弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年3月28日

文盲

著者:アゴタ・クリストフ、出版社:白水社
 「悪童日記」は衝撃の書でした。戦時下における、すさまじいとしか言いようのない悪童の生活が生き生きと描かれています。なんとも憎めない存在なのです。でも、こんな悪ガキが身近にいたら、たまりません。わたしは、もちろん日本語で読みましたが、実はフランス語でも読んだのです。NHKラジオ講座にとりあげられたからです。
 「悪童日記」は、実に分かりやすい短い文章から成る小説です。NHKの朗読も良かったのですが、ネイティブのフランス人でなく、ハンガリーからの難民女性が高等教育を受けたこともなく、フランス語で書いた小説だと知り、これくらいなら、わたしもフランス語で小説を書けるかもしれない。そんな幻想とも言うべき思いにかられてしまいました。
 この本は「悪童日記」を書いた著者の自伝です。なるほど、と思える文章がいくつもありました。
 私は読む。病気のようなものだ。手当たりしだい、目にとまるものは何でも読む。新聞、教科書、ポスター、道ばたで見つけた紙切れ、料理のレシピ、子ども向けの本。印刷されているものは何でも読む。
 わたしも、著者とまったく同じで、完全な活字中毒です。活字が身近にないと不安でなりません。わたしのカバンの中には、いつも少なくとも4冊の本を入れています。うち2冊は大部の本で、残る2冊は新書か文庫です。
 私はフランス語を30年以上前から話している。20年前から書いている。けれども、いまだにこの言語に習熟してはいない。私はフランス語もまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由の方が深刻だ。つまり、この言語が、私のなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。
 わたしもフランス語を学びはじめて38年になります。でも、いつまでたっても敵語と呼べるほどには上達しません。続けているだけが取り柄のようなものです。
 人はどのようにして作家になるか。まず、当たり前のことだが、ものを書かなければならない。それから、ものを書き続けていかなければならない。たとえ、自分の書いたものに興味をもってくれる人が一人もいなくても。たとえ、自分の書いたものに興味をもってくれる人など、この先一人も現れないだろうという気がしても。
 人はどのようにして作家になるかという問いに、私はこう答える。自分の書いているものへの信念をけっして失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである、と。
 わたしも、このブログを夜、ひとり食卓のテーブルに向かって書きながら、いつも思っています。いったい誰が読んでくれるのか。ひょっとして、誰もよんでいないものを、ただ自分の思いを吐き出しているだけなのではないか、と。でも、ときどきトラック・バックがついてきますので、どうやら世の中の誰かは気がついて読んでくれているらしいと気を取り直します。いったい彼女は読んでくれているのだろうかとも思ってしまいます。でも、こればかりは押し売りするわけにはいきません。毎日ひたすら書き続けていくしかありません。きっと、そのうち読んでほしい人の目にとまることもあるでしょうから・・・。
 あっ、忘れました。うれしいニュースが最近ありました。なんと遠く北海道からメールが届き、高校生に対する法教育の教材として私の文章を使ったということでした。「失われた革命」について書いた文章です。光栄でした。たまにはこういうこともあるんだ、少しは世の中の役に立っているんだと、自分を少しほめてやりました。

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー