弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2006年4月28日
交通事故の被害者は二度泣かされる
著者:柳原三佳、出版社:ルベルタ出版
交通事故が起きてから警察官がつくった実況見聞調書がひどく杜撰だったため、加害者も被害者も大いに困ったというケースはしばしばです。この本では、どうして杜撰な調書ができるのか、その理由のひとつが解き明かされています。要するに、交通課の警察官が忙しすぎ、ノルマに追われているため、一件一件を丁寧に処理する精神的にも物理的にもゆとりを喪っていることにあるということです。
管内に生じた交通事故について、1日に平均4回前後も出動し、1ヶ月には60〜70回となる。このうち担当するのは1ヶ月に20件くらい。被害者のケガの程度が2週間以内の事故については、簡約特例方式による1件書類をつくる。これは事故後1ヶ月内に診断書を添付して決裁にあげなければならない。これが8割くらいある。ところが、被害者がなかなか診断書をもってこないので、処理がすすまず、1ヶ月をこえてしまうことも多い。
特例書式については、県警交通部より、3ヶ月内に処理するよう指導を受けている。早期処理のためノルマ主義があり、一定の処理件数をこなしていないとならない。処理件数が少ないと、超過勤務手当が削られたりもする。
このように交通警察官があまりに忙しすぎて、もっとも大切な真実追究や事故原因の解明が二の次にまわされている疑いがある。私は、交通警察官が警察署内で冷遇されているのではないかと考えています。警察署内でもっとも優遇されているのは、なんといっても警備・公安警察です。なにしろ、使途のチェックを受けないS(スパイ)対策費を潤沢につかえるのですから、やめられないことでしょう。次に刑事、そしてパチンコ店などをかかえる生活安全課でしょう。
毎日、本当に地道に事故処理を続けている交通警察官の皆さんには頭が下がります。といっても、杜撰な調書を見つけたら、もちろん、私もその不備を弾劾するつもりでいます。
この本ではロサンゼルス市警の交通事故処理の状況が紹介されていて、参考になりました。まず、警察署の入り口の壁に若い殉職警察官の肖像写真がずらり飾られているというのに、日本との違いを実感させられます。ロス市警の黒人警部が、のちにロサンゼルス市長となったということであり、かなり警察署の雰囲気も違います。
ロスでは、交通事故に関する調書は事故当事者であれば、13ドル支払えばすべて見ることができる。著書の開示だけでなく、事故当事者からの直接の問い合わせにも警察は応じている。
ドイツでは、事故直後の実況見聞調書にヘリコプターを飛ばして現場を上空から写した航空写真が添付されている。
日本でも、こんなシステムがあればいいな、と思ったことでした。
歴史のなかの天皇
著者:吉田 孝、出版社:岩波新書
「天皇」号をつかいはじめた時期が、実ははっきりしない。なんて、ちっとも知りませんでした。7世紀初の推古天皇の時代とする説と、7世紀後半の天武・持統天皇の時代とする説と二つの有力説がある。しかし、どちらもはっきりした根拠がない。えーっ、そうなんだー・・・。信じられません。
「天皇」号は、7世紀の東アジアの国際情勢のなかで、随・唐には服属しない。冊封も受けない、という国際意識からうみ出されたものだった。平安時代以降、「天皇」号に対する関心は薄れ、むしろ「天子」号のほうが広く用いられていた。
江戸時代の後期に「天皇」号が復活したが、一般化はしなかった。日本の君主号が正式に「天皇」と規定されたのは、明治憲法が最初であり、一般には「天子」がひろく用いられていた。中世・近世を通じて公家・武家と同じように「○○院」と呼んでいた過去の天皇を、すべて「○○天皇」とよび変えたのは、1925年(大正14年)からのこと。外交文書における「皇帝」を「天皇」と変えたのは1936年のことである。
雄略(「天皇」)は、兄であるアナホ大王(安康)がイトコの目弱(まよわ)王に殺されると、有力な王位継承候補者を次々と殺し、最後に大王の位についた。日本において、大王の位は戦いとって得るものでした。平和な禅譲はなかったのです。
継体王朝は、近江・越前あたりを本拠とする豪族が長い年月をかけて大和に攻め入り、大王位を奪ったというのが、学界でほぼ定説となっているのではないでしょうか。日本の天皇は、決して万世一系というものではありません。
倭の朝廷は遣隋使をやるにしても、「倭王」に冊封することを、ねばり強く拒んでいた。朝貢はするが、冊封を受けて正式の臣下になることは拒んでいた。桓武天皇の母親である高野新笠は渡来系氏族(和・やまと氏、百済系)の出身であった。「皇別」(天皇の子孫)、「神別」(神々の子孫)に比べて、「蕃別」(渡来人の子孫)は一段低くみられていた。
810年の「薬子(くすこ)の変」で藤原仲成が処刑されてから、1156年の保元の乱まで、天皇の裁可による死刑執行は、350年間おこなわれてなかった。これは人類史上、きわめて稀な歴史だろう。奈良時代、死刑はほとんど減刑された。
現代日本は残念ながら、まだ死刑制度が残っています。とりあえず死刑の執行を停止すべきだというのが日弁連の提言です。私も、もっともな提案だと高く評価しています。
江戸時代、天皇は民衆の笑いの対象になっていた。歌舞伎の天皇は、しばしば道化方は、ひげぼうぼうのどてら姿で、空腹に耐えかねて、扇動の飯を盗んで食う仕草で大いに笑わせた。
醍醐天皇も菅原道真を太宰府に左遷したために地獄に墜ちたという話が中世に広く流布した。日本人は、昔から天皇をそれほど神様扱いしてこなかったわけです。
実際、最近のマスコミの雅子さんいじめは度が過ぎているように思います。病気なんですから、もっと優しく見守ってあげたらいいと思うのですが、週刊誌の見出しをみていると、「わが子の入園式のため、公務ドタキャン」とか、ちょっとひど過ぎるように思います。右翼が騒がないのが不思議なほどです。
2006年4月27日
ヒトラー・コード
著者:H・エーベルレ、出版社:講談社
映画「ヒトラー最期の12日間」の原作ではありません。むしろ、映画とはかなり違った状況が描かれています。たとえば、映画ではエヴァ・ブラウン(ヒトラーの長年の愛人で、自殺する直前に結婚して法的に妻となった)の妹の夫となったフェーゲラインを戦線逃亡の罪で死刑だとヒトラーは叫んでいました。この本では、逆に、ヒトラーは妻のためにフェーゲラインをなんとか赦してやろうとするが、側近から諫められる姿が紹介されています。
この本は、映画にも出てくるヒトラーの最側近2人をソ連軍が逮捕し、スターリンの命令でヒトラー最期の日々を再現したものです。スターリンの都合の悪いところは大胆にカットされてはいますが、それをさておいてもヒトラー最期の日々が、500頁もの大作として詳細に明らかにされています。なかなかに読みごたえのある本でしたので、私は3日間ほど持ちまわって、ようやく読了しました。ドイツの若手学者による詳細な注釈があって、歴史的事実を正確に知ることのできるところも魅力的です。
ヒトラーは1945年4月30日午後3時半ころ、ベルリンにある首相官邸地下壕でピストル自殺した。エヴァ・ブラウンはそばで青酸カリを飲んで自殺した。ヒトラーは赤軍の手に落ちたら、檻に入れられてモスクワの赤の広場に運ばれ、怒り狂った群衆の手にかかってリンチされる。このような恐ろしい強迫観念に囚われていた。
スターリンは、ヒトラーが死んだことをなかなか信じられず、不安になっていった。そこで、スターリンは1945年末に、ソ連の内務人民委員部(NKVD)に首相官邸地下壕でのヒトラー最期の日々を再現し、ヒトラーの死を最終的に証明せよと命じた。この報告書「ヒトラーの書」は1949年12月29日にスターリンに渡された。この本は、それを翻訳したものです。
ヒトラーには、愛人がいた。若い姪のニッキーだ。ところが、ニッキーは1932年に自殺した。ヒトラーには子どもがいなかったため、性的不能者ではないかという噂もありますが、そうではなかったようです。
1937年9月、ヒトラー・ドイツ軍の演習場にヒトラー、ムッソリーニと一緒にイギリス軍参謀総長デヴェレル元帥が肩を並べて立った。イギリス参謀本部の代表者がヒトラーのゲストとして、この演習に参加したということは、イギリスがドイツ国防軍の再建と軍備増強を認めたのみならず、それを好意的にみていることの証明だった。イギリスは、このようにして世界に対する過ちを犯した。いやー、本当にひどい過ちですよね。チェンバレンのヒトラー宥和政策と同じ誤ちです。
1941年12月。モスクワを目前に足踏みしていたドイツ軍の東部戦線の戦況に関するヒトラー御前の作戦会議は大いに荒れた。ヒトラーは叫び、拳でテーブルを叩いて、将軍たちを無能だと非難した。このようなシーンは映画に何度も出てきました。
その結果、武装SSとドイツ国防軍の対立は激化した。SS兵は国防軍をこう言って非難した。あいつらには真に突撃精神が欠けている。机上の空論しか言わない。国防軍将校のほうからも不平の声があがった。自分たちよりSS部隊のほうが装備も兵器も優れている。おまけに、あいつらは軍部でも特別な地位にある。要するに、どちらの陣営も相手の方が優遇されていると非難しあっていたのです。
ところが、1941年12月7日、日本が真珠湾でアメリカ艦隊を奇襲したので、ヒトラーの総統本部に活気がよみがえり、モスクワとレニングラードでの敗北は忘れ去られた。そうだったんですか。日本軍が無謀には真珠湾攻撃を始めたとき、ヒトラー・ドイツ軍は既に行きづまっていたのですね・・・。ヒトラーは、1941年12月11日にアメリカ合衆国へ宣戦布告した。このとき、アメリカ参戦のもたらす影響を事前に研究させることもなかった。
1942年5月、ドイツの実業家たちが軍需産業での労働力不足の解消を求めると、ヒトラーは、ロシア兵捕虜とロシアから連行してきた一般住民を労働力として提供することを約束した。
1942年秋、ヒトラーの総統本部の戦勝気分はすっかり消え失せていた。ヒトラーは将官たちとのつきあいを完全にやめ、昼食はひとり執務室でとった。夜は葬送音楽のレコードをかけさせた。極度に神経質になり、壁にハエが一匹とまっただけで激怒した。まるで重病人のように土気色の顔、げっそりした頬、目の下が腫れあがり、陰鬱な表情を浮かべた。
1943年2月、スターリングラードでのドイツ軍壊滅はヒトラーに大打撃を与えた。主治医に興奮剤を注射してもらわないと、ヒトラーはもう耐えられなかった。主治医は1日おきに朝食後ヒトラーに注射をうった。神経性の腸痙攣も起きた。何日もベッドから起きあがれないことがあった。何にでも毒が入っているのではないかと疑い、調理に使う水の検査も命じた。爪をかみ、耳や首筋を血の出るほど、かきむしった。不眠症に悩み、ありとあらゆる睡眠薬を飲んだ。息苦しいので寝室に酸素ボンベをおき、一日に何度も酸素を吸入した。ベッドは電気毛布と電気クッションで暖めた。
ヒトラーは、ガス室の動向に興味をもっていた。移動ガス室(トラック)をつかうよう直々に命令した。やっぱりユダヤ人殺害そしてソ連兵捕虜大虐殺の張本人だったのです。
ヒトラーは高官夫人と女性秘書たちと昼食をとった。たわいのない話に花が咲いた。戦争とその恐怖のことは一言も出なかった。女性のファッションと、戦争が女性に強いる苦労が話題だった。そうやって精神のバランスをとろうとしたのでしょうね。
ヒトラーは、自分が喫した敗北はすべて将軍たちのせいだと言い張った。しかし、将軍たちに責任をとらせることはなかった。ところが、将校たちに対しては敗北主義をとったとして、情け容赦もなく死刑判決が下され、ヒトラーはためらわずサインしていった。
