弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2004年5月 1日

中世寺院と民衆

著者:井原今朝男、出版社:臨川書店
 中世民衆を、戦争で被害を受ける哀れな被害者とみる歴史像は虚像である。
 著者はこう断言します。民衆は、もっとしたたかだったというのです。映画『七人の侍』を見ると、なるほど農民のしたたかな強さが実感できます。あの映画は、単なるフィクションではない。私は、確信しています。
 寺院も自ら武装していた。中世の寺院は、むしろ戦争の主体であった側面の方が強い、河原者も自らを守る武装する集団としての実力をもっていた。現代の通説では、中世の国家権力は幕府が掌握し、天皇は政治権力から切り離され、宗教的権威をもつにすぎなかったとする。しかし、前近代において、宗教や儀礼を経済や政治と区別された観念とみるとことは、歴史の実態と相違する。中世の天皇は権威だけの存在とは言えない。その社会的支持基盤は、民衆統合儀礼の社会システムそのものであった。天皇家は将軍家と並ぶ中世社会の公権力であった。
 なるほど、政治と宗教とを明確に区別できたという現代的感覚で割り切るのは間違いのようです。現代社会でも欧米に限らず、日本でも宗教を基盤とする政党は存在するわけですから、よく考えると明確な二分説が成り立たないことは明らかなのですが・・・。
 戦前の天皇は日本国の統治権を掌握し、日本の軍隊を指揮命令する最高司令官であり、大元帥(だいげんすい)と呼ばれていた。この大元帥という言葉は、中世に盛んに行われていた太元帥法(たいげんのほう)という護国法会(ほうえ)によっている。太元帥法は外敵から国土を防衛する法会であった。そうなんだ。私は、ちっとも知りませんでした。中世の日本では、飢饉や戦乱で男たちが減り、女性が男の2倍もいた。夫婦関係が成立しにくい社会では多様な性関係が発達し、性道徳が混乱するのは、いつの時代も変わらない。僧尼同宿の寺院生活が営まれていた。寺などで同宿する尼が妊娠すると、実家に帰って出産し、産後に寺に戻ってまた仏道の生活を続ける。中世の寺院は世俗化の頂点に達していた。
 生きのびるためには何でもあり、の世界になっていたんだな。そう思いました。現代の世界もそうなりつつあるように思いますが、いかがでしょうか・・・。

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