弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2004年3月 1日

エデンの彼方

著者:ヒュー・ブロディ、出版社:草思社
 26歳のイギリス青年が、カナダで日雇い労働者の住む町で生活した。2年後、こんどは北極地方でイヌイットとともに生活をはじめた。
 北極地方の自然は厳しい。冬はマイナス40度。まぶたが凍りついて開かなくなる。寒風にやられてあふれる涙が、たちまち氷結して上下のまぶたをとじあわせる。目の前が真っ暗になる。でも、手袋の甲で眼球を押さえればすぐに氷は解けるので、あわてることはない。
 イヌイット社会は平等で分けへだてのない社会なので、敬語や丁寧語は必要ない。地位や身分の違いを示す表現もない。また、悪態や罵詈雑言に類する言葉もない。
 イヌイットのような狩猟採集民は歴史、精神性、実用的な知識など、生活全般にわたって話し言葉が頼みである。それだけに話術はきわめて重要で、成人はすべて雄弁でなくてはならない。狩猟採集民は、情報であれ、食料であれ、持っているものを分かちあう。知識を共有する根本の必要は、すべての狩猟採集経済に通底する。情報の秘匿は重大な危険を招来する。
 狩猟採集民の平等主義と個人主義は間違いなく女性の地位を高めている。狩り場と漁場は母系が受け継ぎ、女性の首長をいただいている種族が少なくない。礼式にこだわらないのも、男女平等と、お互いを尊敬する精神の現れである。格式張らない狩猟採集民の慣習は男女平等の模範である。女性は夫の強権を恐れず、暴力に怯えることもない。
 狩猟採集民の天分は、すすんで他人から学び、他人(ひと)のために働くのをいとわないばかりではない。なにより彼らの文化を特徴づけているのは、資源とその利用の均衡、すなわち直観と詳細な知識から結論を引き出し、敬愛に結ばれた人間関係に身を委ねることである。
 農耕民の歴史は、狩猟採集民の歴史を圧殺してきた。この先、何百という狩猟採集民の言葉が消滅するのではないかと今危惧されている。人類にとって、その損失ははかりしれない。その言葉の喪失は、人間の可能性の幅を狭くする。狩猟採集民がいなければ、悲しいかな人類の存在価値は逓減する。狩猟採集民がいることで、我々は円満な全人たりうる。
 イヌイットは、エスキモーの大半をしめる民族である。過酷な大自然のなかでも豊かな人生を過ごしていることが紹介されている。そこには豊富なモノはない。しかし文明の器具がなくても心満ちた生活はありうることが、著書自らの体験を通して語られている。

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