弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2005年12月 7日
萌え萌えジャパン
著者:堀田純司、出版社:講談社
この本を読むと、つくづく日本は変わったと思い知らされます。私のあずかり知らないところで、こんなに巨大なマーケットができあがっていたなんて・・・。日本の社会の闇の深さに愕然とさせられます。オタク族は、今や2兆円市場になっているのです。ええ、商業主義にもしっかり毒されているわけなんですよ。
そもそも萌えとは何なのか。本来は芽が出るという意味だが、今では、特定のキャラクターないしその一部について深い思い入れを抱き、心が奪われる状態を指す言葉。
萌える気持ちは古き良き時代の、あの初恋に似ている。魅力的な対象の現実の不在から発生する不安定さ。その補完。ふれたい、でもふれられない。このもどかしさ・・・。
キャラクターは実写ではなく、しかも写実ですらない。それゆえにこそ現実が解き放たれて、深く人の本態をわしづかみにする魅力を放つ。キャラクターは、魅力的であればあるほど、現実でないからこそ現実を超えた魅力をもつという矛盾を、愛する者に痛切に感じさせる。うーむ、なるほど、そういうことなのかー・・・。といっても、実は分かったようで分かりません。私にとって、それは難解な哲学的な解説そのものです。
萌え系は文系の人より、むしろ理系の人にこそ深く親しまれる。そんな傾向があるそうです。また、萌え系にはグッズまであります。そのヒット作が、このところ有名な抱きまくらです。
抱きまくらは最終崩壊兵器だ。愛好者の人格が崩壊してしまう。
本来サブカルチャーであったマニア層が、90年代の日本社会では大きな消費集団を形成した。1994年に「セーラームーン」は年商200億円を達成した。1995年には、そのキャラクターグッズは5000種に及び、累計売り上げ高は2000億円になった。なんと、なんと・・・。そのすごさには息を呑むものがあります。
コミックマーケットは、3万5000サークル、51万人の人を日本全国から集める世界最大のイベントになった。1日に1万部以上が売れ、トータルで20億円の金額が動いている。ええーっ、なんということでしょう。とても想像できないスケールです。
2003年の出版物全体の販売部数のうち、漫画の占める割合は38%。漫画家は4500人もいる。フランスにも日本の漫画が、そのままマンガとして進出しています。
ちなみに、私のフランス語学習歴は30年をこえています。ちっともうまく話せませんが、あきもせず、こりることもなく毎週、日仏学館に通い、毎年2回、仏検を受けています。なんとか準一級には合格しましたので、今は仏検一級にチャレンジしています。手元に残っている問題冊子をみたら、初めて受けたのは1995年でした。ですから、なんと10年以上も受験していることになります。これには我ながら驚いてしまいました。10年前ひと昔といいますが、10年前の無暴さには呆れてしまいます。今でもまだ合格圏にはほど遠いのですが、それでもようやく4割台の点数がとれるようにはなりました。フランス語を聞いて耳で分かるようになったのがうれしくて、続けています。これも一種のオタクなんでしょうね。自分でもそう思います。
萌えの対象は声優にまで及んでいる。10代の女の子の将来なりたい職業の9位に声優がランクインしている。たかがオタクの世界だなんてバカにしてはいけない。そんな日本社会の現実をよくよく思い知らされる本でした。
2005年12月 6日
下流社会ー新たな階層集団の出現
三浦展著 光文社新書
【あなたの「下流度」チェック】…半分以上あてはまればあなたはかなり「下流的」
□1 年収が年齢の10倍未満だ
□2 その日その日を気楽に生きたいと思う
□3 自分らしく生きるのがよいと思う
□4 好きなことだけして生きたい
□5 面倒くさがり、だらしない、出不精
□6 一人でいるのが好きだ
□7 地味で目立たない性格だ
□8 ファッションは自分流である
□9 食べることが面倒くさいと思うことがある
□10 お菓子やファーストフードをよく食べる
□11 一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごすことがよくある
□12 未婚である(男性で33歳以上、女性で30歳以上の方)
かなりズバズバ書かれているので、反感を持って読んだ人も多いだろう。わたくしは立ち読みで上記チェックのみ行った。だって目次だけで内容が全部わかっちゃったんだもん(第2章の、謎のキーワード連発の部分は除く)。目次だけならアマゾンで検索すると見ることができます。
チェックの生活内容は、一時期スローライフとしてもてはやされていた記憶がありますが。
この本の読者層って「自分は勝ち組か負け組か」とドキドキして生活しているタイプの人ではないか。
本来こんなに売れる類の本ではないと思うのだが。
下流は自民党とフジテレビが好き!と言い切られても・・・
再審と鑑定
著者:谷村正太郎、出版社:日本評論社
著者の古稀を記念して刑事弁護に関する論稿を集めて本にしたものです。著者と対話したことはありませんが、そのお話を聞いたことは何度もあります。誠実そのもの、謙虚な口ぶりの話に、いつも感心しながら聞いていました。
白鳥事件と芦別事件が大きくとりあげられています。ご存知のように白鳥事件は、再審事件の門戸を大きく開いたとされる最高裁判決が出ています。でも、いま読んでみると、なーんだというような、当然のことが書かれているにすぎません。
白鳥(しらとり)事件は1952年1月21日、札幌市内の路上で自転車に乗って走行中の白鳥警部(警備課長)が拳銃で射殺されたというものです。当時28歳だった村上国治・共産党札幌市委員長が10月10日に逮捕され、3年後の1955年8月16日に殺人罪で起訴されました。村上国治は現場にいたのではなく、殺害を指示したというのですから、共謀共同正犯です。ところが、物的証拠は何もありません。唯一の証拠が弾丸でした。白鳥警部の体内から出てきた弾丸と、札幌市郊外の幌見峠で拳銃の射撃訓練をしたときに「発見」されたという弾丸が同一のものかが問題となり、同一だとする鑑定書が出されました。しかし、その鑑定書をつくった学者は自分でしたものではないことが判明したのです。
最高裁の1975年5月20日の決定は次のように述べています。
「無罪を言い渡すべき明らかな証拠とは確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいう」
「明らかな証拠であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきである」
「再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生じぜしめれば足りるという意味において、疑わしいときには被告人の利益に、という刑事裁判における鉄則が適用されるものと解すべきである」
なかなかいいことを言ったのですが、それでも最高裁は結論として再審開始を認めませんでした。運動の盛りあがりに押されるようにして村上国治は17年間の獄中生活のあと、仮出獄することができました。45歳になっていました。お金に替えられない貴重な青春が奪われてしまったわけです。
芦別事件も、同じ1952年の7月29日、北海道の根室本線の芦別駅付近で線路がダイナマイトで爆破されたというものです。被告人がつかったとされた発破器は盗まれたのではなく、土砂崩れのために埋まっていたのであり、会社はそれを発見してつかっていた。検察は、それを知っていた。したがって、被告人が犯人ではありえないことを知りながら当初の筋書きどおり起訴した、というのです。本当にひどい事件です。
著者は刑事記録を読んでこのことを知り、それまで抱いていた裁判所に対する幻想がうちくだかれたとしています。私も、このくだりを読んで、腹がたってしかたがありませんでした。権力をもつ人間のやることは、昔も今も変わりません。決して、単に昔のこととすますわけにはいかないのです。
それでも、そんなひどいことをした検察官の個人責任は認められませんでした。いえ、一審判決は認めたのですが、二審も最高裁も認めなかったのです。こんなことでいいのでしょうか・・・。
先輩弁護士に学ぶべきところは大きい。それを実感させられた本でした。
2005年12月 5日
鳥たちの旅
著者:樋口広芳、出版社:NHKブックス
すっごく面白い本です。私と同じ団塊世代の学者の書いた本ですが、その日頃の多大な労苦に心から拍手を送ります。その地道な研究を、このように素人にも分かりやすくまとめていただいて、心から感謝します。
「グース」というアメリカの映画を少し前に見ました。ガンのわたりを追いかけたものです。小型の飛行機で撮影したようです。「ミクロコスモス」というフランス映画がありました。オスとメスのカタツムリによる愛撫シーンは、あまりに官能的なので鳥肌が立ち、その匂いたつエロスにすっかり圧倒されてしまいました。同じ監督がつくったのが「WATARIDORI」(渡り鳥)です。渡り鳥の生態を刻明に、超軽量飛行機に乗ってどこまでも追いかけた映像の素晴らしさには、声も出ないほど、息を呑むばかりでした。
この本で、著者はコハクチョウに送信機をつけ、北海道からロシアへ渡るのを追いかけます。マナヅルが九州(鹿児島)から朝鮮半島そして中国・ロシアに渡るのも追跡しました。50日間で2千キロをこえる旅です。コンピューターの前にすわって、送信機からの電波を解析しながら追跡していくのです。
サシバ(タカ類)が石垣島から東北・福島まで渡ってくる。福ちゃんと呼ぶサシバを追跡する。福ちゃんは3月17日に石垣島を出発し、4月15日に福島県白沢村にたどり着く。31日間で2900キロの旅だ。別のサシバ「新子」は新潟県を9月7日に出発し、10月13日に石垣島に到着。37日間で2271キロを移動した。
ハチクマは長野県の安曇野を9月19日に出発し、11月9日にインドネシアのジャワ島に到着。52日間で1万キロ近くを移動した。春は2月22日に出発し、5月18日に安曇野に戻った。58日間、1万6千キロの旅だった。戻った場所は、前年とまったく同じ安曇野の同じところ。毎年ほとんど同じ日に旅に出る。カレンダーもないのに不思議だ。
このような追跡は、鳥に送信機をつけることによって可能となる。この衛星追跡システムをアルゴスシステムとも呼ぶ。アメリカの気象衛星(ノア)を利用している。ここでもドップラー効果を利用して鳥の位置が探知される。
鳥にどうやって送信機を取りつけるのか。送信機の重さは鳥の体重の4%以内なら影響はないとされている。重さは12〜100グラムほど。羽毛に直接貼りつけたり、テフロンリボンをつかってランドセルのように背負わせる。
鳥が渡りをするのは寒さから逃れるためではない。鳥は定温動物なので、気温の変化にはそれほど左右されない。鳥が渡るのは、食物を十分に確保するため。
鳥が渡るときには、太陽の位置を体内時計で補正しながら飛んでいる。夜には星座を利用するし、地磁気も重要な手がかりとしている。それにしても、秋の出発地と春の到着地がまったく同じというのは、地図情報がなくてもできることなのか・・・。
朝鮮半島の非武装地帯は、鳥たちにとって、残された数少ない良好な自然環境である。今や鳥たちがあてにできる自然環境は激減し、鳥の生存が脅かされている。
送信機をつける鳥をどうやって捕まえるのか。ロシアでは、大型ツル類をつかまえるには、ヘリコプターで近づき、地上2メートルから人間が飛びおりて、ツルに抱きつく方法がとられている。しかし、これは人間がケガする危険は大きい。だから、睡眠薬を利用したり、わなをつかったりする。
衛星追跡するには、10個体200日の追跡で850万円もの費用がかかる。うーん、大変です。写真のほか、大変わかりやすいイラストがついています。楽しく渡り鳥の生態が学べました。本当に学者って、すごいですよね。
2005年12月 2日
吉備大臣入唐絵巻の謎
著者:黒田日出男、出版社:小学館
1943年うまれの著者は海外に一度も行ったことがないそうです。本当でしょうか。
この本は、いまアメリカのボストン美術館に現物がある吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)を解説した本です。この絵巻には欠けているものがあると指摘し、その謎ときを試みています。読んでいるだけで、なんだか胸がワクワクしてきて、うれしくなります。目で見る絵巻なので、とても分かりやすいというのもいいですね。
絵巻は日本の誇るユニークな美術品。有名なものだけで515点もある。源氏物語絵巻、信貴山縁起絵巻、伴大納言絵巻、鳥獣人物戯画は、四大絵巻と呼ばれているが、いずれも平安末期、12世紀ころの作品。
吉備大臣(吉備真備)は、実在の人物であり、奈良時代の政治家・学者(693〜775年)。養老元年(717年)に遣唐留学生として入唐し、天平6年(734年)に帰国。孝謙(称徳)天皇の信任を受けた。天平勝宝3年(751年)に再び入唐し、同5年に帰国。藤原仲麻呂の乱の鎮定に功を立て、中国の文物の紹介・導入に尽力した。吉備(岡山県)の地方豪族の出身でありながら、右大臣・正二位にまでのぼった。
この絵巻は、一人の画家が描いたのではなく、画家の工房によって制作されたものである。源氏物語絵巻もそうでした。
絵巻は物語の進行を逆戻りさせることはない。それが絵巻表現のルールである。画家たちは、中国・唐朝の身分秩序を服装や被り物によって描き分けるだけの知識をもっていなかった。だから、それらしく中国風に描くしかなかった。
中国の風俗を、行ったこともない日本の画家たちがいろいろ想像して描いてわけです。それにしてもよく出来ていると感心させられます。日本文化も、なかなか捨てたものではありません。楽しい絵巻の謎ときでした。
ミネラルウォーター・ガイドブック
著者:早川 光、出版社:新潮社
ミネラルウォーターについての実用的なガイドブックです。大いに参考になりました。
高校生までは水道の蛇口から直接のんでいました。夏でも冷えた水で、うへぇー、鉄管ビールは美味しいや、などとふざけながらも、本当に美味しいと思って水道水を飲んでいました。私がミネラルウォーターを愛用するようになったのは、まだ10年にもなりません。今では、自宅では夏でもビールをほとんど飲まなくなり、かわってミネラルウォーターを飲んでいます。少し前までは、ビールのかわりに牛乳を飲んでいましたが・・・。年齢(とし)をとると、嗜好が変わるって本当ですね。きっと、身体が求めるのが違うのでしょう。
2年前に中国のトルファンを旅行したとき、中国人のガイド氏がペットボトルのミネラルウォーターは必携だと再三注意していたこと、まさにこれは生命の水ですよねと言いながら、さも美味しそうに飲んでいたことが忘れられません。日本で水道水を飲んで下痢することはありませんが、外国に行くとその心配がありますから、ビールを飲むかミネラルウォーターに頼ってしまうことになります。それでも、今や日本人の47%が家で水道水をそのまま飲まないと回答しているとのことです。私もその一人です。朝おきたら、一番に前の晩のうちに昆布をコップ一杯のお湯につけたものを飲みます。
日本ではミネラルウォーターは天然水とは限らない。日本のナチュラルミネラルウォーターは濾過・沈殿および加熱による殺菌(除菌)が義務づけられている。しかし、ヨーロッパの水は例外的に無殺菌での販売が認められている。なぜか? それは源泉の安全管理や周辺の環境保護において日本とは格段の差があるから。つまり、無殺菌で売れるほど安全だからだ。たとえば、「ボルヴィック」では、源泉の周囲5キロ以内を保護区とし、地上に建造物を建てるのはおろか、すべての地下活動も禁止して地下水を守っている。すごーい・・・。でも、それくらいするのが当然ですよね。日本がそれをしていないのがおかしいのです。
日本人向けのミネラルウォーターが売り出されたのは1929年(昭和4年)が初めて。これは、現在の富士ミネラルウォーター。1983年(昭和58年)に売り出された「六甲のおいしい水」が一般家庭に初めて登場したミネラルウォーター。日本のミネラルウォーターは東京・大阪・福岡など、水道水に問題をかかえた地域に集中している。水道水の水質が比較的良好な名古屋では伸び悩んでいる。へー、そうなんだー・・・。
しかし、今では水道水への不信からだけではなく、健康維持のためにも売れている。ミネラル摂取の不足、そして日本人の味覚が硬度の高い水に慣れてきたことにもよる。それでも、国民1人あたりのミネラルウォーターの年間消費量はフランスの142リットルに対して、日本はケタ違いの10リットル以下にすぎない。
アルカリイオン整水器については、下痢や胃酸過多への効能や美容効果はほとんど期待できないことが分かっている。フランスの「コントレックス」は若い女性にやせる水として親しまれている。利尿性が高いこと、重くて渋いので胃に充足感を与えてくれ、空腹感を緩和するので、食べすぎという肥満の原因を除去してくれる。美味しいごはんを炊くには、「ボルヴィック」のような軟水をつかうべきで、「コントレックス」のような硬度の高い水だとパサパサになってしまう。
たかが水、されど水です。安心して飲める水を子々孫々に残すのは、いまを生きる私たちの重大な責務だと思います。
蝉しぐれ
著者:藤沢周平、出版社:文春文庫
映画も見て、しっとりした江戸情緒を心ゆくまで堪能しました。薄暗い映画館のなかで過ぎ去った青春時代を思い起こしながら胸を熱くしました。味わい深い原作をもとに、大自然のこまやかな季節の移ろい、そして人さまざまの生き方が見事に描き出されています。
陽炎のたちのぼる炎暑の坂道にさしかかり、父の遺体を汗だくになって必死に運ぶ文四郎。それを手伝おうとして隣の娘ふくが坂の上から駆けおりてくるシーン。黄金の稲穂が風に揺れる風景。水田に入って作柄の様子を調べている見まわり役人の苦労。雪をいただいた、威厳すら感じさせる堂々たる山並み。何かしら胸の奥につきあげるものを感じます。いかにもニッポンの原風景です。山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」にも美しい情景と鮮やかな殺陣に魅せられてしまいましたが、同じ藤沢周平が原作でした。
凛とした、張りのある美しい女優さんに強く魅せられました。憂いのある微笑みがアップでうつしだされると、ほかには何も目に入りません。まさに至福のひとときです。
海坂(うなさか)藩普請組の軽輩・牧文四郎の父は藩内部の抗争に巻きこまれ、突然、切腹を命じられた。文四郎はその子どもとして苦難の道を歩みながら大きくなっていく。そして隣家に住む幼なじみの少女ふくは江戸にのぼる。やがてお殿さまの手がつき、側室となって郷里に帰ってくる。
剣の道をきわめた文四郎に側室の子どもを奪う命令が下る。そこへ刺客たちが乱入し、側室と殿の子どもの命が狙われる。文四郎の殺陣まわりは迫真のものがあります。日本刀で人を斬ると血が人間の身体から噴き出し、刀はこぼれて使いものにならなくなります。斬り合いがいかに大変なことか痛感しました。
そして20年後、文四郎は殿様と死別した側室ふくに呼び出され、久しぶりに再開します。静かな屋敷で、並んで庭を眺めながら話します。
「文四郎さんの御子が私の子で、私の子どもが文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」
「それが出来なかったことを、それがし、生涯の悔いとしております」
「うれしい。でも、きっとこういうふうに終わるのですね。この世に悔いを持たぬ人などいないでしょうから。はかない世の中・・・」
原作と映画では、このあたりが微妙に異なっています。原作は、この会話のあと何かが起きたことを暗示していますが、映画の方はあっさりしたものです。どちらがありえたのか・・・。私は原作を選びます。でも、映画の方がいいという人も多いことでしょうね。
ふくを見送る文四郎を、黒松林の蝉しぐれが耳を聾するばかりにつつんで来た・・・。
そうなんですよね。みんな青春の淡く、ほろ苦い思い出があるものなんです。
2005年12月 1日
境界線を越える旅
著者:池 明観、出版社:岩波書店
私も「韓国からの通信」を愛読した一人です。といっても「世界」に連載されていたのを読んでいたというより、岩波新書にまとめられたものを読んだということです。岩波新書で4冊あります。ここに良心の叫びがある。そんな気がして、毎回、読みながら自分はこのまま何もしなくていいのかと、身もだえする思いでした。
「世界」の1973年5月号から1988年3月号まで15年間も連載されていました。400字詰めの原稿用紙で1万枚ほどの分量になるというのですから、それだけでもたいしてものです。もちろん、その量よりも質です。その伝える事実の重みに泣きながら書いていたというのですが、惻々とした、いかにも抑えた筆致で、読み手の心に重くズシンと貫きました。
その著者「T・K生」は長らく謎の存在でした。おそらく韓国内にいる複数の人物(学者)だろうと推測されており、私もそのように想像していました。しかし、それは日本にいる韓国人学者だったのです。本人が名乗り出たわけです。KCIAの探索もはねのけ、長く秘密が守られてきたことにも畏敬の念にかられます。
この本は「T・K生」こと池明観教授の生い立ちから現在の心境を本人が語ったものです。読みはじめると、人間の良心とはこういうことなのかと、心が震える思いで、最後まで一気に読み通してしまいました。
著者の父親は貧しい小作農民。精米所のベルトにからまる事故にあってまもなく死亡。著者はこのとき3歳。30代前半の若い母親と2人、苦難の人生を歩き始めた。
小学校で大酒飲みの進歩的な先生(担任)に出会った。後に出会ったときには、この先生は共産党の幹部になっていて、著者と意見を異にする。しかし、小学生のころの著者に対して絶大な影響を及ぼした。やがて苦学しながら北京に学び、また韓国で師範学校で教え、さらにソウル大学に入った。大学3年生のとき、朝鮮戦争が始まった。
この戦争は起こるべくして起こった。著者はこのように言い切ります。朝鮮半島は、北も南も、矛盾のなかに大いに荒れすさんでいたからです。
韓国では、健康な若者は軍隊に引っぱられ、健康の悪い者は棍棒でたたかれて放免された。イデオロギーとは、いったい何のためのものであるのか。戦いの中で人間は残忍になる。人を殺せば勲章がもらえる。この世に生き残れる者は残忍なものだけなのか。
著者は警備隊に入り、軍隊に入ります。そこで、軍隊の本質を見せつけられます。
高級将校は避難民の女性を宿舎に隠しているのに、兵士が女性と性行為をすれば、当の女性が強姦などされていないと叫んでも銃殺刑に処せられる。他人には厳しく、自分には甘い。わが身の延命が最優先。軍人による正しい政治など可能であるはずがない。軍隊は腐敗していた。多くの高級将校がそうだった。5年間の軍隊生活のなかで、良心的な高級将校には出会ったことがない。将官級にのぼればのぼるほど、幻滅は増していくばかりだった。軍人生活のなかで優れた人間が育つことはない。
韓国は軍人社会をくぐり抜けて、ようやく民主化を達成できました。その民主化運動には、著者のような海外にいる韓国人の運動があったことがよく分かります。
金大中が大統領になった。ところが、その在任5年のあいだに金大中事件のことを調べたら真相は分かったはずなのに、金大中はなぜか真相を明らかにしなかった。これは現代史の謎のひとつだ。
著者は、1993年4月、20年ぶりにソウルに戻りました。そして、今では韓国側から日韓問題について意見を述べています。
日本は門戸を開放して世界交流をなしたときに繁盛し、その門戸を閉ざしたときに敗北している。これは厳然たる歴史的事実である。
なるほど、そうです。そうなんです。教科書問題といい、小泉首相の靖国神社参拝といい、自らの過去を反省せず、海外友好を考えないでは日本の繁栄はありえません。
著者は、いまの廬武鉉(ノムヒョン)大統領にも苦言を呈しています。廬武鉉は軍事政権と戦ってきたはずなのに、国民のなかに敵と味方をつくりあげている。これが韓国の政治状況全体を暗くしている。革命を口にしながら反革命に傾斜している。
うーむ、厳しいな。思わず、私はうなってしまいました。それでも、日本の小泉首相よりはよほどまともな大統領だと思うのですが・・・。
2005年12月28日
大江戸の姫さま
著者:関口すみ子、出版社:角川選書
寛永11年(1634年)、大名妻子の江戸在府制が確立した。そこで、大名家ごとに「江戸にいる姫さま」が誕生した。幕末の文久2年(1862年)まで、これは続いた。この間の228年間、江戸で多くの姫さまが暮らしていたわけである。
姫さまのペットに狆(ちん)がいたというのを初めて知りました。といっても、平たい顔で耳の垂れた小さな犬を、みんな狆と呼んでいたようです。狆を抱いた姫さまの肖像画も初めて見ました。狆のお墓まであったというのです。昔も今も変わりませんね。有名なシーボルトは狆の剥製をオランダに持って帰り、今も残っています。
姫さまは歌舞伎も好きだったようです。有名な絵島生島(えじまいくしま)事件では御年寄りの絵島も役者の生島も、ともに配流・島流しになっています。紀州家の姫君(豊姫)が行列を組んで芝居を見に行ったことが問題となり、姫君は国元へ押込め、重臣は1人切腹させられ、ほかにも解雇された事件があったそうです。逆にいうと、それほど芝居は昔から人気があったというわけです。
八代目の市川団十郎は人気絶頂のとき、32歳で自殺してしまいました。すると、女性が大勢泣き叫んで大変だったそうで、その姿を描いた絵が紹介されています。現代のヨン様騒動を思わせる熱狂ぶりです。これまた、昔も今も変わらないのですね。
綱吉も吉宗も、その娘たちを有力大名に次々に嫁にやり、支配基盤を固めようとしました。吉宗は、島津家になんとか嫁にもらってもらおうと、いろいろ画策したそうです。
吉宗はよその娘を養女にして身分を格上げしてから、大名の奥方として、壮大な儀式をとりおこなって次々に送り出していきました。これは、妻の地位が夫より高くなることにもなるので、「夫は妻を主君のごとくあしらい」という事態になっていると荻生徂徠が批判したとのことです。つまり、妻の地位は江戸時代に、それほど低いものではなかった、否、むしろ妻の地位の方が夫より高いことは不思議でも何でもなかった、ということです。
ちなみに、八代将軍家斉は50数人の子どもをもうけたことで有名ですが、その子どもたちを男子は有力大名の養子として、女子は姫君として嫁がせています。ところが、男子の大半は20歳になるまでに亡くなり(50歳をこえたのは1人)、女子は12人のうち6人が若くして亡くなり、残る6人だけ50歳をこえています。やはり、相当なストレスがあったのではないかと考えられます。
江戸に住んでいたお姫さまたちの生活の一端を知ることができました。
生きて死ぬ智慧
著者:柳澤桂子、出版社:小学館
私の父が死んだのは72歳のときですから、もうかなり前のことです。胃ガンに始まり、いったん全快しましたが、肺に転移して亡くなりました。病院で父が好んで読んでいたもののひとつに般若心経がありました。
般若心経(はんにゃしんきょう)は、全文わずか14行の短い文章です。でも、漢字ばっかりですから、意味を理解するのはとてもできません。
この本は、長く病気に苦しめられてきた生命科学者である著者による解説と英訳までついていますので、なるほど、そういう意味だったのかと得心することができます。
色即是空
空即是色
有名な文句です。これを著者は次のように解説しています。
お聞きなさい。私たちは広大な宇宙のなかに存在します。宇宙では、形という固定したものはありません。実体がないのです。
宇宙は粒子に満ちています。粒子は自由に動きまわって形を変えて、お互いの関係の安定したところで静止します。
お聞きなさい。形のあるもの、いいかえれば物質的存在を私たちは現象としてとらえているのですが、現象というものは時々刻々変化するものであって、変化しない実体というものはありません。
実体がないからこそ形をつくれるのです。実体がなくて、変化するからこそ物質であることができるのです。
うーむ、なんだか量子力学の解説書のようです。ちょうど量子力学について少し本を読んだばかりでしたので、とっさにそう思いました。極小の世界と宇宙のはての世界とが同じようなものだということに、すごく魅かれてしまいます。
それはともかくとして、実体はないけど、私はいまここに存在しています。不思議な存在です。100年前にも、100年後にも私は存在しませんが、私を構成する粒子は、どちらにも存在するのです。
乃至無老死
亦無老死尽
こうして、ついに老いもなく、死もなく、老いと死がなくなるということもないという心に至るのです。老いとか死が実際にあっても、それを恐れることがないのです。
いかにも仏教図のような絵がバックにあり、解説文の雰囲気を伝えてくれます。心が洗われる気のする本です。
霊長類のこころ
著者:ファン・カルロス・ゴメス、出版社:新曜社
ゴリラは、生後10ヶ月から12ヶ月のあいだは、目的物に身体が到達する延長として棒をつかい、生後24ヶ月から26ヶ月では手が届く範囲を拡張するため道具をつかう。人間の赤ん坊では、その逆がおきる。似てるようで、違うんですね。
チンパンジーは、好きな飼育係が天井からぶら下がったバナナを取ろうとしてむなしくあがいているビデオを見せられると、その次に、何のためらいもなく、その飼育係が箱によじ登っている写真を選ぶ。逆に、ビデオにうつっている人間が嫌いな人間だったら、問題が解決されたという写真ではなく、箱から転げ落ちるなど、ひどい結果になる写真を選ぶ。えーっ、そうなんだー・・・。驚いてしまいました。
サルたちのかわしあう声には大きな意味がある。ヒョウに対する警戒音を聞いたときには木に登る。ワシに対する声を聞いたら、草むらに入った空を探す。ヘビに対する警戒音のときには、すぐに二本足で立ち上がって地面を探す。サルは、それぞれの警戒音に適切に反応する。
自閉症の子どもは他人の手をとって身振りするときに、その人の目を見ないのが普通。しかし、ゴリラは、他人の手をとり、その人の目をのぞきこむ。
チンパンジーのベルという名前のメスは順位が低かった。ベルが情報源となって仲間を食物のありかに連れていく役まわりのときには、ベルは食物にありつけない。なぜなら、他の高順位のオスなどが先に食物に走っていき、全部食べてしまうから。
だから、ベルは食物のある方向へ歩いていくのをやめた。しかし、賢いチンパンジーがいて、ベルの行動をよく見て、ベルの視線の方向から食物のある方向を見抜いた。そこで、ベルは最後には、ばれないように目をそちらに向けないようにしたうえで、違う方向に歩いていった。うーん、チンパンジーは本当に賢いんですね。仲間をだます術も身につけているわけです。
更年期
著者:マーガレット・ロック、出版社:みすず書房
日本でふつう言われている更年期の症状はアメリカのメノポーズにともなうものとはかなり違っている。アメリカではメノポーズとは閉経のことであり、ホットフラッシュと突然の発汗のみ。頭痛などの身体の痛み、めまい、肩こりは女性も医師もメノポーズに関係があるとは考えない。日本人女性は、ホットフラッシュを訴えず、急な発汗もまれだ。
更年期をメノポーズと訳してはならない。アメリカの女性の大多数の頭のなかで、メノポーズと閉経(月経の終わり)とが同義語になってきた。
人間の最長可能寿命は90歳から115歳のあいだと推定されている。これは過去10万年のあいだ、人間は理論上、この高齢まで生きることが可能だったということ。
日本の平均寿命は1891年から1989年のあいだに44歳から82歳にまで上昇したが、50歳の女性の平均余命は21年から33年に延びただけ。この100年のあいだ、ヨーロッパでも日本でも、女性はひどい搾取や貧困にさらされないかぎり、乳幼児期をのり切って成人し、お産で死ななければ、70歳以上まで生きられる可能性は高かった。
日本食には大豆と豆腐、味噌など多くの大豆製品が含まれ、植物性エストロゲンに富んでいる。天然のエストロゲンを含む食生活はホットフラッシュの発生にかなり大きな違いをもたらしうる。
日本の平均寿命は世界一で、男性76歳、女性82歳。100歳以上の人口は3000人をこえている。もし、現在の傾向が続けば、2025年には225万人以上が認知症(老人性痴呆)を患い、その3分の2が女性。200万人以上が寝たきりで、またその3分の2が女性。現在、65歳以上で寝たきりの人は60万人をこえ、その大多数が自宅にいる。
高齢の1人暮らしの女性は男性の4倍の128万6000人いる。特別養護老人ホームの入居者の70%以上、一般の老人ホームの入居者の93%が女性で占められている。自宅で介護を受けている寝たきり老人の93%も女性。アルツハイマー病の高齢者の80%も女性。
女性は、いま日本の全就労者の40%を占め、15歳から64歳の女性のうち58%が現役で働いていると推定されている。
ロマンス小説からも社会の変化が読みとれる。かつては、どの本もシンデレラ物語風のものばかりだった。しかし、近ごろは、ヒロインは結婚しようか、キャリアをもとうかと迷っている。
多くの日本女性は、それなりに満足のいく人生を送っており、調査に回答した人の90%が現在の生活を幸せだと思うと答えた。しかし、話を聞いてみると、多くの女性が苦労を経験したばかりでなく、いまも不当な扱いを受け、不安定な生活を余儀なくされているという。では、なぜ大部分の女性が自分は幸せだと答えのか。そのひとつの理由に、もっと苦しい目にあった人もいるのだから、自分は今の境遇に感謝すべきだと話をしめくくるのだ。回答者の53%は現在の日本社会は女性を不公平に扱っていると考えている。
中年女性に訊くと、年齢によって経験が増すので、年をとると、なすがままに少々遊び心でもできるようになる。成熟の結果として新たに手に入れた自由を存分に楽しんでいる。 しかし、多くの女性が平均寿命(82歳)まで生きたいと願っていないのが非常に興味深い。45歳から60歳までの人間の年齢は、成熟期、つまり十分に円熟した時期と呼ばれる。
アメリカでは、2005年に50歳から64歳の女性が2500万人をこえる。これらの女性のためのホルモン補充両方の薬剤と医師のフォローアップ・ケアのための費用は、全米で年に35億ドルから50億ドルになるだろう。
メノポーズとその副産物は、現在、大きなビジネスになり、アメリカ国内の1990年のエストロゲンの売上だけでも4億6000万ドルにのぼる。
この本は2005年9月に出版されたものですが、1980年代に日本人の女性を調査した成果をまとめたものなので、今とは異なっているところがかなりあると思いますが、やはり変わらないところもあると思いながら興味深く読みました。2段組みで400頁以上ある大部の本です。
実は、私は、この本を人間ドッグ(いつも一泊しています)に持ちこんで読んだのです。男にも更年期があると聞いて久しいのですが、実感はしませんでした。同年代の男性からもあまり聞いたような気はしません。ただ、同世代でも男女を問わず、とてもくたびれた顔つき、身体をしている人が多くて、本当に驚きます。生き生きしている人の方が少ない気がします。それだけ、この社会に生きていくのは厳しいことなんだな、失業せず、定年退職の心配もない私は本当に恵まれているんだと実感をさせられます。
人間ドッグの結果では、総コレステロールが少し高いので、糖分の取りすぎに注意するように、とか、体重を減らしなさいということでした。減量って、本当に難しいんですよね。鏡を見ると、我ながら中年太りのひどさに目を覆いたくなります。
身体を動かすのは週1回の水泳(30分間の自己流クロールで1キロ泳ぎます)と日曜ガーデニングくらいです。あとは、毎日、規則正しい生活と7時間の睡眠時間の確保、そして大量の本を読んでの気分転換というのが私の健康法です。
20世紀、日本の歴史学
著者:永原慶二、出版社:吉川弘文館
明治維新以来、学問としての歴史学がどのように展開してきたかを系統的にふり返った本です。門外漢ながら、大変勉強になりました。
明治24年(1891年)、帝国大学(これは、それまでの東京大学を改めた名称です)の久米邦武教授が神道は祭天の古俗という論文を発表しました。神信仰は、どの民族においても共通に見いだされる祭天の古俗だとしたのです。それを、日本だけの宗教であり、国体の基礎であるという説は根本的に誤っているとしたわけです。ところが、神道・国学派から激しく反撃され、ついに久米は帝国大学教授から放逐されてしまいました。
明治44年、国定教科書が南北両朝併立説に立って記述されていることが国会で問題になりました。ときの桂太郎内閣は、南朝を正統王朝と決めて、教科書を訂正させてしまいました。北朝は吉野の朝廷と表現されたのです。両朝併立問題という長いあいだ学説が対立してきたことが、政治的に決定されてしまうというのは学会にとって屈辱的なことであり、学問が権力によって支配されることを意味します。
著者は網野善彦氏の中世社会史像について高く評価しつつ、イデオロギーと現実の混同があると厳しく批判もしています。
網野は、中世を民衆世界に生きつづけた本源的自由が失われていく過程であり、女性の地位が低下していく時代として悲劇的に描いている。網野の歴史認識はペシミスティックで、世の中は悪くなるという見方である。網野の歴史観は一種の空想的浪漫主義的歴史観の傾向をもっている。近現代を否定的にとらえ、本源的自由という幻影や「無縁」的自由を礼賛的に描き出す手法に不安を感じる、としています。
また、支配−被支配関係抜きの「平民」論からは「統合」の問題について論理上からも展開が難しいと言って批判しています。
うーむ、なるほど、そのような批判があるのかと思い知らされました。著者は昨年(2004年)に亡くなりましたが、日本の歴史学の第一人者として大きく貢献してきた人物です。
財界とは何か
著者:菊池信輝、出版社:平凡社
まだ30代の学者による財界分析ですが、すごく切れ味よく小気味のいい本でした。やっぱり学者って、たいしたものですね。勉強になりました。
少し前には財界四天王と呼ばれる経営者がいた。経済界全体ににらみを利かせて資本自由化を強行した小林中、中小企業が共産党・社会党を支持しているのを知って政府に中小企業対策を拡充させた永野重雄、経営危機に陥って労働組合が実権を握りかけていた文化放送に単身乗りこんだ水野成夫、賃上げは生産性の範囲内にせよと宣言した日経連の桜田武。この4人は、財界の機能を非常にわかりやすく世間に見せてくれていた。しかし、経済団体がそれ自身として財界機能を果たせるようになってしまえば、この4人のような存在はいらなくなってしまう。今や経済団体は公明正大に政治を牛耳り、マスコミは、そのあまりの自然さに、財界を報道しなくなり、ニュース性がなくなったから、財界が人の口にのぼらなくなってしまった。
財界の政党への政治献金システムが完全に確立している。国民協会に改編されてから、1963年から65年には自民党への献金の10分の1が社会・民主党へ献金された。それ以後、疑獄事件は「財界」の網がかかっていない新興産業(たとえばリクルート)や外資系企業(たとえばロッキード)を中心にしか見られない。こうしたシステムを作りえたことは、戦前の財界に比べてはるかに戦後財界の方が政治への安定的な影響力行使システムを備えているというわけだ。
財界は、政治から自立していないと、いざというときに政治に文句が言えなくなる。
財界にとって湾岸戦争は、世界中に広がった市場経済秩序の維持に対する貢献の必要性が明らかになった。市場経済秩序から仲間はずれにされたら日本経済の未来はない。その秩序の維持には、ふだんの競争を度外視し、他国と協力しなければならない。しかも、その協力は血を流すものでなければ理解されない。この意味を悟った財界は、急速に平和憲法とそれを支える社会党をはじめとする国民の平和意識を問題視しはじめた。
性と生殖の近世
著者:沢山 美果子、出版社:勁草書房
明治になって民衆の堕胎は日本史上初めて犯罪になった。堕胎は近代に至るまで犯罪ではなかった。堕胎が処罰されるようになったのは、富国強兵策の重要な柱である人口増加政策として制定されたもの。
以上は、いわば今日の私たちの常識のようなものです。しかし、この本はそれは間違いだと強調しています。江戸時代、藩レベルで堕胎・間引きは犯罪として取り締まられていたというのです。津山藩には「赤子間引取締」(1781年)があり、産まないことの禁止・取締に重点をおいていた。仙台藩には赤子養育仕法があって、産むことを奨励し、その救済に重点を置いていた。
天保2年(1831年)に津山藩主となった松平斉民は、堕胎・間引き禁止政策の一つとして、「西洋書」でみた「露西亜」の育児院のようなものができないかと諮問し、町奉行が育子院構想を答申した。ええーっ、そんなことが江戸時代に考えられていたとは、驚いてしまいました。ロシアに漂流した大黒屋光太夫が日本に帰国してロシアの事情を語った「北槎聞略」などを藩主が読んだらしいのです。
岡山藩では、捨子養育者に褒賞を与える措置がとられていました。藩が捨子の養育に措置したため、拾われることを期待した捨子をうむことにもなったそうです。
一関藩の育子仕法では、妊娠・出産について節目で届出が求められていました。月経が停止して5ヶ月たつと、着帯届をしなければいけませんでした。これは、妊娠・出産の管理の意味をもっていたのです。2人目の子どもまでは自力で育てるべきだけど、3人目からは養育料が貸与されていました。ただし、生活が困窮しているかどうかの調査がありました。
また、この本は江戸時代から明治にかけて津山市で活躍していた女医(光後玉江)が紹介されています。そんな記録が残っていたこと自体が驚きですが、それを現代文にして世に紹介した人もすごいと感心しました。
江戸時代について、考え直させる本でした。
9.11 生死を分けた102分
著者:ジム・ドワイヤー、出版社:文芸春秋
2001年9月11日。9.11のあのとき、自分は何をしていたのか。かなりの人が覚えていると思います。私は先輩弁護士2人と小料理屋で会食し、夜遅くホテルに戻って何気なくテレビをつけて初めて知りました。あのとき、映像を見ながら心底が凍えるような、悪寒に震えてしまいました。戦争が始める、いや始まった。そんな恐怖心を感じて、しばらく寝つけませんでした。
1機目が北タワーに突入したとき、ワールドトレードセンターには1万5千人もの人がいました。それから南タワーが崩壊するまでの102分のあいだに現場で何が起きていたのかを刻明に再現していった本です。
北タワーが攻撃されたのは午前8時46分31秒。南タワーは、その16分28秒後に攻撃された。ところが、南タワーの方が先に、午前9時58分59秒に崩壊した。北タワーは、その後、10時2分25秒、つまり29分26秒後に崩壊した。つまり、北タワーでは102分、南タワーでは57分、何千人もの人々が避難する時間があり、実際に避難できた。
ワールドトレードセンター全体で、避難が遅れて建物が崩壊する前に脱出出来なかったために死亡した人は1500人以上にのぼるとみられている。
ワールドトレードセンターでは1993年2月26日にも地下駐車場でテロリストたちが爆弾を破裂されるテロ行為があった。しかし、高層ビル自体はまったく無傷だった。だから、技術者は自信をもち、当時もっとも大きな飛行機であったボーイング707が衝突しても、この建物は倒壊しないと断言していた。
この建物は、たしかに飛行機の衝撃にも耐える強度をもっていた。建物の巨大な重量を縦の線にそって下に逃がし、土台とその下の岩盤で受けとめるようにした。これで十分に余裕のある強度を確保することができた。実は重力より大きな問題があった。それは、風だ。タワーのどの面もハリケーン並の時速200キロ以上の風に耐えられるようになっていた。ふつうの天候の日でも、建物が受ける風の圧力は9.11の旅客機が与えた力の30倍だった。タワーの質量はジェット機の1000倍。この差を考えたら、飛行機がぶつかったあとも、建物がそのまま立っていたのは不思議ではなかった。だが、建物のなかにいる人たちの安全を考慮した設計にはなっていなかった。
高層ビルの火災に対しては、建物自体がそこにいる者を保護することが前提となっている。炎上しておらず、煙も充満していないフロアにいる者は、逃げようとするよりも、そのままそこにとどまった方が安全だというのが基本的な考え方。
ワールドトレードセンターは、建物内の全員が一斉に避難するという事態を想定して設計されていなかった。それでも、各棟には、それぞれ全部で99基のエレベーターが設置されていた。
ジェット機に積まれていた4万リットルの航空機燃料は巨大な火の玉となった。最大時には幅が60メートル、建物の幅と同じくらいに広がった。燃料自体は恐らく2、3分内に燃えつき、その大部分は、建物の外に噴き出したが、一部はエレベーターシャフトを伝って建物内に広がった。北タワーの上層階には、旅客機の突入後も1000人近い人たちが生存していた。
センター内にいた人々は、椅子やコンピューターのディスプレイなどを手当たり次第に投げつけて窓ガラスを割り、新鮮な空気を得ようとした。しかし、その結果、その部屋と、その上の部屋に炎を呼びこんでしまった。
午前9時半までに、南タワーに出勤してきた6000人の大半があともどりして建物を出た。南タワーからの避難は8時46分に始まっていた。9時半の時点では1000人が建物内にいた。このうち600人が生還しなかった。200人は旅客機が突入したとき即死したと考えられる。南タワーにこもっていたエネルギーは、2億7800万ワット時(2億3900万キロカロリー)という途方もないものだった。そのすべてが建物が崩壊した瞬間に放出された。それは原子爆弾100分の1個分のエネルギーだった。アトランタやマイアミといった規模の街に1時間電力を供給できるだけのエネルギーだ。その強烈な衝撃は、400キロメートルも離れたニューハンプシャー州リスボンにある地震計が波動をとらえたほどだった。
警察の高層ビル専門チームが、近くのヘリコプター発着場に集合し、センターの屋上にロープづたいに降りろという命令に備えて待機していた。しかし、警察本部長が、屋上は煙と熱がひどすぎると判断し、ヘリコプターの出動を止めた。
消防局の指導部は、タワーの高層階で燃えている火を消すのは不可能だと考えていた。消防隊員は何十キロの重さの装備を携行していたが、そのような道具を使用して鎮火にあたることは求められてはいなかった。
北タワー上層階にいて、8時46分の旅客機の突入ののちも命があったのに、通れる非常階段を見つけることができなかったため、1000人あまりの人が助からなかった。
北タワーが崩壊したとき、200人もの消防士が建物内にいた。南タワーが崩壊したことを知らされていなかった。これは、警察と消防の間の意思疎通、情報交換がなされなかったことによる。南タワーの78階より上にいて助かったのは、わずか4人。北タワーでは、高層階は死のフロアーになってしまった。
消防士たちが勇敢な救出活動に励んでいたこと、また情報が途絶したために多くの人が殉職していったことが分かります。痛ましいテロ攻撃を根絶したい。つくづくそんな気にさせる本でした。
刀狩り
著者:藤木久志、出版社:岩波新書
この著者の本には、いつも目が大きく開かされる思いです。難しく言うと、刮目(かつもく)に値する本です。
秀吉の刀狩りによって日本人は武装解除され、それ以来、日本人はながく丸腰の文化を形成してきたというのが今の私たちの常識です。でも、この常識は本当なのか。この本を読むと、まったく違った日本人像をもたざるをえなくなります。
ちなみに、私は、日本人は聖徳太子の「十七条の憲法」以来、和をもって貴しとなしてきた、争いごとを好まず、裁判沙汰を嫌う国民性があるという常識も間違っていると考えています。だって、あの「十七条の憲法」をよく読んでみてください。このところ(もちろん、聖徳太子のいた当時のことです)、裁判があまりにも多い。裁判官も賄賂をもらっていいかげんにしている。もっと仲良くしないとダメじゃないかと、当時の日本人に反省を迫っている文章なのです。争いごとを好まないどころか、あまりに争いごとを好むから、ホドホドにして、せめて裁判は減らせと聖徳太子は言ったのです。
まちがった常識のひとり歩きは恐ろしいものです。戦国時代に日本にいた宣教師ルイス・フロイスは、「日本史」のなかで、このように書いています。
日本では、今日までの習慣として、農民をはじめとして、すべての者が、ある年齢に達すると、大刀と小刀を帯びることになっている。
このころ、刀と脇差は、自立した男たちのシンボルでした。それは、なにも武士だけでのことではなかったのです。つまり、武装解除された丸腰の民衆像というのは、虚像でしかありません。
当知行(とうちぎょう)の原則とは、中世の山野河海は、村々の自力(武装と闘争)によって、つねに確保できているかぎり、自分の村のものであるという鉄則のこと。
自検断(じけんだん)とは、村の治安を守るために、また、ナワバリ争いのときに守るために武器をつかい、人を殺す権利も村ごとに行使すること。
同じ宣教師ロドリゲスは、成人の祝いとしては、名前を変えること、前髪をそること、刀・脇指を帯びることの3点セットで成り立っていたと指摘している。
サムライとは武士ではなく、刀をさすおとな百姓のことであり、刀をさす資格のない小百姓をカマサシと呼んでいた。 山村では、ふだんの山仕事のとき、村の男たちは脇指をさして山に入っていた。
ルイス・フロイスは、秀吉の刀狩りのポイントは、武士でない者からすべて刀を没収すること、つまり刀のあるなしで、武士と武士でない者とを峻別しようとすることにあるとした。刀狩令は身分を決めるためのものと見抜いたのだ。
刀狩りのあと、村々の現実はどうだったのか。徳川時代にも、村々には、弓・ヤリ・鉄砲・長刀・刀など、さまざまな武器がたくさんあり、祭りの場でつかわれ、紛争の場に持ち出されていた。
寛永18年(1641年)に、新潟・魚沼と陸奥・会津との間で国境争いがあった。このとき、会津方は、鉄砲150挺、弓60張、ヤリ100本ほど持ちだしたと越後側は非難した。それほどの武器を会津の村々が持っていたというわけである。
徳川幕府は、秀吉の刀狩令について積極的に受け継いだ形跡はなく、また廃棄した様子もない。
肥後の加藤忠広(清正の子)が改易され、小倉から細川忠利が移ってきた。寛永10年(1633年)、忠利は次のように指令した。
庄屋は刀・脇指をさすこと。百姓は脇指をさせ。持たない者は、すぐに買い求めてさせ。もし、ささないなら過料をとる。
1635年(寛永12年)に、肥後藩内に1603挺もの鉄砲があり、天草一揆のあとの1641年には、2173挺へ136%に増えていた。それほどの鉄砲が村々にはあった。
1642年(寛永19年)、尾張藩は、町人や百姓がふつうの刀・脇指はいいが、大刀、大脇指はダメ。ただし、鞘の色は派手すぎてはいけないという法を出した。外観だけ規制されていた。江戸町人も同じで、長刀や大脇指をさしているのを取り締まる必要があるとされたほど(1648年)。町人たちは、ふだん外出するときも、脇指を身につけていた。
一揆のときには、鉄砲をつかわないという原則が人々のあいだに貫徹していた。それは領主側も同じことだった。うーむ、すごいことですよね、これって・・・。
第二次大戦が終わって、全国で武器が没収された。このとき、長野県だけで5万本をこえる日本刀が、熊本県でも2万本をこえる日本刀が没収された。拳銃は1万挺、小銃も猟銃も、それぞれ40万挺近くが没収された。これほど日本人は武器を持っていたのである。日本刀は全国で530万本はあったとされている。つまり、日本人はこれだけ大量の武器をもっていながら、自ら抑制し凍結してきて今日に至ったのである。平和を守るための強いコンセンサス(共同意思)が働いていたというわけである。
なるほど、なるほど、日本人は決して丸腰ではなかった。それでも、平和を守ってきた。ルールを守って平和を維持してきたのだ。このことがよく分かる素晴らしい本です。
2005年12月27日
税金裁判物語
著者:関戸一考、出版社:せせらぎ出版
税金のとり方って、富める者に弱く、貧しい者からは苛酷に、というのが古今東西変わらないとは思いますが、このごろの日本は一段とそれがひどくなっている気がします。大企業の裏金は膨大なもので、そこに政治家と暴力団が甘い汁のおこぼれにあずかっています。私の住んでいる町の一角に暴力団専用の駐車場がありますが、高級車がズラリ並んでいます。不景気な世の中なのに、どうして彼らだけはもうかっているのか、不思議でなりません。開通したら赤字必至の九州新幹線の建築をめぐって、用地買収から土木建築まで、すべてにわたって自民党の有力政治家のふところをたっぷりうるおしているという話が伝わってきます。なぜ、税務署はあるところから取らないんでしょう。その気になればガッポリ税収をかせげるはずなのに・・・。
この本は、税金裁判を専門とする弁護士がいわば手引書として書いたものです。実際に扱った事件をもとにしていますから、大変わかりやすく書かれていて、参考になります。
税務署が漫然と推計課税をし、それが著しく過大な認定であったときには、更正処分それ自体が国家賠償法上の違法行為となる。このような判例があることを知りました。
課税処分取消訴訟で、更正処分が取り消されると、還付加算金として年利7.3%の金利がつく。判決確定まで10年かかると、元金の7割がプラスされて返ってくる。これは大変大きなメリットがある、ということです。
マルサとリョーチョーは異なるもの。リョウチョーは令状のない任意調査なので、断ることができるし、調査理由の開示を求めることができる。
安易に修正申告してはいけない。修正申告してしまえば異議申立はできない。なぜなら、修正申告は、当初の申告が間違っていたことを自らの自由意思で認めることなのだから。あとでこれをひっくり返すのは非常に難しい。
ですから、税務署員は甘い言葉と恫喝によって、なんとか修正申告をさせようと迫るのです。だから税務署に更正処分を打たせるべきなのです。
著者は勇気を出して税金裁判を起こそうと呼びかけています。でも、そのまえに5つのポイントがあるとしています。
1、本人に十分な怒りがあるか。これがないと長い裁判は続けられない。
2、取引先が協力的か。取引先が非協力だと致命傷になることがある。
3、更正処分の内容が本人の実態とかけ離れているか。
4、どの程度の資料が備えてあるか。所得額が争点となったときに、それを具体的に裏づける資料が必要である。
5、争点がどこになるか。この点は、国税不服審判所の裁決を検討すれば、だいたい予想がつく。
税務署をむやみに恐れる必要はありません。しかし、ときによって報復調査を仕掛けてくるという嫌らしい体質をもっていることも忘れてはいけません。ですから、軽々しい気持ちで税金裁判を起こすべきではないのです。やはり、何事も、やるからには徹底して、肚を固めてのぞむ必要があります。
さあ、あなたも不等な課税処分には断固としてノーと言いましょう。権利は、たたかってこそ自分のものになるのです。
2005年12月26日
歴史学を見つめ直す
著者:保立道久、出版社:校倉書房
私と同じ団塊世代である著者は、10年ほど前から日本の歴史社会の構成について、封建制という概念は放棄すべきであると考えるようになったと言います。なるほど、本書はサブ・タイトルとして、封建制概念の放棄とあります。
日本の武士道を封建制にもとづくものとして対外的に紹介したのは、あの有名な新渡戸稲造が英文で出版した「武士道」でした。ところで、この本のなかで新渡戸はカール・マルクスの資本論を引用し、封建制の活きた形は日本に見られると注意を喚起したというのです。ええーっ、新渡戸とマルクスと、どんな関連があるのか、びっくりしてしまいました。私も学生時代に1度だけ「資本論」を通読し、さらに弁護士になってからもう一度「資本論」を読み直しました。正直いって、私には難しすぎて、よく理解できませんでした。今は、ともかくマルクスの「資本論」を読了したという達成感が残っているだけです。
この本は、マルクスは本当に当時(江戸時代です)の日本が封建制であると認識していたのか、その根拠は何であったのかを解明しています。マルクスは、イギリスの外交官であったオルコックの旅行記(日本滞在記)「大君の都」を読んで書いたのだが、この旅行記は、必ずしも信頼できるものではないとしています。むしろ、マルクスは、資料批判が必要なこの「旅行記」をふまえて、皮肉を述べていたのだとしています。そして、結論として、先ほど述べたとおり、日本の歴史的な社会構成は、封建制という用語ではとらえられないとしています。
著者は、また万世一系の思想というのは、中国(唐)そして朝鮮(新羅)の王朝が次々に大きく変わっていくなかで、日本ではそんなことはないという、きわめて新しい(当時としては、の意)イデオロギーであったことも明らかにしています。
中国や朝鮮において天命をうけた王の家系は百代にもわたって続くという百王思想に対して、日本では天皇は現人神であって万代にも続いていくというイデオロギーの表明であった。つまり、万世一系の思想というのは、日本内部で完結するものとして語られたのではなく、東アジア諸国との対比のなかで語られたものであった。うーむ、なるほど、百に対する万の違い、そういうことだったのかー・・・。
そもそも、奈良時代半ばまでの王権はきわめて神話的・未開的な色彩が濃く、天皇の神的血統は近親結婚のなかで再生産されていた。たとえば、天武天皇は兄の天智天皇の2人の娘と結婚した。天武王統は、天智天皇の血のまざった子どもに王位を与えようと固執したため、天武王統の男子はほぼ皆殺しされてしまった。少なくとも、8世紀半ばまで王族内婚制は生きていた。
「君が代」は古今集にのっているが、この古今和歌集は、10世紀初頭、醍醐天皇の権威が確立すると同時に、それを祝うために編集された、きわめて政治的なテキストである。つまり、「君が代」は醍醐天皇に対する天皇賀歌なのであって、単に目上の人に対する寿歌ではない。そこをあいまいにしてはいけない。ふむふむ、なるほど、そうなんですね。
この本を読んで、平安時代を始めた桓武天皇と朝鮮半島の結びつきの強さに改めて驚かされました。桓武天皇の母が百済王氏である高野新笠であるということは前から知っていましたが、桓武天皇が百済王家救援のために朝鮮半島への出兵まで意識していたとは知りませんでした。ただし、現実には、それよりも国内の陸奥への出兵を優先させたのです。陸奥の反乱をおさえた坂上田村麻呂も渡来氏族だということも知りました。ちょうど、あの有名なアテルイが活躍したころのことです。
そして、桓武天皇の3人の子どもの乳母も渡来氏族の出身でした。乳母というのを軽く見てはいけません。相当の実権を握る存在だったのです。まだまだ、歴史には解明されるべきことが多いことを知らされます。
著者は網野善彦氏を評価しつつ、同じ歴史学者として厳しく批判しています。長く網野ファンとしてきた私としても、はっと居住まいをただされるような内容です。
後醍醐天皇が破産するまでの天皇制は実際的な政治権力だが、それ以降は「旧王」としてイデオロギー的な権力に骨抜きになった。
網野氏は鋳物師などの商工民から漁民・杣人などにいたる実に多様な生業に携わる人々を非農業民として一括する。しかし、農業と非農業の複合構造の解明こそが必要である。などなどです。肝心なところを紹介する力がないのが申しわけありません。ともかく、網野史観が絶対正しいというものでないことだけはよく分かりました。
やはり、学問の世界は厳しいんですね。
2005年12月22日
世界監獄史事典
著者:重松一義、出版社:柏書房
半年ほど、ほとんど毎週のように土曜日の午後、刑務所に被告人の面会に出かけていました。太宰府駅からタクシーに乗っていくのが最短コースです。帰りに天満宮に立ち寄り、熱々の梅ヶ枝餅をほうばって帰ったことがあります。本来収容されるべき拘置所が建て替えのため臨時に刑務所に収容されていたのでした。冬の刑務所の寒さは尋常なものではないようです。布団のなかに入って身体が温まるまでかなりの時間がかかり、それまでとても眠れないとこぼしていました。夏は夏で、カンカン照りの炎暑の部屋になります。
この本は刑務所について、古今東西、過去と現在をあますところなく紹介しています。
アメリカでは連邦・州・郡それぞれに属する3つの司法機関が独自に刑務所をもっている。全米の受刑者の数は1993年に133万人をこした。人口10万人あたり500人以上が刑務所に入っている計算になる。これはもちろん世界一。1980年に比べて、連邦施設の受刑者は1.5倍以上に増え、今の状態が続くと、連邦刑務所だけでも毎週
1143人分もの施設を増やさなければならない。
カリフォルニア州は全米の受刑者の6分の1をかかえる。もちろん全米のトップ。中国に次ぐ第二の刑務所人口。予算増は深刻。1993年度の州予算の8.6%に相当する 33億ドルが刑務所費用。他の予算は減っているのに、刑務所だけは施設の拡大とそれにともなう2600人もの看守増を見込んでいる。どこも定員の2倍近い過密ぶり。
2000年2月、アメリカの刑務所人口は、ついに史上初めて200万人をこえた。そこで、アメリカでは囚人1人1日43ドル(4700円)で民間に委託する民営刑務所が300億ドル規模の刑務所ビジネスとして急成長をとげている。
全米の民営刑務所に収監中の囚人は、11万2千人。そのうちCCAという会社は一社だけで半数の7万人の面倒をみている。安上がりで効率的な刑務所管理がうたい文句。
ニューヨークには、11階建の拘置所がある。定員900人。16歳以上の男子専用。近くに女子専用拘置所もある。こちらは12階建。
サンフランシスコの沖合にあるアルカトラズ監獄に見学に行ったことがあります。凶悪囚300人を収容していました。あのアル・カポネもいたことで有名です。映画の舞台にもなりました。狭い獄舎が当時のまま保存されていて、こんなところに閉じこめられてしまったら、まさにカゴの鳥だと実感しました。対岸のサンフランシスコの街がすぐ近くに見えるのですが、現実には水流が速くて冷たくとても泳ぎで渡れるものではなく、脱獄に成功した囚人は1人もいないそうです。
それにしても刑務所や拘置所へ面会に行くたびに、所内で働いている職員のみなさんは本当に大変だなと実感します。いろんな囚人がいて、その接遇に日々苦労しておられると思います。その労働条件の改善のためには、労働組合が絶対に必要な職場ではないかと感じるのですが、いかがでしょうか。
皇帝ペンギン
著者:橋口いくよ、出版社:幻冬舎
映画「皇帝ペンギン」を小説化したものです。映画を見ていない人におすすめの本です。皇帝ペンギンたちの過酷な生が、見事な写真と文章で生き生きと描き出されています。
映画を見ているものにとっては、撮影裏話というか、どうやってこんな過酷な自然条件のなかで撮影できたのか紹介してほしいところでした。ぜひ知りたいところです。
お父さんペンギンたちは、わが子(まだ卵)を足の上にのせてマイナス40度の厳冬期を過ごします。吹きすさぶブリザードのなかで、背中を丸め肩寄せあって押しくらまんじゅうしながら耐え抜く姿には、ついつい涙が止まらないほどの感動を覚えました。
皇帝ペンギンたちは繁殖期を迎えると、南極大陸のある地点を目ざして一列になって行進します。そこで、互いの配偶者を探し求めるのです。その求愛ダンスはまるで真冬の大舞踏会。空を見たり、おじぎをしたり、お互いのくちばしでなであい、踊るのです。ユーモラスというより、いかにも真剣で、厳かな儀式だとしか思えません。
ついに、わが子が誕生します。卵をまず抱えて温めるのは、父ペンギンの役割です。母ペンギンが父ペンギンへ、そーっと上手に卵を手渡しします。おっと、手ではありません。足渡しでした。
父ペンギンは受けとった卵を足の上に乗せ、自分の身体でスッポリと覆い、冷たい氷の上にじっと立って、3ヶ月間、飲まず(雪を食べますが)食わず(本当に絶食します。おかげで体重は半分以下になります)で過ごすのです。そのあいだに、母ペンギンは海に出て腹いっぱい食べて戻ってくるのです。ところが、繁殖地点と海は遠く離れていて、ペンギンは往復とも歩いていくのですから、なんと3ヶ月という時間がかかるのです。
ペンギンの子どもたちの姿が実に愛らしい。ぬいぐるみそっくりです。外見上まったく見分けがつかないと思うのですが、ペンギン親子と夫婦は呼びあう声でお互いをきちんと認識しています。これって、すごいことですよね。
そして、ペンギンの子どもたちには保育所まであるというのですから、驚きです。子どもたち同士が固まって集団をつくって生活するのです。
こんな過酷な極限状態のなか、家族をつくって生き抜いているペンギンたちに、つい大きな拍手を送りたくなります。
あなたが、最近、生きるのにちょっと疲れたな、そう思ったときに、この本を手にとってパラパラとめくって写真を眺めてみてください。きっと、何か大きな力を身体のうちに感じることができると思います。
フィンランドに学ぶ教育と学力
著者:庄井良信、出版社:明石書店
フィンランドというと、おとぎ話のムーミンの国、最近では携帯電話で世界をリードするノキアの国、古くはソ連が攻めてきたのを撃退した国、というイメージを持っていました。この本によると、初めて知ったことですが、国際学力調査で世界ナンバーワンの国だそうです。ノキアは突然変異の企業ではなかったのです。読解力と科学力で1位、数学で2位、問題解決能力で2位、総合で学力世界1というのです。たいしたものです。この本は、その秘密を探っています。
フィンランドの学校は、ほとんど学校格差がなく、総合制。学校内で能力別指導はなく、ランキングも否定されていて、非選別型の教育がなされている。学級規模は19.5人。子ども一人ひとりに対してきめ細かい指導が補習を含めてなされている。
フィンランド人の読書好きは世界でも有名で、1年間に1人平均17冊の本を借りるほど、図書館の利用率はきわめて高い。子どもが12歳になるまで、親が本を読んで聞かせるが、それは父親の役目。授業参観も父親の参加率はきわめて高い。既婚女性の就業率は80%。7歳以下の子どもを持つ女性のうち、4分の3がフルタイムで労働している。乳母車でバスに乗ると、母親も子どももタダになる。バス自体も段差がない。
学力の高い子と低い子とが一緒に教育を受ける総合制は、子どもにとって学ぶ意欲を高めている。社会的な平等が教育にとって重要だと考えられている。
人口520万人のフィンランドでは、1人でも子どもの学力を遅れさせるのは社会にとっての大損失となる。教師は教育大学を出た修士であることが必要。それほど教師の給料は高くないが、自由がある。夏休みは6月から8月半ばまで、2ヶ月半もある。
フィンランドは、小、中、高そして大学まで、授業料は全部タダ。教科書も無償。大学生は返済不要の奨学金がもらえるので、経済的にも親から自立できる。交通費や美術館などの入場料も学生は半額。高校進学率は71%。大学はすべて国立。
教師は国民のロウソク。暗闇のなかに明かりを照らす人、人々を導く存在、正しい知識やモラルの持ち主、テーブルの真ん中に立っている一本のロウソクのように教師は、その村や町の中心人物である。
学校の検定教科書制度は1992年に廃止された。教師は教科書を使わない授業を自分で考えて実施している。子どもに、自分が努力すれば何ごとも成し遂げることのできる、自分が主人公であるという自信を持たせる、自己効力感をもたせることに重点がおかれている。だから、子どもは自尊心が高く、何ごとにもねばり強くあきらめない性格をもつことになる。
いやあ、これって、すごいことですよね。これだけでもフィンランドは素晴らしいと思います。
フィンランドは北海道よりも人口が少ない。経済競争力は世界一だが、実は失業率は 8.8%と高い。
国民はブルーカラーかホワイトカラー階級のどちらに属するかの意識が明確であり、大学で学ぶ学生の多くはホワイトカラー階級の子どもである。
離婚率の高さも世界でトップクラス。結婚したら半分は離婚するという統計がある。
大学では、学生組合の代表が運営に参加しているし、その代表者が文部大臣になり、首相になっていっている。それほど、教育が大切にされている。
いやー、ちっとも知りませんでした。日本はフィンランドに大いに学ぶべきだとつくづく思いました。
墜落まで34分
著者:ジュレ・ロングマン、出版社:光文社
9.11のUA93便の話です。まったく悲惨としか言いようがありません。日本人学生1人をふくむ乗客40人が、跡形もなく地上から蒸発してしまいました。現地には大きな穴があいたものの、散乱する機体などはまったく見えなかったのです。犠牲者の遺体のほとんどは皮膚の一部があるだけで、その下の骨や軟組織は残っていなかったと報道されています。
目撃者は現場には何もなかった。飛行機はどこに行ったのかとみな不思議がった。飛行機には、極めて引火性の高い燃料が1万ポンド(4500キログラム)も積載されていた。ぼろぼろになった聖書が発見された。表紙は傷んでいたが、なかは読める状態だった。結び目のついたネクタイも一本地面に落ちていた。岩の上で日光浴をしていた蛇が、攻撃しようと口をあけ、とぐろをまいたまま焼け焦げていた。ボイスレコーダーは、クレーターの下、8メートル掘ったところから回収された。
時速575マイル(925キロ)のスピードで地面に45度の角度で激突した。だから、すべてが粉々に砕け散ってしまったのだ。
44人の乗員乗客の総重量は3400キロあった。ところが、回収された遺体は手足や指などの一部だけで、272キロのみ。しかも、回収された遺体の60%は身元が確認できなかった。外傷が激しいため、死因は「断片化」と記載されていた。現場には一滴の血も認められなかった。このように、ジェット旅客機が地上に激突すると、すべてが見事に消失してしまうことがよく分かりました。
ですから、UA93便が撃ち落とされたわけではないと著者は強調しています。遺物がないことがそれを証明しているというのです。なるほどと思います。ミサイル攻撃で撃ち落とされたのなら、機体の残骸が広い範囲に散乱したはずだから。これは納得できます。
それでは、いったいハイジャックされた飛行機のなかでは何が進行していたのか。本書は、乗客からの携帯電話とメールで、それを再現しています。
ハイジャックされたとき、客室乗務員はコックピットに電話して「このトリップのことで、ご相談したいことがあるんですが」と言うことになっている。パイロットも乗務員も逆らわないように教育されている。
ハイジャック犯は、乗員や乗客の電話をほとんど制止しなかった。乗客たちは不安におののきながら自由に電話しており、そのことで危害を加えられる必要はなかった。おそらくテロリストたち4人は、わずかな人数で抑えこむには乗客が多すぎたので、電話を妨害するのはリスクが大きいと考えたのだろう。
ハイジャック犯は4人とされているが、乗客は3人しか目撃していない。残る1人はどこにいたのか・・・。ちなみに、ほかの3機にはテロリストが5人ずつ乗っていた。このUA93便だけなぜ人数が少ないのか。
「リンダ、よ。UA93便に乗っているの。ハイジャックされたわ。機内にテロリストがいて、連中は爆弾を持っているの」
「連中ったら、2人のノドを掻き切ったのよ」
「高度がどんどん落ちていくわ」
「これから犯人に熱湯を浴びせて飛行機を取り戻すわ。みんながファーストクラスに走っていく。私も行くわ。じゃあね」
「あなた、よく聞いて。いまハイジャックされた飛行機の中なの。この電話は機中からよ。あなたに愛していると言いたくて。子どもたちにとても愛してると伝えてね。ごめんなさい、言葉が見つからないわ。犯人は3人。私、冷静になろうとしているんだけど。世界貿易センタービルに飛行機が突っこんだんですってね。もう一度あなたの顔を見られるといいけど」
「いよいよみたい。みんなでコックピットに突入する気だわ」
「用意はいいか。ようし、さあ、かかれっ(レッツ、ロール)」
ハイジャック犯たちは、乗客がコックピットに押し寄せるのを防ぐため、翼を左右に揺すってボウリングのピンのように倒そうとしたのだろう。捜査陣はこのように見ている。なんと勇気ある人達でしょうか・・・。
44人の乗員・乗客が、顔写真とともに、その生い立ちと生活ぶりが紹介されています。34分間も狭い機中で葛藤させられ、ついに乗客がテロリストたちに勇敢にたち向かっていく情景の再現には心をうたれます。
テロリストをうみ出す状況を一刻も早く根絶したいものです。もちろん、暴力には暴力で、ということではありません。暴力と報復の連鎖は、どこかで断ち切るしかないのです。ですから、アメリカのイラク占領支配は一刻も早くやめさせなくてはいけません。日本の自衛隊がイラクの人々を殺し、また殺される前に、みな無事に日本へ帰国できることを切に願っています。
2005年12月21日
戦後政治の軌跡
著者:蒲島郁夫、出版社:岩波書店
自民党システムとは、経済成長を進めながら、その成果の果実を、経済発展から取り残される農民等の社会集団に政治的に分配することによって、政治的支持を調達しようとするシステムである。
高度経済成長を前提としてきた自民党システムは、経済の長期的な停滞によって維持不可能になってきた。都市居住者にとって、農村への手厚い予算配分は、税金のムダづかいであり、環境破壊でもある。また、それにともなう利権構造もウサンくさく見える。
1960年代に登場した自民党システムは70年代に強固なまでの完成をみて、その後も自民党政権の存続を支え続けた。皮肉なことに、自民党の経済成長があまりにも成功し、それにともなう都市化によって保守票が減少し、自民党システムそのものがジリ貧になっていくという現象が見られた。問題なのは、自民党政権の長期化が構造汚職と深く結びついていることである。党のスキャンダルが、浮動票に頼っている都市の自民党候補者を直撃する。そして、利益誘導型の政治家が相対的に栄える。この悪循環のなかで田中角栄型政治家が栄え、自民党そのものが弱体化する。
逆説的だが、自民党が経済発展を成功させるほど、自民党の首を絞めるような政治的な帰結果がもたらされたのである。他方、このような社会的変動により台頭したのが、新中間層である。この新中間層は、自民党の経済発展政策によって恩恵に浴する集団である。その意味で、彼らは基本的には自民党政権の存続を望んでいた。ただし、彼らは日本の経済発展によって利益を受けるのであって、自民党システムから直接的な利益配分を受けているわけではない。彼らは、自民党体制維持のために資源を過大に浪費することを望まないし、また、その権力乱用や政治腐敗にも嫌悪感をもっている。そのため、もっとも合理的な行動として、自民党政権の継続を前提に、自民党を牽制すべく投票する、いわゆるバッファー・プレイヤーとなった。
私は、このバッファー・プレイヤーという言葉を初めて知りました。すでに使い慣らされた業界用語なのでしょうか?
自民党一党優位体制のなかで、保守的で、かつ自民党に批判的なバッファー・プレイヤーは、これまでは社会党に投票するか、棄権するかの選択しかなかったが、保守新党の誕生は、このような有権者にもうひとつの選択肢を与えた。
ふむふむ、なるほどなるほど・・・。なかなか鋭い分析ですね。
バッファー・プレイヤーとは、基本的に自民党政権を望んでいるが、政局は与野党伯仲がよいと考えて投票する有権者のこと。自民党政権が長く続き、野党の政権担当能力が不足している状況のなかでうまれた、日本独自の投票行動を示す有権者である。これが80年代から90年代にかけての日本人の投票行動の特徴である。
こうしてみると、2005年9月の総選挙では、バッファー・プレイヤーが残念なことに眠っていたことになるのでしょうね。
日本の政治参加の特徴は、「持たざる者」が比較的多く政治に参加していること、世界的にみて、日本における政治参加と所得との相関関係はきわめて小さい。所得水準の低い農民が政治により多く参加するため、全体的にみて所得と政治参加の相関関係がほとんどなくなる。アメリカでは所得の高い人ほど政治に多く参加しており、所得と政治参加には強い正の相関関係が見られる。アメリカは自ら登録しなければ投票できない仕組みですから、社会に絶望した低所得層は登録せず、投票もしないわけです。
沈黙の螺旋とは、多数派の意見が沈黙を生み、多数派の支配が螺旋状に自己形成されていく状況をさす。人々は自分が少数意見の持ち主になることをなるべく避けたいという気持ちがあり、多数意見に同調したり、声高な意見に逆らわず沈黙を保ったりするようになる。この同調や沈黙がますます多数派の声を大きくし、少数意見を小さくする。
これまでの自民党政治は経済成長の利益をいかに分配するかという「分配の政治」であったとすれば、小泉政権の登場は、それからの訣別を意味している。小泉政権の業績が上がれば上がるほど、自民党は支持基盤を失っていく構造になっている。小泉が自民党総裁ひいては首相に選ばれたのは、自民党が党内革命が必要なほどに危機的状況にあったからである。
著者も団塊世代の1人です。団塊世代は激しい学生運動の波をかぶっているので、政治的意識が高いかというと、全然そうではない。ただし、大卒については脱イデオロギーが顕著だということは言える。無党派層の大きさ。民主党への投票は自民党への2倍。政治的関心は高いものの、特定の政党への帰属は弱く、イデオロギー的にも中間に位置している。大卒の団塊世代は政治的関心の高い無党派層の中核に位置し、日本の政治に一定の流動性と変化を与えている。
どうして、かつての社会参加の情熱が団塊世代になくなってしまったのか。不思議でしようがありません。やはり内ゲバによる挫折感や連合赤軍事件の悪影響がいまだに尾を引いているのでしょうか。
著者は熊本出身でネブラスカ大学農学部を卒業して今や東大法学部教授です。「運命」(三笠書房)に、その経過が述べられていますが、感動的な本でした。
2005年12月20日
全盲の弁護士 竹下義樹
著者:小林照幸、出版社:岩波書店
活字中毒の私には、目が見えなくなったら絶望するしかありません。でも、まったく見えないのに点字本で法律書を理解して司法試験に合格した人がいるのです。信じられません。しかも、今や2人のイソ弁(居候弁護士。つまり、所長に雇われている弁護士)、職員8人をかかえる所長でもあるというのです。経営手腕もなかなかのようです。実にたいしたものだと感心してしまいました。
竹下弁護士の話は私も何回か聞いたことがあります。本当にこの人は目が見えていないんだろうかと疑いたくなるほど敏捷な身のこなし、そしてダミ声に近い野太く迫力のある声で自己主張していくのに圧倒されてしまいました。いえ、決して竹下弁護士の悪口を言っているつもりではありません。人間としてのスケールの大きさにただただ圧倒されてしまったということなのです。
この本は竹下弁護士の生い立ち、そして司法試験に合格するまでの苦難の道のりを刻明にたどっています。苦労人が必ずしも世の中にいいことをするとは限りません。それは田中角栄をもち出すまでもありません。妙にねじれたり、カネ、カネ、カネと我利我利亡者になってしまう苦労人を何人も見てきました。それは弁護士も同じことです。苦学して司法試験にせっかく合格したんだから、あとは楽させてくれとばかり、過去の苦しさと訣別して、ぜいたく三昧にふける弁護士も少なくないのが現実です。でも、そこが竹下弁護士は違います。障害者問題、福祉問題を終生の課題として離さないで、今もがんばっています。本当に偉いものです。
竹下弁護士は、小学生のときは弱視でした。つまり生まれつきの全盲ではありません。相撲にうちこんでいました。この相撲のぶつかり稽古によって中学生のときに全盲になってしまったのです。やむなく竹下少年は盲学校に入り、弁論部に入ります。全国盲学校弁論大会に出場し、「弁護士になります」という夢を堂々と語りました。なんとか、ボランティアの助けもかりて、龍谷大学法学部に入学することができました。大学に入学して早々、暮らすの自己紹介のとき、司法試験を受けて弁護士になると述べ、周囲からアホやと思われてしまいました。なにしろ、それまで龍谷大学から司法試験に合格した学生は1人もいなかったのです。
大学でマッサージのアルバイトをしながら法律の勉強をはじめました。そのころは、盲人が司法試験を受けたことがありません。法務省に問い合わせをします。法務省が盲人の受験は不可能ですと回答しました。そこで支援の学生と一緒に上京し、法務省に乗りこんで受験を認めるよう直談判します。この運動の途中で、弁護士になって何をしたいのかが鋭く問われました。障害者問題に取り組む弁護士になりたい。これがこたえでした。
彼女の親の反対を押し切って学生結婚しました。ようやく点字による受験が認められ、司法試験を受験します。しかし、もちろん簡単に合格できるような試験ではありません。しかも、試験会場には、立会人が5人もいるのです。点字の問題文にも間違いだらけ。
国会の予算委員会で参考人として、点字による司法試験のハンディをなくすよう訴える機会を与えられました。委員会が終わったあと廊下へ出ていると、当時の稲葉法務大臣が激励の握手を求めてきました。
点字六法は全51巻、12万円もしました。ボランティア仲間がカンパを集めて買ってくれたのです。
9回目にして、ついに司法試験に合格。このくだりは何度読んでも目が曇ってきます。たいしたものです。ボランティアの手作りの点訳本200冊、録音テープ1000本によって合格をかちとることができたのです。周囲の援助と本人のがんばりが、ついに夢を実現させたわけです。
竹下弁護士は弁護士になって3年目から、売上はトップクラスでした。10年たって、独立して竹下法律事務所を構えたのです。生活保護行政のあり方を問う。山口組とたたかう。何のために弁護士になるのか、その原点を忘れることなく活動しています。それも見事です。いま、日本に全盲の弁護士はまだ2人だけ。でも、ロースクールには全盲の学生が何人かいるそうです。
竹下弁護士は美術館にもよく行きます。ラジオを持参して球場でプロ野球も観戦し、大相撲も見ます。いえ、スキーもし、ネパール登山もしました。ええーっ、そんなー・・・。私だって行ってないのに・・・と叫んでしまいました。
法廷で証人の顔が見えなくても聴覚だけで、ウソを見破るというのです。うーむ、なかなかそこまでは・・・。明日に生きる元気の出てくる本です。
2005年12月19日
武士道と日本型能力主義
著者:笠谷和比古、出版社:新潮選書
本の題名からすると、なんだか固苦しくて面白くなさそうですが、とんでもありません。読みはじめたら胸がワクワクしてとまらないほどの面白さです。そうか、武士道って、そういうことだったのか。年功序列制度って、今に生きる日本型の能力主義のシステムだったのか。よくよく納得できる内容でした。
きわめつけは甘木市の秋月郷土館にあるという島原陣図屏風「出陣図」です。島原の乱(寛永14年、1637年)に際して、秋月藩黒田家(5万石)が総大将の藩主黒田長興(ながおき)以下、2000人が出陣したときの行列を200年後に8年の歳月をかけて再現したというものです。見事な屏風絵ですが、その解説がまた素晴らしい。江戸時代の軍制がよく分かりました。
総大将である大名を中心とする旗本備(はたもとぞなえ)は本営であり、作戦司令部として防御的なものであって、直接に戦闘に参加することはない。大名家の軍団のなかの最強の武士と部隊は「先備」(さきぞなえ)に配備されているのであって、大名主君の周囲にいるのではない。一人前の武士であり、自己の判断で敵との厳しい戦闘を勝ち抜きうると考えられている有力家臣たちは最前線の「先備」に配備されることをもっとも名誉としていた。大名家の軍事力のなかで、もっとも重要な要素は足軽部隊の鉄砲の威力であったが、これも「先備」に重点的に配備され、先手の物頭(ものがしら)の指揮の下に戦闘全体をリードする役割を担っていた。
前線の指揮進退は、あくまで先備の旗頭(はたがしら)の裁量に委ねられている。つまり、中枢に位置する藩主の権威と身分は高いけれども、実際の活動は藩主のトップダウン指令という中央統轄型ではなく、むしろ出先ごとの現場優先・現場判断型の自律分散的なものであった。
このような解説を読んで、ぎっしり2000人の将兵が出陣する様子を描いた「出陣図」の実物を、この目で一刻も早く見てみたいと思っています。
著者は、あの「葉隠」も誤解されていると強調しています。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な一句は、実は逆説なのだというのです。
武士道とは、武士としての一生を、いかに理想的な形で生き抜くことができるかということを本質的な課題としていた。
「葉隠」は、決して忠義の名のものに武士に対して奴隷のような服従を要求するものではない。自己の信念にテラして納得のいかない命令であったなら、主君に向かって、どこまでも諫言を呈して再考を求めるべきであるとする。すなわち、「葉隠」にあっては、まず自立した個人としての武士の完成が要求されているのである。
武士道における忠義とは、阿諛追従(あゆついしょう)でもなければ、奴隷の服従でもない。主体性をもち、見識をもった自立的な武士の、責任ある決断としての献身的な行為なのである。だから、主君の命令がどうにも納得できないときには自己の意見を申し立てるし、主君を諫めて悪しき命令を改善する方向にもっていくように努力もする。忠義とは、そのような自立的な立場を堅持したうえでの献身の行為なのである。
逆に、主体性や自立性が希薄な武士というのは、主君の命令に対して逆らいだてはしないから、よそ目には、いかにも主君に忠実であるかに映るのであるが、実のところそれは、主君の意向にただ唯々諾々と従っている媚びへつらい者にすぎない。
江戸時代、藩主が酒と女におぼれて藩政をかえりみなくなったとき、主君「押込」がなされた。身柄を拘束され、大小の刀も取りあげられて座敷牢に監禁され、藩主は交代させられるのである。身近なところでは、久留米の有馬藩でも押込はあっています。
この「押込」には形式が必要であった。藩主が表座敷に現れたとき、家老・重臣たちは藩主の面前に出て列座し、「お身持ちよろしからず、お慎みあるべし」と述べる。そして家老たちの指揮の下に目付・物頭たちが主君の大小の刀を取りあげ、座敷牢に監禁する。これは表座敷でなければならなかった。というのは、家老達の私欲にもとづいた陰謀ではなく、正々堂々たる藩の公式的な政治的決断としての行為であることを内外に宣言するものであった。つまり、これは謀反(むほん)ではなく、物理的強制力をともなう諫言という家老の職務的行為なのであった、というものなんだそうです。
徳川吉宗は享保の改革のとき、足高(たしだか)制を導入した。これは能力主義的抜擢人事を展開しながら、なおかつ同時に旧来の権利関係を尊重した身分制的原理の擬制が貫かれている。この足高制によると、低い家柄の幕臣を上級役職に抜擢登用することが可能になる。これによって、武士と足軽のような下級武士との断絶を克服することができた。
現実に、農民身分の出の者が幕府の財務長官である勘定奉行にまで一代のうちに昇進していった実例がある。幕末の外交で活躍した勘定奉行の川路聖謨(としあきら)は、日田の代官所構内で生まれた。父は一介の庶民でしかなかった。やがて、父は御家人株を買って就職した。その子は能力があったので、トントン拍子に出世していった。
年功序列と呼ばれている制度は、非能力主義的なエスカレーター型自動昇進方式ではなかった。それは能力主義的原理にもとづく競争的な昇進方式であった。職務経験を通したスキルアップを基礎とするOJT型の能力主義的昇進システムであった。
徳川時代の武士道思想のなかに「御家の強み」という言葉がしばしば出てくる。堅固な御家とは何か、つまり永続する組織とは何かということである。
武士の社会はいわゆるタテ社会であるから、主君の命令と統率のもと、決して苦情やわがままを口にせず、全員一丸となって一糸乱れぬ行動をとって目標に邁進していくような組織というのは誤りなのである。このような絶対忠誠の精神にもとづく組織は、外見上は強固なように見えて、実は非常にもろくて滅亡することは遠くない。そうではなく、自己の信念に忠実であり、主君の命令であっても、疑問を感じる限りは無批判に随順せず、決して周囲の情勢に押し流されていくこともない、自律性にみちあふれた人物をどれだけ多くかかえているかに組織の強さは依存する。
自負心が旺盛で、主体的に行動する者たちは、主命に反抗的な態度をとることもしばしばであるが、このような自我意識が強烈で容易に支配に服さないような者たちこそ、御家つまり組織のためには真に役に立つという逆説的な関係が存在していた。
これは、今日の組織にも十分生かされるべきではないのか。著者はこのことを何度も強調しています。なるほど、なるほど、私もよく分かります。まったく同感です。
私と同世代の学者ですが、学者って、ホントにすごいと感嘆します。
2005年12月16日
清冽の炎
著者・神水理一郎、出版社:花伝社
1968年の東大駒場寮に住む寮生がセツルメント活動にうちこみながら、東大闘争がはじまると、そちらにも参加しつつ、自分の生き方をあれこれ悩んでいくという展開で第1巻が始まりました。
私も同じころ駒場寮で生活していました。6人部屋です。カーテンもなにも仕切りはなく、机とその上の本棚だけが区切りになっていました。ベッドが6台あり、床はリノリウム張りです。スリッパでペタペタ歩いていました。学生運動はなやかなりし頃ですが、セクトの活動部屋もあったものの、700人からの寮生は平穏に生活していました。いえ、もちろん、ときにはストームもあったりして、騒々しい夜もありました。でも、たいていは真面目に本を読み、勉強していました。テレビは見た覚えがありませんが、マンガ本はよく読んでいました。「あしたのジョー」とか「カムイ伝」とかに熱中していました。
6人部屋で、当然20歳前後の学生ばかりでしたが、猥談をした記憶はほとんどありません。経験に乏しく、そのネタもなかったのでしょう。よくダベっていましたが・・・。
アメリカによるベトナム侵略戦争に反対するのは当然だという雰囲気でした。将来、自分は何になるのか、何をめざすのかという青臭い議論を真面目にしていました。といっても、そんな議論を冷ややかに眺めて、傍観している寮生もいました。
囲碁のプロをめざすと高言して全然授業に出ない寮生がいて、みんなで心配したこともあります。
クラスに出ると、自家用車を乗りまわす都会派のカッコイイ金持ちのボッチャンが多くてコンプレックスを感じました。それでも寮に戻ると、貧乏学生でも気にならない、そんなアットホームな気分に浸ることができました。方言まるだしで、家庭教師に出かけて恥ずかしい思いをしたこともあります。関西弁はどこでも堂々とまかりとおっていましたが。
東大闘争がどうして始まったのか。なぜ、あれほど一時期、過熱したのか。そして闘争のあと、みんなおとなしくなりすぎたのはなぜなのか。これは私の一生かけて解明したいと思っている謎です。団塊世代からの政治家って、本当に少ないでしょ、人口比の割に。かつて学生時代に騒いだ割には、あまりにも政治に関わっている人が少なすぎると私は考えています。保守的な気分の強い無党派層の中核をなしているのが、大卒の団塊世代だという分析を知り、本当に驚いています。打倒・自民党というわけではないのです。団塊世代は会社に入って企業戦士になったと言われていますので、体制打破というより体制に順応してしまったのですね。
見るべきほどのことは見つ。そんな心境なのでしょうか。内ゲバと浅間山荘事件などの悪影響が尾を引いているのでしょうか。サルトルのアンガージュマンの提唱に心ひかれた学生が多かったと思うのですが・・・。
学生が地域に出かけていき、現実とふれあうというセツルメント活動は、今こそ残念ながらありませんが、当時は大変な盛況で、全セツ連大会には何百人ものセツラーが集まっていました。そして、今の40代の人々までは一定の影響力をもっています。そのセツルメント活動って、どんなものだったのか、何をしていたのか。その記録がほとんどないのが私には残念でなりません。この本は、子ども会活動そして青年部サークルのことが紹介されています。
東大闘争というと東大全共闘ということになりますが、もう一方には民青(民主青年同盟)がいましたし、クラス連合(クラ連)というノンセクトもいました。
この本は、そんな学生集団の動きを当時の記録をもとに忠実に再現しながら、悩める青年たちの恋愛を描く小説としてたどっていこうとする意欲的な労作です。読みものとしてはもうひとつという気がしますが、1968年のあの息吹を伝えるものとして、一読を強くおすすめします。
今朝の朝日新聞の一面下に広告ものっていますので、ぜひ本屋に注文してください。
透明な卵
著者:ジャック・テスタール、出版社:法政大学出版局
フランスにおける補助生殖技術の第一人者による本です。著者は1982年に体外受精による赤ちゃんの誕生を成功させました。
男性の精液提供について、アラブ人は気安い提供者だが、黒人は抵抗を感じる人々だ、としています。民族(?)性が現れるそうです。日本人はどうなのでしょうか・・・。
受精卵は冷凍保存することができる。すでに数十人が誕生に成功した。
男性が受精後数日たった胚を自分の腹部に受け入れて、妊娠することも可能だ。単なる幻想ではない。ヒトの胚は子宮の外でも腹腔の中なら、しまいまで成長することができる。出産は帝王切開すればいい。妊娠中のホルモン調整については、適切なホルモン注射を用いれば、卵巣がなくても確実にできる。
オーストラリアでは、卵巣機能をもたない女性が、体外受精によって、別の女性の卵子から得られた子どもを、その子宮に宿すことができた。ただし、男性の妊娠は、女性の子宮外妊娠と同じく生命にかかわる危険をともなう。
ご冗談でしょう。そう言いたいところですが、真面目な話です。もちろん、単なる可能性であって、現実になされたということではありません。でも、人間の誕生が、科学技術の発達で、ここまで操作することを可能にしているというわけです。本当に怖い話です。いかにもフランス人らしく難解な哲学的用語の多い本書を、私が紹介しようと思ったのは、このくだりを読んだからです。
すでに200人以上の子どもが私の試験管の中で宿ってから生まれた。そのうち10人は冷凍受精卵から育った。5人から10人の新しい赤ちゃんが、これから毎月うまれてくる予定だ。1982年から4年間で、600人以上の子どもが32のフランスの医療チームの試験管の中で宿った。すごいですね、現実はそうなってるんですね・・・。
この本の最後には、試験管内で受精させる方法が簡単に図解されていて、理解を助けます。ところで、この本で問題としているのは、人間が人間自らを身体的に変える可能性を手にしたということです。
人間がもっている無数の欠陥、たとえば、顔が美しくない、音痴だ、頭が悪い、気が短い、足がのろいといったものを遺伝させない技術が、たいした費用もかからず実現できるとして、これを無視できるだろうか、ということです。
そうですよね、それはたしかに難しいことでしょう。でも、本当にそうなったら・・・。怖い世の中になってしまいそうです。ええ、はっきり言って、そんなこと、考えたくはありません。
CM化するニッポン
著者:谷村智康、出版社:WAVE出版
今では、ライフスタイルとしてテレビを持たない人は珍しくない。
これは、この本の出だしの言葉です。そうなんです。私の家にも昨年からテレビがありますが、私自身は今でもテレビとは無縁の生活を毎日送っていますし、私の身近にもテレビを持たない人が何人かいます。テレビを見ないで本当に困るのは災害情報くらいですが、これもイザとなればラジオで足ります。とくに困るということはないのですが、テレビのCMももちろん見ませんので、ほら、今テレビで盛んにコマーシャルしてるでしょ、あれですよ、なんて言われたときにはキョトンとしなくてはいけないのがチョッピリ困ります。いえ、年の功で、なんとかうまく逃げきってはいるのですが・・・。
テレビは、もうかつてのような話題の中心ではなくなった。変わったのは、もっともうけようという貪欲さが増したこと。そして、もうけるためのテクニックが非常に進歩したこと。ところが、それは視聴者を裏切るものだ。テレビ局にとって、本当の商品は広告であり、番組は広告を売るための客寄せにすぎない。
テレビ局はCMを流すにあたって、スポンサーと「量」で契約する。たとえば、合計視聴率100%で1億円と。視聴率20%の番組なら5回、CMを流したら契約を完了できる。災害情報などの臨時ニュースのテロップは、番組中に流されることはあっても、CM中には絶対に流れない。それほどCM放送は優先されている。
「見えない広告」については、日本が世界で一番すすんでいる。たとえば、番組の主題歌も、実は広告枠として売られている。また、ニュース番組に似せて、同じキャスターをつかってニュースではない広告が流されている。これって悪どい騙しの手口と同じです。
月曜日夜9時から始まるテレビドラマは「月9」と呼ばれている。F1と呼ばれる20歳から34歳の若い女性を狙ったドラマだ。働く若い女性は、週末は夜遊びに出る。週初めは残業も少ないので、オフィスで話題となりやすい月曜日の夜に放映しているのだ。
「金ドラ」は金曜日夜10時からのドラマで、こちらはもう少し上の年齢層がターゲット。F2(女35〜49歳)、M2(男35〜49歳)にあわせている。こうした家族持ちは、「ハナ金」にはコンパになんか行かない。トヨタのコマーシャルは、「月9」には比較的安い車のCMを、「金ドラ」には、高級車のCMを流している。
このようにテレビ番組もCMも、視聴者の細かな生活情報をふまえてつくられている。
ところが、視聴者はCMをますます見なくなっている。テレビや新聞の広告売り上げは横ばい。だからサラ金CMにますます依存せざるをえない。
テレビCMの実態と本質について、広告代理店で働いていた経験にもとづく告発の書として、大変勉強になりました。
2005年12月15日
インターネットは僕らを幸せにしたか?
著者:森 健、出版社:アスペクト
IT企業につとめる社員が1日に受けとるメールは300通。これだけのメールを読まないと、中間管理職として怠慢だと非難される。しかし、メールが来るたびに読んでいると思考が中断され、まとまって考えることなんかできない。
メールは考えずに勢いで返すのが基本。そうじゃないと非難される雰囲気がある。
中高生の世界も同じ。1日に100通以上の携帯メールをやりとりする。即レスが基本だから、肌身離さない。これは、半強制的な拘束力をもった受動的な行動なのだ。すぐに返信しないと嫌われてしまう。ヒステリックなまでの携帯メールの執着は、そんな危機感によって駆りたてられている。これでは、ノイローゼにならない方が不思議だ。
著者が1日に受ける迷惑メールは300通。その8割は海外、2割がウィルスメール。マイクロソフト社のビル・ゲイツ会長に送られる迷惑メールは、なんと1日400万通。NTTドコモのアドレスに送られる宛先不明のメールは1日9億通。迷惑メールの対策のため年間30億円をつかっている。累計では500億円をこえている。もはやウィルス対策は、すべての操作の前になすべき必須の作業。まずはじめにリスク管理があり、その先にネットの利用がある。これが今や常識。
検索エンジンは、ヤフー、グーグル、MSNで8割以上を占めている。とりわけグーグルが注目されている。ビジネスの世界では検索エンジンの上位にあがると、収益の伸びにつながることが証明されている。
いまや検索エンジンは、思考を拡大再生産的に増幅させる強力なメディアであり、実は思考を統御する仕組みさえ内在している。検索結果が上位に表示される情報によって、ユーザーは常に画一的な方向に導かれる可能性がある。検索結果で小さいものは、たとえ有用な情報であっても、この仕組みのなかでは検索サイトから表示されにくい。
ウェブ機能の進化は民主主義にとって危険な徴候となりうる。なぜか?
「6次の隔たり」という言葉がある。この世界は、わずか6人の間をつなぐことで60億人をこえる世界の人すべてと結びついてしまう。もし、自分に50人の知人がいて、その知人に50人の知人がいたら、自分から2人目となる人数だけで2500人となる。同じ繰り返しで50倍を重ねたら、6人目に広がる数は150億人をこす。
パーソナリゼーションが極度に進んでいくと、自分が知りたい情報だけしか摂取しなくなる。特定の関心をもつスモールワールド的な集団が多数できると、その輪のなかでの情報密度は増すが、雑多で広氾な情報共有ができなくなる。ユーザーが個人の嗜好にそった消費者的な志向を強めることによって、本来、市民がもつべき自由の権利をも失っていく。
インターネットの特徴は、嘘の噂をバラまくこともできれば、偽善を暴露することもできることである。だが同時に、信用できそうな情報を膨大な数の人に送れることは、恐怖、誤解、そして混乱の元凶にもなりうることを意味する。それは民主的な目標をはじめ多くの社会目標を脅かすものである。
むむむ・・・、便利さの裏にひそむ怖さを改めて思い知らされました。それにしても、私のこのブログにトラック・バッグを設定してくれている方々には、いつも感謝しています。毎日、今日はどんなトラック・バッグがついているのかなと楽しみに見ています。どうぞ、トラック・バッグをたくさんつけてください。よろしくお願いします。
2005年12月14日
韓流インパクト
著者:小倉紀蔵、出版社:講談社
いつも切れ味の鋭い著者の論評には感嘆しています。今度の本も、なるほど、そうなのかー・・・と、ついうなずいてしまいました。
韓国のGDP(国内総生産)は、日本の10分の1で、神奈川県と千葉県とをあわせたほどの経済規模。それにしては日頃、意外に大きく感じてますよね。とくに三星(サムスン)が世界一になったというのを聞いたりしていますと・・・。
著者は、ルック・コリアは3度目だと指摘します。
日本が朝鮮半島に学んだ時期は、これまでに2度あった。1度目は古代の国家創成期。朝鮮半島からの渡来人は、古墳時代の阿知使主(あちのおみ、5世紀初め)、王仁(5世紀初め)、弓月君(5世紀初め)、6世紀の五経博士、易博士、暦博士、医博士。飛鳥時代の恵慈(えじ、595年来日)、恵聡(えそう、595年来日)、観勒(かんろん、602年来日)、曇徴(どんちょう、610年来日)などなど。
2度目は、16世紀から江戸時代にかけて、朱子学を中心とした儒学や陶磁器づくりなどを学んだ。とりわけ、朝鮮の李退渓(イテゲ、16世紀)は、日本の朱子学に深い影響を与え、日本の儒者たちから尊拝されていた。
日本の「冬のソナタ」などにみられる「韓流」は大変な経済効果をもたらしている。それは、1430億円にものぼり、韓国のGDFを0.18%押し上げた。韓国への観光客の8割が日本人である。
ところで、「冬のソナタ」は、その外見上の純粋性にもかかわらず、内実は日本や外国の多様な作品からの引用によって始めて可能となった作品であり、その意味で制作方法論としては雑種性、越境性が強調されるべき作品である。
主人公チュンサンはユジンにこう語った。
道に迷ったときは、ポラリス(北極星)を探してごらん。いつも同じ場所にあるから。
日本では、このポラリスという言葉になじみがない。しかし、韓国社会はポラリスという言葉を大変好む。その背景には儒教がある。儒教でもっとも重要な星が北極星なのである。だから、チュンサンは特別なことを言ったわけではない。ドラマの脚本家は若い女性2人だったが、ポラリスは若い女性でも知っている日常的で常識的な言葉なのである。その言葉が日本では衝撃的だったし、新鮮に映った。ふむふむ、そういうことなんですね。
韓国の市民運動は著しく中央志向、政治志向であるし、韓国においては「左翼」だからといって「反愛国」「反愛族」ではなく、根っからのナショナリストである。いわば民主と愛国が強固に合体しているのが韓国の市民運動なのである。
韓国は、儒教・ナショナリズム・ミリタリズムという戦後日本の左翼がもっとも忌み嫌ったものがセットになってそろっている国である。この三点セットがそろって初めて韓国という社会が成り立つのであって、ひとつでも欠ければ韓国のダイナミズムは弱体化する。
儒教社会では、科挙によって選抜された有能な官僚が政界を支配する。すなわち、実力があれば若者でもどんどん出世できるのである。科挙に一番で受かった若造が一気に中央官庁の局長クラスに抜擢されるということもある。朝鮮王朝でも、重要な思想上の論争の担い手は20代の若者が多かったし、20代で大臣クラスになった若者もいた。儒教で年寄りを大事にするというのは、この激烈な競争社会における弱者救済の一手段であることを理解すべきである。
うへぇー、そうなのかー・・・、ちっとも知りませんでした。昔からそんなに激しい競争社会だったんですね。ところが、そんな韓国の若者が日本人化しているというのです。
学生が団体行動をしなくなった。飲み会をしても学生達はあまり現れなくなった。MT(メンバーシップ・トレーニング)に参加する学生が激減してしまった。学生同士の紐帯た弱くなったと同時に、これまでよく守られてきた垂直的な人間関係における秩序と礼儀も崩れかけている。こうなっているんだそうです。
韓国は弱肉強食の社会、徹底的な競争社会である。しかも、学歴が唯一の尺度になってしまっている。それを補填するものとして血縁や地縁のネットワークがある。しかし、勝者と敗者とがはっきり分かれる社会である。この歪みを補うものとして宗教的な相互扶助と救済・祈福がある。だからこそ、宗教の力は韓国社会では絶大である。
要するに、韓国社会とは、新自由主義と儒教および諸宗教が合体した社会だと思えばいい。社会福祉が整備されていないため、人々の情と神の救いが頼みの綱なのである。だから社会が不安定になればなるほど、情と信仰は強くなる。
うーむ、このように分析されると、それならまるでアメリカ社会と同じで、日本人としては単純にルック・コリアと叫んで真似するわけにはいかないということになります。
閑話休題。今日は私の誕生日です。でも、この年齢になると子どものころと違って、誕生日といってもうれしくなんかありませんよね。1日1日を大切にしたい。健康で、冴えた(スッキリした、という意味です)頭をたもって、たくさん本を読み、おおいに本を書いて出版したいと考えています。親友の書いた「清冽の炎」第1巻、買っていただきましたか。本屋で見かけなかったら、花伝社に注文してくださいね。なにとぞよろしくお願いします。
2005年12月13日
ようこそ、と言える日本へ
著者:土井香苗、出版社:岩波書店
東大法学部の3年生が司法試験に合格し、アフリカのエリトリアに司法制度づくりの支援に行ったというのは新聞を読んで知っていました。たいしたものだ、すごく勇気があるなと驚いたことを覚えています。
彼女が弁護士になってから、福岡の迫田弁護士から親友ですと紹介されて挨拶したこともあります。フツーの女の子なんだなと、そのとき思いました。いかにも才媛という感じではありませんでした。
大学3年生で司法試験に合格するということは、入学してからずっと真面目に法律の勉強をしていたんでしょうね。でも、勉強のあいまにはピースボートのボランティアスタッフもしていたというのです。偉いものです。
人口420万人のエリトリアはエチオピアに併合され、支配されてしまいました。もちろん、独立運動が起きます。激しい弾圧をはねのけ、ついに1993年に独立することができました。そこに押しかけて、彼女はエリトリアに検察組織をつくりあげるために世界の法体系を調査する仕事に没頭したのです。
この本には、彼女がなぜ「いい子」でいたのか、ずっと勉強してきたのかも赤裸々に描かれています。両親は家庭内離婚状態で、母親からは女は資格がなければ生きていけないと叱られてばかり。ホンネを隠して、表面上は「明るくて楽しい土井さん」という仮面をかぶっていたというのです。母の怒りに触れずに安全でいるには「いい子」でいるしかない、勉強して学校の試験でいい点をとるほかにやるべきことがない。このように書かれています。実に寒々とした情景です。彼女が大学2年生、妹はまだ高校2年生のときに、母のもとを2人して家出してしまいました。すごーい、感嘆のあまり声が出ません。
家出して2ヶ月後の短答式試験に合格し、論文試験そして口述試験にも続けて合格したといいますから、そのガンバリたるや、ちょっとやそっとのものではなかったでしょう。それでも、当時の私は20年間の人生のなかでもっとも気持ちが前向きだった、というのです。死にもの狂いだけど、夢をもっていたということなのでしょう。うーむ、なかなか並みの人にはできないことですよね。
弁護士になってから、日本にいる難民の救援活動に取り組みはじめます。そうなんです。日本は外国人の人権にものすごく冷淡なのです。外国人労働者を利用しても、その生活や権利なんか知らない。これが日本の政府の考え方です。裁判所も、政府の考え方に追随するばかりでしかありません。そこを難民支援の人たちと弁護団が、まさに不眠不休で活動するのです。彼女らこそが日本人の良心だ、読みながらそう思いました。
彼女の結婚式のときの写真があります。アフガニスタンから逃れてきた難民の1人が花束をもって駆けつけ、お祝いをしてくれたのです。
日本には外国人労働者が76万人いて、そのうち24万人が在留資格をもたない外国人労働者が底辺から日本経済を支えてきていた。一方で必要として利益を享受しておきながら、一方で「存在してはならない人」として人権をまったく保障せずに取り締まるだけ。このような日本は偽善社会ではないか。土井弁護士は厳しく問いかけます。
イラクで3人の日本人が拘束され、解放されたとき、日本の政府とマスコミは自己責任論をぶちあげて非難しました。このとき土井弁護士たちは、それは違うじゃないのと叫んで救援に立ちあがったのです。私も、あの異常なバッシングには怒りを覚えました。日本からアメリカの言いなりになって自衛隊がイラクへ行ったので、彼ら3人は拘束されたのです。悪いのは自衛隊を派遣した日本政府だ。私はそう思っています。
若くして司法試験に合格し、ビジネス・ローヤーになって何千万円、何億円という大金を扱い、人権擁護とかそんなことは一瞬も考えたことがない。そんな弁護士が増えているなかで、土井弁護士は貴重な存在だとつくづく思いました。彼女のあとに、大勢の若い人が続いてくれることを期待しています。なによりそこには正義があり、自分をも独立した人間として解放してくれる場があるのです。
2005年12月12日
うつ病を体験した精神科医の処方せん
著者:蟻塚亮二、出版社:大月書店
団塊世代の精神科医です。自らもひどいうつ病にかかり、いっそ死んだほうが楽だと思うような日々が2年ほど続いたそうです。青森県の病院で長く活動してきましたが、今は沖縄に移住しています。沖縄の方が住みやすいのでしょうね。
うつ病は7人に1人が生涯のうちに1回はかかる病気とのことです。私の親しい弁護士が最近よく眠れないとこぼしていました。夜中に一度目が覚めたら、ずっと眠れず、明け方になって寝入るので、結局、朝は9時まで布団の中にいるというのです。それはきっとうつ病だよ。彼の症状を私から聞いた別の弁護士が即座に診断を下しました。さもありなんです。うつ病の症状のひとつが眠れないということだからです。
頼まれると断れない性格。仕事にみる精力性・熱中症。これがうつ病に結びつきやすい。
うつ病は時間をかければ、必ず回復する。著者はこのように断言しています。ただし、治るということの真意は、病気になる前の状態に復することではなくて、肩から力を抜いてもっと楽な生き方に変わることに他ならない。
うつ病は、家庭や職場、学校などの環境要因と、必要以上にくよくよしたりする性格などが反応しあって発病する。性格だけでうつ病になるのではない。
身体が、癌の存在をうつ病というサインによって警告することがある。これを癌による警告うつ病という。まだ気づかれていない癌が体内にあるときにうつ気分が持続する。
末川博博士は色紙にこう書いた。20歳までは他人様に育てられ、20歳から50歳までは他人様のために生きる。50歳を過ぎたら自分のために生きる。
本当にそのとおりだと私も思います。私も、自分でも信じられませんが、あと3年で還暦を迎えます。ですから、自分のために生きることをますます優先したいと考えています。
うつ病は心の風邪だと言われることがある。しかし、うつ病のつらさは独特である。悲観的な気分が全身を締めつける。
切れる刀は折れやすい。
悲しむ能力こそ真に人間らしい能力だ。
うつ病になるともっぱら絶対化してしまい、相対化という視点が乏しくなる。
家庭のなかで習慣化されたものをもっている人の精神衛生は安定している。
私にとって、それは子どものとき以来の雑巾がけです。家中を雑巾がけすると、すっきりした気分になります。そして、夏でも冬でもシャワーをあびるのです。おかげでめったに風邪をひきません。もっとも、週一回の水泳を続けていますが、これも皮膚を鍛え、心身によいようです。1回30分間、自己流のクロールで1キロ泳ぎます。全身運動ですから、無心に泳ぎながら、全身を点検します。どこか調子が悪いと30分間はとても泳げません。30分のあいだ泳げたら、まだ大丈夫だなと自信がつきます。毎週、人間ドッグに入っているようなものです。
日曜日に朝寝すると、月曜日によけいに辛くなる。だから、日曜日も早く起きる方がよい。そうなんです。私は1年中、朝は7時に起きることにしています。若いころは、私も日曜日は布団のなかで、いつまでもぐずぐずしていました。でも、今では、日曜日は朝早く布団から出て、さあ今日一日は自分の時間だ、そんな楽しい気分で動きはじめます。
人はなぜ自殺するのか。この問いに対して、著者は、それは今よりも、もっとよりよく生きたいからだ、と答えています。うーむ、そうなのかー・・・、と思いつつ、この答えがもうひとつよく分からないでいます。もっと深く考えてみる必要があるようです。
いろいろ考えさせられる、いい本でした。
2005年12月 9日
離れ部屋
著者:申 京淑、出版社:集英社
現代韓国文学を代表する「自伝的」長編小説。オビにはこのように書かれています。
不思議な余韻が心に残る気のする小説です。私にはとてもこのような文章は書けません。
私は16歳の少女。パク・チョンヒ大統領の時代。ここは済州島。維新体制と緊急措置の撤廃を求める声がみちあふれている。
ソウルへ兄を頼って少女は上京する。職業訓練院を経て電機会社の女工として働き始める。低賃金で無権利状態のなかで労働組合が結成され、誘われて組合員になる。しかし、やがて組合の支部長を裏切って学校に通うようになる。そして、念願の小説を書きはじめる。それがマスコミに注目され、インタビューを受ける。
16歳の少女と、それから20年たって小説を書いている私とが交互に登場してきて、過去と現在の言葉が矛盾を感じさせないまま、見事な織物のようにつむぎ出され、読み手をアナザーワールドへとぐいぐいと引きずりこんでいくのです。実に不思議な感触です。時代背景もしっかり書きこまれています。たとえば、光州事件、ソウルでのデパート崩壊事件なども織りこまれています。
18歳になり、19歳になった。私は書きつけていった。
夏にこの家へ来ると、決まって食べたくなるものがあった。お芋のツルの皮をいちいちむいて、キムチのように漬けたものと、タニシ入りの味噌チゲ。
身体の記憶力は、心の記憶力よりも穏やかで冷たく、細やかで粘り強い。気持ちよりも正直だからだろう。
さあ、ためらっていないで飛び立つのよ、あの森の中へ。目の前に立ちふさがる稜線を越えていくのよ。はるかな夜空のもとで、星を目ざして高い木々の枝々で艶やかに眠るがいい。
年々歳々、忘れることはないだろうから、いつかふたたび、新しい文章になって戻っておいで。
最後に、著者は日本の読者のみなさんへ、という言葉を寄せています。
小説というのは、互いに知らぬ者同士の間をたゆたいながら流されていく、帆船のようなものだ。その帆船に乗っているのは人間の物語である。
ふむふむ。なるほど、そう、そうなんですよね、。どこに流されていくのか、よく分からないまま、みんなたゆたいながら流れていっているわけです。それを文章にして、元いた場所に戻っていき、また、現代にかえって、さらに生きていきたい、私もそのように痛切に願っています。
トヨタモデル
著者:阿部和義、出版社:講談社新書
またまたトヨタをヨイショする本かと思って読みとばしていきました。日本経団連会長を出している企業として、マスコミがトヨタを批判することは考えられないからです。
著者は3年前に定年退職するまで朝日新聞に長く在籍していたジャーナリストです。定年退職したからには、少しは他のトヨタ絶賛本とは違ったことも書かれているのかと期待していたのですが・・・。それでも、やっと第5章に、「労働組合は会社のいいなりか」というタイトルにぶちあたりました。
トヨタは、ご承知のとおり業績好調です。2005年には税引き後の利益で1兆円をこえる空前の好業績でした。ところが、なんと、トヨタ自動車労働組合はベースアップの要求を3年連続して見送ることを決めたというのです。5万5千人の組合員をかかえる巨大労組がこんなていたらくなのですから、あきれてモノが言えません。
いったい、労働組合とは何のため、誰のためにあるのでしょうか・・・。さすがに自動車総連の会長(実は、この人もトヨタ自動車労組から出ている人です)も、3年も続けてベアを要求しないのはおかしいと苦言を呈したということです。トヨタで働く人々のなかにもこのベア要求しないことに不満が高まっているようです。
連合ではなく、全労連が、ベアを認めないトヨタ、要求しない労組、トヨタは日本全体の賃金を引き下げる役割を担っていると厳しく批判していることが紹介されています。
そもそも、このトヨタ労組には会社批判派は排除される仕組みが確立されています。 2000年7月の選挙のとき、組合委員長に共産党から立候補した人が組合員の4.5%、2636票をとったことがありました。しかし、その後、組合員50人の署名を集めないと立候補できないように規約が変えられてしまったのです。ホンダでもニッサンでもない制限です。会社からにらまれたくない人が多いので、50人を集めることは難しいのです。
トヨタは共産党の影響を排除して、会社の統制を貫徹させるために、さまざまなインフォーマル集団を育成してきました。このインフォーマル集団によって、トヨタ労組は運営され、会社との蜜月状態が久しく続いているわけです。トヨタ労組が骨抜きの労働組合でしかないというのは必然なのです。
しかし、日本の巨大企業には、もっとチェックアンドバランスを内部からもかけるべきではないのでしょうか。ワンマン経営者の言いなりの企業ばかりだと、そもそも企業は社会にとって役に立っているのか、そこで働く人たちの生活と権利は本当に守られているのか、心配になってしまいます。とくに今のように勝ち組優先で、弱者切り捨ての小泉流政治がすすんでいるときには、弱い者の視点に立って、何がいま必要なのか、企業の論理とは別の観点からの提起が求められている気がしてなりません。
絵巻物
著者:秋山光和、出版社:小学館
原色日本の美術の8巻目の大型本です。図書館から借りて読みました。
絵巻物について、入門的かつ総合的に解説してくれています。大型のカラー図版によって、絵巻物の素晴らしさがよく分かります。絵巻物は、その描かれた時代の日本を視覚的に再現してくれる歴史遺産であるだけでなく、日本が世界に誇りうる一級の芸術品だと思いました。大判の本なので持ち運びするには不便ですが、絵巻物を原寸で読めるのはうれしい限りです。
絵巻物は世俗的絵巻と宗教的絵巻に大別される。世俗的絵巻は、物語(源氏物語絵巻や紫式部絵巻など)、説話(信貴山縁起絵巻、伴大納言絵巻など)、戦記(平治物語絵巻、蒙古襲来絵巻など)、和歌(三十六歌仙絵など)、記録そして雑(鳥獣人物戯画)がある。宗教的絵巻には、仏典・装飾経(餓鬼草紙など)、寺社縁起(北野天神縁起絵巻など)、高僧伝(一遍聖絵など)がある。
光源氏が五十日の祝いに薫をだいている場面を描いている源氏物語絵巻を眺めると、当時の貴族の邸宅の様子がよく分かります。
人物の顔は「引目鉤鼻」(ひきめかぎばな)に決まっている。斜め正面むき、やや後方から見た横顔、極端に頭を小さくしたうしろ姿の3つに限定されている。そうは言っても、絵を描いた作者の表現力が不足していたわけではない。特定の効果を意図してつくり出されたスタイルである。喜びも悲しみも、一切の感情が表情として示されていないにもかかわらず、画面を全体として眺めると、不思議なほど人物の気持ちやその置かれた情況が、ありありと見る者に伝わってくる。
「引目」についても、一本のように見えながら、ある部分を強調し、あるいは軽い点を加えて瞳のあり方を暗示するなど、それぞれの顔にひそやかな命をかよわせている。
彩色法にも独自のものがある。下描きの墨線を厚い彩色顔料で全部塗り隠したうえで、改めて色や墨の線で描き起こしをして画面を仕上げていく技法がとられている。「つくり絵」の技法である。
絵巻物は上下の最大幅が50センチもある。横の長さは10メートルから15メートルに及ぶ。みる者は絵巻物を手にとって、あるときには停めてじっくり眺め、あるときには早く巻きすすめることができる。緩急のリズムをみずから生み出し、調節することで、画面効果を作り出すことに参加できるわけである。
絵巻物は中国の画巻に学んでいる。しかし、日本式の絵巻物として、10世紀に独自に発達をとげていった。13世紀の後半に盛りあがりをみせ、14世紀になると最後の輝きを放って、急激に減退していった。
以上のような解説によって絵巻物を知ることができるわけですが、ともかく、カラー図版を眺めるだけで楽しい絵巻物の解説本です。そこには中世に生きた人々の顔が写実的に描かれています。なーんだ、やっぱり中世の人って現代日本人とあまり変わらないんだなー・・・と、驚かされます。
2005年12月 8日
グローバル経済下のアメリカ日系工場
著者:河村哲二、出版社:東洋経済新報社
アメリカに日本企業が進出して長くなります。なんとかうまくやっているようです。自動車産業は、アメリカ企業を圧倒しつつあるようですが、なぜそれが可能になったのか、そこにどんな問題があるのか、私の関心のひとつです。
アメリカ型システムは、単能工的専門化体制を特徴とする。個々の作業者が遂行すべき「ジョブ(職務)」概念が明確で、かつ「ジョブ」間の垣根が高い。個々の作業者は職務定義によって明確に定義された職務を厳密に遂行することが求められる。これは少品種の大量連続生産に適した方式である。
日本型労務編成は多能工による班組織を特徴としている。頻繁な機種の切り替えに対する柔軟な作業の再配置を可能とする。作業現場の作業長は、現場ノウハウを熟知した現場作業員から内部昇進で確保される。
日本型システムでは、アメリカ型の職務対応賃金はそのままでは採用できない。昇格・昇進といった人事管理もアメリカ型とは異なってくる。日本型経営・生産システムは、多品種生産をより高効率・高品質で実現するシステムである。
日本企業の経営システムは長期継続志向と職務間の垣根の低さにある。日本企業が行ってきた能力評価は、仕事の成果ではなく、仕事のプロセスを評価する。成果主義賃金と銘うちながら、実は仕事ぶりを評価する制度であることが少なくない。
日本の自動車メーカーは、アメリカの自動車産業の中心地であるデトロイトをあえて避け、伝統的に農業地域であった地域に進出したのが特徴的。ここには、UAWなど、戦闘的な労働組合の影響から逃れようという意図があった。また、すべての工場が、設立当初から、プレス工程から最終組立工程までの一貫生産拠点であった。
アメリカで日本車が売れる原因の大きなものとして、車に対する信頼性が高いことから、中古車の価格が新車とほとんど差がないことがあげられる。
日本型システムは、製造現場での絶え間ない改善活動や問題解消活動によって維持されている。このような能力構築システムそのものを現地工場でいかに実現するかというのが、大競争下での現地生産の成否のカギとなっている。
韓国の三星電子が急成長を遂げている。三星電子の経営スタイルは、生産現場は日本式なのに、その基本的な人事制度は日本式ではなく、欧米式に近い。そのミスマッチには驚くべきものがある。
うーむ、なるほど・・・。そう思いながら読んでいきました。それにしても労働組合のない日系工場というのはどうなんでしょうか。たしかに労務管理はやりやすいのでしょう。でも、いったい企業は何のためにあるのか、その基本を忘れて暴走する歯どめが本当に必要ないものなのでしょうか。そんなことを言うと、今の企業の置かれている厳しい現実をおまえは知らない。夢のような青臭いことを言うな、そんな批判の声が飛んでくるのでしょう。だけど、ですよ。一級建築士による安全手抜きのビル建築を見ていると、今の日本企業の多くがあまりにも目先のもうけを追求して、大切な基本的倫理を忘れ去っている、それが心配でなりません。
2005年12月28日
亡国
著者:平野貞夫、出版社:展望社
小泉に踊らされてはならない。オビに大書きされている言葉です。本のサブ・タイトルには民衆狂乱し、「小泉ええじゃないか」ともあります。著者は最後は自民党から参議院議員となった人ですが、長く衆議院事務局の職員として働き、その後、園田直衆議院副議長の秘書として2年間、前尾繁三郎衆議院議長の秘書を4年つとめました。
政界を引退した今、著者は次のように述懐しています。
政治とともに馬齢を重ねた私にとって、政治は私の生きる証ではあったが、残念ながら生きる希望にはなりえなかった。
若いとき、政治家とは心の底に憂国の思いを抱いている人たちではないのかと畏敬の念をいだいていた。しかし、現実に遭遇したのは、これが日本の政治家と我が目を疑うようなことばかりだった。
あくなき権力闘争と金権政治の腐臭に満ちた国会内で、謀略と嘘で固めた国体政治の裏方として、長く働いてきた私は、ここに亡国のドラマを書きつづる。
メディアを通じ、魔術師小泉が全身で演じた狂気の催眠術によって国民は洗脳されたのではないではないか。アメリカの投機資本の餌食になってはならないのだ。
自民党をぶっ壊すと言って民衆の支持を受けた小泉純一郎が自民党を亡霊のようによみがえらせ、日本の国をぶっ壊すことになるとすれば、これは一大事である。
ええじゃないか、ええじゃないかと踊り狂っているあいだに、私たちの国がどこに向かってすすんでいくのか、忘れ去ってはいけない。
以下はこの本に書かれていることではありません。小泉・自民党が先の総選挙で大勝したのはメディアによる世論操作に成功したから。自民党は「コミュニケーション戦略チーム」(略称・コミ戦)をつくり、「コミ戦戦略統括委員会」をつくった。チームのメンバーは自民党職員で幹事長室長、自民党記者クラブ担当、政調会長秘書、広報本部長、遊説担当、情報調査局員、それに広告代理店「ブラップジャパン」(B社)の担当者。小泉政権は低IQ層への働きかけ」を具体的にすすめた。小泉政権が照準にした「低IQ層」とは、主婦層と子ども中心、シルバー層、具体的なことは分からないが小泉首相のキャラクターを支持する層、閣僚を支持する層で、平たくいうと、お上の言うことを疑いもせずに信じ、従順に従う層だ。
テレビ局を味方につけ、ターゲットにされた「低いIQ層」はそれまでの棄権から投票へ駆り立てられた。小泉劇場効果で若者を中心に投票率は7%上がり、そのほとんどが自民党に投票した。フリーターやニートたちが、生活は今は苦しいが、小泉改革で、将来はきっと生活を楽にしてくれると考えて自民党に入れた。また、コミ戦は、候補者には郵政しかしゃべらせなかった。有権者はみんな見事にひっかかった。
うーん、このように言われてしまうと、本当に嫌になってしまいます。若者よ、しっかりせよ、そう簡単に騙されるなよ。自分を苦しめているものの正体を見破り、怒りをもって批判しよう。こう呼びかけたい気分です。
黄金国家
著者:保立道久、出版社:青木書店
太宰府に流され、怨みのうちに死んだといわれる学問の神様・菅原道真を取り巻く当時の社会状況を、この本を読んではじめて知りました。
菅原道真は対外関係に対処するための有能な官僚と認められ、出世していった。895年(寛平7年)には、東宮大夫の藤原時平にならぶ異例の権大夫に任命され、897年(寛平9年)、醍醐天皇が即位すると、藤原時平とならんで補佐する位置についた。900年(昌泰3年)、宇多上皇の息子・斉世親王と道真の娘のあいだに宇多の初孫が生まれるや、王位をめぐる争闘に巻きこまれ、醍醐天皇の側が警戒して太宰府に流された。そこで怨みをのんで死去することになる。宇多天皇と次の醍醐天皇という父子関係の矛盾に悩まされていたわけである。
このころ、朝鮮半島から新羅が日本に来襲するという危惧が高まっていた。朝鮮半島では、当時、後三国の内乱といわれる本格的な内乱の時代が到来していた。新羅からの日本来襲は893年(寛平5年)から翌年にかけて急に激化した。肥後国松浦郡に新羅の賊が来襲し、翌月には肥後国にまで押し寄せた。奈良時代以来はじめて、西国における明瞭な戦争状態が現出した。894年には対馬へ、新羅から大将軍3人、副将軍11人、大小船百艘、乗人2500という大軍が侵攻してきた。
この状況で、宇多天皇は菅原道真を大使とする遣唐使を発表した。まもなく、それは取り消されてしまった。やがて(907年)、唐は崩壊する。道真が死んで4年後のことである。
菅原道真が死んだあと、朝廷に不幸が連続した。まず醍醐天皇の皇太子が21歳で死去(923年)。すぐに道真左遷の詔書を取り消し、右大臣に復し、正二位を追贈した。ところが、925年に代わった皇太子も5歳で死亡。930年に、清涼殿に落雷し、そのショックから醍醐天皇は病気となって、3ヶ月後に死去した。
菅原道真が朝廷で活躍していた当時、朝鮮半島も中国も大きくゆれ動いていたのでした。そのなかで外交手腕を発揮した有力官僚としてメキメキ出世していったということを初めて知ったというわけです。
ところで、この本の表題である黄金国家というのは、8世紀初めまでは日本にとっては新羅こそ黄金の国であったが、陸奥に金が発見されてから、日本は一転して新羅の商人の中継なしに、直接に唐の海商を相手に豊かな黄金を支出するようになったということです。
まだまだ日本史にも知らないことがいっぱいあると、つくづく思ったことでした。
人類の月面着陸はあったんだ論
著者:山本 弘、出版社:楽工社
前に、月面映像は実は地上で撮影されたもので、アポロは月面着陸なんかしていなかったという本(「人類の月面着陸は無かった論」)を紹介したことがあります。それがとんでもない間違いだということを論証した本です。
前に書いたとき、トラックバックでとんでもないことなんだという批判を受けて、およそ分かっていましたが、この本を読むと、なるほどなるほど、とよく分かりました。まあ、それにしても副島隆彦という人物は、本当にとんでもない人なんですね。うかつに信じてしまった私もバカでしたが・・・。朝日新聞の本だということで信じたのもうかつでした。
大気がないはずの月面で旗がはためいているのはおかしい。・・・この旗は、はためいているように見えるように作られたもの。布の中にワイヤーを入れてはためいているように見せかける。旗がダラーンとたれてしまっては、アメリカにとってカッコつかないので工夫したのだ。
月面でとった写真のバックに星がうつっていないのはおかしい。・・・月をとったときは昼間だったから地面は明るい。空は大気がないので昼間でも暗い。だから、星がうつっていないのはあたりまえ。地域の昼間の空が青いのは、空気分子が太陽光線中の青い成分を散乱しているため。これをレイリー散乱という。月には空気がないので、レイリー散乱はないから、月の空は昼間でも暗い。
宇宙飛行士が月に行く途中で浴びる放射線に耐えられたわけがない。・・・たしかに放射線を浴びるので危険はあるけれど、すぐに人間が死んでしまうほどのものではない。
月面での砂ぼこりの立ち方がヘンだ。・・・真空なので、砂ぼこりは、放物線を描いて落下してしまうだけ。
超高温の月で宇宙飛行士が生きていられるわけがない。・・・月面の最高温度は120度Cで、夜の最低温度はマイナス160度Cほど。月には大気がないので、気温もない。熱いのは月面だけ。だから直接ふれている宇宙飛行士の足の裏だけを保護すればいい。実は、飛行士にとって危険なのは外部からの熱ではなく、宇宙服の中に熱がこもって異常に上昇してしまえば人間は死んでしまう。そこで、液冷却の下着を着て、温度の上昇を防いでいる。
そうなのかー、そんなに簡単に大勢の人をだませるようなことではなかったのかー・・・。そう言われたら、そうなんだよな。ひとり納得しました。それにしても、その後、月面に行くという話がなくなって、近くのイラクへ攻めこんで大勢の市民を殺してしまっているアメリカって、本当に変な国です。そんな国とばかり仲良くして世界から孤立する道を歩いている日本政府(小泉首相)って、やっぱりおかしいですよね。こっちの方は層簡単には騙されないぞ、と思っています。
文字の歴史
著者:スティーブン・ロジャー・フィッシャー、出版社:研究社
インカ帝国のキープ、エジプトのヒエログリフ、アメリカのマヤ文字などは有名ですが、それ以外にも古今東西、いろんな文字があります。その全体を概観できます。漢字を基調とする日本語とアルファベットを見慣れたものからすると、アラビア文字などは難しくてとても判読困難だと思うのですが、子どもでも読み書きしているわけですから、要するに慣れの問題なのでしょうね。
日本語は世界でも難しい言葉のひとつだと、この本でも書かれています。
日本語が実際、世界でもっとも習得困難な表記法であることに異論はないはずで、歴史上もっとも複雑な表記法であるという主張も、まったく正当であろう。しかし、日本の文字表記は完全に習得可能であるばかりか、明らかに成功であった。何世紀にもわたってこの表記システムを使ってきた日本人は、高い読み書き能力をもち、繁栄を築いてきた。きわめて豊かな文学の伝統ももっている。世界一の識字率を誇り、出版物の一人あたりの購入数は世界一である。一部の科学者は、日本人は複雑な文字をつかうために脳を余計に働かせることになり、そのために文字と直接関係のない分野においても秀でる人もいるのではないかとさえ言われている。
日本人の頭は表意式の漢字かなまじりの文章を読んで話すように脳が機能するようになっているため、表音式の外国語の習得が難しいという学説があります。脳の働く分野が異なるからです。私はその信奉者です。何年たってもフランス語をうまく話せないからです。
この本には言語と文字の将来予測も書かれています。現在、世界全体でつかわれている言語は約4000。100年後には、おそらく1000言語だけになるだろう。
パソコンがつかわれるようになって、多くの人が話しことばより書きことばをキーボードにうちこんで過ごすようになった。未来には書くという行為はなくなるかもしれないと考えている人がいる。コンピューターの音声認識システムが書くのに取って代わり、読むにしてもコンピューターの音声応答システムが完成すれば消えるかもしれないというのだ。
しかし、今後、何世紀たっても、ものを読んだり書いたりすることから得られる利益と喜びは、コンピューターの音声認識システムの比ではないだろう。というのも、書くという行為は、読み書きできる文化のほんどに内在するからである。どこの現代社会でも、人間の相互作用のほとんどは、あらゆる面で書きことばに依存している。25世紀の宇宙船の司令官は、宇宙船のメイン・コンピューターとの交信を音声指令や音声応答に依存するようになるのかもしれない。仮にそうなったとしても、自分の個室では、今日われわれが読んでいるのと代わらない、ホイットマンや芭蕉、あるいはセルバンテスの本を読んで楽しんでいるのではないだろうか。
将来、文字がどんな形になろうとも、それは依然として、人類が経験したり、能力を得たり、記憶したりするのに中心的な役割を果たし続けるだろう。一人のエジプト人書記官は4000年前にインクで次のように書いた。
1人の人間が死に、その肉体は土にかえった。彼の親族たちもみな土になった。彼を思い出させるのは文字である。
私もまったく同感です。だから、これからも私は手で書き続けます。