弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ドイツ
2014年2月19日
「イエルサレムのマイヒマン」
著者 ハンナ・アーレント 、 出版 みすず書房
映画『ハンナ・アーレント』をみました。冒頭のマイヒマンが拉致され、トラックに連れ込まれるシーンは史実に即しています。
アイヒマン逮捕には、有名なヴィーゼンタールは関わっていないようです。『ナチス戦争犯罪人を追え』(ガイ・ウォルターズ。白水社)はアインヒマンがイスラエルのモサド(秘密諜報機関)に拉致されるまでの苦労話を明らかにしています。
アインヒマンは1960年5月11日、アルゼンチンで捕まり、1961年4月からイスラエルで裁判が始まり、1961年12月15日に終わった。そして1962年5月31日に絞首刑が執行され、6月1日には死体が焼かれて、その灰は地中海にまかれた。
先の本では、ハンナ・アーレントとは違った評価がなされています。アインヒマンは優秀なオルガナイザーであり、決して凡庸ではなかった。アインヒマンは自慢屋だった。アインヒマンのナチズムは苛烈なものだった。
モサドの人間も、アルゼンチンから連れ去るのを大変心配していたようで、やはり鉄の男たちも人間だったんだと思います。
また、アインヒマンがイスラエルに連行されてからイスラエル警察による尋問調書が本になっています(『アインヒマンの調書』、岩波書店、2009年3月)。その本によると、アインヒマンは凡人と関わらない人物だった。
アインヒマンは他人が苦しむのを見て快楽を覚えるサディストではなかった。
アインヒマンは、ほとんど事務所のなかで自らの仕事に専念し、結果として数百万人の人間を死に追いやった。一官僚として、アインヒマンは死に追いやられる人間の苦痛に対し、何の感情も想像力も有してはいなかった。
ハンナ・アーレントによる、この本は、初めアメリカの雑誌『ザ・ニューヨーカー』に5回連載され、大反響を呼びました。それは映画をみた人はお分かりのとおり、強い否定的な反応だったのです。
まだ出版されないうちから、この本は論争の焦点となり、組織的な抗議運動の対象となった。
著者のハンナ・アーレント自身もユダヤ人であることを表明しています。そして、ユダヤ人組織から強く批判され、抗議が集中したのでした。なぜか・・・。
ナチスのユダヤ人絶滅作戦にユダヤ人指導者が協力したことを明らかにし、それを問題にしたからです。
もし、ユダヤ民族が組織されず、指導者を持っていなかったとしたら、その犠牲者が600万人にのぼるようなことは、まずなかっただろう。ユダヤ人評議会の指示に服さなかったなら、およそ半数のユダヤ人が助かっただろう。
ただし、アンナ・ハーレントは、ユダヤ人指導者のナチスへの協力の事実をあげることで、アインヒマンを許したり、その罪責を緩和させているわけではありません。
検事のあらゆる努力にかかわらず、アインヒマンが「怪物」でないことは誰の目にも明らかだった。検事も判事も、アインヒマンは執行権力をもつ地位に昇進してから、まったく性格を変えたとする点では一致していた。アインヒマンが大量虐殺の政策を実行し、積極的に支持したという事実は変わらない。政治とは子どもの遊び場ではない。政治においては、服従と指示は同じものなのだ。
アインヒマンは、自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに何の動機もなかった。アインヒマンは、自分のしていることがどういうことなのか、全然わかっていなかった。まさに、想像力が欠如していた。
自分の頭で考えることの大切さを強く印象づける映画でした。
(2013年12月刊。3800円+税)
2014年1月 2日
HHhH
著者 ローラン・ビネ 、 出版 東京創元社
チェコのプラハでナチスの最高級指導者の一人が暗殺された事件を扱った小説です。
暗殺されたハイドリヒの生い立ちが語られています。
ハイドリヒは、ナチスのエリート部隊である親衛隊(SS)の指導者になります。
ハイドリヒは、陸軍中将に相当する親衛隊の集団的指導者に任命されたとき、まだ30歳だった。ハイドリヒが創設した組織のうち、もっとも悪魔的な「特別行動隊」は、特攻隊やゲシュタポのメンバーからなる親衛隊の特別部隊で、「敵性分子」を始末する任務をになう。共産主義者は言うに及ばず、あらゆる改草の有力者、反体制分子・・・。そして、すべてのユダヤ人。
そして、このハイドリヒを暗殺するため、ロンドンから二人のパラシュート部隊員が送り込まれた。そして、それを支援する人々。さらに、仲間を裏切る人間もいた。
この暗殺作戦に賛同しないレジスタンス指導者もいた。成功しても、その報酬が恐ろしいことになるからだ。
ハイドリヒの乗る車が市内にやって来た。暗殺犯が銃を撃つ。しかし、不発だ。別の男が爆弾を車に投げつけ、爆発する。しかし、ハイドリヒはケガをしただけ。
やがて病院に運び込まれ、見かけ以上に傷は深刻だということが判明する。そして、容態が急激に悪化して、死に至った。
その報復としてヒトラーは、リディツェ村を地国から消し去ることを命令し、大虐殺が始まった。
しかし、このリディツェの虐殺によって、ヒトラーはもっとも得意とする分野で、惨憺たる敗北を喫した。国際レベルの宣伝戦争において、とり返しのつかない失敗を犯した。1942年6月のこと。
緊張感あふれる小説です。少し、変わった構成で話は進行していきます。
(2013年8月刊。2600円+税)
2013年9月10日
目撃者
著者 エルンスト・ヴァイス 、 出版 草思社
麻生元首相が、ナチスがワイマール憲法を静かにナチス憲法に変えていった教訓に日本も学べと講話したことが大きく報道されました。
ヨーロッパをはじめ世界からはなんて非常識な発言だと糾弾されましたが、安倍内閣は本人がすぐ撤回したので問題なしとし、日本のマスコミもあまり騒ぐことはありませんでした。こうやって改憲への足慣らしがされていくのか思うと、寒気すら炎暑のなかで覚えてしまいます。この本は、まさしくヒトラーが政権を握るまでに起きたことがテーマとなっています。
この小説のすごいところは、ヒトラーが第一次世界大戦で負傷し、失明した兵士となり、精神科医による治療によって再び目が見えるようになったという実話をもとにしているところです。
1918年10月、ベルギー戦線でイギリス軍のガス攻撃を受けて負傷したヒトラー上等兵は、北ドイツの野戦病院に運び込まれた。患者をみたフォルスター医師は「ヒステリー症状を伴う精神病質者(いわゆる性格異常者)」と診断した。フォルスターは、ヒトラーに睡眠治療を施して、眼が見えるようにしたばかりか、「君は救世主キリストだ。ドイツを救うのは君しかない」と強烈な暗示かけて娑婆に戻した。そのあと、ヒトラーは、それまでとはまったく別人のようになって強烈なカリスマ性を発揮し、誰もが知るような独裁者への階段を駆け上がっていく。そして、ヒトラーの過去の秘密を知るフォルスターは1933年にナチスが政権をにぎると、ゲシュタポに狙われ、同年9月、追いつめられて自殺した。ところが、フォルスターは、自殺する前、パリに逃れ、そこでユダヤ系亡命作家サークルにヒトラーの診断書を託した。
この小説は、このときのヒトラー・カルテをもとにしているのです。
彼にとって、この戦争は大歓迎だった。彼自身を救うばかりか、世界を救うことでもあった。彼は、ウィーンで貧しい画家志望の学生だった。食い詰めたときには、建築現場でペンキ屋の仕事をした。彼は、路上生活者となり、ときどき「気のいいヤクザのあんちゃん」や、住む家のないさすらい人から、わずかばかりの小銭やパイのかけらを恵んでもらっていた。
ヒステリー性の失明に見舞われた人間の運命は、常に過酷きわまるものである。ひとに認められたいと望む、この男の自己顕示欲、自分は上だと思い込む自己陶酔、そして過激なエネルギー、こうした要素とこの男がかかえる苦しみをつなぎ合わせて、一筋の道を見つけ出し、それによってこの男を病気から救い出してやろう。運命をあやつり、神を演じ、そうして一人の眠れない失明者に再び視力と眠りを取り戻してやった。
悲しいかな、このころワイマール政府の頼みの綱は将校団しかなかった。というのも、本来、共和制を支えるべき労働者たちが、かたや保守・自由・ブルジョア派に、かたや革命・プロレタリアアート・インターナショナル派に分裂してしまい、一致団結して政府を支えようとしなかった。
この将校団のうながしにより、軍隊に所属する者たちには選挙権が与えられず、共和制党および革命政党の党員になることも禁じられた。あの偉大なる11月の無血革命は、将校団のあいだでは、ただの屈辱、敵前逃亡、敗れざるドイツの背筋に突き刺された亡者でしかなかった。
ひとは、容易にだまされてしまうものだ。
1923年11月の一揆が勃発した。国防軍は、Hの組織するこの反乱は、自分たちに有利に展開するだろうと信じていた。また、保守的なブルジョア層やフォン・カールのような高級官吏たちは、Hに資金援助してこれを影で支えていたが、彼らは能天気にも、この反乱が反革命を呼びおこし、古きなつかしき王家が復活するだろうくらいに思っていた。だが、Hの思惑は、まったく自分本位のものだった。だれもHは、そこまでやるとは思っていなかったし、恐らくH本人もそこまでやれるとは思っていなかっただろう。二度までも軌跡を起こすことになろうとは・・・。
ヒトラーの権力掌握の愚を日本でくり返しては絶対にいけません。その意味で、麻生元首相の講話は反面教師とすべきものと考えます。
(2013年5月刊。2800円+税)
2013年6月15日
コリーニ事件
著者 フェルディナント・フォン・シーラッハ 、 出版 東京創元社
日本とはかなり異なる弁護士事情です。私は弁護士生活40年になりますが、刑事裁判で無罪判決をもらったのは、たったの2件しかありません。うち1件は検事控訴されることなく一審で無罪が確定した詐欺事件でした。もう一件は検事控訴されて二審は逆転有罪となり、最高裁で有罪が確定した公選挙違反事件(演説会の案内ビラを配布したのが戸別訪問とみなされた事件です。こんなのが罪になるなんて、公選法のほうが間違っていると、今も考えています)です。残る事件は、いわゆる情状弁論を主とするものばかりです。したがって、ドイツ流に言うと、私は「勝てない弁護士」ということになりそうです。でも、本人も周囲もそんなふうには思っていません。
この本は、ドイツの現職弁護士が書いた殺人事件の顛末を描いた推理小説です。ですから、ネタバレは禁物です。とは言っても、少しだけ紹介します。
弁護士は新米で、法廷での手続もよく分かっていません。
経済界の大物経営者が突然、見知らぬ男に殺害されてしまいます。男は殺害後、すみやかに自首します。そうすると、弁護人として一体何ができる、何をするのでしょうか・・・。
この本のオビによると、「ドイツでは35万部突破!」ということです。
殺人行為を被告人が否定せず否定する意欲もないとき、そのとき、弁護人は何をしたらよいのか・・・。
実は、被害者は元ナチスの高官だったのです。そして、この本の著者も有名なナチス高官のシーラッハの3世です。そうなんですね。ナチス高官の3世たちが今のドイツで活躍しているというわけです。ヒトラー暗殺未遂で首謀者だったドイツ国防軍の高官の3世も紹介されています。
ドイツでこの本が35万部売れたというのは、それだけナチス・ドイツが単なる過去の問題ではないことを意味しています。ひるがえって、日本ではどうなんでしょうか、過去への反省があまりにも足りないように思います。安倍さんのように開き直りが目立ちすぎますよね。これでは国際社会に受け入れられません。日本が侵略戦争したことをきちんと反省してこそ、日本の生きる道はあるのです。それは自虐史観などと言うものでは決してありません。加害者は忘れても被害者は忘れないのです。
(2013年4月刊。1600円+税)
2013年5月30日
戦時下のベルリン
著者 ロジャー・ムーアハウス 、 出版 白水社
ナチス・ドイツ支配下のベルリンの市民生活を詳しく紹介した本です。
ベルリンには、最後まで少なくないユダヤ人が隠れ住んでいました。それも、ベルリンに革新的な土壌があったからだというのです。ナチス・ヒトラーの一色で染めあげられていたのではなかったというわけです。
戦時中のドイツで、1万2000人ほどのユダヤ人が地下に潜ったと推定されている。その大部分は、匿名性を保つのが容易な大都市に隠れた。左翼的・自由主義的伝統と、ユダヤ人が定住した歴史のあるベルリンが生きのびる最大の機会を提供した。地下に潜ったユダヤ人の半分、7000人ほどが首都ベルリンにいたと考えられている。
潜ったユダヤ人は、自分の外観を代えるのが急務だった。地下の生活の黄金律は、「だらしない身なりをしないこと」で無精ひげを生やしていたり、襟が垢だらけだったりすると、必ず人の注意を惹く。生きのびるためには困難な状況にもかかわらず、自信にみちた、「普通の」態度をしていなければならなかった。
ユダヤ人の「潜水夫」は雄々しい自助努力をしたけれど、ほとんどの場合、アーリア人の協力者にすっかり頼っていた。独りの逃亡ユダヤ人を助けるのに、平均7人のドイツ人の協力が必要だった。
ユダヤ人女性で、ナチスのまわし者になって逃亡ユダヤ人を密告してまわったシュテラという人物が紹介されています。ゲシュタポはシュテラとの約束を破り、両親をアウシュビッツに送り、シュテラも捕まった。しかし、戦後まで生きのび、1994年、シュテラは72歳で自殺した。うむむ、裏切り者は必ずいるものなんですね・・・。
1943年夏、ベルリンには40万人もの外国人強制労働者がいた。ベンツ、AEG、ボッシュ、ジーメンス、ドイツ鉄道で働いていた。労働者はヨーロッパ各地からやって来た。10万人がドイツ軍占領地区から、かつてのソ連軍占領地区からやって来た。占領下のフランスから6万5000人、ベルギーから3万人、オランダとポーランドからも同数が来た。
ベルリンの外国人労働者の3分の1は西ヨーロッパから来た。その3分の1は女性だった。「東労働者」が病気だと申出るのは、自殺の遺書を書くのに等しかった。
1941年秋、ベルリンのゲットーのは20万人のユダヤ人が押し込まれて住んでいた。
大部分のベルリン市民は、ホロコーストの陰惨な真実を、たとえ知っていたとしても、信じるのは難しかっただろう。信じたがらないことが多かった。ある人種が「工業規模」で組織的に殺されるというのは、大方の人間の想像力をこえていた。そんなことは信じがたいという気持ちが蔓延していた。それは本当にそうなんだろうなと私も思います。
ラジオのもつプロパガンダの側面は、ナチにとってきわめて重要だった。1938年に始まったイギリスBBCのドイツ語放送に、多くのドイツ人は自国の放送より高く評価していた。ドイツ人の3分の2が外国放送を定期的に聞いていると推定された。
ゲシュタポの絶頂期でさえ、ベルリンにいた工作員とスパイは800人をこえなかった。450万人の都市において、1人のスパイが5600人のベルリン市民を相手にしていた。
ベルリンはナチスの第三帝国に対する抵抗の中心だった。自由主義的、コスモポリタン的性格をもち、ユダヤ人が大勢住み、伝統的に左翼の稜堡であったベルリンは、ナチにとって有利な選挙区ではなかった。ヒトラーに投票した人は全国平均を下回った。ナチが選挙で大躍進した時でさえ、いくつかの地区では一般の投票数の半分しか得られず、ベルリンのナチが獲得した投票数は合計の3分の1以上には達しなかった。ただし、多くの普通のベルリン市民にとって、しっかりと組織化された抵抗運動に加わるのは、自殺に等しいと思われていたに違いない。
1943年2月、首都に残っていたユダヤ人が一斉に逮捕された。そして、ユダヤ人の夫をもつアーリア人の妻たちが抗議に集まった。600人から1000人の女性が、「私達に夫を返して」と叫んだ。ローゼン通りに何時間も、毎晩毎晩、壁のように立って叫んだ。そして、ついに一週間後、「特権的ユダヤ人」つまり異人種間結婚していたユダヤ人たちは家に帰された。ローゼン通りで自由になったのは1800人。1943年のドイツ、ベルリンで公然と抗議の示威行動があり、要求を勝ちとったというのは驚くべきことだ。
ベルリンは英国空軍から大空襲を受けたが、ドイツの民間人の士気は、それほど失われなかった。広い並木道と石造りの大通りは簡単には燃えなかった。それでも、ナチに抱いていた信頼感が次第に薄らいだのは確かだった。
1943年、スターリングランドの敗北のあと、ベルリン市民は無気力状態に陥り、なんとかして戦争を生きのびたという単純な願望になった。
1945年4月、ベルリンをソ連赤軍が占領した。ソヴィエト兵によって強姦された女性は13万人をはるかにこえると推測されている。強姦された女性の1割が自殺した。1946年にベルリンで生まれた子どもの5%がロシア人の子どもだと推定されている。
多くのベルリン市民は、戦争の経験とナチ体制と共犯関係にあったことで、すでに傷ついていたので、輪をかけた屈辱を受けいれるのが難しかった。
戦争というのは、まことに多面的な状況をうみ出すものだと痛感させる本でもありました。
(2013年3月刊。4000円+税)
2013年4月 6日
深い疵(きず)
著者 ネレ・ノイハウス 、 出版 創元推理文庫
本の扉にあらすじが紹介されています。推理小説ですから、ネタバレは許されませんが、以下は扉にあるものですから許されるでしょう。
ドイツ、2007年春、ホロコーストを生き残り、アメリカで大統領顧問をつとめた著名なユダヤ人の老人が射殺された。凶器は第二次大戦記の拳銃で、現場に「16145」という数字が残されていた。しかし、司法解剖の結果、遺体の入れずみから、被害者がナチスの武装親衛隊員だったという驚愕の事実が判明する。そして、第二、第三の殺人が発生、被害者らの隠された過去を探り、犯行に及んだのは何者なのか。
刑事オリヴァーとピアは幾多の難局に直面しつつも、凄然な連続殺人の真相を追い続ける。ドイツ本国で累計200万部を突破した警察小説シリーズ・開幕!
ドイツには今もネオ・ナチがうごめいているようです。でも、日本だって同じようなものですよね。安倍首相なんて、戦前の日本への回帰を臆面もなく言いたてていますので、ドイツを批判する資格もありません。
それにしても、ナチス親衛隊員が戦後、ユダヤ人になりすましていたなんて、信じられません。そして、残虐な殺人劇が続いていくのです。
警察内部の人間模様も描かれていますが、やはり本筋はナチス・ドイツの残党が今なおドイツ国内でうごめいていることにあります。
読ませるドイツの推理小説でした。
(2012年7月刊。1200円+税)
2013年2月20日
ヒトラーの国民国家
著者 ゲッツ・アリー 、 出版 岩波書店
経済的側面からみた、ヒトラーとドイツ国民の「共犯関係」の歴史、というサブタイトルがついています。
この本を読むと、ヒトラー・ドイツが多くの国民の支持を集めていた理由がよく分かります。ユダヤ人の財産を奪って国家の収入とし、それを一般国民に還元していたのです。そして、対外侵略戦争によって獲得した資産もドイツ兵士が故郷の自宅へ送り、多くのドイツ国民がそれを受けとり、楽しみにしていたというのです。
1933年にナチスが政権を掌握したとき、ヨーゼフ・ゲッペルスは35歳、ラインハルト・ハイドリヒは28歳、アルベルト・シュペーアは27歳、アードルフ・アイヒマンは26歳、ヨーゼフ・メンゲレは21歳、ハインリヒ・ヒムラーとハンス・フランクは同い年の32歳だった。ヘルマン・ゲーリンクが40歳だ。
戦争の最中、ゲッペルスは、指導的面々の平均年齢はナチ党の中堅層で34歳、国家中枢で44歳。ドイツは、今日まさに、若い人々によって指導されていると言えると断言した。
多くの若いドイツ人にとって、国民社会主義・ナチズムとは、独裁、言論封殺・抑圧を意味したのではなく、解放と冒険を意味していた。若い人々は、ナチズムを青年運動の延長とみなし、肉体的・精神的な反エイジング(老化対抗)を進めるものとみていた。