この本では、クルクス進攻作戦、アルデンヌの戦いについても詳しく紹介され、ヒトラーがいかに期待していたかが明らかにされています。
ヒトラーの腸痙攣は、ヒトラーが菜食主義であり、運動不足であったこと、主治医が興奮剤を頻繁に処方したため、腸内菌群が死滅したことによるとコメントされています。
1943年12月、ヒトラーの腰はいっそう曲がり、左手の震えが激しくなった。頭髪はじわじわと白くなった。食事のとき、グラスになみなみと注いだブランデーを一気に飲み干した。もともとヒトラーはアルコールの臭いが嫌いだった。ところが、今や、昼食そして夕食のたびに、かなりの量のブランデーやコニャックを飲んだ。ヒトラーは食事を楽しむということはまったくなかったようです。いかにも人間として狭量ですよね。
1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件のとき、ヒトラーが助かったのは、爆発の瞬間、ヒトラーが上半身をテーブルの上に乗り出して、東部戦線の地図に見入っていたので、頑丈な木材でできたテーブル板が爆発の衝撃を受けとめてくれたから。
このクーデター計画に関連して逮捕された人数は7000人をこえ、うち4980人が殺害された。参謀本部などの60人の将校が死刑判決を受けた。
1945年2月末、ヒトラーは声帯の手術を受けた。しょっちゅう金切り声をあげたため、声帯に穴が開いてしまったから。
このころから、ヒトラーは、エヴァ・ブラウンと女性秘書たちとだけ食事をともにした。映画にも、そのわびしい情景が描かれていました。ヒトラーは不眠症に悩んでいたので、女性たちは午前5時、6時ころまで付きあわなければいけなかった。老けこみ、くたびれた様子で、髪は白くなり、腰はひどく曲がり、足を引きずるようにして歩いた。
異常に神経質で落ち着きがなく、ますます怒りっぽくなり、しばしば矛盾した決断を下した。右目も痛みはじめた。ヒトラーは覚せい剤ペルビチンの依存症だと思われています。
ヒトラーがエヴァ・ブラウンと結婚したとき、歩くのもやっとだった。顔は血の気を失い、視線は落ち着きなく、さまよっていた。服もしわくちゃ。エヴァ・ブラウンも眠れぬ夜が続いたため、顔色が悪かった。濃紺のシルクのワンピースを着ていた。
映画は、あまりにもヒトラーを美化していたような気がします。この本をじっくり読んで、その実像をとらえなおすことができたと思いました。ずっしりと迫る重たい本です。読みごたえがありました。
2006年4月26日
あなたのなかのサル
著者:フランス・ドゥ・ヴァール、出版社:早川書房
イギリスの動物園で、ボノボの飼育場のガラスにムクドリが激突して落下した。ボノボのクニは高い木のてっぺんにのぼり、両脚で幹にしがみつき、両手でムクドリの翼をそっと広げ、オモチャの飛行機を飛ばすように飛ばした。ムクドリはまだ目がさめず、飛べないまま地面に着地した。そこで、クニは木からおりて、ほかのボノボが近づかないよう、長いあいだムクドリを見守った。やがてムクドリは元気を取り戻して飛び立っていった。このボノボの行動は、他者を思いやる共感行動ができることを証明している。
別の動物園で、ボノボのリンダが産んだメスの赤ん坊(2歳)が、おっぱいをほしがった。赤ん坊が人工保育で育ったため、リンダのおっぱいは出なくなっていた。それでもリンダは赤ん坊の要望を理解し、水飲み場に行って口いっぱいに水を含んだ。そして、赤ん坊の正面にすわって唇をすぼめ、水を口うつしで飲ませてやった。赤ん坊が満足するまで、リンダは水飲み場とのあいだを三度往復した。
ボノボのメスには乳房がはっきり認められる。Aカップぐらいはある。ボノボのトレードマークは、まん中分けになっている頭の毛。
ボノボとチンパンジーは身体つきが相当ちがう。チンパンジーは頭が大きく、首が太く、肩幅も広くて、毎日ジムで鍛えているみたい。それに対して、ボノボは首が細く、肩幅も小さくて、上半身がほっそりして知的な外見をしている。二足歩行すると、ボノボは背中がまっすぐで妙に人間っぽい。ボノボは大型類人猿のなかでいちばん最後に1929年に発見された。ボノボは日本にいないそうです。残念です。
チンパンジーとボノボは鳴き声で区別するのが一番簡単。チンバンジーはフーフーという低い声を出す。ボノボは、むしろヒーヒーといった高い声。
野生状態のボノボは、思春期になってもとの群れを離れるのはメスのほう。オスはそのまま残り、母親の庇護を受ける。影響力の強いメスの息子は自然と地位も高くなり、食べ物をとっても大目にみてもらえる。動物園では、メスによるオスのイジメが問題になる。くんずほずれつの乱闘となって、負傷するのは必ずオスのほう。
チンパンジーの世界は、潜在的な暴力という雲におおわれている。動物園でも野生でも、子殺しは死亡原因のかなりの部分を占める。
第二次大戦中、動物園の近くが空襲を受けたとき、3頭のボノボは心臓発作をおこして全員死んだ。チンパンジーは無事だった。それほど、ボノボは繊細だ。
チンパンジー社会は、1頭のオスが単独支配することはまずない。あったとしても、すぐに集団ぐるみで引きずりおろされるから、長続きはしない。チンパンジーは同盟関係をつくるのがとても巧みなので、自分の地位を強化するだけでなく、リーダーは同盟者を必要とする。トップに立つ者は、支配者としての力を誇示しつつも、支援者を満足させ、大がかりな反抗を未然に防がなくてはならない。人間の政治とまったく同じ。
チンパンジー社会では、上下関係があらゆる面に入りこんでいる。メスがトップの座につくのは、誰もがリーダーと認めるからであり、そのため地位をめぐる争いはほとんど起こらない。オスのあいだでは、権力は早い者勝ち。年齢その他の基準で授与されることはない。あくまで競争の末に勝ちとるもの。ライバルたちに用心しながら必死で守るもの。オス同士が同盟関係を結ぶのは、あくまでお互いが必要だから。
サルには厳格かつ安定した序列関係ができている。チンパンジーは、ケンカに介入するとき、勝者も敗者も、ほぼ同じくらい支援する。いくら形勢が有利でも、増えるのは敵か味方か予想がつかない。サルは勝者を応援する。これはサルとチンパンジーの社会が決定的に異なる点だ。負け側に力を貸したりすると、上下関係に動きが出てくる。チンパンジーのトップの座はサルの社会に比べると不安定なのだ。
人間の笑顔は、もとをたどれば懐柔の合図。だから男性より女性のほうがいつも笑顔でいることが多い。うーん、そうなんですね・・・。だから、私は、いつもニコニコしているんですね。
ボノボのセックス好きは有名です。だから、子どもが見物にいく日本の動物園にはボノボがいないのでしょうね。あれ、何してるの?と子どもたちに訊かれたら赤面して、引率の先生はシドロモドロになってしまうことでしょう。ボノボが交尾に要する時間はおどろくほど短く、平均14秒。だから、ボノボの日常は、いつ果てるともしれぬ乱交パーティーというのではなく、親密な性的接触をスパイスのようにまぶした社会生活である。
セックスといえば、子づくりと性欲のためと人間は考えがちだが、ボノボにとっては、セックスのためのセックス、宥和のためのセックス、愛情表現の性行動など、あらゆるニーズをセックスで満たしている。めざすところは満足感であり、生殖はセックスの一機能にすぎない。ボノボやチンパンジーのオスは、成熟しきったメスを交尾相手に選びたがる。若いメスには目もくれない。すでに健康な子どもを産んだ実績を重視しているからだろう。
ゴリラは、家族を守るためなら、死もいとわず敵に向かう。ボノボの生息域にはゴリラはいない。チンパンジーの活動範囲はゴリラとぴったり重なりあい競合している。
ボノボは、永遠の若さをもつ霊長類だ。頭は小さくて丸みを帯びており、白いふさのような尾がはえたまま。声は甲高いし、メスの性器が全面にあるのも、幼形成成熟のひとつ。おとなになっても茶目っ気が抜けない。
世界に残された類人猿は、チンパンジーが20万頭、ゴリラが1万頭、ボノボとオランウータンが2万頭だけ。2040年には類人猿に適した生息環境が完全に消えるという予測がある。
著者の「政治をするサル」(平凡社)を読んだとき、私は本当にびっくり仰天してしまいました。まさしく人間と同じで、いかにも高度の政治をするサルの世界が紹介されていたからです。離合集散みごとな高等芸術でした。自民党の派閥抗争なんか顔負けです。果たして、人間はチンパンジーに似てるのか、それともボノボに似てるのか。また、どちらに似たほうが人間にとって幸福なのか。いろいろ考えさせられる本です。
2006年4月25日
泣いて笑ってスリランカ
著者:末広美津代、出版社:ダイヤモンド社
私は紅茶が大好きです。ミルクティーをゆっくり味わいながら本を読んでいると、幸せ感に全身が包まれてしまいます。
紅茶の名産地、スリランカに日本人女性が1年間滞在して、体当たり紅茶修業をしたのです。すごいですね、日本の女性は。タフでなければやっていけません。精神的にも、そして胃腸の方も・・・。
紅茶にもいろんな種類があることを、今さらながら思い知らされます。といっても、私の毎朝のしょうがとハチミツ入り紅茶は、悲しいことに生協のティーバッグなのです。
紅茶のテイスティングは、口にふくむことから始まる。このとき、できるだけ空気と触れさせるために、ズズズと音を立てながら吸う。行儀はよくないが、これがテイスティング。そして、鼻から空気を出す。そのときに、鼻をすっと抜けていく香りをチェックするのだ。そのあと、ぺっと吐き出す。決して飲みこんではいけない。
ミルクティーには、砂糖山盛り1杯とコンデンスミルク普通盛り1杯を入れる。スリランカでつかう砂糖は日本のものより甘みが少ない。だから、想像するほど甘くはない。
スリランカでは、ミルクティをつくるとき生乳はつかわない。粉ミルクをつかう。冷蔵輸送のインフラがととのっていないから。家庭の冷蔵庫に入っているのはココナッツミルク。
スリランカの食事はカレー。左手は不浄の手なので、右手だけで食べる。食べる分だけを混ぜる。人差し指から薬指をつかい、小指は軽くそえる。指をスコップのようにして混ざったカレーをすくう。そして口のところまでもっていき、親指でカレーを押し出すようにして口に入れる。食卓に肘をついて食べる。熱いものでも、少し冷めてから食べる。
晩ご飯は夜の9時。夕方5時にティータイムがある。食後に紅茶を飲む習慣はない。食後は決まって水。一度沸かして冷ました常温の水をがぶ飲みする。
紅茶の葉っぱは一芯二葉で摘む。芯芽とその下についている葉っぱ2枚を摘む。でも、三枚目の葉っぱがもしソフトなら一緒に摘んでもいい。
雨が降っても紅茶は摘む。ビニールシートを頭からすっぽりかぶって・・・。
軟らかい葉っぱには、紅茶のおいしさの元となる化学物質がたくさん残っている。
乾期になると、紅茶の生産量は格段に落ちてしまう。しかし、その分だけ紅茶のうま味がぐっと出てくる。劇的に味が良くなる。
インドのダージリン、中国のキーマンと並ぶのが、スリランカのウバ。メントールの味と香りが強烈だ。
スリランカでは、ミルクティをつくるとき生乳はつかわない。粉ミルクをつかう。冷蔵輸送のインフラがととのっていないから。家庭の冷蔵庫に入っているのはココナッツミルク。
スリランカで結婚するときには、やはりカーストが問題となる。自分の身分に見合う人を親が探し出し、親が決めた人と結婚する人が多い。
日本女性の健康はつらつとした行動力に、男も負けてなんかいられないと、つい思ってしまいました。それにしても、おいしいミルクティーを味わいたいものですよね。ご一緒に、いかがですか。
