弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年3月 9日

お家相続、大名家の苦闘

著者:大森映子、出版社:角川選書
 実に面白い本です。大名家の相続って、現代日本の大企業において社長を世襲させるか、それとも有能な人間を導入するのか、いつも話題になっているようなことをずっとやっていたんですね・・・。
 お隣の韓国では、養子といっても、血のつながりのない人は考えられないということですが、日本は昔も今も融通無碍です。それがどうしてなのか、この本を読むとよく分かります。
 大名の当主が17歳未満で亡くなったときには、原則として相続が認められず、お家断絶となる危険がありました。幕府が建物上からは一貫して17歳にこだわり続けましたが、それは一人前の大名として、将軍にお目見えを果たし、一人前の大名として将軍への奉公を約束する。そういう奉公を前提として将軍は大名に相続を認め、領知支配を認可するという関係を維持したかったからです。
 現実に問題を複雑にしたのは、大名の子女が早死することが多かったという事情があります。たとえば、岡山藩の池田綱政の実子は40人いました。ところが、10歳をこえたのは、男子5人、女子7人のみでした。そこで、家督相続させるつもりでいた子どもが急死したときに、問題が発生します。たとえば、跡継ぎの確定していない大名が、参勤交代で郷里に帰るとき、帰国の途中で死亡したときに備えて幕府老中に仮養子願書を預けておくという制度がありました。
 さらに急養子(末期養子)という制度もありました。大名や旗本が臨終間際の病床から養子を指名し、幕府に相続を願うことのできる制度です。
 実際には、大名が死亡し、それを秘して、あたかも生きているように見せかけて急養子を指名するということが横行していたというのです。もちろん、幕府老中も承知のうえです。急養子願の大半は、実際には大名が死んでしまってからのものだろうということです。これを「公辺内分」と呼んでいました。公辺とは内緒のことです。つまり、幕府へは無届けの形で、内々に亡くなった当主の身代わりを立てるという手段です。このため、つじつまあわせが必要となってきます。年齢をごまかしたり、兄弟をいれかえたり、さまざまな苦労・工夫がなされました。
 肥後人吉藩相良家では当主が次々に若死にして、10年間のあいだに4代も替わるということがおきました。このとき、養子は、まったく相良家とは無縁の人たちでした。お家断絶の危険が迫っているとき、血縁かどうかはどうでもよかったのです。
 養子を迎えいれるとき、3500両の持参金を条件としていた話も紹介されています。経済的に苦しかったので、それなりの持参金を要求したというのです。
 将軍の息子を養子としてもらってほしいという話があっても、大名側から断ることは可能でした。それ自体は不敬にあたらないというのです。老中水野忠成が将軍家斉の子女の養子問題に関わっての発言です。
 大名の子女の公的年齢や死亡月日の操作は日常茶飯事でした。
 なんだか、今日の日本の大会社で内紛が起きたときの話のようですよね・・・。

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