1935年、ナチス党のなかで指導的な役割をしていた20代、30代は、石橋を叩いても渡らないような慎重な人間を軽蔑しながら、自らを近代的・反個人主義的な行動型人間とみなしていた。「偉大な明日は我々のもの」と信じていた。
ヒトラーは、以前から侵犯を「たいした問題ではない」としていた。たちまち、あらゆる犯罪を受け入れさせてしまう原則、すなわち、「勝ってしまえば誰もそれを問題にしない」という原則を、ヒトラーは腹心の部下から次第に国民へと拡大浸透させていった。
ナチ指導部は、国民のあいだでの自動車の普及にはじめて手をつけた。そして、それまでなじみのなかった「休暇」概念を導入して休日を倍に増やし、さらに大衆観光旅行熱の発展の先鞭をつけた。
ユダヤ人などを除く、人種的に一体と定義された大集団に数えられたドイツ人の95%の人々にとって、国内をみる限り差別は減少していった。
ナチス・ドイツの宣伝において、戦争は攻撃を続ける「世界ユダヤ人」に対する「アーリア人の抵抗」として一貫して示された。「世界ユダヤ人」とは、まず第一にユダヤ人、第二にユダヤ人の縁戚者たる金権政治家、第三にユダヤ・ボルシエヴイキという、三重の姿形をとって世界支配を追求している。
1933年、失業者600万人という状況に直面したヒトラーがドイツ国民に約束したのは、一にも二にも「職」であり、とにかく働ける場の確保ということであった。
ドイツの税収は1933年から1935年に25%、金額にして20億マルク増加した。それと並行して失業対策支出が18億マルクも減少した。このとき、軍備景気でもうけた会社を対象とする税率が20%から40%に引き上げられた。
ナチス・ドイツ国家の崩壊瀬戸際の国家財政状態を、ユダヤ人の財産没収、強制移送、大量虐殺が支えた。ユダヤ人財産の正式な国有化は1938年からであった。
ドイツの国庫は、お金を必要としていた。政府はいかなる犠牲を払ってでも、国家の破産を国民に見透かされないように躍起になった。少しでも立ち止まったら、たちまち問題は顕わになったに違いない。
ドイツの大銀行の幹部たちは、強盗の主犯として働いていたわけではない。しかし、もっとも効果的な没収手続を保障する契約者、不可欠のオルガナイザーとして機能し、さらには隠匿犯にもなった。
ドイツ軍将兵は、ヨーロッパ占領地から、何百万という小包を故郷に送った。荷受人は女性である。北アフリカ産の靴、フランス産のビロードと絹製品、ギリシア産のリキュール、コーヒー、タバコ、ロシア産の蜂蜜とベーコン、ノルウェー産の大量のにしん、ルーマニア・ハンガリーそしてイタリアからの豊かな贈り物がドイツ国内に送られてきた。ドイツの食生活の高水準で維持するため、ユダヤ人の大量殺戮が促進していった。国家の収入となった家財道具とは、絶滅収容所へ強制移送されたユダヤ人のものだった。
ナチ政権は、最初はいかがわしく、やがて犯罪的になっていく手口の財政政策を展開することによって内政への支持を獲得した。1935年、ヒトラーは国家予算を公にするのを禁止した。
恐るべき真実だと思いました。しかし、この真実から目をそらすわけにはいきません。
(2012年6月刊。8000円+税)
2013年1月 2日
愛と欲望のナチズム
著者 田野 大輔 、 出版 講談社選書メチエ
ヒトラーがなぜ独身だったのか、自殺する寸前に愛人のエヴァ・ブラウンと結婚したのはなぜなのか。そして、ナチス・ドイツは禁欲的生活を国民に強いていたのか・・・。いろんな疑問を次々に解明していく本です。
ヒトラーは、女性について慰みもの以上の価値を認めていなかった。そして、恋愛や結婚も印象操作の道具程度のものと考えていた。
多くの女性が私(ヒトラー)に好意を寄せているのは、私が結婚していないからだ。闘争期には、これが重要だった。映画俳優と同じだ。彼に憧れる女たちは、彼が結婚したら何かを失ってしまい、もはや彼は偶像ではなくなる。
ヒトラーは、総統が民族に貢献する私心なき指導者であるというイメージを守るため、若い愛人の存在を国民の目から隠し続けた。
