弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2004年11月10日

セネカ、現代人への手紙

著者:中野孝次、出版社:岩波書店
 2000年前の古代ローマに生きていた哲学者の言葉が、現代日本にも立派に通用することがよく分かります。
 金だの物だのは、真に自分のものではない。いくら惜しんでしがみついたところで、運命がその気になれば、いつでも取り戻してしまう。我々は、いわば一時それを預かっているだけだ。それに反し、時間は、これだけは完全に我々のもの、何人にも奪われない自分の所有物だ。よき人生を生きようと志すなら、まず時間をこそ惜しまねばならない。かき集め、大事に守って、おのれ一個の魂のためにのみ使用せよ。
 もっとも恥ずべきは、怠慢による喪失だ。人生の最大の部分は、悪事をしているあいだに、大部分は何もしないでいるあいだに、そして全人生は、どうでもいいことをしているあいだに、過ぎてしまっている。生きるときは、今このときしかないのだ。
 荷物を背負ったまま泳いでいて、助かった者は一人もいない。自分のこと、自分のすることについて、きちんとした計画を立てて行っている人は、ごくわずかしかいない。それ以外の人は、自分で歩いていくのではなく、運ばれていっているにすぎない。
 だから我々は、何をしたいかしっかり確かめ、それを堅持しなければならない。
 死が我々を追いかけ、生が逃げていく。我々は日々死んでいる。人生の一部分は、我々が成長しているときでさえ、一日一日と奪い去られている。過ぎ去ったときは、すべてなくなったのだ。いま我々が送っているこの日だって、我々はそれを死と分かちあっているのだ。我々が生存を止める最後の瞬間が死を完成させるのではなく、それはただ終わりの封印をするだけ。そのとき我々は死に到達したのであって、それまで長いあいだ我々は死に向かって歩み続けてきた。
 老人とは、すでに生涯のほとんどを死の側に引き渡している者ということになる。
 我々は今日、個人の領域ばかりでなく公共の領分においても狂気の愚行を行っている。我々は殺害を禁じている、とくに個人による人殺しは。ところが、戦争や民族殺戮というとき、個々人に禁止されていることが国家の命令によって行われる。ひそかに行われたことは死をもって償わされ、軍服の男たちがしたことは賞賛される。
 もっとも柔和な種族の人間たちが、相互の流血騒ぎには大喜びし、戦争をし、その継続を子孫に託して恬(てん)として恥じることがない。
 我々は連帯しよう。我々は共存するために生まれてきたのだ。
 最後のあたりは、あたかもイラク戦争をすすめてきたアメリカとイギリス、そしてそれを支えている日本に対するもののようです。古今東西、人間の本質はそれほど変わらないことを確信させてくれます。たまに古典にふれるのもいいものですね。

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