弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年5月20日

義経の登場

著者:保立道久、出版社:NHKブックス
 私と同世代の著者は、頼朝中心史観から脱却すべきだと強調しています。
 たとえば、義経の父は源義朝ですが、母の常磐(ときわ)は身分の低い雑仕女(ぞうしめ)だったとされている常識は間違いだというのです。たしかに常磐は「雑仕」ではあった。しかし、同時に「美女」でもあった。そして、近衛天皇の中宮・九条院呈子(しめこ)に13歳のときから仕えていた。
 保元の乱は後白河天皇と崇徳院との対立であり、平治の乱は後白河の近臣内部の殺しあいだった。義経は常磐にとっては3人目の子ども、22歳。義朝によって最後の男子であった。平治の乱のとき、常磐は九条院と院に属する女房などにとって最大の話題であり、心配の種であった。そこで、平治の乱のあと、平清盛の前に引き出されて常磐は老母の助命と子どもたちの解放を願い、清盛がそれを受けいれ、常磐をいっとき自分の女とした。そのあと、常磐は一条長成と再婚している。
 清盛が頼朝の命を奪わなかったのは、平治の乱のあとの政治状況をふまえて慎重に判断をしてのことであった。そのころ、後白河は清盛の妻・時子の妹の滋子(建春門院)を寵愛していた。そのような状況で、清盛はできる限り穏便に事態を収拾しようとしたのだ。
 ところで、清盛は、後白河上皇と二条天皇の双方に両天秤をかけてもいた。しかし、この後白河上皇と滋子との関係が10年も続いたことによって、清盛と後白河との連携も強まり、平氏政権は絶頂の時期を迎えた。ところが、それは、逆に平氏政権の基礎を掘り崩していく時期でもあった。そして、突然、滋子が35歳で死んだことにより、16歳の高倉天皇に世継ぎの男子がいないことが問題となった。後白河上皇と高倉天皇との父子間対立は、結局、平氏によるクーデターとなった。
 以上、この本を十分に理解できたとは言えませんが、義経を単に判官びいきの視点からではなく、当時の貴族と武家をとりまく社会構造をふまえて多面的に見直すための一つの視座を与えてくれる本ではありました。

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