ヒトラーは、高潔さを装う偽善的な姿勢をとり続けた。ナチス・突撃隊の幹部が粛清された1934年6月30日の「長いナイフの夜」は、隊長のエルンスト・レームが同性愛者であることは周知の事実で、ヒトラーもそれをながく黙認していた。しかし、突撃隊と国防軍の対立が表面化したとき、ヒトラーは政治的理由からレームを切り捨て、道徳的純潔の擁護者になりすました。
「健全なる民族感情」の代弁者をもって自認したナチズムは、疑いなくヌードの氾濫を黙認し、奨励すらしていた。ナチズムは、社会生活にはびこるエロティズムをユダヤ人の責任に帰することで、ナチス自身がそれを促進していた事実を曖昧にしていた。
ナチス・ドイツでは婚前・婚外交渉が一般化していた。ナチ党が権力を掌握してから、警察は、街娼の摘発・逮捕を通じて「街頭の浄化」を進める一方、売春宿の営業を監視・規制することこそ警察の義務だとした。市当局も売春の存続に関心を払っていた。国防軍も売春宿を必要と認め、売春婦の逮捕は控え目にするよう求めた。
戦争が始まると、政府はただちに政令を出して売春の管理を強化した。国防軍は政令にもとづき、帝国全土および占領地域で軍用売春宿を次々に設立した。
「公的な不道徳」の撲滅を唱えて売春の一掃に乗り出すかに見えたナチズムが、結局のところ売春の封じ込めと組織化に舵を切った経緯は、道徳的に純潔な体制という外観を守りつつ、実際には性欲の充足を奨励して、これを国家目的に動員しようとする狙いを照らし出している。
ナチス・ドイツの支配の本質をえぐり出した本だと思いました。
(2012年9月刊。1800円+税)
2012年12月20日
ヒトラーに抗した女たち
著者 マルタ・シャート 、 出版 行路社
ヒトラーとナチス・ドイツに反抗した女性を紹介した本です。信念に生き、死をも恐れなかった女性の姿が光り輝いています。
1934年から44年までの間、ナチス・ドイツで1万1900人が処刑されたが、そのうち女性が1100人いた。1933年にナチ党員の中の女性は6%。全女性の1%にも満たなかった。
ヒトラーが政権をとると、女性国会議員は地位を失い、懲役刑や禁錮刑に処せられた。女性は、あらゆる公式の場から追放された。ヒトラーは、政治問題に首を突っ込むような女は、身の毛がよだつと公言した。女性には、選挙権も被選挙権も与えられなかった。そして、市民レベルの女性団体はすべて解散させられるか、ナチスに吸収された。
アメリカ人の女性ジャーナリストはヒトラーに会ったときの様子を、次のようにレポートしました。
彼は不恰好、ほとんどこれといった特徴がなく、顔立ちは戯画めいて、体は軟骨からできているような男だった。口から出まかせに矛盾したことをべらべらとしゃべり、気分にむらがあって落ち着きがなく、まさしく器量の小さい男の典型だった。
顔には、内的葛藤や自己抑制を経験した痕跡が皆目みられない。
眼だけは注目すべきものがあった。濃いグレーで、甲状腺痛みの典型的なもので、しばしば天才やアルコール中毒者やヒステリー患者の特徴である、特異な輝きを放っていた。答えるとき、質問者の顔を一度も見ず、部屋の奥に視線をすえて、うわの空ののような印象を与えた。
彼は劣等感をかかえている男である。劣等感を持った庶民とはうまがあう。
ヒトラーが政権の座につけば、政敵のうちでもっとも弱い者に襲いかかるだろう。
ヒトラーは、仮面をはががされる瞬間に、不安なり、不機嫌になる。そして、権力のある背後に、身を隠す。
1943年8月5日に処刑された女性、ヒルデ・コッピについて、教誨師が小さなカードに次のように書いていた。これを戦後、大きくなった息子が見つけた。
ヒルデ・コッピは人の心をうつ人物で、やさしく、繊細で勇敢で、まったく無私である。彼女は、人間による「恩赦」をあてにしなかった。
また、あるゲシュタポの警部は次のように語った。
被告人は、ユダヤ人にしても、道徳あるいは職業の面からいっても、質の悪い人間とは言えなかった。エリートであることが問題であったと言える。国家に対して彼らが抱いていた敵意は、事実にもとづいた動機によってしか説明できないもので、この印象こそ、ドイツ国内外の人々にきわめて用心深く隠しておく必要があった。
