弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年6月30日

島原城まるわかりブック

ドイツ


(霧山昴)
著者 吉岡 慈文(監修) 、 出版 長崎文献社

 島原城下には武家屋敷の並ぶ通りがあります。道の真ん中に清らかな水の流れる水路が走っています。落ち着いて散策できるので、おすすめです。知覧(ちらん)や角館(かくのだて)ほどの規模ではありませんが...。
 島原城の近くには、有名な戦国時代の合戦場があります。「沖田畷(おきたなわて)の合戦」があったところです。天正12(1584)年、佐賀の戦国大名・龍造寺隆信が大軍を率いて島原半島に攻め込んできました。迎え撃つ有馬晴信は鹿児島の島津氏に援軍を頼みます。このとき、島津軍の策略にはまって、大将の龍造寺隆信が首を討たれ、佐賀の軍勢は惨敗を喫したのでした。島津勢の強さは待ち伏せ戦法にもあります。
そして、島原城を築いた松倉重政はキリシタンを厳しく取り締まり、過重な年貢徴収をすすめ、島原・天草一揆の原因をつくり出しました。
 ただ、この重政は、ルソン島(フィリピン)に使節を派遣していたそうです。そして、その子の松倉勝家の治世下に大一揆が始まるのでした。
 原城跡には2度か3度、私は行ってみましたが、ここに3万人からの百姓たちが一家一村あげて生活していて、ほとんど皆殺しの憂き目にあったかと思うと、感慨深いものがあります。それはキリスト教信仰だけの問題ではなく、生存そのものが脅かされていたから大一揆は起きたと私は考えています。
大一揆の原因をつくった勝家は、切腹させられたのではなく、責任をとらされ、大名として異例の斬首の刑に処されました。
 島原は、平成になってからも噴火し、大規模な火砕流が起きて大災害となりましたが、寛政4(1792)年にも「島原大変、肥後迷惑」と今でも語り伝える大災害が起きました。死者1万人とも言われています。
 島原城下をゆっくり散策し、そのあと温泉に浸るというコースは、おすすめです。
(2024年3月刊。1200円+税)

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2024年6月29日

あしたのお嬢

人間


(霧山昴)
著者 山田 一喜 、 出版 講談社

 「あしたのジョー」が「週刊少年マガジン」で連載が始まったのは1968年1月1日号から。私は大学1年生でした。駒場寮の6人部屋で毎日、楽しく忙しく暮らしていました。東大闘争が始まったのは6月からです(本郷の医学部では既に1月からもめていましたが、駒場はいたって平穏でした)。
 「あしたのジョー」は寮生に大人気で、みんなで争って読み回していました。貧乏学生だった私は「少年マガジン」を買った覚えはありません。寮にいたら、いずれまわってくるからです。週刊マンガの発売日には誰かが買ってきて、読み終わったのが回ってきます。じっと待っていればよいのです。
 このころ、日本は高度経済成長期の真っ只中にあった。こう書かれていますが、私自身はその恩恵を受けたという実感はありません。ただ、世の中が不景気で、どうしようもないという実感はありませんでした。今もある霞が関ビルが竣工したのも1968年だそうです。弁護士になってからは入ってみましたが、学生のころは霞ヶ関なんて、ベトナム反戦デモのとき以外、近寄ったこともありません。
「あしたのジョー」は、ともかくカッコ良かったです。作者のちばてつやはそれ以来のファンです。丸味のある登場人物は、なんだかほのぼのとしていて、いい雰囲気です。というか、丸顔の作者の顔にそっくりですよね...。
 発刊から55年たったと言われると、ええっ、そ、そうなんか...と、ついうろたえてしまいます。
 でも、私も弁護士生活を丸50年もやっているのですから、それもそのはずです。
 この本は、「あしたのジョー」が活動していた舞台を、マンガ原作に出てくる脇役たちと訪ね歩くという趣向です。「お嬢」とは、父親から「あしたのジョー」全巻を読むように言われて読破したという陽菜(ひな)です。
 「あしたのジョー」は累計発行部数が2500万部といいます。とんでもない部数です。
 「あしたのジョー」で、ジョーと死闘を重ねた力石(りきいし)徹が誌上で亡くなったあと、実際に告別式があったというのも驚きですよね。1970年3月24日、講談社の講堂には護国寺のお坊さんに来てもらって読経まであげてもらったのでした。参加したファンは、なんと700人。
 いやはや、とんだ告別式です。まあ、私は参加していませんが、参加した人の気持ちはなんとなく分かります。決して馬鹿な奴らだ、なんて思いません。
 コミックスで全20巻だそうです。読んで、学生時代の雰囲気にしばし浸ってみたいかな...と思いました。
(2023年12月刊。1980円)

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2024年6月28日

祝福二世

社会


(霧山昴)
著者 宮坂 日出美 、 出版 論創社

 安倍元首相を射殺した山上容疑者の裁判がようやく始まりそうです。
 統一協会のために一家が大変悲惨な状況に陥ったことから、その責任を追及すべく安倍首相を射殺したと伝えられています。もちろん私も、どんな事情があったとしても、「元首相暗殺」という手法を肯定するつもりはまったくありません。ただ、統一協会が昔も今も日本社会に多大な害悪をもたらした(もたらしている)団体、エセ宗教団体であることは間違いありません。
 著者は統一協会の解散命令には反対のようですが、私は、一刻も早く政府は解散命令を出し、税法上の特典なんか統一協会から奪うべきだと思います。
 それにしても、山上容疑者の母親は、今なお現役の信者のようです。本当に怖いことです。「洗脳」とは、こんなにも人間を変えてしまうものなのですね...。まともな判断力を奪ってしまう怖さです。
 この本の著者も長く統一協会の信者として活動していて、今でも信仰を捨てたとしながら、この本の最後に「今は味方が少ないからこそ、統一協会を応援したいと私は思っている」と書いています。信じられません。
 著者は、あるとき突然に統一協会を脱会したというのではないそうです。いくつかの出来事があって、次第に疑問がふくれ上がっていったとのこと。
 その一つが、「祝福結婚」の実態です。韓国の結婚できない若い男性が日本人女性と結婚できると思って申し込むのです。その実例の日本人女性の話を著者は会って聞いたのでした。男性は信者でも何でもありません。片方が信者ですらない「祝福結婚」が存在することを知って、「祝福結婚」への意欲を完全に見失った。そして、それは「祝福二世」として生きつづける意味が崩壊したことも意味した。まったくショックだったと思います。
 次に、文鮮明が、あわれみの涙をこぼした話。ある日本人信者が、寄付集めの物品販売を7年も続け、その間に新しい下着を買うことすらできなかった。それを聞いた文鮮明は「かわいそう」と泣いたという。しかし、著者はそれは違うと考えたのです。むしろ、堂々と、ほめたたえるべきではなかったか...。
 「万物復帰」という物品販売・寄付金集めは、「救い」になるというのではなかったか...。文鮮明が「あわれみを感じて泣いた」というのは、「自己洗脳」が足りていなかったということではないか...。
 日本人の信者には厳しい献金ノルマが課されるのに対して、韓国人信者には、そのようなものはない。日本人の著者からみると、韓国人は「選民」としてあぐらをかいているだけ。
統一協会の信者として活動するなかで、著者は自分の頭で考えることができなくなった。それは自己中心的だとして批判の対象にされるから...。
 統一協会での物品販売活動は「堂々と嘘をつく」ことが基本。こんなのを「宗教」と呼んでいいのでしょうか...。
 自民党議員の秘書には今も少なくない統一協会の信者がいて、彼らは相互に連絡をとりあっているとみられています。そんな秘書をかかえた自民党議員が、今なお夫婦別姓の実現を阻止しているのです。ひどい話です。
 著者が出会った信者たちは、もともと真面目な、真面目すぎるほどの人たちがほとんどだったと思います。そのような人々を大切にすることは理解できますが、元凶である統一協会に「味方」するというのは、ぜひ考え直してほしいです。
 なお、私は、「統一教会」という略称は間違いなので、使いません。教会ではないのです。
(2024年3月刊。1800円+税)

