弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年1月27日

国家と祭祀

著者:子安宣邦、出版社:青土社
 正月に小泉首相が伊勢神宮に参拝するのは、定例化された公式行事となった。小泉首相の靖国神社の公式参拝もまた、近隣諸国の抗議(いや、アメリカも同じく冷ややかだ)をはねのけ、あえて定着させた行事となっている。
 ところが、民主党の菅代表(当時)も伊勢神宮には参拝している。小泉首相の靖国神社には批判的であるのに・・・。
 明治2年(1869年)3月、明治天皇は東京への遷幸に先だち、伊勢神宮に参拝した。
 神宮・神社は、まず神道的に純化されなければならない。そして、神道的に純化された「国家の祭祀」としての位置が与えられていく。「国家の宗祀」とは、神社が国家の重要な構成契機としての祭祀体系だということを意味している。
 靖国神社にある遊就館は、戦前は武器博物館であった。2002年7月に本館を改修し、新館をもうけた。そこは表裏一体の二つの大きな使命があるとされている。一つは英霊の顕彰。二つには近代史の史実を明らかにすること。
 英霊と呼ばれるのは、すべての戦争犠牲者ではない。明治維新から西南戦争に至るまでの内乱においては、一方の側の死者しか対象としない。誰が、どうして、そのように判断したのか、明確ではない。
 遊就館は大東亜戦争を公然と肯定している。しかし、帝国の挫折自体は抹消できない。著者は、靖国神社を特権化しようとする言葉と行動とは、むしろ死者たちを汚す生者がつくり出す騒音と臭気でしかないと断じています。
 われわれが歴史に見てきたのは、また今なお世界に見ているのは、それ自身に宗教性と祭祀性とをもってしまった近代世俗的国家の国家という名による暴力であり、戦争を行使する主権国家という亡霊の跳梁ではないか。非キリスト教世界にあって、キリスト教的世俗国家を範として、暴力行使を正当化し、死を賭しての献身を可能にする神聖国家を比類のない形でいち早く形成した日本が完全な世俗主義的原則を表明したことは、国家と国家連合の名による暴力が宗教の名による対抗暴力を連鎖的に生み出しているいま、あらためて積極的な意味をもつと考えられる。
 かつて日本人は天皇のために自己を犠牲にし、他国民を殺した。それは決して戦後に連続しない。戦う国家とは祀る国家である。日本が戦う国家であり、したがって英霊たちを祀る国家であったことの何よりの証拠が靖国神社の存在である。靖国とともに連続が語られる国家とは戦う国家であり、英霊を祀る国家である。だからこそ、自衛隊のイラク派兵を推進する小泉首相による靖国参拝は執拗に続けられるのである。盆踊りと同じようなものだという子どもだましの言葉によって欺かれてはならない。
 戦う国家とは英霊を作り出す国家であり、英霊を祀る国家であるゆえに、国家の宗教的行為もそれへの関与をも憲法は禁じたのである。戦う国家を連続させない意思の表示であった戦争放棄と完全な政教分離をいう日本国憲法の原則は、いま一層その意義を増している。
 まったく同感です。日本を戦争する国にしてはいけません。

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