2006年4月24日
またまた、へんないきもの
著者:早川いくを、出版社:バジリコ
私は、いつも奇人・変人と言われています。もっとも、本人はいたって平凡な常識人だと自負しているのですが・・・。テレビを見ない。プロ野球にもゴルフにも興味がない。カラオケも歌謡曲も大嫌いだ、なんていうと、やっぱり、この世の中では変人の類なのかもしれません。でも、でもでも、この本を眺めると、私のようなものはまだまだ変人なんて域には達していない、単なる凡人でしかないことを確信します。
そう、そうなんです。自称・他称の奇人・変人に生きる勇気を与えてくれるのが、この本なんでーす。いかにも奇妙奇天烈な変てこりんの生き物たちの堂々たるオンパレードです。本当は絵を見てもらえば、その妙ちくりんの姿につい笑いたくなるほどなのですが、ここでは示すことができませんので、機能の方で、その変てこりんぶりを紹介します。
ツノトカゲは追いつめられると、なんと目から血を発射して敵を威嚇する。射程距離は1メートル。発射後は角膜がきれいになるのをぐっと待つ。ビーム砲のように血液を噴射するなんて、まさに怪獣ですよね。
セアカサラマンダーは、一夫一婦制の両生類。メスはよそのメスとつがった浮気なオスに対し、殴る、かむなどの激しい攻撃を加える。おー、こわ、こわ・・・。
地球で一番長大な生物はクジラでもヘビでもない。なんと、クラゲ。体長40メートルのクラゲ。しかし、このクラゲは、遊泳、消化、浮力調整、生殖など、それぞれが機能別に変身している。つまり集団でありながら一匹の生物としてふるまう群体生物なのだ。
シュモクバエでは、オス同士は顔つきあわせてお互いに目玉の離れ具合を入念に計測する。目と目の距離はオスの遺伝子の優秀さを表示している。この計測で勝負が決まると、敗者は黙って引き下がる。うーん、潔ぎよい・・・。
ホシバナモグラは、鼻が星のようにヒラヒラしています。まるで変です。でも、鼻先にある22本のセンサーは常にピクピクと動いて、世界を触覚で認識しているのです。世界でもっとも精密なセンサーと言えます。接触した物体が獲物かどうか、0.025秒で判断し、0.205秒で捕獲。合計0.23秒でたいらげるのです。触覚のみで、この速さなのですから、たいしたものです。わが家の庭にもモグラがいることはまちがいありません。しかし、残念なことにヘビと違って、一度もお目にかかったことがありません。一度ぜひ、そのご尊顔を拝閲させてください。
マダラコウラナメクジは長さが20センチにもなる。連れ添う2匹が50センチに及ぶ粘液の糸をくりだして逆さ吊りになる。そして吊られたまま、銀の粘液に光る肌を寄せあい、絡ませ、よじらせ、身悶えしつつ互いにその身を溶けあわせる。雌雄同体生物であり、両性具有者である。ペニスの長さは85センチにも達し、うっかりするとこんがらがってしまう。ペニスは、プロペラのように、渦巻きのように、そして相手をまさぐる恋人たちの手のように変幻自在に形を変え、ねっとりと舐めあい、溶けあい、互いに精子を交換する。
フランスの自然を観察した映画(「ミクロコスモス」だったと思うのですが・・・)に、カタツムリの愛の交歓をうつしたものがありました。いかにもなまめかしい愛撫がえんえんと続き、ポルノ映画でも見ているようにゴクリとツバを飲みこみ、圧倒されながら見入ってしまったことを思い出します。
サナダムシの長さは長くて12メートル。人間の腸は9メートル。今までで一番長いサナダムシは25メートルあった。サナダムシは全身が生殖器といってもいいくらいで、1日に200万個の卵をうむ。そして、最盛期には1日に20センチは伸びる。
いやはや、いろんな生き物がこの世にはいるもんですね・・・。
2006年4月21日
見えない恐怖におびえるアメリカ人
著者:矢部 武、出版社:PHP研究所
アメリカこそ全世界にテロの恐怖を輸出しているならず者国家の典型だ。私は、そう考えています。そのアメリカ国内で何が進行しているのかを暴いた本です。
全米で離婚に率の高い州はブッシュ大統領が勝利した州が占める。アーカンソー、ミシシッピー、ケンタッキーなど。もっとも離婚率の低いのはケリー候補の地元のマサチューセッツ州。
ブッシュ大統領は福音主義者であるが、福音主義者が多い州では、プロテスタントの個人主義的な信仰が人々に、“我が道を行く”的な生き方を奨励し、また、結婚前の性的関係を禁止する禁欲主義の風潮が強い。もし家族などに結婚前の性的関係を慎むように強く言われ、それに従って結婚したカップルは離婚する可能性が高い。福音主義者の方が、それ以外のキリスト教徒よりも離婚しやすい。うーん、なんだか常識に反する気もしますが、抑えつけすぎると必ず反動があるということなんでしょうね。
アメリカでは成人の64%が太り過ぎ、31%が肥満だ。そこで、最後の手段として、胃を小さくするバイパス手術を受ける人が増えている。これは、患者の胃の最上部5センチぐらいのたるみ部分(小袋のような)と小腸をつなぐ手術だ。こうすると、食べたものは胃の大きな部分ではなく、小さなたるみ部分を通って小腸へ送られる。ここで持ちこたえられるのは、わずか60グラムぐらいなので、少量しか食べられず、だんだんやせていく。問題なのは、この手術には大きなリスクが伴うということです。もっとも深刻なのは、胃と小腸をつないだ部分が破れて、食べたものが体内に漏れ、感染症など、合併症をおこすこと。手術後、2ヶ月以内に20人に1人の割合で深刻な合併症をおこし、患者の50人に1人から200人に1人の割合で死亡している。ところが、胃バイパス手術を受けた人は2005年には17万人に達する見こみだ。
実は、私も中年太りに悩んでいます。鏡に自分の裸身をうつすたびに、小腹の出ているのが、わが身体ながら嫌になってしまいます。若いころはスリムなボデーを誇っていたのですが・・・。それでも、ダイエットは今でも続けているのですよ。朝はニンジン・リンゴのジュースと青汁としょうが紅茶のみです。そのあと昼12時までは一切何も口にしません。胃腸を休めるのです。
驚いたことに、アメリカではペニス拡大手術が流行しています。信じられません。
アメリカでは、女らしさの象徴は性器のほかに胸、かわいい顔があるが、男性はペニスだけという考え方が強い。男のパワーの象徴としてのペニスへの異常なほどのこだわりがある。問題は実物のサイズではなく、精神的な不安、恐れなのである。死人の皮膚をつかって、ペニスを拡大させる。料金は6000〜7000ドル。高度なものだと1万4000ドルもする。これには驚きました。なんとも言いようがありません。
さらに、男性がシリコン筋内豊胸手術を受けているというのです。なんということでしょうか・・・。
アメリカには2億数千万丁の銃が氾濫しているため、その銃によって年間3万人の生命が奪われているのです。
この本の最終章のタイトルは、日本はいつまでアメリカに盲従するのか、というものです。ホントにそうですよね。日本の景気がちっとも良くならないというのに、グアムにアメリカ軍が移転する費用の大半(なんと9,000億円にものぼるのですよ)は日本が負担してあげるというんですから、そのバカバカしさには、開いた口がふさがりません。
私は昔からヤンキーゴーホームでしたが、いま一度ここで叫びたい気がします。といっても、ここでいうヤンキーとはアメリカ軍人のことです。念のため・・・。
なぜ、いま代用監獄か
著者:小池振一郎、出版社:岩波ブックレット
著者はテレビのワイドショーのコメンテーターに長く出演していました。「ワイドショーに弁護士が出演する理由」(平凡社新書)と言う本があります。司法試験の受験勉強を一緒にした仲間です。コメンテーターとして一言いうのもなかなか難しいと語っていました。ときの政府をあまりコテンパンにやっつけてしまうと、次から座敷がかかってこないというのです。さしずめ、今だったら小泉首相を弱者いじめの極悪人だと決めつけるような言い方をすると、次には間違いなくお呼びはかからなくなるのでしょうね。
著者は世界の刑事拘禁施設について調べています。日本の留置場がどんなに警察にとって都合のよいものか、取調べの便宜のために正義が犠牲にされていることを強調しています。私も、自白している被疑者が面倒みてもらっていることを何回となく体験しました。否認している被疑者とは雲泥の差があります。
たとえば、煙草、そして差し入れの食事です。これまで愛人と面会でき、しかも、密室になることが許されたケースも報告されています。その面会のときの写真まであるというのですから、信じられません。
オウム事件の主任弁護人だった安田好弘弁護士は10ヶ月近くも拘置所に勾留されてしまいました。安田弁護士のこの逮捕は、まさに不当逮捕の典型だと思いますが、体験談のなかに次のようなくだりがあり、驚きました。
留置場ではもちろん、拘置所の中にあってもフセンを使うこともできない。カラーマーカーもない。ホチキスもない。えーっ、本当でしょうか・・・。私は、記録を読むとき、カラーマーカーをつかいながら、いくつもの色のフセンをつけていくようにしています。後で読み返すときの便宜のためです。もし、こんな制限が本当にあるのなら、まったくもって不当な制限だと思います。
警察の留置場の規則は厳しい。しかし、これは破られている。消灯時間の夜9時までに房に戻しておくことになっている。ところが、取調べのために、消灯時間を2時間も過ぎた夜11時に戻すことがある。それでも、その時間は夜9時に戻ったことになっている。被疑者は時計をもたされていないし、留置場や取調室には時計はない。だから、被疑者が何時まで取り調べられたか客観的には分からない。うーん、そうなんですね・・・。
警察の留置場に被疑者がいる限り、取調べ官の便宜が最優先してしまうのはあたりまえのことです。ここは、どうしても留置場とは別の拘留場所を確保すべきなのです。
わずか63頁の薄いパンフレットですが、今まさに時宜にかなった内容になっています。
地球遺産、巨樹バオバブ
著者:吉田 繁、出版社:講談社
バオバブの見事な写真集です。一度はホンモノを見てみたいと思うのですが・・・。
この4月から、NHKラジオのフランス語講座の応用編は有名な「星の王子さま」です。そのなかにバオバブが星を食べつくすという話が出てきます。もちろん、そんなことはありません。それどころか、バオバブは人間にとって大変役に立つ木なのです。
樹皮はロープやカゴに、花や葉は食料に、種子は食用油に。樹皮は薬としても優秀で、マラリアや下痢止め、解毒、腰痛などに、葉はぜん息、利尿剤、結膜炎、根はマラリアや強壮剤に、果肉は火傷や結核、果皮は傷、手指は虫歯、はしか、胃炎、バオバブはほとんど万能薬。葉は食用にもなる。若葉は少し粘り気のあるオクラのよう。バオバブの果肉は子どものおやつ。少し酸っぱいサツマイモのような味がする。果肉をとったあとの実の外側も容器として使う。これでビールを飲むと美味しい。そうなんですか・・・。ちっとも知りませんでした。
マダガスカルの人口は、30年前に600万人だったのが、今や1800万人。お米を主食としているので、水田をつくる。この水田開発のおかげで、バオバブの巨木がバタバタと倒れはじめている。いやー、困ったものですね・・・。
バオバブの木は神さまが逆さまに植えた木とも言われている。内部の木材繊維が極端にやわらかい。桐の木は軽いと言われているが0.28gの比重に対して、バオバブは 0.15しかない。四季がないため、内部に年輪がなく、スポンジのような幹のなかにたくさんの水分をためている。ちょっとした水がめのような構造なのだ。そのかわり、樹皮がすごく発達していて、大木では15センチにもなっている。根も肥大化している。根にも貯水できるようにするため、葉の数を減らすので、あんな格好になっている。
葉が少ないので、光合成は、樹皮の下を葉緑素で緑色にして解決している。いわば、サングラスをかけて効率的に光合成をしている。
ゾウがバオバブの樹皮を、マントヒヒが実を食べている。幹の洞にはコウモリ、根元にはヘビが棲んでいる。ゾウはバオバブの内部を食べて、乾期のときの水分補給をしている。だから、バオバブの天敵は、ゾウとカミナリだ。
バオバブの木は1000年以上は生きるとみられています。
マダガスカルもアフリカも行けそうもありません。せめて、オーストラリアに行ってみてみたいと思っています。幹回りが45メートルとか、54メートルなんて、その大きさは、とても信じられません。でも、なんとなく見ただけで、なつかしさを覚える木ですよね。ところで、バオバブの木って分かりますよね。ほら、航空会社の大きなポスターにうつっている太った木があるじゃないですか、あの木のことですよ。
2006年4月20日
チャター
著者:パトリック・ラーデン・キーフ、出版社:NHK出版
チャターとは、もともとは罪のないおしゃべりという意味の単語だった。
チャターを監視するアメリカの機関はいくつかある。CIAの職員は2万人、年間の予算は30億ドル。NSAは6万人の職員を擁し、年間60億ドルをつかっている。
アメリカが世界に放っているスパイは5000人以下。しかし、盗聴に関わっているのは3万人。CIAには4000人の職員がいて、海外で活動している工作員は1500人。NSAは数万人の盗聴要員をもっている。
短波無線は簡単に傍受できる。NSAは実際、さまざまな規模の無線傍受基地を世界各地にもっている。ハワイ、アラスカ、カリフォルニア、日本、グアム、フィリピンに。
コンピューターのキーボードのキーの間に、極小のマイクロフォンを潜ませておき、キーを叩く際の音を特別集合サービスで録音し、各キーの打鍵の際に起きる音の波形から、タイプされたメッセージを復元する。うへーっ、こんなこともできるんだー・・・。おどろきました。
アメリカは100基ほどの偵察衛星を打ち上げている。過去40年間に、アメリカは 2000億ドルを偵察衛星に費やしてきた。
1990年代初めに多くの国が光ファイバーへ移行するにつれて、NSAは42あった無線傍受基地のうち20を縮小・廃止した。しかし、光ファイバーが傍受不可能というのは言いすぎ。アメリカはUSSシーウルフという攻撃型原潜を改造して、海底での光ファイバー盗聴工作ができるようにした。そのため6億ドルの予算をつかった。このように光ファイバーの技術は、いったんは盗聴を困難にしたが、NSAや他のUK・USA諸国の機関が巨額の予算をつかって研究して、それを克服しつつある。
今や、中東の人々は電話ではすべてを語らなくなった。大事なことは、会って話す。ビンラディンは、一切電話をつかうのをやめた。頭上の写真撮影衛星に察知されるのを恐れ、疑念をもたれるような車輌の隊列を組んで移動するのもやめた。洞窟や安全な家屋から外出しなくてはいけないときには、必ず徒歩でいく。ビンラディンは、あらゆる電気的な通信を絶ち、何ものにも接続していないことが自分の身を隠すための次善の策だということに気がついた。
エシュロン基地は1時間に200万件の通信を傍受し、そのなかから4件についてレポートを書く。30分おきに、ある基地が100万件の盗聴をしたとして、電子フィルターで識別されるのは6500件。そのうち1000件を残して、あとは捨てられる。この 1000件がもう少し詳しく検討され、そのうち10件に絞って、最終的には1件となる。
1994年にスリー・ストライク法がカリフォルニア州で成立してから、刑務所人口は25%増加した。受刑者の4人に1人、4万2000人がこの法によって終身刑を科されている。過去10年間にこの法律にもとづく受刑者の増加分として、80億ドルのコストがかさんでいる。そのうちの50億ドルのコストは、3回目の犯罪は凶悪犯ではない。 2003年までに、400ドル相当以下の窃盗によって25年から終身刑となっている受刑者がカリフォルニアには344人いる。ええっ、ウッソー。思わず叫んでしまいました。 スリー・ストライク法は、やはり悪法としか言いようがありませんね。
2006年4月19日
クルクス大戦車戦
著者:デイヴィッド・L・ロビンズ、出版社:新潮文庫
第二次世界大戦最大の戦車戦がくりひろげられたクルクスの戦いを、ソ連とナチドイツの両方の将兵の動きを通して明らかにした小説です。
第二次世界大戦の最優秀戦車との呼び声も高いTー34戦車をあやつるソ連の戦車兵親子が、強力無比の88ミリ砲と貫通不能の装甲をもつドイツの無敵ティーガー戦車に戦いを挑むのです。
クルクスの戦いは1943年7月、ソ連中央部でくりひろげられた。同年2月のスターリングラードの敗北後、ドイツ軍は攻勢に転じたソ連軍に押し返され、ウクライナの重要な工業都市ハリコフを失ってしまう。しかし、マンシュタイン元帥はハリコフを奪還し、ドイツ軍は東武戦線の崩壊をまぬかれた。このソ連軍の攻勢とドイツ軍の反攻の結果、ハリコフ北方の戦線が一部、ドイツ軍側に突出して残された。そこでヒットラーはクルクス突出部を包囲殲滅する攻勢をかけた。これがツィタデレ作戦である。しかし、この作戦はソ連軍に読まれていた。「ルーシー」と呼ばれるスパイ組織によってドイツ軍の糸はソ連上層部に筒抜けになっていた。
ドイツ軍は戦域をヨーロッパ中に拡大していたため、ソ連軍に対して戦車の数ではかなりの劣勢にあった。ヒトラーは、戦車の数的劣勢を質でおぎなうべく、新型のティーガー戦車とパンター戦車という高性能戦車に大いに期待し、この新型戦車がそろうまで作戦の実施を遅らせた。しかし、この延期策はソ連軍の防御を固め、さらに戦車の生産に拍車をかけることができた。
ドイツ軍は3号戦車、4号戦車、5号戦車パンター、6号戦車ティーガーの混成部隊。こんなにたくさんの種類の戦車にどうやって予備部品を供給できるというのか。キャタピラ、変速機、エンジン、車輪。これに対してソ連軍の戦車は一種類のみ。コンパクトで高速のTー34だけ。もしどこかが故障しても、部品はそこらじゅうにころがっている。そして、修理法はみんなが知っている。ぜんまい仕掛けのおもちゃと同じくらい単純だから。ソ連は1種類のTー34戦車だけを1ヶ月に何千輌もつくる。だが、ティーガー戦車を1車輌つくるのには、のべ30万時間以上もかかる。
ティーガー戦車はヒトラーが88ミリ砲を所望した結果だ。この燃費は路上でリッター0.2マイル。不整地ではリッター0.1マイル。燃料搭載量は530リットル。戦闘状態で4、5時間は走れるが、それ以上ではない。
強固な防御陣地を幾重にもはりめぐらせて待ち構えるソ連軍に対して、結集できるだけの機甲兵力をかき集めたドイツ軍が南北から猛攻撃を仕掛けてクルクスの戦いは始まった。プロホロスカで展開された独ソ両軍の激闘は、あわせて1500両もの戦車が入り乱れたものとなった。
2週間にわたった戦いで、ソ連軍は当初の150万人の兵力から17万人の死傷者を出した。5000両の戦車のうちの3分の1を失った。75万人のドイツ軍は5万人を失い、3300両あった戦車のうち、少なくとも1000両を失った。
アメリカ軍がイタリアのシシリー島へ上陸したことから、ドイツ軍の一部は転戦を命じられ、ツィタデレ作戦は失敗のうちに終了した。
戦場では、スターリンのオルガンと恐れられるカチューシャ・ロケット弾の一斉射撃があった。カチューシャ・ロケット弾は乱打する心臓の速さで降りそそいだ。ドイツ兵たちは、ただその場で腹ばいになって耳をふさいだ。しかし、カチューシャは精密兵器ではない。大混乱と恐怖をまき散らすために考案されている。ただ、もちろん命中したものを破壊することはできる。ロケット弾は恐ろしいが、効果の方はそれほどでもない。
私は小学生のころ、父に連れられて何回か戦争映画を見に行ったことがあります。ドイツ軍が砂漠でアメリカ軍と戦うシーンだったことを今でも覚えています。戦車の前には防御陣地は無力だと思い知らされる場面です。
私の父は会社勤めしているところを応召し、中国大陸に2等兵として動員されました。幸か不幸か、戦場にしばらくいたものの、マラリアにかかって、傷病兵として台湾へ後送され、やがて内地に無事に帰還して召集解除となりました。
戦争っちゃ、やっぱり、えすかった(怖かった)ばい。鉄砲の弾丸(たま)がびゅんびゅん飛んできて、まわりの兵隊にあたって次々に死んでいくんじゃけん。
このように述懐していました。
戦争で倒れた人々の気持ちを偲ぶことのできる小説でもありました。
2006年4月18日
信長は謀略で殺されたのか
著者:鈴木眞哉・藤本正行、出版社:洋泉新書
「信長の棺」(加藤廣、日経新聞社)は私も読みましたが、はっきり言って私は面白いとは思いませんでした。ですから、書評にも取りあげませんでした。小説として読みやすくはないうえに、史実とはかけ離れているとしか思えなかったのです。ところが、小泉首相が愛読しているとマスコミが取り上げたおかげもあって、みるみるうちにベストセラーになってしまいました。でも、マスコミの持ち上げ方も私には納得できません。本当に、みんな読んでから言っているのかなと、私は今でも疑問に思っています。
小泉首相は日本を精神的なレベルでズタズタに解体してしまった悪の権化だと私が毛嫌いしていることもあるのかもしれませんが・・・。
「信長の棺」は織田信長の家臣で伝記「信長公記」の作者である太田牛一を主人公としています。本書も、「信長公記」は信頼できるという前提で貫かれてしますので、両者のベースは共通しています。しかし、結論は正反対です。
本能寺の変の起きたのは1582年(天正10年)7月1日(旧暦では6月2日)未明のこと。信長は明智光秀の謀反と知ると、「是非に及ばず」と言った。これは「仕方がない」と解釈されてきたが、間違いだ。「何が起きたか分かったうえは、是非を論ずるまでもない。もはや行動あるのみ」というのが正解。なるほど、と思いました。信長は小姓たちと一緒になって最後まで戦ったのです。もっとも、そばにいた女性は逃がしたようで、そこから、信長の最期の様子が伝わっているのです。
7月1日の京都の蒸し暑い夜だったので、小姓たちは素肌同然で、弓や槍もなく、刀で戦った。甲冑を着用し、鉄砲や弓・槍で厳重に武装した1万3000の明智軍にかなうわけがなく、短時間で決着をみた。本能寺の戦いは明け方に始まって短時間で終わり、長男信忠が逃げこんだ二条御所の戦いは午前8時ころから1時間ほどで終わった。
著者は、光秀がいつの時点で謀反の決意を重臣に示したのかを重視して検討しています。結論としては、出動間近の亀山城内において、数人の重臣に告げたとしています。
光秀の三日天下という言葉があるが、実際には、11日天下だった。
明智光秀の人物像については、古典的な教養に富んだ謹直な常識人であって、勤王家でもあったというイメージが普及している。とことが、宣教師ルイス・フロイスの秀吉像は異なっている。
光秀は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあった。己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また、築城することに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。
