弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年6月26日
女たちの平安後期
日本史(平安)
(霧山昴)
著者 榎村 寛之 、 出版 中公新書
平安中期の女性は地味な存在ではあったが、新たな形や場所で大きな役割を果たした。そして後期になると、「女院」つまり女性の上皇と呼ばれる人たちは、院とともにこの時代の重要なワイルドカード(特殊な切り札)になっていた。
受領(ずりょう)は、国々の長官として、その国の支配を預かった。受領としての実績を積むと、次に藤原道長などの大貴族の家政を預かる家司(けいし)になる。受領が地方に下るときには、多くの関係者が同行していた。また、家族も付いていくことが少なくなかった。
清原元輔の娘の清少納言、藤原為時の娘の紫式部、藤原保昌の妻の和泉式部など、受領層出身の女性文学者には地方在住経験者が意外に多い。
一世代あとの菅原孝標の娘は「更級(さらしな)日記」に、東国から京への旅を記している。摂関体制を支えていたのは、京と地方とを行き来していた人々なのだ。
この時代の政界の中心は、院、すなわち上皇だった。院が現役の天皇の父である場合、元天皇でありながら、巨大な荘園領主という矛盾した存在だった。
平時子は平清盛の正妻で、二位尼(にいのあま)と呼ばれた。また、北条政子は源頼朝の正妻で、尼将軍と呼ばれた。彼女らが政治世界で実力を振るっている様を見て、僧慈円は、「女人入眼(にょにんじゅげん)の日本国」と評した。
権門に仕えるということは、本人だけでなく、妻も夫も、家族ぐるみの奉仕だった。藤原彰子(あきこ)は、藤原道長の娘であり、女御(にょうご)として、70年近く、宮廷の中枢に座り続けた。
彰子のライバルとされる定子は道長の兄、道隆の娘であるが、彰子中宮、定子皇后が重なったのは、わずか10ヶ月間ほど。恐らく二人は顔を合わせたことはなかっただろう(と著者は書いています)。
彰子は道長より格上だった。道長の後継者となった弟の摂政頼通よりも格上だった。
当時の宮廷には、道長と直接の血縁関係のない、他の藤原氏もたくさんいた。「氏」という規制はゆるくなっていた。
この時代は、戦乱こそなかったが、感染症や出産で短命に終わる人も多かった。道隆や道長は、飲酒で命を縮めた。長生きすることが成功への一番の近道だった。禎子の寿命は82歳、伯母彰子は87歳、伯父頼通83歳、教通80歳と、続いてきた長命。DNAを使いきり、摂関家を権力の座から追い落した。
桓武は、母の高野新笠(にいがさ)が渡来系氏族の出身だったため、若いときには皇位に縁はなかった。天皇の乳母は、強力な権力の源泉となった。
蝦夷との交流の最前線で築き上げた安倍氏と清原氏の勢力を、奥州藤原氏につないだのは、安倍頼時の娘だった。
平安時代の400年は、江戸時代の徳川300年よりはるかに長い。この時代には、たとえ、女院領であっても、一期(いちご)分、つまり、本人限りとなって、継承されなかった。
平安時代後期、宮廷の女性たちはそれなりに活躍していることがよく分かる新書でした。
(2024年12月刊。1040円+税)
2025年6月25日
米原昶の革命
社会
(霧山昴)
著者 松永 智子 、 出版 創元社
米原昶(よねはら・いたる)という共産党の代議士がいました。今ではすっかり忘れられていますが、その娘の米原万里(よねはら・まり)のほうは、かなり知られているのではないでしょうか。私の書棚にも、5冊以上並んでいます。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』はひどく胸の打たれる本でした。
