弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年8月17日
高所綱渡り師たち
人間
(霧山昴)
著者 石井 達朗 、 出版 青弓社
30年以上も前のことですが、ナイアガラの滝を、アメリカ側とカナダ側のそれぞれから2回、訪れたことがあります。大変なスケールの滝で、圧倒されました。この滝にロープを渡して綱渡りをした人が何人もいるようです。
一番最初は、1859年6月30日で、フランス人のブロンディン。
峡谷の幅は335メートルあり、そこに396メートルのロープが設置された。ロープは直径8.3センチの麻綱。ロープの巻き上げ機などない時代なので、人力で張ったので、ロープの中央部分は陸地に固定された箇所より15メートルも低かった。つまり、ブロンディンは、水面から53メートルの高さからロープを歩き始め、38メートルの高さまで、ロープを下っていく。そして、そのあと、再び53メートルの高さまで昇る。
バランス棒は長さ11.6メートルある。ブロンディンは身長163センチ、体重は63キロ。安全対策など何もなく、命綱はない。バランス棒だけが命の綱。行きは15分、帰りは7分で渡り終えた。見物人は8千人ほど。収入は250ドルであり、ロープ代だけで350ドルかかったので、完全な赤字。それでもナイアガラの滝で綱渡りした男として高く評価された。世間は、ブロンディンが単なる奇人・変人ではなく、畏怖すべき曲芸師だと認めた。
女性もナイアガラの滝の綱渡りに成功している。イタリア生まれのマリア・スペルテリーは1876年7月、23歳の若さだった。ロープの上を後ろ向きに歩いたり、目隠しをしたまま歩いたり、また桃を入れるバスケットを足に固定させたり、いろいろな技も見せている。
バランス棒はロープが揺れたときに身体のバランスを保つために必須のアイテム。バランス棒なしの、素手で渡るのは不可能ではないが、相当に難易度が上がる。日本の曲芸師は、棒をもって渡るのを「カンスイ」といい、手に何も持たないで渡るのは「素渡り」という。
曲芸師が、ロープからわざと落ちて、とっさに片腕でロープをつかみ、ロープにぶら下がる。そして、やおらロープの上に体を持ち上げ、ロープに座る。
野外の高所での綱渡りする者にとって、予期せぬ突風は最大の敵となる。ワイヤーの質、その設置方法、バランス棒、綱渡り師の体調など、すべてが完璧であったとしても、予期せぬ突風に突然襲われたら、大変危険。うむむ、こればっかりは自然の脅威ですからね...。
「七人のピラミッド」を演じている様子の写真がありますが、見るだけでハラハラさせます。
七人は文字どおり運命共同体。ワイヤーの上に四人、その上に二人、その上に一人。
三層で、「四一二一一」という体勢をつくる。一本のワイヤー線の上に全員が乗っているので、一見すると平面的。しかし、生で見ると、いかにも立体的。七人全員が長く両端がしなっているポールを持っている。七人のバランス棒は、七本が同じように動くのではない。各自が自分の体のバランスと自分の位置でのバランスを微妙に調整し、かすかに波打つようにポールを揺らしながら進行する。いちばん上の女性は、椅子の上に座ったままポールでバランスをとっている。
この芸を17日間に38回もやり遂げた。すごいですね。1997年のことのようです。
2001年、倉敷チボリ公園では、「八人のピラミッド」を成功させたのでした。いやあ、信じられません。私は、現地で、観たくなんかありません。だって、生(なま)だと、失敗したのを目撃しかねないじゃありませんか。目の前で人が死んだり、大ケガしたりするのを見るなんて、私には耐えられません。
9.11でテロ対象となった世界貿易センターも高所綱渡りの場になったようです。いやはや、なんと恐ろしい...。よくぞ調べあげたものだと感心しました。
(2025年4月刊。3740円)
2025年8月16日
本ができるまで(増補版)
社会
(霧山昴)
著者 岩波書店編集部 、 出版 岩波ジュニア新書
私は地下鉄の電車の中で携帯電話で通話ができることが不思議でなりません。電波って、コンクリートも鉄も瞬時に通過するようですが、理解できないのです。同じように、カラー印刷ができるのも不思議です。いったい、絵の具を誰が、どこで、どうやって混ぜて多彩な色彩を再現できるのでしょうか...。