ここには、一筋縄ではいかない、有能で、したたかな戦国人らしい、戦国人としての光秀像が読みとれる。光秀は合理主義者であったから、信長とウマがあったので、重用されたのだという見方がある。
著者は、光秀が、信長打倒という点で一致しうる立場の重臣たちを動かし、自主的にことを運んだからこそクーデターは成功した。そこには黒幕の介在する余地などない、と断言しています。私も、なるほど、と思いました。
いろいろの謀略説があるが、クーデターが成功したあと、光秀の役に立つことをした者は誰ひとりいない。これが謀略説の決定的な弱点であるとする著者の指摘には説得力があります。
このほか、実行時期の見通し、機密漏洩の防止策の説明がないこと、裏付け資料がまったくないことも謀略説に共通する致命的な弱点だという点もうなずけます。
著者には「偽書『武功夜話』の研究」「鉄砲隊と騎馬軍団」などの本がありますが、いずれも私の目を大いに開かせるものでした。その鋭い指摘には感嘆するばかりですが、これこそ読書の醍醐味です。
2006年4月17日
チンギス・カン
著者:白石典之、出版社:中公新書
モンゴル帝国が誕生して800年になるそうです。1206年、モンゴル高原の諸部族がチンギス・カンのもとに統一されました。
カンとは、草原地帯に暮らしていたトルコ系、モンゴル遊牧民族が用いていた称号で、国の王や部族の長という意味。ハーンは、唯一無二の君主のことで、カンよりもランクの高い、遊牧民族を統合する最高位の者の称号。
チンギス・カンの本名はテムジン。テムジンは、生きているあいだはカンと呼ばれており、ハーンと呼ばれるようになったのは、死んでかなりたってからのこと。ハーン(カアン)と呼ばれたのは第二のオゴタイ(ウゲデイ)と第四代のモンケ以降の君主である。そこで、この本では、チンギス・ハーンではなく、チンギス・カンとしています。
テムジンとは、当時のモンゴル語で鍛冶屋を意味する。目に火あり、面に光ありと形容される、利発な少年だった。チンギス・カンは、その名のとおり鉄なくしては語れない。鉄と交通と後方支援。この3つの確保と連携。それがチンギス・カンの勝利の方程式だった。
モンゴル時代は末子相続制というけれど、末子以外はそれぞれ独立に際して親からもらっている。したがって、末子が親の全財産を自動的に引き継ぐというものではなかった。チンギス・カンについても同じ。
モンゴル軍の基本的な作戦方式は無血開城。目的はオアシス諸都市を接収し、その経済的繁栄を、そのまま手に入れることにあった。インフラも人的資源も、できれば無傷のまま残しておきたかった。そのため、降伏した都市では住民の安全を保障し、従来の体制を維持した。宗教に対しては寛容な態度をとった。しかし、抗戦する都市に対しては容赦ない攻撃をおこない、殲滅して周囲への見せしめとした。無駄な抵抗だと悟らせるためだ。
チンギス・カンには数多くの后妃がいた。「元史」には39人の名前が紹介されている。彼女たちの多くは戦利品として手に入れたもの。当時、敵の大将の妻を奪うというのが、一種の勝利宣言だった。
遊牧民は牧草地を荒らす行為として、土地を掘ることを忌み嫌う。現在の人は、世界征服者のチンギス・カンの墓ならば「明の十三陵」のような巨大な地下宮殿があるはずだと考えがち。しかし、文献資料をみるかぎりでは、柩と副葬品がおさまる程度墓穴に過ぎなかったようだ。チンギス・カンの墓は、その死が秘せられたように、墓所造営の当時から位置が分からないような手段がとられた。墓暴きにあい、永遠の眠りを妨げられるのを防ぐためだ。
著者はチンギス・カンの墓所は、アウラガ遺跡から12キロ圏内にあると推定しています。それでも、東京23区内にあるというほどの広さではあるのですが・・・。新聞にのりましたから、私もついに発見されたのかと思ってしまいました。
ただ、著者はチンギス・カンの墓所の探査を当面しないとしています。それは経済的な理由のほかに、モンゴル国民の感情に配慮してのことです。たしかにそうですよね。日本の天皇陵をアメリカ人がずけずけと発掘しはじめたら、あまりいい気はしませんからね。
私も「明の十三陵」を見学したことがあります。まさしく地下宮殿でした。すごく奥深いのです。この本を読むまでモンゴル草原の地下のどこかに、チンギス・カンの墓所として壮大な宮殿があると想像していましたが、どうやら違ったようです。秦の始皇帝の墓所は今も発掘が続いています。あの有名な兵馬俑もまだ全貌が判明しているわけではありません。中国大陸のスケールの大きさには、いつも感嘆させられます。
2006年4月14日
電通の正体
著者:週刊金曜日、出版社:別冊ブックレット
電通はクライアントを3つに分けている。まずは広告売上げが年に100億円をこえる企業。トヨタ自動車(年に1000億円)、松下電器産業、花王、NTT。これらの企業のためには電通はエース級の社員でチームをつくり、全社をあげて取りくむ。
次のランクは、大塚製薬、明治乳業、三共製薬、KDDIなどの中堅どころの企業。このランクがもっとも層が厚い。落としても代わりの社を取れば問題なしという扱い。
最後のランクは、いつ関係が途切れるかわからない会社。電通は粗利を支えるため、ためらうことなく引き受ける。
テレビ局にとっては電通が最優先。スポンサーが降りたりして空きが出ると、テレビ局は、まずは電通用にスポット枠をとっておく。
田原総一朗の妻が死んだとき、そのお通夜の葬儀委員長は電通の成田豊会長だった。
小泉首相にワン・フレーズ・ポリティックスをアドバイスしたのは電通だ。15秒以内のスローガンの羅列で、ワン・メッセージで端的に言う大切さを、電通から小泉首相は学んで実行している。
電通の平均給与は年1300万円。一般社員でも30歳半ばで1000万円をこえてしまう。専務・常務クラスになると、何も仕事せずに、秘書と車がついて年収は4〜5000万円に達する。全国の電通ビルは、ほとんど全部が自社ビル。
マスコミ、とくに広告業界のすさまじさを痛感させられました。私も、日弁連の役員をしていたときに、弁護士会の広報強化のために電通の知恵を借りるプロジェクト・チームに参加したことがありますが、その費用がびっくりするほど高額だったのに驚きました。電通から5人も6人も来るのです。こっちは1人か2人で十分だと思っていたのですが・・・。
金権政治をすすめているもののひとつが、電通のようなコンサルタント会社にあることがよく分かる本でもあります。
永い影
著者:倉橋綾子、出版社:本の泉社
団塊の世代の著者が自分の生い立ち、そして大学生のときの学生運動の活動さらには憲兵だった父親が中国で何をしたのかを追跡した記録を小説にしたものです。その心うつ描写に、私は一心不乱に読みふけってしまいました。
家庭内は両親が不和のため冷えびえとしています。母親は父親を敬遠し、家出したりします。父親は元憲兵だったからか、いつも正しくあれと説教ばかり。だから、著者は優等生をめざしてきた。しかし、兄は反撥して父親に背いてしまう。父と息子は理解しがたい仲にあるものです。
大学に入って、全共闘の反対派に加わり、活動をはじめる。学生たちがゲバ棒をふるい、内ゲバのためケガ人が続出する。やがて大学を卒業し、教員となる。同じクラスで親しかった友人も、支持するセクトの違いから疎遠になっていった。
卒業して何十年もたって再会しても、その溝は埋まらない。暴力を受けた被害者は加害者を許せない。しかし、加害者も、心にわだかまりをもったまま今日に至っている。両者が再会したとき、加害者が心から謝罪し、ようやくわだかまりのひとつは消えていった。
あのころ学生運動にかかわった者たちは、当時のことをどう振り返っているのだろうか。どう総括すればいいのか分からないと彼らは言った。しかし、自分自身も、まともに振り返ったことはなかった。メンバーの一員として夢中で過ごしたあの4年間は、自分にとってどういう意味があったのだろうか・・・。思いをめぐらした。
子どもたちの教育も大変だった。何事によらず、ぐずな末娘が、案外、友人が多くて、その笑顔が客に喜ばれているという。人にはそれぞれがかかえた弱点があり、それを克服するのは容易なことではない。娘の弱点を問題にするばかりで、その悩みを受けとめ、心からのエールを送ることができなかった・・・。そうなんですよね、わが子となると、つい目が曇ってしまうものなんです。
憲兵だった父親が中国大陸で残虐非道な行為を女性や子どもたちにしていたことが判明します。現地にわざわざ出向いて調べあげたのです。著者は、現地で謝罪します。もちろん、そう簡単に許してはもらえません、さんざん罵倒されてしまいます。何で、今さらそんなことをするのか、そんな声が日本に帰ると聞こえてきます。自虐史観ではないか。親のことを子どもが責任をとることはない。前を向いて生きていけばいいのだ。そんな考えの人から批判されます。しかし、子どもである以上、それを知り、それなりの責任をとるしかない。それは自然の流れだと著者は考えるのです。
亡き父親との対話をロールプレイとして再現する場面が出てきます。そこまでしないと、親を乗りこえることはできないものなのか、改めて負の歴史の重たさを思い知らされました。
どこまでが事実にもとづく小説なのかよく分かりませんが、私と同世代の著者が必死になって自分と向きあおうとしている姿勢に、私は深い感銘を受けました。
フランス暴動
著者:陣野俊史、出版社:河出書房新社
フランスでは、日本と違って、ストライキが生きた言葉として通用しています。デモも同じで、大衆デモが時の政府を大きくつき動かします。日本のマスコミが街頭デモをまったく無視し、危険視しているため、政治に対する影響力が大きく減殺されているのとは大違いです。
1968年5月。私も大学2年生としてベトナム反戦デモに参加していましたが、フランスでは600万人がストライキに参加し、ドゴール政権の弱体化をすすめました。
1986年12月には、シラク首相(今のシラク大統領)の教育改革に大学・高校生が反発し、100万人の参加するデモがありました。ドヴァケ高等教育相が辞任しました。
1995年には、ジュペ首相による公務員の社会保障改革に対して200万人がデモに参加し、ジュペ内閣は1997年の総選挙で大敗して退陣しました。
2003年5月には、公的部門の労働者が年金制度改革に反発し、200万人が参加するデモが起きました。
そして、この2006年3月に始まったCPE(初期雇用契約)法への反発です。既に法律は成立したものの、事実上凍結され、ついに撤廃されました。はじめは高校生・大学生から始まったデモでしたが、フランス全土での労組ストライキに発展していきました。すごいエネルギーです。日本も大いに見習うべきだと思います。
ところで、この本はCPEではなく、移民の若者たちが起こした2005年10月に始まる暴動の内情を探ったものです。
北アフリカ出身の移民労働者が多数を占めるクリシー・ス・ボワ市では、失業率が20%に近い。暴動は3週間ほどで沈静化した。
1968年に反抗した若者たちはブルジョワ家庭で育った学生たちだったのに対して、2005年秋に反抗したのは主に移民の2世および3世たち。社会の片隅に追いやられ、失業状態に苦しむ人や、学歴のない人たちがほとんど。
1968年に反抗した若者たちのリーダーは、フランスやドイツでは、政財界の中枢にいるようです。そこも日本と違うところです。かつての全共闘の闘士だった人が何人か国会議員になったりはしていますが、日本では団塊世代で政治家になった人は、その世代比率の高さに反比例して圧倒的に少ないというのが現実です。いったい、なぜなのでしょうか?
ラップが暴動をあおったとしてフランス政府からにらまれたそうです。いったいどんな歌詞だったのか気になりますので、少しだけ紹介します。
オレたちの社会は多民族社会、一緒に行動しよう、そして共同体をつくろう、なぜって、ずっと以前から、そう、あまりに前から世界が世界である以上、色は境界線だったから、バリア、それは明らかだった
オレは宣言する。全世界へ向けて、権威主義の裏側にある戦争を、オレは一掃する。闘う。一人また一人と打ち倒す。
FN、スキンズ、アパルトヘイト、ゲットー。お前の色がどうであれ、お前の性格がどうであれ、どんな人種も優れちゃいない、ということを。なぜなら、成功者になるためには色なんて関係ないからさ・・・ NTM「白と黒」より
なんだか、すごく政治的な歌詞ですよね。感心しました。
2006年4月13日
ビッグ・ファーム
著者:マーシャ・エンジェル、出版社:篠原出版新社
製薬会社は、薬が一番必要で、しかも薬代を支払う余裕のない人たちに対して、他の人たちよりも薬価を高く設定している。20年以上ものあいだ、製薬業はずっとアメリカでもっとも収益性の高い業種であった。2003年には、鉱業・原油生産業、商業銀行業に次いで第3位となったが・・・。
1960年から1980年までは処方薬の売上はGDPの1%で、ほぼ一定していた。ところが、1980年から2000年の間に、3倍となり、今や1年間の売り上げは 2000億ドル以上だ。2002年の全世界の処方薬の売上高は4000億ドルと推定されているので、半分を占めていることになる。
1980年にはブランド薬の特許の有効期間は8年間だったが、2000年には14年間となった。
製薬会社は経営者に手厚い業界でもある。役員報酬は、桁外れに大きく、年収7500万ドルとか4000万ドルであるが、このほかにストック・オプションによって7600万ドルとか4000万ドルがもらえることになっている。
カナダの方が薬が安いため、アメリカ人の200万人近くが、インターネットを通じてカナダのドラッグストアから買っている。また、カナダへ薬を買いに行くツァーもある。製薬会社の売上げの31%(670億ドル)がマーケティング・運営管理費としてつかわれている。
薬ビジネスで成功するには、その薬の市場がお金の払える客で成り立っていることが大切。金を払えない客のために薬をつくってもペイはしない。製薬会社がマラリア、睡眠病のような熱帯病の薬を開発することにまったく興味がないのは、それが理由。
昔は、製薬会社は、病気の治療のために薬を開発していた。今は、その反対が見られることも少なくない。薬にあわせて、都合よく病気をつくりだしている。
臨床試験の結果を歪めるのによく使われる手口として、データの結果の都合のよい部分だけを見せ、その他の部分は隠すという方法がとられる。
ほとんどの「新薬」は、少しも新しいものではない。単に既に市販されている薬の焼き直しに過ぎない。これをゾロ新薬という。製薬会社は、年間薬110億ドルのサンプルを医師たちに渡している。そのほとんどが最新の高価なゾロ新薬である。製薬会社は患者や医師にサンプルを使わせれば、サンプルが切れた後も、その薬を使ってもらえるから無料で渡している。もちろん、サンプルが無料のはずがなく、そのコストは薬の値段にはね返っている。
私は、司法試験に合格したあと、小さなセツルメント診療所の受付事務のアルバイトをしばらくしていました。そのとき、サンプルが流れこんで来るのを目撃しました。
深刻なのは、多くの薬を一度に服用するケースが増えていること。5剤、10剤、それ以上の薬を一度に飲むことがある。このような多剤投与は実に危険である。副作用がある。服用する薬の種類が多ければ多いほど、いずれかの薬がいずれかの臓器の正常な機能を損なう可能性も高い。
私は年間を通じて薬を飲むことはまったくありません。目薬はさしますが・・・。風邪をひいたら玉子酒を飲んで、いつもより早めに布団に入って寝るようにしています。薬は身体にとっての毒ではないかと考えています。笑いの力によって自己の免疫力を高めるという説に大いに共鳴し、実践しています。
製薬業界はワシントンにある138ヶ所の事務所の675人のロビイストをつかい、その費用に9,100万ドルをつかっている。ロビイストのうちの26人が元議員であり、342人が議会スタッフ経験者か政府要人と親しい関係にあった。
製薬業界は巨額の政治献金をしている。80%が共和党に入っている。
日本でも「くすり九層倍」と昔から言われるように製薬会社は大もうけしていて、自民党政治を支えているように思います。
2006年4月12日
ビッグ・ピクチャー
著者:エドワード・J・エプスタイン、出版社:早川書房
映画大好き人間の私ですので、ハリウッドの内情を知りたいと思って読みました。いろいろ面白い話を知ることができました。ハリウッドは遠くで見たことしかありません。ロサンゼルスのチャイニーズ・タウンの舗道にあるスター手形をなつかしく思い出します。
映画6大スタジオにとって、映画をつくること自体は、財務的にみると、重要度は低くなっている。封切映画は、いずれも恒常的に欠損を計上している。
ディズニーの「60セカンズ」の制作費は1億330万ドル。内外の劇場に配給するための費用が2320万ドル(うち、プリント代1300万ドル、保険・輸送料など1020万ドル)、世界規模の広告費6740万ドル。残余料金1260万ドル。つまり、2億650万ドルが経費だった。総売上2億4200万ドル。劇場の取り分は1億3980万ドル。つまり、2億650万ドルかかった映画の代価として、半分以下の1億220万ドルしか回収できなかった。
1947年にアメリカ全国で47億枚の入場券が売れたのに、2003年には3分の1の15億700万枚しか売れていない。
2003年にアメリカで封切られた473本の映画のうち、6大スタジオがつくったのは半分以下。そこで、入場券売り上げから得たのは総額32億3000万ドルだった。
今や、6大スタジオは映画を家庭でみせるライセンス料で利益の大半を稼ぎ出している。それは劇場からの収益の5倍となっている。劇場に貸し出す映画から入ってくる小川のような金の流れに比べ、ビデオ・DVDの販売による売上げは津波規模。
ビデオ・レンタルの大手1社で年間39億ドルを主要スタジオに支払っていた。ビデオとDVDから6大スタジオが得た年間収益は179億ドルに達していた。
ほとんどの映画は赤字になるようになっている。「プライベート・ライアン」の出演料としてトム・ハンクスとスピルバーグが3000万ドルずつを受けとったため、この映画の予算は7800万ドルから一挙に1億3800万ドルにふくれあがった。スターの取分は収益の分配ではなく、制作費として扱われた。
撮影は時間との競争だ。撮影期間中は、日々、膨大な出費が生じる。低予算の映画でも、維持費は1日8万ドル、固定費として5700万ドル。「ターミネーター3」のようなスケールの大きいアクション映画だと、日常の維持費は30万ドル。2000年のハリウッド映画の平均的な日常の維持費は16万5000ドルだった。
監督自身がすべてのシーンの撮影に立ち会ったり、すべてのロケ地に行く必要はない。主要な俳優が出演しないときにはセカンド・ユニットに撮影させる。同時撮影によって映画の製作作業を大いにはかどらせるのだ。
スタジオのプロダクションの大半は、撮影を3ヶ月から6ヶ月で終える。
映画は細切れの断片でできている。CGは生身の俳優全員をあわせたより高くつくことがある。「ターミネーター3」のCG効果のため1990万ドルがつかわれた。
劇場は封切りの週は入場券の売上高の10%と一律に支払われる劇場手当てを受けとる。スタジオは通常、封切後の2週間は入場料収益の70〜80%を手に入れる。劇場が受けとる割合は、週に10%の割合で増えることが多く、4週から5週目に入ると、入場券売上げのほぼ全額を手に入れる。
劇場の主たる利益はチケットの売上げやスクリーンの広告ではなく、実は飲食物の販売からあがっている。ポップコーンの塩味を強めると、客はノドが渇いて、それだけ余計にソフトドリンク(利ざやが大きい)がほしくなる。
トッピングに余分に塩を加えることがマルチコンプレックスのチェーンをうまく運営していく秘訣だと劇場幹部は述べている。
先日、「シリアナ」という映画を東京で見てきました。ハリウッド映画なのですが、アメリカが中東のアラブ諸国をいかに牛耳っているか、その大きな狙いの一つが石油利権であること、気にくわない指導者はミサイルによるピンポイント攻撃で空から抹殺することなどが映像となっていました。少し前の映画「武器商人」も、アメリカが世界各地に武器を輸出してもうかっている事実を紹介していました。
ハリウッド映画は、単なるアクション映画だけではないところがすごいと思います。
2006年4月11日
ふふふ
著者:井上ひさし、出版社:講談社
井上ひさしが中学3年のとき、本屋で英和辞典を万引きしようとして店のおばさんにつかまったという話に驚いてしまいました。あの井上ひさしが中学生のときに万引したんだって、えーっ・・・という感じです。とても信じられませんでした。
ちなみに、私は万引したことは1度もありません。そんな勇気はありません。ただ、学生時代にはキセル乗車は何度もしました。生来、気の小さい私ですから、たった何十円かのキセルでも、いつ見つからないかとドキドキハラハラしていました。幸い一度も見つかったことはありませんでした。改札口を出るとき、前の大人のすぐうしろにぴったりくっついて逃げるように早足で出たこともあります。ラッシュアワーだったから見つからなかったのでしょう。でも、そんな重荷に耐えきれず、大学を卒業してからは一度もキセルをしたことはありません。車内で本を読むのに集中するには、そんなスリルは邪魔になりますから。
万引を見つけられた井上ひさしは、おばあさんから、こうさとされました。
これを売ると百円のもうけ。坊やにもっていかれると、百円のもうけはもちろんフイになるうえに、5百円の損が出る。その5百円を稼ぐには、これと同じ定価の本を5冊も売らなければならない。
うちは6人家族だから、こういう本を一月に百冊も2百冊も売らなければならない。でも、坊やのような人が月に30人もいてごらん。うちの6人は餓死しなければならなくなる。こんな本一冊ぐらいと、軽い気持ちでやったのだろうけど、坊やのやったことは人殺しに近いんだよ。
こう言ったあと、タキギを割っていったら、勘弁してあげるというのです。もちろん、井上ひさしは喜んで死にものぐるいでタキギを割りました。すると、おばあさんはおにぎりを載せた皿をもってきて、手間賃として7百円渡したのです。そして、そこから英和辞典5百円をとって、2百円の労賃と英和辞典一冊を井上ひさしにもたせました。欲しいものがあれば働けばいい、働いて買えないものは欲しがらなければいいという世間の知恵を手に入れた。井上ひさしは人生の師を得たのです。うーん、いい話ですね。
本屋の万引率は2%といわれてきたが、最近は10%にもなる。店の利益は20%だから、その半分が万引でもっていかれる。これでは本屋の経営は成りたたない。そうなんですよね・・・。
アメリカとフランスの大学入試(資格試験)の問題文が紹介されています。日本でも取りあげてみたらどうでしょうか。
まずは、アメリカです。ここにあなたの一生を書きつづった一冊の伝記がある。その総ページ数は300頁。さて、その270頁目にはどんなことが書いてあるだろうか。その270頁を書きなさい。これまでの人生の総括と未来への展望が問われているわけです。すごい設問ですよね。私ならなんと書くのか、迷ってしまいます。次はフランスです。
夜ふけにセーヌ川の岸を通りかかったキミは、一人の娼婦が今まさに川へ飛びこもうとするところに出会う。さて、キミは言葉だけで彼女の投身自殺を止めることができるだろうか。彼女に死を思い止まらせ、ふたたびこの世界で生きていく元気を与えるような説得を試みよ。
この設問に対して、アンドレ・マルローは、「わたしと結婚してください」と説得するしかないと答えたのだそうです。なんともすごい設問であり、答えではありませんか。人生と社会の機微に通じていなければ答えられませんよね。
小さな本ですが、さすが井上ひさしです。人生の知恵がぎっしり詰まっていて、苦笑、失笑、嘲笑、哄笑のうちに人生のあれこれを考えることができました。
2006年4月10日
レイラ・ザーナ
著者:中川喜与志、出版社:新泉社
クルド人女性で初めて国会議員に30歳の若さで当選したレイラ・ザーナの闘いを紹介した本です。私は、そういう人がいることをこの本で初めて知りました。彼女が獄中にいることがトルコのEU加盟の障害となって、10年後にようやく釈放されたということです。そんなこと、ちっとも知りませんでした。
クルド人は、独自の言語と歴史、文化、慣習を持った「民族」である。推定総人口3000万人は、中東世界ではアラブ人、トルコ人、ペルシア人に次ぐ第4の民族である。
レイラ・ザーナは、1991年、トルコ大国民議会(国会)総選挙にトルコ東部のクルド人居住地から立候補し、84%の支持を集めて30歳で当選した。そして、議員就任式にレイラはクルド人民族の伝統色をまとい、トルコ語で議員宣誓を行ったあと、クルド語で、「私は民主主義の枠組みの中で、クルド人とトルコ人が平和裏に生きるべく闘う」「クルド人とトルコ人の兄弟愛に万歳」と述べた。
レイラは議員不逮捕特権を奪われ、1994年に投獄され、以後10年間にわたって獄窓に閉じこめられた。2004年6月に釈放されたとき、レイラは43歳になっていた。
レイラ・ザーナたちの釈放なくしてEU加盟交渉は難しいというEU側の反発があった。そして、レイラが釈放される直前に、トルコ国営放送はクルド語放送を開始した。週2回、1回35分だった。これは、その後、週5回に増えている。
レイラとは、アラビア語で夜の暗黒という意味。それが今では、レイラという名前はクルド人にとって、娘がほしいということを表す幸運の言葉として頭に浮かぶようになっている。
レイラの夫は市長だった。夫と結婚したとき、レイラは14歳。クルド人の娘は15から16歳で結婚するのは普通のこと。
レイラは総選挙のとき、民衆に向かって仕事や住まいなどの経済的公約は一切しなかった。ただ、クルド人の人間としての誇りを守り、高めるために働くと公約した。
「今までの政治家は、伝統的に、個人や団体にとっての利益を用いて、民衆をだますという基本でやってきた。私は、これの反対に立ち向かう。私たちの目的は民衆の団結を保証すること」
レイラ・ザーナの当選によって、食卓での地位は牛より後ろ(女性の地位は牛より低い、という意味)であったクルド人女性が変わった。
対するトルコ首相も同じ女性。2人の子どもの母親であり、経済学教授であり、アメリカ国籍を有している。
「トルコでは、すべてがトルコ人である。トルコ人でない者たちに唯一の権利がある。それは、沈黙することである」
クルド人なるものは存在しない。クルド人とは山岳トルコ人のことである。国民はトルコ語を話す。このようにトルコでは公式に言われてきたのです。
トルコには「灰色の狼」というテロ実行部隊があり、いくつもの暗殺に関わっている。このテロ組織のパリでの暗躍を描いたのが、先に紹介したパリの暗黒街を描いた小説「狼の帝国」です。
国民1人あたりの所得が世界で50番目のトルコは、軍事費では世界で6番目か7番目。1993年度のトルコは、世界最大の武器輸入国。1994年度の予算の半分近く、890兆リラの総予算のうちの401兆リラが軍事支出に充てられている。
ヨーロッパ議会の3人の有名な女性議員がレイラ・ザーナの釈放を要求したところ、トルコの国民大臣は彼女らのことを売春婦だと言い放った。
平和主義者として有名だったクルド人弁護士が1994年に2人も暗殺されている。
クルド人の民族色である赤・緑・黄色を組み合わせることは禁止されている。だから信号も赤・緑・黄色ではなく、赤・青・黄色である。えーっ、そうなの・・・と驚いてしまいました。ところで、今のイラク大統領のタラバーニはクルド人です。
クルド人が政党を立ち上げると、憲法裁判所が判決で政党を閉鎖し、党の資産は国家が没収する。しかし、党の閉鎖命令に備えて新たな政党を設立する。このくり返しをずっとやってきた。
私はマルアス・ギュネイというクルド人映画監督のつくった「路」という映画を東京で見たことがあります。1982年の作品ですが、刑務所の中から采配をふるってつくられた映画で、トルコ国内では上映禁止となっていました。大変な国だと思ったことを覚えています。民族のアイデンティティーを守るための闘いというのは人間の尊厳をかけた闘いなのだと思い知らされました。
2006年4月 7日
いなかのせんきょ
著者:藤谷 治、出版社:祥伝社
談合、根回し、饗応、買収。無理が通って道理が引っ込む。キレイゴトではすまんぞ、田舎ってとこは・・・。
珍しい選挙小説です。日本のドロドロとした選挙戦の一端がにじみ出ていると思いました。それにつけても、戸別訪問が公職選挙法で禁止されているのは天下の悪法です。先進国では、どこでも戸別訪問こそが選挙運動の中心柱となっています。アメリカのようにテレビ宣伝が柱となると、お金はいくらあっても足りません。まさに金権選挙です。日本でも、小泉流のマスメディア露出度のみをねらった派手な金権選挙が、アメリカにならって年々ひどくなっています。嘆かわしいことです。
ひょんなことから村長選にうって出ることになった清春は、地道に街頭でマイクを握って訴えてまわります。お金なし、看板なし、後援組織なしの孤独な闘いです。敵は村内の有力企業をひとまとめにしています。それでもへこたれず、あきらめずに清春は、明日が投票日という最終盤にマイクを握ってトツトツと訴えます。方言まる出しです。
「平山さん(対立候補)は、しきりに公共事業の導入と映画館の招致を訴えている。雇用の拡充と観光収入が見込めるから、それは一つの見識かもしれない。でも、俺はそんな経済政策には反対だ。山を切り崩して平地にして、村中を排気ガスだらけにして工事して、国道だの映画館だの作ってどうする。公共事業は収入が安定するかもしれないが、それだって長い目で見ればしょせん臨時収入さ。それで村には借金が残る。俺らの生きてるうちにはとても返せないような借金が、・・・。
たしかに、この村にはマクドナルドもセブンイレブンもない。でも、山には鹿や狸があって、ちょっとは山桜もある。鮎は全国有数だといって日本中から川釣りの客が来る。都会の人には、そんなところが村の魅力なんだ。俺は都会風に発展するより、村らしい発展のあり方を工夫した方がいい。たとえば、山道を歩きやすいようにするとか年寄りに古い知恵を借りるとか、介護を役人まかせにしないで、みんなで助けあってやるとか、そんな地道な、手づくりが俺ららしい発展ではないか。都会風の発展がいいか、村らしい発展がいいか、どっちか決めてくれ。俺の考えに賛成してくれるなら、俺は一生けん命働くよ」
うーん。心にしみるいい話です。思わず目頭がじーんと熱くなってしまいました。私の住む町にも大型スーパーが出来て、近くの商店街は壊滅状態となり、デパートは2つともつぶれてしまいました。いま新幹線工事と湾岸道路の建設がどんどんすすんでいます。本当に住みやすい町をつくるというより、相変わらず大型公共優先です。その裏で福祉予算がどんどん切り捨てられています。
村の人々の心をつかんで、見事に清春は村長に当選しました。でも、問題は、これから、村長になってからのことでしょうね。
大分にビラを配っただけで逮捕され起訴された市会議員がいます。今どき、なんということでしょうか。日本では選挙が始まると、憲法で保障された表現の自由が警察によっていとも簡単に踏みにじられてしまうのです。恐ろしいことですよね。
日本の選挙のあり方を考えさせる良質の選挙小説だと思いました。
中国農民調査
著者:陳 桂棣 、出版社:文芸春秋
先に紹介しました「十面埋伏」(新風舎)のタネ本のようだと思わず口走ってしまいました。中国農村部の悲惨な実情があますところなくレポートされています。それがいいという意味では決してありませんが、中国当局が発刊2ヶ月で発禁処分にしたのも十分理解できます。なにしろすさまじいのです。
でも、暴力団が想像以上にはびこっている現代日本の暗部を直視したとき、単に中国は遅れていると冷笑できるとは思えなくなるのです・・・。
漢王朝では8000人が1人の役人を養っていた。唐王朝では3000人が1人の役人を、清朝では1000人が1人の役人を養っていた。今は40人が1人の公務員を養っている。
私は、単純に公務員を減らしたら社会は住みやすくなるなどという考えは完全な間違いだと考えています。公務員は高給優遇していいのです。そうでないと、ソデの下ばかりが横行して、社会は滅茶苦茶になってしまいます。とくに福祉関係には、もっと惜しみなく公務員を投入すべきです。
1979年に中国の党政府機関の幹部は279万人だったのが、1989年には543万人に増えた。そして1997年には、800万人となった、このとき増加した幹部の人数は、同じ時期に国有企業で解雇された127万人とほぼ同じである。
平泉への道
著者:工藤雅樹、出版社:雄山閣
「みちのく」とは道奥(みちのおく)国からきた言葉。陸奥国は、もと道奥国だった。
平泉の中尊寺には2回行ったことがあります。平泉藤原氏が栄えていた地であることを実感しました。
平泉の栄華は砂金によって支えられていた。もう一つの特産は馬。
平泉三代の繁栄も、源義経が逃げこみ、源頼朝が追討の大軍で迫ったときに終わりました。
ところで、この本で坂上田村麻呂の東北攻略に対して勇敢に戦った蝦夷陣営を描いた高橋克彦「火怨」(講談社)の史実を知ることができました。「火怨」は手に汗にぎる面白さでしたので、その歴史的な背景を知りたいと思っていましたところ、この本によって詳細を知ることができました。
朝廷は東北攻略のために大軍を4回派遣した。1回目は、征討軍は数万の兵士を動員したものの蝦夷側と対決できず、征討軍の最高責任者は更迭されてしまった。
2回目は朝廷側も周到な準備を重ね、5万の軍勢が多賀城に終結して賊地に分け入ったが、衣川の戦いで大敗した。政府軍の精鋭4000が川を渡り、蝦夷軍の指導者である阿弖流為(あてるい)の居に至ると、蝦夷の軍300が迎えうった。はじめは政府軍の勢いがやや強いように見えたので、政府軍は戦いながら巣伏村にいたり別働隊と合流しようとしたところ、別働隊は蝦夷側にはばまれて進み渡ることができなくなった。そこへ、さらに蝦夷軍8000がやってきて防ぎ戦った。その力がはなはだ強かったため、ついに政府軍は退却し、蝦夷軍は攻勢にうつった。その後、さらに蝦夷軍が東山からあらわれて政府軍の後を絶ったため、政府軍は前後に敵を受けてしまった。この戦いで、政府軍は首脳陣で戦死した者25人、矢にあたった者245人、川に投じて溺死した者1036人、裸身で泳ぎ帰った者1257人という大敗を喫した。他方、政府軍が蝦夷側に与えた損害は焼亡14村、800戸ばかり。征東将軍は軍を解散するほかなかった。
3回目の延暦13年(794年)には10万の大軍が動員された。4回目は、延暦20年(801年)で、朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、翌年、阿弖流為は兵500人を率いて降った。阿弖流為は同年8月、京都貴族の処刑すべきだという強硬意見によって処刑された。
胆沢の蝦夷社会は度重なる数万規模の政府軍を相手に、その攻撃から一歩も退くことがなく戦う実力をそなえていた。阿弖流為や母礼の指導力は、単一の、あるいはごく少数の集落をこえた広い範囲に及んでいた。
このような実情が小説とはいえ、「火怨」に生き生きと描かれています。決して損はしないと思いますので、どちらも読んでみて下さい。
2006年4月 5日
構造改革政治の時代
著者:渡辺 治、出版社:花伝社
小泉首相が2005年9月の総選挙でとった戦術には2つの特徴があった。
刺客・落下傘候補の勝利の意味するものは、自民党公認と資金の力がきわめて強く、場合によっては自民党が戦後営々と築いてきた伝統的支持基盤をも上回るものだったことにある。彼らは、まったく地元に支持基盤をもたず、中央の公認・資金とマスコミの宣伝のみによって大量の票を獲得した。逆に、郵政民営化に反対票を投じた議員たちは、小選挙区制度の定着によって選挙のあり方や支持基盤がもはや変わりつつあること、しかも、小泉政権に入って加速化した構造改革によって、伝統的支持基盤を支える農民層や都市中小零細企業層、自営業層が縮小・解体を促進されてきたことを決定的に過小評価するという誤りを犯した。
もう一つ。小泉は選挙で獲得すべきターゲットを自民党の伝統的支持基盤から、大企業のホワイトカラー層を中核とする上層にシフトしたことである。この層こそ、小泉改革政治の受益層であった。その結果、切り捨てられた層については公明党の集票に依拠することになった。このような分業体制をとったため、自民党はますます公明党の候補を必要とし、公明党を切れなくなっている。
こうした小泉自民党への票は、大都市部の上層の票を総取りした結果であって、決して階層横断的にまんべんなく票を集めた結果ではない。小泉構造改革は、既存政治では疎外されていると感じている青年層や女性、都市自営業層、地方都市の労働者や農村部にまで支持を広げた。これまでの構造改革の最大の障害物が今や構造改革の推進力に転化したのである。小泉政権の強さは、ここにある。
小選挙区制の最大の害悪は、それが導入の狙いでもあるが、当選の見込みのない少数政党を切り捨て、保守二大政党制が確立することにある。その結果、共産党や社民党には固定票は入るものの、大都市部での中下層や農村部での自民党への不満層の流入は阻止されている。
私は成人して投票権をもって以来、一度として自民党に入れたことはありません。それを私のひそかな誇りにしています。強い者本位で弱者切り捨ての政治を、弱者があこがれるという政治構造は古今東西、人間社会に不偏なものですが、私は絶対に認めません。自分は浮動票だと自慢げに言う人は世の中に本当に多く、私の身のまわりにもたくさんいます。でも、私は、もっと弱者のことを考えてよ、みんないずれ年齢(とし)をとったら弱者になるんだよ、そう言いたいと考えています。年金切り下げなんか、私は絶対反対です。ついついコーフンしてしまいました。ゴメンナサイ。