さて、父親です。東京選出の共産党の代議士として、私がまだ東京にいたころ活動していました。この本によると、1973年9月の衆議院本会議で、田中角栄首相に対してKCIAと国際勝共連合(文鮮明の統一協会の別働隊)を追求したというのです。この質疑を安倍晋三が銃撃されて死亡したあと、2023年8月16日に「ポリタスTV」で紹介されたところ、たちまち「時の人」になったということfです。
姉の米原万里と同じく妹の米原ユリ(料理研究家)もそれなりに有名です。というのは、作家の井上ひさしと結婚したからです。万里もユリも、「父(いたる)が大好きで大好きで」というのでした。これは、たいしたものですね...。
米原いたるは、鳥取の名家の生まれ。生家は国の有形文化財に登録されている。米原いたるは、鳥取中学校から東京で一高に入学し、除籍されている。
鳥取といえば、今の石破茂首相の地盤ですが、米原いたるは、1949年には鳥取でトップ当選しています。鳥取の名家出身のなせるわざですね。東京2区からも3回当選しています。中選挙区制だったからです。今の小選挙区制は民意をきちんと反映していません。
米原いたるは一高時代は柔道部に入って熱心に練習していたようです。ところが社研に入って活動するようになり、ついには、地下で党活動を始めたのでした。1928年ころのことです。私の父(茂)も、このころ東京で逓信省につとめて働いていました(『まだ見たきものあり』)。
3.15事件は小林多喜二が小説にしていますが、特高が政府に反抗的な人々に対して凄惨な拷問を加えていたのでした。1929年10月、米原いたるは一高より除籍処分を受けた。その理由は「不穏の言動」というものです。信じられない理由です。
1930年7月から1945年8月まで、米原いたるは15年間という地下生活に入ったのでした。21歳から36歳までのことです。北海道、東京、群馬、福島で偽名を使って生活していました。この間、いたるの父・米原章三は貴族院議員になっています。この15年間、造船所や鉄工所で肉体労働をし、また、雑誌の編集、返信教育に関わっていたようです。
米原いたるは1959年から社会主義国のチェコ(プラハ)に駐在するようになります。「平和と社会主義の諸問題」という雑誌の編集部員として、ヨーロッパ諸国への情報収集を任務としました。本名ではなく大山二郎(アヤーマ)と名乗っての活動です。中ソ論争が激しくなる中で、妻が日本に帰国してから、娘2人とプラハで3人暮らしをしていました。このころの娘たちの生活の大変さは万里の本のなかによく描かれています。
やがて、日本共産党はソ連との関係が悪化し、1964年11月に日本に帰国しました。そして、1969年12月の総選挙で当選して国会議員として活動しはじめました。
米原いたるは1982年5月、73歳で亡くなった。難病のALSだった。
米原いたるは家で息子の矜持(きょうじ)からか、名家(資産家)の祖父の遺産は一銭も使われなかったという。米原いたるは、島軽西高の応援歌「祝勝の歌」を作詞した。今に至るまで、100年間、うたわれている。ちなみに、この本の著者は久留米の明善高校出身とのこと。米原いたるの曾祖父・米原章三は、「世のため人のために奉仕せよ。孫の代まで見すえた仕事をせよ」と説いたという。それを米原いたるは見事に貫き、実践した。最後に米良いたるの年譜があるのを見て、私の父と同年(1909年、明治42年)の生まれだと知りました。
道理で、東京の一高生のころに時代背景が重なるわけです。
それにしても米原万里が早く亡くなったのは惜しまれます。父の地下生活の15年間を追跡していたそうですから...。
(2025年2月刊。2970円)
2025年6月24日
ジャニー・オブ・ホープ
アメリカ
(霧山昴)
著者 坂上 香 、 出版 岩波現代文庫
1999年1月に刊行された本を、新たに最新の状況を紹介する末尾の文章を付加して出来ている本です。
世界では死刑廃止が圧倒的で、EU加盟の条件にもなっています。アメリカですら死刑廃止へ動きつつあります。日本は完全に遅れています。そのなかで弁護士会は死刑廃止を求める声を上げています。
アメリカでは年間100人近くが処刑されていましたが、今では激減しています。既に死刑廃止を決めた州は11州から23州へと増え、さらに6州では知事が執行を停止しています。これに対して日本では今も100人近い死刑囚がいて、処刑の日を日々、恐れながら過ごしています。
私は長い弁護士生活のなかで1回だけ死刑判決を受けた事件の弁護人だったことがあります。まったく気持ちのいい判決ではありません。そして、死刑(処刑)に従事する拘置所の職員や立会検察官の心労はすさまじいものがあると考えています。私は国家が人を殺していいとは考えられません。
アメリカでは、死刑囚は黒人に偏っている。そして、死刑囚の多くは、幼少期に深刻かつ複数の虐待を常態的に体験している。学校でも深刻な問題行動を起こしていた。
カリフォルニア州では、州知事が死刑の刑場そして死刑囚監房を閉鎖して、一般受刑者と同様に処遇されることになったようです。私も、これはいいことだと思います。生きてる限りは、人間ですから、なるべく平等に、差別なく処遇したいものです。
日本の無期懲役は、建て前では刑務所から出て祝い事に参加できたりはしませんが、実際には満期になる前に出獄できることがありました。でも、今ではかなり難しくなっていて、平均の拘禁日数は30年以上になっています。
犯罪を犯す人は、人生のある時点では、みな、被害者だった。
アメリカの「ジャーニー・オブ・ホープ」は死刑囚の家族と被害者の遺族が一緒になって、50人前後の参加者が全米各地を車で移動しながら、一般市民に向けて、自らの体験を語って歩くという運動。日本では、とても考えられない運動です。
アメリカでは、1973年から1997年までの24年間に、6000人に死刑判決が下されたが、そのうち69人が、あとで「無罪」になって釈放された。死刑と無罪とでは、天と地ほどの違いがありますよね。死刑判決が出て、処刑されたあと、形だけ無罪になっても、「時、すでに遅し」です。死んだ(殺された)人がこの世に戻ってくることはありません。
アメリカの死刑執行は電気椅子によるのではなく、致死薬注射によるもの。まず硝酸ナトリウムで眠らせ、そのあと臭化パンクロニウムによって息を止め、さらに塩化カリウムで心臓を停止させるというもの。
あらかじめ処刑の日時は公表され、被害者の家族(遺族)は希望すると身近に立会ことができる。また、このとき、死刑支持者は、刑務所の外で「お祭り騒ぎ」を起こす。
2000年ころ、アメリカでは年間2万件ほどの殺人事件が発生していた。いやあ、怖い国ですね。なので、護身用ピストルを持つという人がインテリ層にもいるわけです。
遺族が死刑執行に立ち会って満足するかというと、必ずしもそうではない。むしろ、「加害者は苦しまずにいとも簡単に死んでしまった」と不満を募らせたりもする。そして、その後は生きる目的を見失ってしまう人が出てくる。うむむ、なるほど、難しいのですね...。
アメリカでは胎児性アルコール症候群(FAS)というのが問題になっているそうです。毎年5千人をこえる乳児がFASをもって生まれている。そして、それは知能障害・発育障害などとしてあらわれ、思春期になると問題行動を起こし始めるのです。母親がアルコール依存症で、妊娠中に大量のアルコールを摂取していたことによる病気です。日本でも同様なことが起きているのでしょうか...。
なんでも死刑にしろと簡単に叫ぶ人がいますが、世の中はそんなに簡単なものではないと50年以上も弁護士をしている私は思います。幼少期に人間として大切に育てられた体験のない人は社会に対して復讐を始めるのです。もっと優しい社会にしないと、結局は、みんなが安心して生活できる社会にはなりません。大いに目を開かせてくれる本でした。
(2024年12月刊。1430円+税)
2025年6月23日
もしもハチがいなくなったら?
生物
(霧山昴)
著者 横井 智之 、 出版 岩波ジュニア新書
ハチが消滅するかもしれないと言われています。大変なことです。
私の身のまわりで、スズメが少なくなりました。今年はツバメだって、昨年よりぐんと姿を見かけません。駅舎にいくつもツバメの巣があって、子育て中のにぎやかな巣の様子をいつも駅で見かけていたのに...、淋しい限りです。
ハナバチの祖先は1億年も前の白亜紀に地球上に出現した。これは多くの被子植物が出現した時期とちょうど同じころ。恐竜が繁殖して、地球を歩き回っていた白亜紀の時代に、花とハナバチはお互いに多様な姿や形をもつようになった。
多くのハナバチでは、後ろ脚にスコーパが見られ、そこに花粉を集めていく。スコーパとは、運搬毛が密集している部分。
ハナバチ自身は、植物のためを思って、花粉をせっせと運んでいる、というのではない。
ハナバチも植物も、自分にかかる労力は小さくしつつ、相手を利用して最低限の利益を得ようとしている。ハナバチと植物はお互いに必要としているが、ときには相手をだまし、出し抜き、自分に得になるようにしている。
ハチにもたくさんの種類がいて、危険なハチは、ごくわずか。
オスは交尾するために生きている。多くのハナバチのメスは生涯に1回しか交尾しない。なので、オスは自分の仔を残すためには、誰とも交尾をしていないメスを探し出さないといけないので、必死だ。
ミツバチの新女王は複数回交尾する。セイヨウミツバチの女王は、1日に1000~3000個の卵を産んでいる。平均的な寿命を3年とすると、生涯に100~300万個の卵を産む。
メスは針をもっているが、オスはもっていない。なんだかほっそりしていて、か弱そうなスタイルのほうがオス。
ハナバチの種の多くは、地中に巣をつくる。日当たりの良い裸地を好むことが多い。二ホンミツバチは、プロポリスをつくることがなく、蜜ろうだけを使って巣をつくりあげる。
ミカンをはじめとするかんきつ類やブドウは、ハナバチに頼らない、風媒の作物。キュウリは、受粉しなくても実がなくなる。玉ねぎやキャベツの生産にもミツバチは関わっている。
昆虫全体が減少している。チョウは、1990年以降、ヨーロッパ16ヶ国で、39%も減少している。
ゴキブリも家で見かけるチャバネゴキブリなどわずかな種を除くと、大半は草地や森林に生息していて、雑食性なので、落ち葉や樹木以外にも動物の死骸などを分解してくれる。
ハナバチのおかげで、野菜や果物が育っている。
ハナバチの代わりにロボットやAIを使う、小さなドローンを飛ばすなど、いくつも挑戦されているが、そんなに簡単にとって代わるとは思えない。
ハナバチがいなくなったり、トマト、イチゴ、リンゴ、メロン、スイカ、カボチャが食べられなくなってしまうかも...。いやあ、それは大変なことですよね。
トランプ大統領は自然環境の悪化なんて、とんだフェイクニュースだと信じているようです。とんでもない間違いです。どうしてアメリカ人の半分が、あんな知性欠如の商売人を選んだのでしょうか...。
ハチを大切にすることは、私たち人間を大切にすることと同じなんですよね。
(2025年3月刊。880円+税)
2025年6月22日
ロベスピエール
フランス
(霧山昴)
著者 髙山 裕二 、 出版 新潮選書
フランス革命の闘士、そして恐怖政治を遂行した独裁者であったロベスピエールは、1758年に生まれ、1794年に処刑されて死亡した。
「私は人民の一員である」と言い続けたロベスピエールは、元祖ポピュリストだった。ロベスピエールは、代表者(議員)の役割を重視し、彼らが一般的な利益を示すことで人民との透明な関係性をつくるべきだと考えた。
同時代人から、ロベスピエールは、「清廉(せいれん)の人」、つまり腐敗していない人と呼ばれていた。ところが、ロベスピエールは、恐怖政治をすすめた「独裁者」として、ひどくイメージが悪い。
ロベスピエールの父親も弁護士。というか、ロベスピエール家は300年前にさかのぼる法曹一家である。ロベスピエールは若くして父親を亡くしたものの、11歳のとき、成績優秀のための奨学金を得てパリの名門コレージュに入学した。ここでも成績優秀のためルイ16世に賛辞を捧げる代表にも選ばれている。
ロベスピエールは、弁護士として活動しはじめた。ロベスピエールは、1789年、選挙人による投票で全国三部会に参加する代表の一人として選ばれた。議員総数は1200人。会場のヴェルサイユ宮殿に入るにしても、第一、第二身分は表口から、第三身分は裏口からという差別があった。
1789年7月14日、パリの民衆5万人がアンヴァリッド(傷病兵の慰安施設)に武器を求めて押しかけ、次に弾薬を求めてバスティーユ監獄に向かった。このとき監獄には、有価証券偽造犯の4人をふくむ7人しか「囚人」はいなかった。
人権宣言案は、二つの国民、つまり「能動市民」と「受動市民」という考えによって立っていた。「能動市民」とは、教養のある有産者であって、3日分の労賃に相当する直接税を支払う25歳以上の男性のみに選挙権があるとした。ロベスピエールは、これに反対した。
1790年3月後半からの一時期、ロベスピエールは。ジャコバン・クラブの会長をつとめた。
1791年6月、ルイ16世がパリを抜け出した。ヴァレンヌ事件と呼ばれる。フランス王が国外脱出を図った事実はフランス全土に知れ渡り、国王への信頼が大きく揺れた。
1791年5月、ロベスピエールは、議員の再選禁止法案を提案した。このときから、ロベスピエールは、「清廉の人」と呼ばれた。
1792年4月、フランスはオーストリアに対して宣戦布告した。このとき、ロベスピエールは他の6名とともに反対票を投じた。
革命は、人々を「陰謀」に駆り立て、対外戦争がそれを加速させた。ロベスピエールは、戦況悪化のスケープゴートとされた。
1792年9月、国民公会議員を選出する選挙が実施された。投票権は21歳以上の男子に限られた。家内奉公人や無収入の人には与えられなかった。投票率は10%未満で、投票したのは70万人ほどでしかない。
1793年1月、ルイ16世を含む387人が死刑が宣告された。そして、死刑に執行猶予をつける案が投票に付され、賛成310票、反対380票で否決されて死刑が確定した。1月21日、ルイ16世はギロチンによって処刑された。
1793年、ロベスピエールは一貫して私的所有権を擁護し、「財の平等」には否定的だった。それは「権利の平等」であって、その思想に共産主義思想の原型は認められない。
1793年6月、国民公会は新憲法(1793年憲法)を採択した。
1793年春から夏にかけて、フランスは全ヨーロッパとの全面戦争に突入した。春には、ベルギー戦線で、オーストリア軍に対する敗北とデュムリエ将軍との裏切りがあった。
ロベスピエールより過激だったマラが7月13日に暗殺された。8月14日、国民公会は18歳から25歳までの独身男性全員を徴兵できる国家総動員令を発生した。
1793年10月、国民公会が「革命政府」を宣言し、マリー・アントワネットやブリソ派指導者を処刑した背景には、国内外の混乱と鬱積(うっせき)する民衆の不満があった。
9月5日、パリの民衆(サン・キュロット)が国民公会に押し寄せてきたとき、国内外の「革命の敵」が攻勢に出るなか、議会に対して「恐怖を日常に」と要求した。
1793年3月、特別刑事裁判所(革命裁判所と呼ばれた)が設置された。これを主導したのは元法相のダントンだった。そして、ダントンも1994年4月に裁判にかけられ、3日後には死刑判決が確定して、即日処刑された。34歳だった。
恐怖政治のなかで、30万人が逮捕され、1万7千人が処刑された。裁判によらない処刑をふくめると4万人はいるとみられている。
貴族の処刑の割合が倍増した。革命の理想によるというより、増悪や復讐心によるもの。
ロベスピエールはこのころ、体調を崩して自宅で療養していた。精神的ストレスが加速して、心身ともに疲弊していたのだろう。
1793年6月、全会一致で国民公会議長に選出されたロベスピエールが「最高存在の祭典」を主宰した。
1793年3月から6月まで、死刑判決は1日3月から6月まで、死刑判決は1日3人だったのが、7月末までは1日28人に激増した。このなかで、恐怖政治に批判的な議員たちにとって、ロベスピエール一派は不安の根源であり、元凶はロベスピエールだった。
1794年7月、ロベスピエールが久しぶりに国民公会に姿を見せ、演説した。ところが、以前のように熱狂的に受け入れられなかった。そして、ロベスピエールの逮捕が提案されると、なんと全会一致で逮捕が議決されたのでした。このとき、ロベスピエールが作ったという処刑予定者リストなるものがデッチ上げられ、今やらないと自分たちのほうが処刑されるぞと脅していた議員がいたのです。
ロベスピエールは逮捕されるとき、顔面に銃弾が貫通して言葉を発することも出来ない状態になった。そして、裁判もなく、即日処刑された。
ロベスピエールは、怪物ではなく、ごく普通の人だった。恐怖政治は、彼が創造したものではなく、危機的な状況に対する集団的な反応だった。自由や熱狂は、憎悪や恐怖と隣りあわせだった。フランス大革命のときの恐怖政治を考えさせられました。
(2024年11月刊。1750円+税)