弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年5月 2日

下級武士の食日記

著者:青木直己、出版社:NHK生活人新書
 幕末、万延元年(1860年)、紀州・和歌山藩の勤番侍であった酒井伴四郎が江戸での単身赴任中に書き記した詳細な日記帳から、その食生活を再現したものです。
 桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺された2ヶ月後に江戸勤務を始めた28歳の青年節の生活がよく分かります。伴四郎は細かい字で毎日、日記をつけていたのです。もちろん、毛筆です。だから、現代人の私にさっと読めないのが残念ですが、こうやって活字で紹介されると、本当によく分かります。
 享保6年(1721年)ころ、江戸は110万の人口をかかえていた。ロンドンは70万人、パリ50万人、北京70万人だったので、江戸は世界一の人口だった。
 伴四郎は、猪ではなく豚をよく食べた。外出先でも、豚鍋で酒を飲んでいる。ただ、多くの場合、カゼを理由に、豚肉を薬と称している。豚肉は、多くは味噌やタレなどで味をつけ、猪同様、ねぎと一緒に煮て食べていた。15代将軍の慶喜は豚肉好きだったことから、「豚一殿」と呼ばれていた。うへー、そうなんですか・・・。
 江戸時代、一番格式の高い鶴はとくに珍重されていた。二番目は白鳥だった。鷹狩りの獲物として、将軍家から天皇へ塩漬けの白鳥が献上されていた。ただし、一般に好まれたのは鴨だった。
 伴四郎は、昼に飯を炊いて、朝や夕方は粥や茶漬けなどですませていた。京都・大阪の上方では飯は昼に炊いて、煮物や煮魚をおかずに、味噌汁など、2、3種と一緒に食べていた。これに対して、江戸では、朝に飯を炊いて、味噌汁と一緒に食べていた。昼は冷や飯だが、必ず野菜や魚などをおかずとしていた。夕食の多くは、茶漬けに香の物だった。昼食のおかずに重きをおいていた。
 上方の酒は、下り酒として江戸でもてはやされていた。江戸近郊でつくられるものは、地まわりものと呼ばれ、上質な下り物に対して品質的に劣っていた。だから、くだらないという言葉がうまれた。ふーん、そうなんですかー・・・。
 伴四郎の江戸詰手当は年に39両。支出は年に23両ほど。約4割を節約していた。ほかに米が現物支給され、食べた残りの米を売って、2両を得ていた。
 独身の伴四郎が楽しむことのできる場所と仕掛けが、江戸のあちこちにありました。武士といっても案外、固苦しい生活を過ごしていたわけではないことがよく分かります。

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー