弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年9月21日

アラン・デュカス、美食と情熱の人生

フランス


(霧山昴)
著者 アラン・デュカス 、 出版 早川書房

 私もフランスと日本で星のついたレストランで食事をしたことがあります。フランスは、リヨンのポール・キューズと、南仏のエズというところのホテルのレストランです。フランスでは夕食が日本のように夕方6時から始まることはありません。早くても7時半からです。エズのホテルでは、向こうのテーブルにアラブのリッチなファミリーが大勢で会食していましたので、私たちのほうはずいぶんと待たされてしまいました。最後のころはお腹が満ち足りて、眠たくなってきました。日本では新宿のジョエル・ロビュションの店です。いずれも20年近く前のことです。今では、フランス料理は、誰かがおごってくれるというのなら、喜んで参加しますが、なるべく野菜中心の食事(和食)がしたいです。
 アラン・デュカスは、世界中に30店舗以上のレストランを展開していて、合計17個のミシュランの星を持っているという超高名なシェフです。野菜を主役にしたコース料理を早くも1980年代に始めたというのは驚きです。そして、料理学校も主催して、大勢の若手シェフを輩出しているというのは素晴らしいことです。
厨房の料理人は、何よりもまず、自然の代弁者でなくてはならない。食材の本来の味を活かす。本来の味を損なうことなく、各野菜の特徴を最大限に引き出す。それは自然が与えてくれたものだから。
料理には、レシピ以上に、何にも増してエスプリが大切だ。
アラン・デュカスの師匠はアラン・シャペルなど4人いるが、探求心、好奇心、こだわり、新しいことへの関心と熱意が大切。
レストランの厨房には、ときに強すぎると思い、激しい感情、競争心が渦巻いている。
偉大なシェフとは、誰かに代わりを務めさせることで、ほかの者たちを通して自分の考えを表現できる人間、一人では決して三つ星はとれない。多くの仲間が必要。そして、そのためには、決して妥協せず、高い志を持ち続けなければならない。きっとそうなんでしょうね。そうでないと、世界中に30店舗も展開して、同じレベルの料理を提供できるはずがありません。
アラン・デュカスの店はテーブルクロスを使っていないそうです。驚きました。
店を開き、維持しつづけるためには、無自覚とうぬぼれの両方が必要だ。そして、それ以上にやりたい、挑戦したいという熱意が大切。
日本に行って、第五の味覚、うま味を発見した。なーるほど、ですね。
さすが、さすがのシェフの言葉のオンパレードでした。やっぱり達人は違いますね...。
(2025年7月刊。3300円)

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2025年9月20日

最後はなぜかうまくいくイタリア人

イタリア


(霧山昴)
著者 宮嶋 勲 、 出版 日経ビジネス文庫

 日本人とイタリア人はかなり違うことが、この本を読むとよく分かります。そこには優劣の差があるというわけではありません。
 ただ、イタリア人は人生を愉しもうとする気持ちがとても強いようです。そこは多くの日本人に乏しい気がします。定年退職したあと、何もやることがないという日本人男性のなんと多いことでしょう...。弁護士をして感じるところです。なので、外に出ていかず、家の中に閉じこもって、やがて病気して死んで消えていくだけ...。なんだか寂しいですよね。
 イタリア人は今に集中する力が破格に強い。過去のことは簡単に忘れてしまう。
 人生はなるようにしかならない。悪あがきしても仕方がないし、むしろ事態は悪化する。物事の進み具合を見ながら、じっと待っていよう。そうすれば、何かいいことがあるだろう。そのチャンスをつかまえよう。理想にこだわって高望みし、結局は人生を楽しめず、不満ばかりがたまっていくよりは、小さなことに満足し、少しでも人生を楽しんだほうがいいに決まっている。どんな状況でもそれなりに人生を楽しむ。イタリア人は人生を楽しむ天才だ。
 イタリア人は好奇心旺盛で、いろいろやってみることが好き。なんでも屋。なので、分業は好まない。フェラーリは1台のマシンを1人の職人が仕上げる。分業しないことがイタリアの活力と創造力の高さの源になっている。
イタリア人は先の計画を立てることが苦手。一日先の予定は立てたがらない。直前までフリーハンドでいたいようだ。
 イタリア人は公私混同が激しく、そのため社会に活気が生まれ、みんな生き生きとしている。家族みんな一緒で働くことを好む。
 仕事は労働ではなく、人生。イタリア人は美しさ、見た目にこだわる。だからセンスが良い。イタリア人は何をするにしてもすぐコネを探し、頼ろうとする。
 イタリア人にとって、食事とは儀式だ。食事の時間が長いというより、食卓にいる時間が長い。食卓は人と人との出会いの場であり、相手を見定める場でもある。
 イタリア人にとって、食卓は人生のほとんどすべての問題を解決する場である。
 食卓は人間を裸にする。約束の時間はあってないようなもの。遅れてきた人を基準としてまわっていく。
 イタリアでは、人々は精神的余裕があって、楽しそう、幸せそうなのだ。
 日本のような過剰サービスがなくても人々は幸せに生きていけるということなんですね...。
 目を大きく開かされました。
(2023年11月刊。825円)

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2025年9月19日

「稼ぐ小国」の戦略

ヨーロッパ


(霧山昴)
著者 関山 健 、 出版 光文社新書

 デンマークの人口は590万人。九州よりやや大きい国土に福岡・佐賀県民が暮らすというイメージ。その平均年収は日本の1.5倍で、1人あたりGDPは6万8600ドル。日本の倍以上。所得税は平均で4割、高所得者だと6割弱。消費税は25%。そのかわり、医療費は手術をふくめて無料。教育費も大学院まで無料のうえ、学資絵には生活費として毎月の給付金を受けとれる。子どもは必ず保育園に入れる。老後の生活を心配する必要がない。
 国連による世界幸福度ランキングで、いつもトップ3位以内に入っている。
 デンマークの国際的に有名な企業として、玩具の「レゴ」、製薬会社の「ノボノルディスク」がある。デンマークを豊かな国にした5つのポイント。
①できるだけ多くの人を働かせる。働ける人は実際に働いているし、女性は男性と同じように稼いでいる。
②人材の質を高める。学生は国から15万円近くの給付金をもらっている。博士課程になると70万円もの高給取りだ。デンマークでは、25歳から64歳までの3人に1人が大学の何かのコースで学んでいる。生涯学習だ。
③質の高い人材に、競争力ある企業で力を発揮してもらう。
④生産性の高さやイノベーションにつながりやすい組織文化や仕組み。ミスを高いレベルで許容する文化がある。「さっさと失敗する」ことが奨励されている。
⑤長期的視点と「一歩先」を行くための先見性。
デンマークでは、自転車のほうが車より多い。デンマークは国をあげて風力発電に取り組んでいる。
デンマークでは、中学、高校、大学そして就職とストレートに進んでいくことはまずない。そのどこかで、数年間のギャップイヤーを経験するのが一般的。なので、初めての就職が20代後半というのが珍しくない。学校では、正解が一つの問題を解かせることは少ない。
 日本でも、正解がよく分からないことが多い社会の現実のなかで、なんとかして価値を生み出していく努力が学校にも企業にも求めれている(と思われます)。
 スイスは、九州と同じくらいの国土に900万人の人口が住んでいる。外国人移民の比率は25%。農業の労働生産性はスイスの38ドルに対して日本は25ドル。製造業だとスイス170ドル、日本101ドル。サービス業ではスイス127ドル、日本79ドル。スイスは日本の1.5~1.7倍の高さにある。
 スイスは、人材の競争率が高い。スイスには、国際的に高く評価されている大学も多い。
 スイスの就業教育訓練制度は世界最高レベル。
 スイス人の考える「クオリティ」と日本人の「品質」は、少し異なる。スイス人にとってのクオリティとは、ベスト、秀逸であること。これを強引に進めてきた。日本の品質は「百均」にあるように、「100円にしては品質が高い」というもので、コストパフォーマンス的な要素が入っている。
 日本の大学の学費の高さは異常です。奨学金制度も弱いので、学生は勉強そっちのけでアルバイトせざるを得ません。欠陥機のオスプレイやらF35のようなステルス型の戦闘機なんかアメリカから買わず。教育予算にその分をどーんと注ぎこめば、たちどころに解決し、みんなが喜ぶ制度になっているのですけど...。政府は学術会議を解体することばかりに奔走しているのが残念至極です。もっと教育予算を増やしてほしいものです。
(2025年5月刊。1100円)

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2025年9月18日

革命と内戦のロシア1917-21

ロシア


(霧山昴)
著者 アントニー・ビーヴァー 、 出版 白水社

 大学生のころは、マルクスよりレーニンのほうが論旨明快だと思って読んでいました。哲学的思惟の深さがあると、なかなか読み進めるのが辛いのですが、レーニンのほうは事実をもとに展開していくので、どんどん読み進めていくことができました。いずれにしても、マルクス・エンゲルスもレーニンも、論理的な思考力を身につけるという点で、私には大いに役に立ったと考えています。
 この本は、ロシア革命の悲惨な現実を明らさまにしたうえで、レーニンの率いるボリシェヴィキが文字どおり少数派でありながら、赤色武装兵士と市民によって革命を強引に進めていった経過を、いつものように微に入り、細に入って論証していきます。
レーニンが決して聖人君子ではなかったということは、私もかなり前から、そうなんだなと思っていましたが、ロシア革命の推移する現実の詳細を知ると、ますますその感を深めました。
 まずは、ロシア革命前のロシア人民の置かれていた、あまりにも悲惨な現実があります。
無敵のロシア軍の基礎を形成するのは頑強なロシア農民であるという伝説は幻想に過ぎなかった。実際には、農民出身の若者の4人のうち3人は慢性的な健康上の欠陥から、兵役に就くことができなかった。農村からの徴募兵の質の悪さが指揮官たちの不満の種だった。農民の子どもの半数は5歳になる前に病気で死亡した。
 農村の女性のほぼ全員が婦人病にかかっている。村々は梅毒によって腐敗していた。
 ロシア軍の士官には、規律を守らない兵士の顔面を殴打する権利が認められていた。
 ロシアの首都ペトログラードに住む富裕層が、まるで戦争なんて起こっていないかのように豪楽的生活を楽しんでいる一方で、貧困層はパン不足から騒乱を起こしていた。
 あまりにも長いあいだ蓄積されてきた人民の憎しみが噴出し、抑えられなくなった。
 軍隊の内部に反革命の動きがなかったことは、もっとも保守的な軍幹部グループさえもが皇帝と后妃に絶望していることを意味していた。
 戦争に疲れていた兵士たちは、変革を歓迎した。レーニンも1917年2月に起きた二月革命によって不意をつかれた一人だった。
レーニンは強烈な自信家であり、自分以外の誰をも信用しなかった。レーニンにとってボリシェヴィキによる権力奪取に役立つことなら何でも許された。
 ゆるぎない自信にみちて快活に話すレーニンの演説は聴衆を魅了し、力強い指導者としてのオーラを放った。
 村部で圧倒的な支持を得ている社会革命党(エスエル)に比べると、ボリシェヴィキは人数からいっても極小政党に過ぎなかった。また、各地の労働者代表ソヴィエトの大半においてもボリシェヴィキはわずかな少数派にすぎなかった。このことはレーニンも承知していた。
 レーニンの長所は複雑な事柄を明快に説明し、納得させる能力にある。しかし、レーニンの演説は聴衆を乗せるようなものではなかった。これに対して、ケレンスキーの演説は聴衆の心に火をつけて燃え上がらせ、興奮状態に誘い込む。ケレンスキーは、聴衆の心をつかみ、恍惚の涙を流させることができた。レーニンは、人々の魂の中のもっとも暗い部分を鈍器で殴るような話し方をした。
 戦場では、ロシア兵と対峙しているドイツ軍の兵士とが撃ちあいをやめ、局地的な休戦を交渉し、局地的な休戦が成立した。なかには、共用の売春宿まで設立していた。
 ロシア軍の大本営(スカーフカ)による6月大攻勢は最悪の結果をもたらした。連合諸国の信頼を失ったばかりでなく、前線で戦うロシア軍兵士の大部分に、その努力や犠牲が不毛であることを確信させてしまった。これにより、戦争反対を主張するレーニンの立場は大幅に強まり、ケレンスキーの臨時政府の立場は弱体化した。
 レーニンは、バルチック艦隊の水兵たちがいかに制御不能かをよく知っていた。なぜなら、水兵は、少数派アナーキストの影響下にあったから。兵士たちは、すべての士官を潜在的な反革命分子と見なしていた。
 レーニンは、ボリシェヴィキ以外の勢力を少しも信用しておらず、ましてや「暗黒の大衆」には、いささかの信頼も寄せていなかった。
 銃剣を地面に突き立てて故郷に帰ろう。これこそ、灰色の兵隊外套を着た農民たちにとって、明瞭で、単純で、心を惹きつけるスローガンだった。ボリシェヴィキは、分かりやすいスローガンを繰り返すことで、大きな力を発揮した。
 ボリシェヴィキに対抗して戦う姿勢を示したのは、ドン・コサック大隊だけだった。
 マクシム・ゴーリキーはレーニンの親友だったが、レーニンの性格について何の幻想も抱いていなかった。
 「レーニンは、万能の魔術師などではなく、むしろプロレタリアートの名誉も生命も斟酌しない冷血の奇術師である」と、新聞のコラムに書いた。
 ボリシェヴィキの権力奪取に反対する蜂起は各地で多数発生した。しかし、互いに連絡も調整もなく、孤立して発生したため、個別に粉砕されていった。
 1918年2月、レーニンは、裁判などの司法手続なしに拷問し、処刑する権限をチェーカーに与えた。チェーカーへの応募者は後を絶たず、2年内に2万人に達した。
 チェーカーには、2つの優先課題があった。一は、犠牲者たちから、出来るだけ多くの現金と貴重品を回収して共産主義の大義を実現する資金とすること、二は、潜在的な敵対勢力を情け容赦ない階級戦争によって壊滅すること、だった。
 赤色テロルがロシア全土に広まり、食料徴発隊こそ問題を悪化させていた。
 あまりに悲惨な状況に、読んでいて声も出なくなりました。
(2025年5月刊。3900円+税)

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2025年9月17日

東大生に教える日本史

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 文集新書

 私は高校生のころ日本史も世界史も大好きで、得意中の得意科目でした。歴史を暗記科目だと考えたことはありません。ともかく、時代の流れと次々に登場してくる人物の個性に心が惹かれていました。これは小学生のころに偉人の伝記を読みふけっていた、その延長線にあったと思います。
 著者は東大の高名な歴史学者です。教養学部の東大生に対して歴史のダイナミックな視点を提起しています。とっくに大学生ではない私も、知的好奇心をかきたてられました。
 織田信長はフツーの戦国大名ではなかった。このように著者は強調しています。武田信玄も上杉謙信も自分の居城からまったく動いていないし、動こうともしなかった。戦国大名というのは、天皇にも将軍にも頼らず、自分の実力(武力)だけで自分の国を支配している者をいう。ところが織田信長は、清洲城、小牧山城、岐阜城そして安土城へと本拠地を大規模に、頻繁に移した。そして、商業の中心地としての京都をおさえた。そこに信長の革新性がある。なるほど、と私は思いました。
 秀吉の全国統一はわずか8年で達成された。ところが、それは旧来の勢力を温存したままだった。秀吉は部下の武将について、戦場での働きよりも、デスクワークを重視していた。秀吉は兵站(へいたん)を重視した。加藤清正は秀吉の期待にこたえたことから20万石の大名となった。
 石田三成などの秀吉政権の五奉行は見事に行政系ばかり。うむむ、そうなんですね...。秀吉には徳川家康と違って「家」という意識が希薄だ。私も同感です。秀次とその関係する女性を皆殺しにするなど、「家」を大事にする気持ちが少しでもあれば、こんなことは絶対に出来なかったと思います。
 徳川家康は、秀吉とは正反対に、武功に厚く行政官に冷たかった。実務官僚には他家から人材を個人として登用し、ちょっとしたことで禄を減らした。そして、秀吉が気前の良さを売りとしていたのに対して、家康は、とてもケチだった。うむむ、そんな違いもあるのですか...。
 室町幕府の足利義満は自ら天皇になろうとしていたという有力な説があります。私も面白い説だと思うのですが、著者は否定します。義満は、すでに天皇を超える立場にあった、いわば治天の君(ちてんのきみ)的な存在だったから、あえて自ら天皇になる必要なんかなかったというのです。そうか、そうなのか...と思いました。
 そして、義満にとって「不幸」なのは、親子の仲が良くなかった息子の義持が義満の死後、次々に義満の政策を否定してしまったことでした。
 こんな授業を大学1年生とか2年生のときに受けていたら、そうか学問の世界は底が深い、まだまだ解明されていないことがたくさんあることを知って、勉強する意欲を大いにかきたてられることと思いました。申し訳ないことに、セツルメント活動に夢中になり、ほとんど授業を受けていません(もっとも、2年生の夏ころからは東大闘争が始まり、授業がなくなりました。当時の私は、それを喜んでいたのでした)。一読をおすすめします。
(2025年2月刊。990円)

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