弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年3月 2日

人間の暗闇

著者:ギッタ・セレニー、出版社:岩波書店
 ナチスのつくったユダヤ人絶滅収容所のひとつ、トレブリンカ収容所の所長だったシュタングルに女性ジャーナリストがインタビューしました。70時間にも及ぶロングランのインタビューです。そして、関連する人々も取材しています。私は見ていませんが、映画「ショアー」の原作本といえる本です。
 絶滅収容所と強制収容所は違うもの。絶滅収容所は占領下のポーランドに4ヶ所だけもうけられていた。ここでは、生き残るチャンスはなかった。ユダヤ人とジプシーをただ殺害するだけの目的で建設された。強制収容所はナチスの新秩序に抵抗する人間を拘束して再教育するための刑務所的施設としてつくられた。再教育の不可能な囚人はスパイなどとして処刑されたが、大半の囚人は比較的短期間のうちに保釈された。1941年に巨大な奴隷市場がつくられたが、生き残るチャンスはまだあった。これに対して絶滅収容所から生還したのは、わずか87人のみ。
 ユダヤ人とジプシーの大量虐殺は、ヨーロッパ中の劣等種族を抹殺するというナチス・ヒットラーの巨大な構想の第一歩にすぎなかった。ナチスは、それをロシアでまず始め、1941年から1944年までの間に700万人の市民を虐殺した。ついで、ポーランドで、非ユダヤ系ポーランド人300万人を殺害した。
 シュタングルはトレブリンカの前にゾビボール絶滅収容所の所長でもあった。ここで、1942年5月から1943年10月までのあいだに25万人のロシア人、ポーランド人、ユダヤ人、ジプシーが殺された。そして、1943年10月14日、数百人の囚人による武装蜂起が起こった。これらの25万人は、収容所に着いてわずか数時間のうちに跡形もなく殺害された。周辺に住む人々が知らない、気がつかないはずはなかった。夜ともなると、空が真っ赤に燃え上がり、たとえ30キロ離れていても、あたりにはくさい臭いが漂っていたのだから。甘いような、なんとも言えない臭いだった・・・。
 シュタングルがトレブリンカ収容所長だったあいだに90万人が殺されています。その殺害に責任があるとして、終身刑を宣告されました。死刑ではなかったのですね・・・。シュタングルは確信的な古参のナチ党員でしたが、妻はナチ嫌いでした。
 シュタングルは、自分は何ひとつ不正なことはしていない。常に命令に従い、命令以外のことはしてこなかった。個人的に誰かを傷つけたこともない。起こったことはすべて戦争の悲劇であり、世界中どこでも同じだった。このように答えました。同じようなセリフを日本の軍人たちも言っていましたね・・・。
 なぜ、あんな残酷な方法をとる必要があったのか? この問いに対して、シュタングルは次のように答えました。
 いきなり殺すわけにはいかなかった。大量の人間を制御する必要があった。それがあって初めて実行できたのだ。何百万もの人間、男性、女性、子どもを殺害するために、ナチスは単なる肉体的な死がかりではなく、精神的な死と社会的な死を与えた。それは単に犠牲者だけにではない。殺人を行った加害者に対しても、また、それを知っていた傍観者に対しても。そして、さらに、ある程度まで当時、考えたり感じたりすることのできたすべての人間に対して・・・。
 ナチスは現実から目を閉ざしがちな人間心理を巧みに利用して、大量殺人システムをつくりあげた。ヨーロッパ東西のユダヤ人に格差があることに注目した。西側のユダヤ人は現実を把握する能力が高く、事実を知れば抵抗するかもしれないという心配があった。だから、いろいろの偽装工作がなされ、到着した犠牲者は欺かれた。ガス室へと続く回廊に裸で5列に整列させられ、抵抗することなく殺されていった。
 東ヨーロッパから移送されてきたユダヤ人には偽装工作は不要だった。ある種の集団暗示だけで事足りた。犠牲者は到着後2時間以内に全員殺された。この2時間のあいだ、息つく間もなく何も考えさせないようにしていた。これは何千人という人間を殺害するために注意深く計画され、巧妙に利用された時間だった。
 シュタングルにとって、収容所に到着した犠牲者は、もう人間とは思えなかった。物体だな。物以外の何物でもなかった。ただの肉片の塊に過ぎなかった。
 トレブリンカ収容所でも武装蜂起が起きた。その中心人物、ゼロ・ブロッホは、皆の勇気を引き出す言葉と自信と力を与えることのできた人物だった。
 当時、ユダヤ人を匿ったり助けたら、すぐに射殺された。それでも救助しようとする人が収容所の周辺に少数ながらいた。
 強制収容所の看守をしていた人間が、仕事を嫌がって転属願いを当局に出したらどうなったか。多くは処刑されたり、強制収容所へ送られた。
 トレブリンカ駅の駅長がポーランド抵抗組織のメンバーであり、ドイツ軍の動静を観察するために送りこまれた人物であることが紹介されています。この駅長は、収容所に入る列車と人間をずっと数え続けたのです。そして、120万人が殺されたと証言しています。
 コルチャック先生と子どもたちはトレブリンカ収容所で殺されましたが、それはシュタングルの着任する前のことでした。
 シュタングルはアメリカ軍に逮捕され、収容所に入れられましたが、そこからやすやすと脱走しました。アメリカ軍は、むしろナチスに理解を示し、逆にその犠牲者に対しては共感に乏しかったのです。シュタングルはローマに逃げ、そこから教会の力を借りて南米に逃走します。小説「オデッサ・ファイル」があるように、ナチス高官の逃亡を助ける組織としてオデッサの名前は有名ですが、その存在は確認できないとされています。むしろ、ナチス高官の逃亡を助けたのは、赤十字とバチカン・ルートだというのです。
 カトリック教会はボルシュヴィズムに対して大きな不安を抱いていた。教皇ピウス12世は個人的にドイツを好んでおり、反ユダヤ主義的な考え方の持ち主だった。教皇が沈黙したことによって、戦後のナチ戦犯の逃亡にローマの司教らが手を貸す事態を招いた。
 そして、逃亡に成功したシュタングルはブラジルで本名をつかって生活していたのです。サンパウロのオーストリア大使館にも本名で届け出しています。その生活は、あまりゆとりのあるものではなかったようです。いろいろと深く考えさせられる本でした。

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー