、イリスは目をいっぱいに見開いてガタガタと震えていた。すごい、ですね・・・。犬と人間がどれほど違うのか、考えこんでしまいます。
 犬の言葉の理解度は、個体差が大きい。その違いは、飼い主の接し方によって生じる。いい加減に放置されている犬と、主人や家族から深く愛された犬では、あきらかに後者の方がたくさんの言葉や複雑な表現を理解できるようになる。
 フィラリアにやられて死んだうちの飼い犬(柴犬)は頭が悪いと思っていましたが、飼い主のレベルをちゃんと反映していたのでしょうね。バカな主人にはバカな犬が似合う、というわけです。でも、まあそれなりに可愛いがっていましたし、今もお盆にはきちんとお墓まいりはしています。
 犬は笑うのか? 実は、笑うのだそうです。うれしいときだけでなく、恐縮したとき、困惑・恐怖を感じたときも笑うのです。
 犬とともに生活した昭和の愛犬王の愉快なお話です。

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2006年6月21日

信長とは何か

著者:小島道裕、出版社:講談社選書メチエ
 すこぶる知的刺激にあふれた本です。ものすごく面白く、うん、こうでなくちゃいけないな。うなずきながら、頁をめくるのがもどかしいほど読みふけってしまいました。
 美濃の斎藤道三が信長に会見を申し入れたとき、大たわけと世間から見られていた信長(当時20歳)は、お寺に入る前は奇抜な格好をしていたが、寺に到着するとすぐに、屏風をめぐらして髪を結い直し、誰にも気づかれずにつくっておいた長袴をはいた正装で道三の前にあらわれた。道三の裏をかいたのである。
 桶狭間合戦についても、通説をコテンパンにやっつけています。今川義元は上洛しようとしていたのではない。そして谷間に陣を構えていたのではなく、桶狭間山に陣どっていた。今川義元はそれなりの人物だった。馬鹿にしてはいけない。信長は、雨のなかでなく、雨のやんだあと、低地から高地へ攻め上がった。それも少人数で正面突破をはかった。
 信長はその作戦を家臣たちにはかることなく独断専決した。あらかじめ家臣たちに明らかにしたら大反対にあうことが必至だったからだ。まわりに事を諮らず、家臣たちの常識は無視するのが信長のやり方だった。信長の作戦がうまくいったのは、はなはだ幸運だったから。これは藤本正行「信長の戦争」(講談社学術文庫)と同じ説です。
 信長の居館が山上におかれた岐阜城には、私ものぼったことがあります。麓にも屋敷がありましたが、家族は山上の館で生活していました。それにしては、かなり険しい山です。
 信長は客人と会うのを、山上から山麓への道の途中で出会うという独特のやり方をとっていた。これは、信長が身分にとらわれない人間だったので、格式と関係なく人に会うことのできる路上での面会を好んだからだ。
 信長が攻めた朝倉氏の館があった一乗谷にも行ったことがあります。発掘がすすんでいて、往古をしのぶことができます。一見の価値がありますので、ぜひ見に行ってください。
 信長の最期の居城となった安土城にものぼりました。このことは前にも紹介しました。
 信長は安土城で、天主を自らの居所としていた。天主に住んだ大名は信長くらいだろう。人目を奪う天主は、信長そのもの。自らを神格化しようとしたのだ。
 いま天主跡を訪れると、意外に狭い感じがするが、そこは、この地下倉庫の内側部分で、しかも、周囲の石垣は上部が崩れているから、それを補って想像しなければならないのである。そうなんです。天主跡は案外に狭くて、私はビックリしてしまいました。
 安土城の本丸御殿は、実は天皇を迎え入れるための施設だった。天主にいる信長が天皇の御殿を見下す位置にいることになる。明らかに、「天皇を従える信長」という構図だ。
 信長は官位に就かなかったが、朝廷の方が無冠では困るとヤキモキしていた。そこで、信長は、太政大臣か関白か将軍かのいずれかを推任するよう朝廷に要求した。これは、「なれるのだが、ならない」という信長の作戦だった。つまり、将軍に推任してくれといったら、もう断ることができない。しかし、「いずれかに」と言っておけば、どのような回答をするのも自由である。官職に任命された権力者となってしまえば、それ以上の者にはなれなくなってしまう。それは朝廷という権威に対する最後の切り札であり、可能な限りそれを引き延ばして、優位を得ようとしたのだ。なるほど、そういうことなんですか・・・。
 信長は、独裁者にありがちだが、人の言うことをまったく聞かない。とくに家臣に意見をされることは極度に嫌う。コミュニケーションがないから、人の不満に気づくのが遅れる。だから、予期せぬ相手がすぐ身近で反旗を翻す結果になってしまう。
 信長は、およそ政権と言えるだけの組織は何もつくらなかった。副官も奉行も何も置かず、すべてを信長が決裁する体制を続けていた。
 信長は各地を征服すると旧来の領主を登用せず、直臣を方面軍として配置して支配を委任し、最終的な権限は信長が持つという支配方法をとった。その結果、信長軍は各地に分散し、中央の信長周辺には軍事力がなくなってしまうことになり、それが本能寺の変を可能にした一つの背景となっている。
 50代も後半になってから上野の統治を命じられた滝川一益を見て、自分も丹波経営に苦労した光秀が、これから先どこに飛ばされるか分からないという不安を抱いたという推測はあたっている。恐らく、そういうことなんでしょうね・・・。
 戦国時代は、戦乱で疲弊しきっていたのではなく、むしろ社会に力がみなぎり、経済が非常な勢いで上向いていて、新しい社会的な枠組みをつくる機運が湧き上がっていたとみるべきだ、という著者の指摘には、ガーンと頭を一発たたかれたほどの衝撃がありました。そうだったんですか・・・。これからは映画「七人の侍」の味方も少し変えなくてはいけないようです。

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2006年6月20日

ベルリン1919

著者:クラウス・コルドン、出版社:理論社
 第一次大戦後のベルリンの状況が庶民生活を通して見事に描き出されています。第二次大戦に至るまでのドイツをあとづけようとする意欲的な大河小説3部作の第一弾です。 660頁もあり、ずっしりと読みごたえがあります。
 ドイツ帝国の首都だったベルリンには200万人をこす人々が生活していた。その人々の1918年冬から1919年冬までの1年間が詳しく語られる。
 ドイツ帝国は戦争をしている。しかし、水兵たちが反乱を起こした。労働者も、戦争をやめさせるためにストライキをしている。片腕をなくした父親が戦場から帰ってきた。周囲には戦没者通知書がどんどん届いている。戦争のせいで、みんな、ひもじい思いをし、凍えている。
 皇帝と将軍たちは勢力圏が広がる。戦争で得をするのは資本家たちだ。戦争はいい商売になる。武器と弾薬はすぐに消費するから、どんどん新しいのがいる。つくるのは工場、買うのは軍隊だ。新しい大砲と弾薬が次々に前線に送られる。そして、その武器で、外国を征服するのだ。だけど、オレたちには関係ない。外国を占領して、オレたちに何の得があるか。得をするのは、またしても資本家だ。そこには石炭や鉄や畑がある。もちろん、製品を売る市場もある。
 そうです。ドイツに社会主義の考え方が広まっていました。しかし、子どもたちの通う学校には、帝国に忠実な教師もいて、ちょっとでも反抗すると、手きびしい体罰を加えていたのです。
 ドイツの社会主義にも派閥がありました。もっとも先鋭的なのはスパルタクス団です。そのリーダーのリープクネヒトは、刑務所に何年も入れられていました。
 11月9日、ドイツ革命が始まり、兵士と労働者が手を組んで立ち上がった。皇帝は退位して外国へ亡命していった。しかし、革命主体がバラバラで、抗争にいそしんだ。
 エーベルトが政治の実権を握るかぎり、将軍と資本家が一緒に政治をするってこういうことなんだ。こんな嘆きが、労働者から聞こえてきます。
 エーベルトは、諸君、すぐに平安と秩序を取り戻さなければ、国民の食料を調達することもままならない。労働者が完璧な勝利をおさめるためにも、平安と秩序が不可欠である。こう演説し、国民の支持を広げた。
 スパルタクス団は少数派だ。内輪もめはたくさんだ。これ以上血を流すのはたくさんだ。平和とパンが欲しい。労働者の切実な声が、強硬派を抑えこみ、反革命がはじまった。
 祖国は崩壊の危機にある。みんなで救おう。敵は外にはいない。内側にいる。スパルタクス団だ。スパルタクス団のリーダーを殺せ。リープクネヒトを殺せ。そうすれば、平和と職場とパンを手にすることができるだろう。
 こんなポスターが貼られるようになりました。
 ローザ・ルクセンブルグが解放されたのは11月8日のことだった。準備が足りなかった。人々の気分をつかまえることができなかった。指導部のいない、気分だけの革命は人々を悲惨な目にあわせ、失敗に終わる。こんな短い期間に、どうやって兵士を味方につけられるっていうのか。連中は、何十年間も、別のことを頭にたたきこまれているんだ。それを数日でくつがえすことなんて、できるか。
 ローザ・ルクセンブルグは虐殺され、遺体はずっと発見されなかった。リープクネヒトは、殴打されたうえ、森を走らされ、後ろから撃たれて殺された。殺人犯たちは軍事法廷で2人が軽い禁固刑を受けただけで、他の者は無罪となった。なんと1962年に国から賞賛もされているというのです。呆れてしまいます・・・。
 重苦しい雰囲気の本です。当時のドイツを決して忘れてはいけないということなのです。
 歴史を学ばないものは盲目と同じだ。格調高いドイツのワイツゼッカー大統領の演説を思い出します。
 日曜日に、フランス語検定試験(仏検)準一級を受けました。なんと10回目、つまり10年前から受けているのです。とても難しくて、ウンウン頭をひねります。年に2回、できない受験生の気分を味わっています。それでも10回目ですので、自己採点では6割をこえ、75点でした(120点満点)。ペーパー試験をパスしたら口頭試験が待ちかまえています。すっごく緊張します。ボケ防止なのですが・・・。

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