ヒルデ・コッピは保険会社に働く共産党員であり、妊娠中だった。刑務所で出産した8ヵ月後に処刑された。
1943年3月、ベルリンで何百人もの女性が集まり、自分たちの夫や家族であるユダヤ人の強制移送された抗議の声をあげた。ナチス親衛隊は、ベルリンの通りに集まった女性たちに機関銃を向けたが、撃つことはなかった。女性たちは、既に数多くの辱めや心配事、困難を経験ずみなので、全体主義的な政権の命令にさえ反旗を翻す覚悟ができていた。
ベルリンでは、結局、8000人ものユダヤ人が戦後まで生き延びた。
1943年2月、有名な「白バラ」グループが逮捕され、処刑されています。大学生グループです。3人は毅然たる態度を貫き、看守たちに感銘を与え、看守は3人に対してタバコを1本回して吸うあいだの面会を許した。そして、ゾフィー(女性)から先に斬首された。続いて、兄と友人も斬首された。
ゾフィー・ショルは、自分と兄が処刑されたあと、学生たちがこぞってヒトラーに対して起ちあがると固く信じていたが、彼女が期待した叛乱は起こらなかった。
かえって、学生たちは、足を踏みならして告発をした大学の用務員に賛意を示した。
そうなんですね、大衆はすぐには反乱に起ちあがらないものなんです。でも、やがて、自らの死でそれをあがなうことになります。その大半が戦場に行かされて・・・。
勇気ある女性の起ちあがりがあったからこそ、今ここに私たちが平和に生きているわけですよね。本当にありがたいことです。
(2012年3月刊。2800円+税)
2012年12月 2日
愛と欲望のナチズム
著者 田野 大輔 、 出版 講談社選書メチエ
ヒトラーがなぜ独身だったのか、自殺する寸前に愛人のエヴァ・ブラウンと結婚したのはなぜなのか。そして、ナチス・ドイツは禁欲的生活を国民に強いていたのか・・・。いろんな疑問を次々に解明していく本です。
ヒトラーは、女性について慰みもの以上の価値を認めていなかった。そして、恋愛や結婚も印象操作の道具程度のものと考えていた。
多くの女性が私(ヒトラー)に好意を寄せているのは、私が結婚していないからだ。闘争期には、これが重要だった。映画俳優と同じだ。彼に憧れる女たちは、彼が結婚したら何かを失ってしまい、もはや彼は偶像ではなくなる。
ヒトラーは、総統が民族に貢献する私心なき指導者であるというイメージを守るため、若い愛人の存在を国民の目から隠し続けた。
ヒトラーは、高潔さを装う偽善的な姿勢をとり続けた。ナチス・突撃隊の幹部が粛清された1934年6月30日の「長いナイフの夜」は、隊長のエルンスト・レームが同性愛者であることは周知の事実で、ヒトラーもそれをながく黙認していた。しかし、突撃隊と国防軍の対立が表面化したとき、ヒトラーは政治的理由からレームを切り捨て、道徳的純潔の擁護者になりすました。
「健全なる民族感情」の代弁者をもって自認したナチズムは、疑いなくヌードの氾濫を黙認し、奨励すらしていた。ナチズムは、社会生活にはびこるエロティズムをユダヤ人の責任に帰することで、ナチス自身がそれを促進していた事実を曖昧にしていた。
ナチス・ドイツでは婚前・婚外交渉が一般化していた。ナチ党が権力を掌握してから、警察は、街娼の摘発・逮捕を通じて「街頭の浄化」を進める一方、売春宿の営業を監視・規制することこそ警察の義務だとした。市当局も売春の存続に関心を払っていた。国防軍も売春宿を必要と認め、売春婦の逮捕は控え目にするよう求めた。
戦争が始まると、政府はただちに政令を出して売春の管理を強化した。国防軍は政令にもとづき、帝国全土および占領地域で軍用売春宿を次々に設立した。
「公的な不道徳」の撲滅を唱えて売春の一掃に乗り出すかに見えたナチズムが、結局のところ売春の封じ込めと組織化に舵を切った経緯は、道徳的に純潔な体制という外観を守りつつ、実際には性欲の充足を奨励して、これを国家目的に動員しようとする狙いを照らし出している。
ナチス・ドイツの支配の本質をえぐり出した本だと思いました。
(2012年9月刊。1800円+税)