弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年3月 3日

ナポレオン戦争全史

著者:松村 劭、出版社:原書房
 ナポレオンは兵站支援システムの名人だった。作戦開始に先立って計画される兵站計画は、補給処と交付所の作戦配置および補給所要の見積りがきわめて優れていた。兵士と兵站段列は、4日分の非常用糧食を携行していた。そして、主補給基地と中間補給基地はもちろん、作戦部隊に随伴する前方段列にも所要の補給品を準備し、持続的に追送していた。
 ナポレオン軍は驚くほど迅速に機動した。1805年、フランス北部海岸から西部ヨーロッパを横断したウィーン、アウステルリッツに至る800キロの戦略的機動は、20万の兵力が1日平均20〜25キロの移動を5週間続けた。これは、ジンギス・カーン軍の速度に匹敵する。
 ロシア会戦のときは、これがうまくいかなかった。輸送用の四輪荷車の通過可能な道路網がなかったのも一因だ。ナポレオンが準備した兵站支援能力では越冬が困難だったので、ロシアに対する勝利は年内であることが絶対条件となっていた。
 ナポレオンは敵に弱点を示して決戦に誘いこみ、各個に撃破するのが得意だった。二つの敵の間に主力を配置し、ナポレオン軍を挟撃しようとするように敵を誘致して、各個に撃破する。これを内戦作戦という。やむなく内戦態勢になるのではなく、自分から求めて内戦態勢に入る。だから、当然、最悪事態になることを覚悟し、ひそかに秘密の対策も講じていた。不利な態勢と見せかけて、不敗の態勢をとっていたのだ。もっともワーテルローでは失敗した。
 ナポレオンは、ジャコバン党の活動家になり、フランスに対抗するコルシカ国民革命の独立運動に身を投じた。このため、フランス軍は、砲兵中尉だったナポレオンを罷免した。ナポレオンはコルシカ島に生まれたイタリア人である。
 フランス革命のあと、ジャコバン党とジロンド党の対立抗争のなか、ナポレオンは砲兵大尉として復職に成功した。そして、英国派が故郷コルシカの財産を奪ったので、ナポレオンはフランス派に転向した。
 ロベスピエールに認められたナポレオンは1793年9月に大佐となり、トゥーロン包囲戦に砲兵指揮官として参加し、功績をあげ、准将に昇任した。1795年8月にロベスピエールが失脚すると、ナポレオンも軍職を剥奪され、牢獄に入れられた。その後、軍隊から追放され、投身自殺しようとして、セーヌ河畔を放心状態で徘徊したこともあった。このとき、昔の友人が救ってくれた。王党派の反乱にナポレオンが見事に対処した功績で、中将に昇任する。
 1796年3月、28歳のナポレオンはイタリア正面軍司令官に任命された。
 それ以降のナポレオンの戦った戦闘がすべて図解されています。もう少し詳しい解説があると良いという不満が残りましたが、概観することはできます。図解についても、通常の軍史ものよりも簡略すぎて、ナポレオン軍の動きが、もうひとつ分かりにくいという弱点があります。
 ナポレオンの一側面を知ることのできる本でした。

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