弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年12月19日

武士道と日本型能力主義

著者:笠谷和比古、出版社:新潮選書
 本の題名からすると、なんだか固苦しくて面白くなさそうですが、とんでもありません。読みはじめたら胸がワクワクしてとまらないほどの面白さです。そうか、武士道って、そういうことだったのか。年功序列制度って、今に生きる日本型の能力主義のシステムだったのか。よくよく納得できる内容でした。
 きわめつけは甘木市の秋月郷土館にあるという島原陣図屏風「出陣図」です。島原の乱(寛永14年、1637年)に際して、秋月藩黒田家(5万石)が総大将の藩主黒田長興(ながおき)以下、2000人が出陣したときの行列を200年後に8年の歳月をかけて再現したというものです。見事な屏風絵ですが、その解説がまた素晴らしい。江戸時代の軍制がよく分かりました。
 総大将である大名を中心とする旗本備(はたもとぞなえ)は本営であり、作戦司令部として防御的なものであって、直接に戦闘に参加することはない。大名家の軍団のなかの最強の武士と部隊は「先備」(さきぞなえ)に配備されているのであって、大名主君の周囲にいるのではない。一人前の武士であり、自己の判断で敵との厳しい戦闘を勝ち抜きうると考えられている有力家臣たちは最前線の「先備」に配備されることをもっとも名誉としていた。大名家の軍事力のなかで、もっとも重要な要素は足軽部隊の鉄砲の威力であったが、これも「先備」に重点的に配備され、先手の物頭(ものがしら)の指揮の下に戦闘全体をリードする役割を担っていた。
 前線の指揮進退は、あくまで先備の旗頭(はたがしら)の裁量に委ねられている。つまり、中枢に位置する藩主の権威と身分は高いけれども、実際の活動は藩主のトップダウン指令という中央統轄型ではなく、むしろ出先ごとの現場優先・現場判断型の自律分散的なものであった。
 このような解説を読んで、ぎっしり2000人の将兵が出陣する様子を描いた「出陣図」の実物を、この目で一刻も早く見てみたいと思っています。
 著者は、あの「葉隠」も誤解されていると強調しています。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な一句は、実は逆説なのだというのです。
 武士道とは、武士としての一生を、いかに理想的な形で生き抜くことができるかということを本質的な課題としていた。
 「葉隠」は、決して忠義の名のものに武士に対して奴隷のような服従を要求するものではない。自己の信念にテラして納得のいかない命令であったなら、主君に向かって、どこまでも諫言を呈して再考を求めるべきであるとする。すなわち、「葉隠」にあっては、まず自立した個人としての武士の完成が要求されているのである。
 武士道における忠義とは、阿諛追従(あゆついしょう)でもなければ、奴隷の服従でもない。主体性をもち、見識をもった自立的な武士の、責任ある決断としての献身的な行為なのである。だから、主君の命令がどうにも納得できないときには自己の意見を申し立てるし、主君を諫めて悪しき命令を改善する方向にもっていくように努力もする。忠義とは、そのような自立的な立場を堅持したうえでの献身の行為なのである。
 逆に、主体性や自立性が希薄な武士というのは、主君の命令に対して逆らいだてはしないから、よそ目には、いかにも主君に忠実であるかに映るのであるが、実のところそれは、主君の意向にただ唯々諾々と従っている媚びへつらい者にすぎない。
 江戸時代、藩主が酒と女におぼれて藩政をかえりみなくなったとき、主君「押込」がなされた。身柄を拘束され、大小の刀も取りあげられて座敷牢に監禁され、藩主は交代させられるのである。身近なところでは、久留米の有馬藩でも押込はあっています。
 この「押込」には形式が必要であった。藩主が表座敷に現れたとき、家老・重臣たちは藩主の面前に出て列座し、「お身持ちよろしからず、お慎みあるべし」と述べる。そして家老たちの指揮の下に目付・物頭たちが主君の大小の刀を取りあげ、座敷牢に監禁する。これは表座敷でなければならなかった。というのは、家老達の私欲にもとづいた陰謀ではなく、正々堂々たる藩の公式的な政治的決断としての行為であることを内外に宣言するものであった。つまり、これは謀反(むほん)ではなく、物理的強制力をともなう諫言という家老の職務的行為なのであった、というものなんだそうです。
 徳川吉宗は享保の改革のとき、足高(たしだか)制を導入した。これは能力主義的抜擢人事を展開しながら、なおかつ同時に旧来の権利関係を尊重した身分制的原理の擬制が貫かれている。この足高制によると、低い家柄の幕臣を上級役職に抜擢登用することが可能になる。これによって、武士と足軽のような下級武士との断絶を克服することができた。
 現実に、農民身分の出の者が幕府の財務長官である勘定奉行にまで一代のうちに昇進していった実例がある。幕末の外交で活躍した勘定奉行の川路聖謨(としあきら)は、日田の代官所構内で生まれた。父は一介の庶民でしかなかった。やがて、父は御家人株を買って就職した。その子は能力があったので、トントン拍子に出世していった。
 年功序列と呼ばれている制度は、非能力主義的なエスカレーター型自動昇進方式ではなかった。それは能力主義的原理にもとづく競争的な昇進方式であった。職務経験を通したスキルアップを基礎とするOJT型の能力主義的昇進システムであった。
 徳川時代の武士道思想のなかに「御家の強み」という言葉がしばしば出てくる。堅固な御家とは何か、つまり永続する組織とは何かということである。
 武士の社会はいわゆるタテ社会であるから、主君の命令と統率のもと、決して苦情やわがままを口にせず、全員一丸となって一糸乱れぬ行動をとって目標に邁進していくような組織というのは誤りなのである。このような絶対忠誠の精神にもとづく組織は、外見上は強固なように見えて、実は非常にもろくて滅亡することは遠くない。そうではなく、自己の信念に忠実であり、主君の命令であっても、疑問を感じる限りは無批判に随順せず、決して周囲の情勢に押し流されていくこともない、自律性にみちあふれた人物をどれだけ多くかかえているかに組織の強さは依存する。
 自負心が旺盛で、主体的に行動する者たちは、主命に反抗的な態度をとることもしばしばであるが、このような自我意識が強烈で容易に支配に服さないような者たちこそ、御家つまり組織のためには真に役に立つという逆説的な関係が存在していた。
 これは、今日の組織にも十分生かされるべきではないのか。著者はこのことを何度も強調しています。なるほど、なるほど、私もよく分かります。まったく同感です。
 私と同世代の学者ですが、学者って、ホントにすごいと感嘆します。

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