黒一色の印刷なら分かります。極小の点々に分けてしまえば、印刷できるというのは理解できます。でも、カラー印刷となると、色を混ぜあわせるわけですが、その仕方がとても理解できないのです。多色刷りの版画なら、きちっと紙をおさえて何回も重ね塗りすれば出来あがるというのをテレビで見ましたし、理解できました。
この本は、色再現には加法混色(かほうこんしょく)と、減法混色(げんぽうこんしょく)の二つの方法があるとしています。これは絵の具を混ぜるというのとは、根本的に違うもの。CMYK(Cはシアン、Mはマゼンタ、Yはイエロー、Kは黒)の各色について、網点(あみてん)と呼ばれる小さな点のパターンを生成し、それらを重ね合わせることで、色調を再現する。
ということは、木版画と同じように何回も上から塗っているということなのでしょうか...。誰か教えてください。
ルネサンスの三大発明は、火薬、羅針盤、活版印刷。このどれもが中国または朝鮮半島に起源がある。なるほど、1300年代に高麗で金属活字を使って印刷された本が今も残っている。すごいことですよね。
活字に用いた金属は鉛。この鉛には、炉から出た瞬間に固まるという特性があり、この性質を生かしている。
溶けやすく、固まりやすく、かつ硬い金属。グーテンベルクは鉛にいくつかの金属を混ぜあわせて金属活字をつくり出した。そして、油性インキもつくり上げた。
現代日本では、1年間に32万トンものインキを消費している。
近代日本で、大量印刷物として出回ったのが、大正14(1925)年に創刊された『キング』。これは創刊号75万部、最盛期100万部というのですから、すごいものです。
オフセット印刷は、多色グラビア輪転機がつくられて始まった。
インキの厚盛りが可能となり、豊富な色調再現が可能となった。塗り重ねているということでしょうか...。
かつて印刷所には、金属の活字がたくさんありました。私も見たことがあります。それを取り出して、組み込むのです。その仕事をする人を文選(ぶんせん)工といいました。そして、植字(「しょくじ」と一般には読みますが、印刷業界では「ちょくじ」と読むそうです。初めて知りました)します。
今では、みんなインターネット(パソコン)にとって代わられています。
さて、本にするなら、背に接着剤を注入して、すぐに熱風で乾燥させなければなりません。雑誌は針金で閉じこみます。
今や電子ブックの時代です。私の書いた本もいくつか電子ブックになっています。この電子ブックも進歩していて、「Eペーパー」というのは、液晶画面のように光を発するのではなく、紙に印刷された文字と同じように反射式で人間の目に入ってくるそうです。
私が電子ブックを読まないのは、赤エンピツで傍線を引けないし、フセンを立てることができない、一覧性がないからです。
入院でもしたら、オーディオブックで落語か古典文学を聴くつもりです。でも、やっぱり紙の本が読みたいです。
紙製の本がなくなることはない。私の絶対的な確信でもありますが、この本でも再三強調されていて、意を強くしました。
(2025年4月刊。1320円)
2025年8月15日
幕末維新史への招待
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 町田 明広 、 出版 山川出版社
幕末の日本にやってきたアメリカのペリー艦隊と、その結果としての日米条約は、アメリカ国内での南北戦争(1861~65年)の直前のことだった。浦賀沖にペリー艦隊が来たのは1853(嘉永6)年6月のこと。翌1854年3月に日米和親条約が締結され、安政3(1856)年7月、総領事ハリスが来日した。ハリスとの交渉で安政5(1858)年6月、日米修好通商条約が締結された。
アメリカにとって、日本と関係を結ぶことは、太平洋横断航路における石炭補給地の確保、および捕鯨船員の救助という一石二鳥の策であった。日本は、まずは航路上の寄港地であって、日本との通商自体の優先順位は低かった。
ペリーがアメリカを出航(1852年11月)したときの大統領はホイッグ党のフィルモア。しかし、1853年3月、民主党のピアースが大統領になった。そして、1860年5月、幕府の使節たちがワシントンで会った大統領は民主党のブキャナンであり、同年11月には共和党のリンカンが大統領となっている。