小泉は政治家三世であり、講演会の維持・培養に腐心する必要はなかった。だから、従来の支持基盤の利益を切り捨てることに痛痒を感じなかった。大胆に、断固として、冷酷に切り捨てることができる。これが小泉のもっとも得がたい特質である。靖国参拝のように、支配層の外交政策にとって不都合な頑固さはあるが、そんな欠陥は構造改革を強行する利益にとってみれば比べものにならない。財界はこのように考えている。
小泉は、支配層の課題を無邪気に、断固として実行する決意と頑固さをもった人物として、財界の期待にぴったりあてはまる人物だった。
小泉をポピュリストと評価するのは間違いだ。小泉は上層の獲得を通じた階層型政治への志向をもち、福祉切り捨ての断固たる姿勢をもつのだから、福祉バラマキを特徴とするポピュリストとは対極に立つ政治家である。
結果として生まれる社会の階層化、貧困層の増加、社会統合の解体に対して、小泉政権は本格的な対策や新たな統合政策をうみだしていない。小泉は、このような統合問題に対していたって冷淡であり、増大する格差化への対処策を講じていない。むしろ、これを切り捨てて構造改革に専念するのが小泉流のやり方となっている。
このまま、小泉構造改革が進展すれば、社会の分裂・中間層下層の生活悪化にともなう不満の増大が自民党政権を揺るがすことは間違いない。
現代日本政治の諸悪の根源は、変身した自民党政治が追及している「構造改革」政治にこそある。小泉構造改革は、既存政治システムの急進的改悪なのである。小泉構造改革は、ほかでもなく、政権党としての基盤を掘り崩さざるをえない。
小泉首相と自民党内抵抗派の対立は、構造改革の是非ではなく、改革の漸進か急進路線かの対立でしかない。それは決して妥協不可能なものではない。したがって、改革は、両派の対抗と妥協を通じてすすめられていくだろう。
たとえば、同じ特殊法人でも、自民党政治の支持基盤維持に不可欠でないものは、たとえ国民にとって切実なものであっても、容赦なく切り捨てられ、廃止・民営化が決まった。住宅金融公庫、日本育英会などである。これは、低所得層に対して、銀行から高い金利の借金までして子弟を学校に行かせなくてもいいという考えにもとづいている。
小泉構造改革は、社会保障制度の再編を強行し、失業や倒産への統合装置を破壊した。その結果、無類の安定を誇った日本社会は、その土台から大きく揺らぎはじめている。
そもそも、構造改革とは、巨大企業の競争力を回復強化することをめざした改革である。起業の税金を安くするためには財政削減が必要なわけである。5兆円削って、2兆円増やす、という小泉予算というのは、福祉を5兆円削り、大企業へ2兆円まわすということ。
著者は私の一つ先輩にあたります。何度も話を聞いたことがありますが、その明快さと分析の鋭さにはいつも関心させられます。今度のこの本も、なるほど、なるほど、そうなんだよなー、などとうなずきながら読みましたが、すごく勉強になりました。みなさんにも一読をおすすめします。2500円は決して高くありません。
2006年4月 4日
少年裁判官ノオト
著者:井垣康弘、出版社:日本評論社
少年Aの事件が起きたのは1997年3月から5月にかけてのこと。もう9年も前のことになりました。鑑定主文を少しだけ紹介します。
非行時、現在ともに顕在性の精神病状態にはなく、意識清明であり、年齢相応の知的判断能力が存在している。未分化な性衝動と攻撃性との結合により、持続的かつ強固なサディズムがかねて成立しており、本件非行の重要な要因となった。
直観像素質者であって、この顕著な特質は本件非行の成立に寄与した一因子を構成している。低い自己価値感情と乏しい共感能力の合理化・知性化としての「他我の否定」すなわち虚無的独我論も本件非行の遂行を容易にする一因子を構成している。
家庭における親密体験の乏しさを背景に、弟いじめと体罰との悪循環のもとで、虐待者にして被虐待者としての幼時を送り、攻撃性を中心にすえた、未熟、硬直的にして歪んだ社会的自己を発達させ、学童期において、狭隘で孤立した世界に閉じこもり、なまなましい空想に耽るようになった。
思春期発達前後のある時点で、動物の嗜虐的殺害が性的興奮と結合し、これに続く一時期、殺人幻想の白昼夢にふけり、食人幻想によって自慰しつつ、現実の殺人の遂行を宿命的に不可避であると思いこむようになった。
Aの場合、男性器は正常に発達して射精もするようになっていたが、脳の暴力中枢から分化して発達する性中枢の発育が遅れているため、暴力中枢が興奮すると射精するというメカニズムになっていた。
著者は死刑必至の事件で、人を殺すためだけの手続の主宰という違和感を感じたといいます。それが、刑事裁判官を一生の仕事にしたいと思っていた生き甲斐、誇りをこっぱみじんに打ち砕いたそうです。ところが、いま私の担当している死刑必至事件では、裁判長は、まさに人を殺すためだけの手続でよいという態度で、まったく「余計なこと」に耳を貸そうとしません。いったいこの人の良心はどうなっているのかと疑うばかりです。
著者は裁判官として少年審判を担当していたころ、記録を3回は読みこなし、自らの言葉で少年と親に説明できるように準備して審判にのぞんでいたそうです。その真剣なとりくみには頭が下がります。
少年Aは、今や23歳。中学・高校の教育を受けさせ、大学教育まで受けさせたら、自分の言葉で、自分のことを説明できるようになるのではないか。本人が自分の経験を言葉に紡ぐことができるほど、自分の力を高めることのできる教養を身につけさせたい。事件の前の経過から、今後どうしたいのかまで、あらゆることを本人の口、あるいは文章でいいから語ってほしい。
著者の願いに私もまったく同感です。とかく切り捨ての論理がまかりとおっている現在の日本ですが、そんなに切り捨てていっていいとはとても思えません。逆に、切り捨てたらどうなるのか、体験者の話をしっかり聞いて、みんなでじっくり考えてみようではありませんか。
ところで、著者は福岡家裁にもつとめたことのある裁判官です。今は定年退官して弁護士です。45年もタバコを吸って喉頭ガンとなり、声帯もろとも咽頭を切除し、食道ガンで食道の3分の2を切り捨てたそうです。タバコの害の恐ろしさです。私は、いつもタバコを吸っている人に止めるよう忠告するのですが、なかなか聞きいれてもらえないのが残念です。
著者の近況写真ものっています。声帯を摘出したということは声を失ったということです。しかし、笛式人工声帯で発声し、外に積極的に出るようにしていますと紹介されています。たいしたものです。これからも、引き続き元気に活躍されますよう、はるか福岡からエールを送ります。
2006年4月 3日
御巣鷹山の謎を追う
著者:米田憲司、出版社:宝島社
JAL123便事故が起きたのは1985年8月12日。もう20年以上もたってしまいました。飛行機は怖い。そのように思う人がこの事故以来ぐっと増えたと思います。
このところ、JALにはいい話がありません。社長追放を役員が迫って、社内の派閥抗争が表面化していますし、もうけ本位で安全管理がおろそかになっているのではないかと心配です。Jシートのサービスもいいけれど、本当のサービスは安全だということを忘れてほしくありません。
日本航空と言えば、なんといっても山崎豊子の「沈まぬ太陽」です。アカ攻撃で徹底して労組活動家を追いつめる一方、高級幹部たちは会社資産を喰いものにしてのうのうとしている実態が、あますところなく描かれていました。まだ読んでいない人には一読することを強くおすすめします。モデルとなった小倉寛太郎さんとは、私も一度だけ立ち話をしたことがあります。左遷されたアフリカで野生動物保護に力をそそぎ、現地で高く評価されていることを知り、さすが一流の人物は違うと感じました。
この事故のとき、4人の女性が奇跡的に救出されました。しかし、救出が早ければ、もっと救われていたはずだということが指摘されています。
川上慶子さんは、痛くて動けなかったので、「お父さん、動けないよお」というと、お父さんは、「お父さんも身動きできない」と言った。妹の咲子(7歳)の名を読んだら返事があったので、「体、動くの?バタバタしてごらん」と言うと、手足をバタバタさせた。「お母さんはどうや」というと、「ここにいる」というから、「さわってみ」と言うと、咲子は「お母さん、冷たい」と言い、「姉ちゃん、苦しいよお、息ができないよお」と言った・・・。
事故から10年たって、横田基地のアメリカ空軍中尉が日航123便墜落の20分後(午後7時15分)には現場の位置を知っていたこと、夜9時には海兵隊のヘリコプターが救出活動しようとしたこと、ところが、その途中で中止命令が下されたことを公表した。これはアメリカ太平洋軍の準機関紙にも転載された。
午後9時20分に日本の飛行機がやって来たので、安心して海兵隊は現場を離れたというのです。ところが、現場で4人が発見・救出されたのは、翌朝10時45分でした。なんということでしょうか・・・。アントヌッチ中尉は、発見がもう10時間早ければ、もっと多くの生存者を発見できただろうと語りました。先ほど紹介した川上慶子さんの証言が、まさにそれを裏づけています。
助かった落合由美さんも、ヘリコプターの音がして、ずっと手を振っていた、と語っています。アントヌッチ中尉に対して、横田司令部は、メディアに一切話すなと釘をさし、翌日から一週間、沖縄に派遣しています。文字どおり、飛ばしたのです。
ところで、防衛庁・自衛隊は、マスコミに対して、墜落現場を何と4回も間違って伝えました。そのたびに取材陣は現場付近を右往左往させられたのです。
JAL123便事故の原因は、尻もち事故の修理ミスだということになっていますが、この点について、この本は次のように指摘しています。
アメリカ側の意図は、世界の航空会社が購入している大ベストセラー機を日航機事故一機のためにふいにするわけにはいかない。ボーイング社に修理ミスを認めさせた方が得策であり、波及を最小限に押させるためには、尻もち事故のミスを認める方が簡単だからだ。それはボーイング社の問題ではなく、アメリカの国益が最優先という政治的判断と考えてよい。アメリカの調査団の来日以降、マスコミ報道は隔壁破壊の方向に誘導されていった。しかし、この隔壁破壊説は事実の裏付けがない。担当検事も、修理ミスが事故の原因かどうかが相当疑わしいと述べた。
相模湾の海底に落下した垂直尾翼の残骸を回収せず、事実の裏付けのない計算だけでは検討に値しないという批判もある。
まだまだ事故原因は解明されておらず、救出状況には大きな謎があると思わせるに十分な本でした。実は、私は、この本では荒唐無稽と批判されていますが、アメリカ軍の戦闘機がJAL123便の尾翼を攻撃したために起きたという説を一時信じていたのです。ミサイル撃墜説です。でも、この本によると、それは考えられないということです。一気に落下したのではないからです。
私も飛行機をよく利用します。主導権争いなどという醜い経営内紛は早くやめて、働く人が大切にされ、安全第一のJALになることを利用者の一人として心より願っています。
2006年4月28日
入管戦記
著者:坂中英徳、出版社:講談社
東京入国管理局長だった著者が、日本における外国人処遇は現状でよいのかと問題提起をした本です。
1970年ころの在日韓国・朝鮮人は65万人だった。1999年には52万人となった。2003年末には47万人。日本国籍を取得した人が20年間で12万人いて、毎年1万人の割合で減っている。1975年ころは、日本人との結婚は3割ほどだったが、 1999年には、それが8割となった。日本人との「同化」が急激に進行しています。
名古屋入管の管内には14万人のブラジル人が居住している。4割近くを占めている。次いで、韓国・朝鮮の20%、中国15%と続く。名古屋にある、2000世帯の住む保見団地には3500人の日系ブラジル人が生活している。ブラジル人世帯の占める割合は56%になっている。ここでは、日常生活の大半をポルトガル語で生活しているし、やっていける。そうなんですね、ここまで来ているのですか・・・。単一民族の住む国なんて、もう言ってられませんよね。彼らの選挙権はどうなっているのでしょうか。税金だけとって、選挙権は与えないなんて、考えてみたらおかしいですよね。
留学生が犯罪に走っている。2003年の留学生についての学校別検挙者数を調べると、専門学校や日本語学校よりも、東大・早大などの日本の有名大学が上位に名を連ねている。
日本人の私たちは、もっとオープンに諸外国から訪れた人々を受けいれるべきだと著者は指摘しているように思います。とはいっても、エレベーターのなかで別の階から屈強な大男が乗りこんできたときには恐怖心を感じてしまいます。それは、単なる同乗者というより、目的があって乗りこんできたと心配するからです。
単一民族であることを誇ってきた日本ですが(この認識は、もちろん正しくはありません)、否応なしに今やいくつもの民族が参入してきているのです。
隣は何をする人のか、いま何を考えているのか、生活レベルでの共存を工夫すべき時代になってきているように思います。そのためにもコミュニケーションの必要がますます高まっています。