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2024年6月27日

魔都上海に生きた女間諜

中国


(霧山昴)
著者 高橋 信也 、 出版 平凡社新書

 上海には、20年以上も前に2度ほど行ったことがあります。当時もビル建設ラッシュでしたが、外壁づくりの足場が竹製だったのには驚きました。そして、まさしく人海戦術で高層ビルがつくられていました。ともかく上海は巨大都市、しかも超近代的なビルが林立していました。ここは社会主義でも共産主義でもなく、まごうことなき資本主義の国だと実感したものです。
 この新書は、戦前の上海で母を日本人とする若い女性がスパイとして活躍していて、ついには日本軍によって処刑されてしまうという悲劇の人生を浮き彫りにしています。
 当時、心ある中国人の青年は日本軍の横暴さを許せなかったと思います。でも、それを表立って言ったりは出来ません。それで、人知れずスパイ活動をする青年男女も少なくなかったのだと思います。
 戦後、日本の国会議員にまでなった李香蘭こと山口淑子は、両親とも日本人ですが、父親と親交のあった中国人(藩陽銀行の頭取の李際春)の養女となって、「李香蘭」として歌手・映画俳優になったのでした。
 本書の主人公は、李香蘭より6年ほど早く生まれています。父親は日本に留学中に日本人女性と親しくなり、女性を中国に連れて行き、娘は当時の中国人女性として珍しい高等教育を受け、その美しさから上海では有名な女性となったのでした。日本語もできて、社交的で聡明なことから、国民党CC団のスパイとして活動するようになります。
 当時の上海は日本が全面的に支配することのできない大都会でした。租界として、欧米各国の勢力も無視できなかったのです。
鄭蘋如がスパイとして活動したのは、わずか2年半あまりという短い期間です。そして、その間に、ときの日本首相・近衛文麿の息子・近衛文隆と恋愛関係になったのでした。そして、このことを日本側が知ると、無理矢理、文隆を日本に引き戻してしまったのでした。双方にとっての悲劇だったようです。文隆は、その後、シベリアに抑留され、そこで病死したように思います・・・。
 当時の上海には10万人もの日本人が生活していた。そして、鄭蘋如は、和平派の日本人グループと深く交流していた。
彼女の処刑に至るまでには、日本軍の判断が深くかかわっていた。
当時、上海は、常に中国の政治の象徴的存在だった。1930年代の上海の人口は360万人。ユダヤ人も2万人が住んでいた。フランス租界の警察署長は青幇(チンパン)のボスであり、租界の影の実力者だった。
父親は、日本留学から戻ると、一貫して国民党員であり、抗日意識をもった法務官僚だった。
 鄭蘋如は、上海法政学院に入学し、23歳のとき、上海のグラフ雑誌の表紙を、その顔写真が飾った。なるほど、いかにも近代的な美人です。知的雰囲気にみちています。
 日本軍が設立した放送局のアナウンサーとしても働いたことがあります。
 鄭蘋如を「コミンテルンのスパイ」とした本もあり、当時の上海の混沌とした状況をうかがわせています。
1940年2月半ば、鄭蘋如は日本軍によって、上海郊外で処刑された。
母親は台湾に去り、そこで死亡。妹はアメリカへ移住。
ここにも悲劇の一つがありました。
(2011年7月刊。860円+税)

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2024年6月26日

治安維持法小史

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 奥平 康弘 、 出版 岩波現代文庫

 治安維持法は1925(大正14)年に制定された。そして1928(昭和3)年に、緊急勅令で大きく改正された。このとき、「死刑または無期」とされ、「目的遂行罪」が導入された。
警察犯処罰例の浮浪罪(徘徊罪)、そして行政執行法の予防検束が治安維持法と一体として運用された。
 容疑者を逮捕するけれど、起訴して裁判にかけるという正式手続きには進めず、身柄を拘束し続けるといいうのが圧倒的に多かった。したがって、治安維持法は刑事法というより、検察や警察にとっての行政運営法とでもいうべきものだった。
ということは、治安維持法によって、何人が起訴されたかというのは氷山の一角にすぎないことになって、その数字で状況が分かったつもりになってはいけないということです。
 さらに、特高・内務官僚という伝統的な権力者とならんで、思想検察という新しい名を冠した司法官僚が登場し、決定的に重要な担い手になった。
 1941年に全面改訂された新しい治安維持法は、第一審判決に控訴を認めず、上告しかできないとした。三審制ではなく、二審制としたということ。
 さらに、予防拘禁制度が導入された。非転向者が出所してきたときの「再犯」の可能性を当局は心配した。そこで、非転向者については、刑期満了しても「再犯」の可能性ありとして拘禁し続けられるようにした。
 企画院事件は、治安維持法というのは、権力者が政治目的をもって利用しようと思えば、いかようにでも利用できる、便利な法律だった。
 治安維持法の怖さをひしひしと感じることができました。
(2017年6月刊。1360円+税)

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