文久3(1863)年6月の下関戦争のとき、アメリカの軍艦ワイオミング号は、南部連合軍の軍艦を追撃するために東アジア地域に派遣されていた軍艦であり、日本自体は赴任地ではなかった。
慶応3(1868)年1月、南北戦争が終了していたので、兵庫の開港にあわせて、アメリカのアジア艦隊に属する軍艦が日本近海に終結した。
ロシアのプチャーチンはアメリカのペリーに対抗するために派遣されたというのは間違い。そうではなく、ペリーが日本と結んだ条約と同じものをロシアにも得ることが目的だった。
文久1(1861)年2月、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬に軍事哨所を建設した。それは対馬の全島を獲得するまでの意図はなかった。対馬の良港に海軍の拠点を設置するのが目的だった。
明治政府にとって、千島列島の統治は、予想をはるかにこえる困難なものだった。千島列島に残留したアイヌはロシア語を母語とし、日本語はまったく分からない。しかも、彼らはロシア正教の信者だった。
この本を読んで最大の驚きは、幕府末期に、すでに欧米は海底にケーブルを敷設していたということです。ただし、まだ太平洋の海底には敷設されてはいませんでしたが...。それにしても、早くも大陸間で電話が通じていたのですね...。
もう一つの驚きは、沖縄です。もちろん、当時は、琉球です。琉球に王様がいたことは知っていますが、江戸時代の人々は、琉球人を「異国人」とみていて、日本人だとは思っていなかったし、琉球人も、自分たちは琉球人も、自分たちは琉球人であって日本人とは思っていなかったというのです。なるほど、そう言われたら、そうでしょうね。ただ、琉球人と日本人が全然別の民族だというのは、私はそうは思いません。
また、ペリーが、日本より先に琉球に寄港していたこと、ペリーは那覇に合計して5回も寄港していたというのは初めて知りました。
しかも、ペリーは、太平洋を渡って日本に来たのではなく、大西洋からアフリカのケープタウンを回って、シンガポール、次いで香港・上海を経由して琉球にやって来たのです。
面白いこと、知らないことが満載の本でした。
(2025年5月刊。1980円)
2025年8月14日
カナダ
アメリカ
(霧山昴)
著者 山野内 勘二 、 出版 中公新書
カナダには、かなり前のことですが、2回行っています。2回とも、ナイアガラの滝を見物しました。滝の内側にも見学路があって、レインコートを着ての見物でした。
トランプ大統領がカナダを見下した態度をとっていますが、カナダはアメリカと違って、とても治安が良く、安心して暮らせる街だと実感しました。
カナダは現代AI開発では世界最先端を行っている。
カナダは移民・難民に対して寛容で、人口増加率はG7の国では最大。カナダの人口4100万人(2024年)だが、今世紀末には1億人を突破する見込み。
カナダの食料自給率は230%。フライドポテト生産で世界最大は、カナダのマッケイン・フーズ社。世界の4分の1のシェアを誇っている。カナダは、キャノーラ(採種。なたね)油の生産量で世界最大。日本もカナダからナタネの80%を輸入している。
カナダは豚肉と豚肉製品を輸出する世界第3位の国。日本は輸出額で、トップ。
カナダの、とりわけアルバータ州は恐竜の化石の最大の発見(発掘)地。私も、ぜひ行ってみたいところです。
カナダは、ソ連、アメリカに次いで世界で3番目に人工衛星を設計・製造して、軌道に乗せた。
カナダは、AI開発でトップを行き、この分野でノーベル賞も受賞している。
カナダは量子技術の分野でも世界の最先進地。同じく光量子コンピューターも世界最先端にある。先に冷却は不要。光の周波数は高いので大量の情報を乗せて、高速処理ができる。
糖尿病治療薬のインスリンを発見したのは、トロント大学医学部の教授。
カナダのサーカス「シルク・ドゥ・ソレイユ」(太陽のサーカス)は世界的に有名だ。
カナダ人の4人に1人は、外国生まれ。カナダにいる留学生は105万人(2023年)。日本にいる留学生は、その4分の1の24万人。カナダ国内には、インド系カナダ人が180万人もいる。
日本とカナダは、もっと親密な関係になっていいものだと強く思いました。著者は、元駐カナダ大使です。
(2024年12月刊。960円+税)
2025年8月13日
わたしがナチスに首をはねられるまで
ヨーロッパ
(霧山昴)
著者 ミリアム・ルロワ 、 出版 新潮クレストブック
