弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年5月20日

その後の慶喜

著者:家近良樹、出版社:講談社選書メチエ
 徳川幕府15代将軍・徳川慶喜が死んだのは大正2年(1913年)11月のことでした。明治天皇が死んで1年以上たってのことです。77歳の天寿を畳の上でまっとうしたのです。明治維新になってからは、ずっと勝海舟の監督の下におかれていたそうです。それでも、大正までも生き延びていたことに驚きました。もちろん、政治的な活動は一切許されていません。ですから、ずっと趣味の世界に生きていました。
 徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いに負けると、たちまち部下を捨てて敵前逃亡し、江戸へ逃げ帰りました。ですから、幕府の心ある将兵は、みな将軍慶喜のことを、賢明かもしれないが、果断とは無縁の、ただ自分自身と徳川家の保身をのみ図る臆病者と見限っていました。
 慶喜には「豚一」というあだ名があったそうです。これは、将軍になる前から洋食を好んで食する一橋という意味です。つまり、新しいもの好きで、タブーをもあまり恐れない人間であったということでもあります。慶喜は思いたったら、すぐに行動しないと気がすまない性格でもありました。
 慶喜の子は10男11女います。末子は明治21年に生まれた10男です。この子たちは、植木屋、米屋、石工など、普通の庶民に里子に出しました。庶民の子に子どもを預けた方がたくましく育つだろうという見込みのもとです。といっても、やはり、慶喜が身分格差を重視していなかったことの反映でもあります。
 慶喜の好奇心は並はずれたものがありました。人力車、自転車、電話、蓄音機、自動車などを、いち早くとりいれてつかっているのです。そして、政治的にも社会的にも活躍できなかったこともあって、多彩な趣味の世界にいりびたりました。銃猟、鷹狩、囲碁、投網、鵜飼い、謡い、能、小鼓、洋画、刺しゅう、将棋・・・などです。身体を動かすのを好み、読書(学習)は性にあわなかったそうです。
 慶喜を30年間も静岡に押し込めていた張本人は、勝海舟でした。ひゃあー、勝海舟って、将軍様よりも実権を握っていたのかと不思議な気持ちになりました。
 東京帝大法科を卒業した息子から社会主義についてのレクチャーを受けることもあったようです。大逆事件を報道する新聞を隅から隅まで読み、貴族階級の没落を予想したといいます。将軍の座を追われた慶喜が、平凡ではあるけれど、意外にも充実した人生を過ごしていたことがよく分かる本でした。

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