弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年1月13日

島原の乱

著者:神田千里、出版社:中公新書
 うーむ、そうだったのか・・・。ついつい、ひとりうなってしまいました。島原の乱について、団塊世代の学者が鋭い問題提起をしています。目が大きく見開かされる思いをしながら、ぐんぐん読みすすめていきました。
 著者は、結論として、一揆の目的は飢饉・重税で食えなくなった百姓たちの一揆というより、キリシタン信仰の容認であり、飢饉も重税も百姓の一揆を先鋭化させるひとつのきっかけに過ぎなかった。一揆にとっては、信仰それ自体が、蜂起の最大の眼目だったとしています。
 それに、一揆といっても、必ずしも民衆の集団ではなく、一揆指導者の多くは武士身分の牢人であった。蜂起の中心となった牢人たちは40人ほどいた。彼らの平均年齢は50歳くらい。ということは、クリスチャン大名であった有馬晴信が処刑された慶長18年(1614年)には、みな20代半ばの青年だった。つまり、少年時代はキリシタン大名の統治下で過ごしたはずの年齢である。このときの記憶が一揆蜂起を促したとも考えられるのではないか・・・。なるほど、まったく同感です。ついエリをただしてしまいました。
 島原の乱の主役は、殉教者というより、なんといっても立ち帰りキリシタンである。つまり転向した仏教とが再びキリシタンになっていったのである。
 一揆勢は、外国(オランダ)から砲撃される前まで、すぐに一揆は終わると考えていました。海外(オランダ)からの応援要請にこたえるつもりになっていました。それで幕府軍はオランダに砲撃を頼んだのです。南蛮国からもおまえたちは見捨てられることを示そうとしたのです。
 原城内には敵に内通するスパイが横行していました。
 原城が落城するまでに、城内から一揆勢のうちから1万人以上が立ち去ったともされています。
 うーん、なるほど、なるほど。島原城に久しぶりにまた行ってみたくなりました。残念なことに、私はまだ原城址には行ったことがありません。

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