ベルギーをナチスが占領していた時代、ロシア系移民の若い女性、ただし2人の子をもつ母親がナチスの将校に背後からナイフを突き立てて殺そうとしたことで処刑された。しかも、絞首刑でも銃殺でもなく、斧(おの)で斬首された。
今、そんな女性がいたことはベルギーではすっかり忘れ去られている。女性の名前はマリーナ・シャフロフ・マルタ―エフ。ロシア系移民だけど、ベルギーに移り住んでいるので、フランス語を話す。
ナチス占領下のブリュッセルで、ひそかにモスクワ放送を聞き、スターリンの呼びかけに呼応したいと思って、反戦ビラを通りに貼ったり、ちょっとしたレジスタンスを試みたりしていた。
そして、ナチスの将校が刺され、犯人は逃走したまま捕まらない。そこでナチスは、期限までに犯人が検挙されないときは、ベルギー市民60人を処刑すると発表した。
マリーナは、この期限の前日、路上のナチスの将校を背後から襲って直ちに逮捕された。別の説では、マリーナは、ナチスの警察本部に自首した。前の説によると、マリーナはナチス将校を2回刺したことになる。後説では、1回目のナチス将校を刺したのはマリーナの夫のユーリとその仲間。いずれにしても、マリーナは犯人として捕らえられた。
ヒットラーは処刑せよと指示したが、ベルギーのナチスの大将はマリーナに2回も面会して、助命・嘆願まで勧めた。しかし、マリーナは決断と断った。
最初の事件発生は、1941年12月7日の日曜日の夜7時30分のこと。16日正午までに犯人が発見されないときには、「重大な報復措置が講じられることになる」と布告された。
拘束されている60人のなかには街の名士たち、司祭・医師・市の元助役も含まれていた。マリーナの母親がベルギー王妃に手紙を書いて恩赦を願い、王妃は同情してナチスに恩赦を求めた。そこで、ナチスの将軍はマリーナに会って、恩赦を与えるつもりなので、嘆願書を書くように促した。すると、マリーナは断った。
「自分は、もう生涯の仕事を終えてしまった。悲しんだり、怒ったりするには及ばない。死ぬのを恐れてはいない。死刑になって当然のことをしたのだから...」
占領下のベルギーのドイツ軍司令官、フォン・ファルケンハウゼン将軍も、できたらマリーナの処刑は避けたいと考えていた。ヒトラーの指示に逆らってもいい。それより、マリーナの処刑を知ったときのベルギー市民の心情を恐れていた。
マリーナはいよいよ処刑されることになり、別の刑務所に移された。そこから夫へ手紙を書いている。当然、子どものことをとても心配している。
「神様が子どもたちをお守りくださいますように。子どものただひとつの楽しみ、読書をさせてやってください。子どもたちには優しくしてあげてください。もう母親がいないのだということを忘れないように」
下の子は、まだ3歳だった。処刑前に、教誨(きょうかい)師がやってきて、まもなく処刑されることを告げた。それを聞いて、マリーナはこう言った。
「それほどうれしいことはない」
教誨師は驚いた。ふつうなら自分は無実だと泣き叫ぶのに...。マリーナは落ち着いて死んでいこうとしており、しかも幸せそうだった。
マリーナは、鈴をつけた天使たちが自分を待っている。天国での生活がどんなに素敵なものか、しゃべり続けた。そして、マリーナは、最後の料理、大きな茶色いケーキ、果物とミルクチョコレートとリキュールが混じりあったものを、最後まで美味しそうに平らげた。それから夫と息子たちへの最後のひと言を書き残し、鼻唄をうたい、お祈りをして、神父の両手にキスしたりした。
「今から8時後に私は死にますが、怖くはないし、少しも後悔はしていません。私の心は穏やかで、お行儀よく死んでいくつもりです。刑務所では泣いたこともありませんでした。ほとんどいつも心のなかに安らぎがあり、キリスト様がいたからです。私は天国で待っています。天国に行けるとすれば、ですが...」
処刑台でマリーナは、頭を処刑人に向けて、笑みを浮かべた。ジタバタすることはなかった。1942年1月31日朝5時5分すぎ。マリーナは斬首された。市民の反応を恐れて、この処刑は公表されなかった。
ベルギーに住むロシア系移民女性がナチス将校を殺害しようとした事件で斬首された事実を丹念に掘り起こした本です。その勇気ある行為、信念にもとづいて最後までぶれなかったことに、心の震える思いがしました。
(2025年5月刊。2530円)