弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ドイツ
2017年3月 8日
罪と罰の彼岸
(霧山昴)
著者 ジャン・アメリー 、 出版 みすず書房
1933年3月21日。ポツダムの日に、直前の選挙結果をかなぐり捨てて、ナチスに全権をゆずり渡したとき、ドイツ国民は喝采した。
ナチズムという妖怪は、未開の後進国で徘徊したわけではない。
言葉が肉体をとり、いかにひとり歩きして、やがてはどのような死体の山を築いたか。その一部始終をみてきたのだから・・・。人間焼却炉からの煙があれほど多くの墓を空に描いたというのに、またしても火遊びがはじまりかけている。私は火災警報を出そう。
著者はユダヤ人であり、ベルギーにおけるレジスタンス運動の一員として、ブーヘンヴァルト、ベルゲン、ベルゼン、そして、アウシュヴィッツで過ごした。
アウシュヴィッツ、モノヴィッツでは、手に職をもった者はそれまでの職業に応じて配属が決められた。ところが、知的な職業の者には事情がまったく別だった。ここでは、一介の肉体労働者にすぎず、労働条件においてきわめて不利だった。大学教授たちは、小声で教師と答えた。大学教授と答えて怒りを買いたくなかったから。弁護士は、しがない簿記係に変身した。
ジャーナリストは作家と言った。大学教授や弁護士たちは、鉄管や木材を背中で運んだが、いたって不器用だったし、体力がなかったから、やがて焼却施設へ送られていった。
強制収容所では、身体の敏捷さ、野蛮さと紙一重の関係の頑丈さがものをいった。
ともに、精神生活を何よりの糧としてきた人が、あまりそなえていない特性である。
そして、知識人の多くは、友人を見つけることができなかった。収容所スラング(方言)を口にしようとすると、全身が抵抗して、口が利けなくなるのだった。
アウシュヴィッツでは知識人は孤立していた。
これに対して、ダッハウでは、政治犯が収容者の多数を占めていたし、管理が政治犯にかなりの程度までまかされていた。ダッハウには図書室すらあった。
精神の社会的機能あるいは無能さという点で、ドイツで教養をうけたユダヤ知識人にとって、事態はさらに深刻だった。自分がよって立とうとする当の基準が、ことごとく敵のものだったからである。
ある男は職業を問われ、愚かにも馬鹿正直に「ドイツ文学者」と答えたばかりにSSの猛烈な怒りを買い、半殺しに殴られた。
ドイツ系ユダヤ人はドイツ文化を自分のものと主張できない。その主張を認めてくれる社会性を欠いていたからである。
戦場での兵士の死は名誉の戦死、収容所での死は家畜の死だった。収容所では死が義務づけられた。兵士にとって死は外から運命としてやってきた。収容所では、死は、前もって数学的に定められた解決策だった。
収容所のなかの人々は、死の不安をもっていなかった。ガス室送りの選別が予期された当日にも、人々はそれをさっぱり意に介さなかった。むしろ、その日のスープの濃度について、一喜一憂しながら語りあった。このように、やすやすと収容所の現実が死を打ち負かしていた。収容所では、死が恐怖の境界をこえていた。
強制収容所においては、精神はさっぱり役立たなかった。ただし、精神は、自己放棄のためには役立った。
ゲシュタポと強制収容所のなかでの2年あまりの生活において、サディストには一人も出くわさなかった。
拷問された者は、二度と再び、この世にはなじめない。屈辱の消えることはない。最初の一撃で既に傷つき、拷問されるなかで崩れ去った世界への信頼というものを、もう二度と取戻せない。
ドイツ人の多くは、ユダヤ人をめぐって起きていることを正確に知っていた。臭いをかいでいたのだから。
つい昨日、ユダヤ人の選別場で手に入れたばかりの衣服を着ていた。労働者も小市民も学者もヒトラーに票を投じた。
ユダヤ人であることは、初めから執行猶予中の死者だった。殺される人間であって、偶然しかるべき執行を受けていないだけ。さまざまな猶予の形があり、程度の違いがあるにすぎなかった。
ユダヤ人に対する侮辱の過程は、ニュルンベルク法の公布とともに始まり、当然の結果として強制収容所へと導いた。
1984年に刊行された本の新版です。ドイツ映画(2014年)『顔のないヒトラーたち』は、強制収容所にいたナチスの高官たちが戦後、何くわぬ顔で社会的地位について平然と働いていたことを暴き出す内容でした。
今の日本だって、黙っていたらアベ政治が危険な方向に流れていく気がしてなりません。
すごく読みすすめるのに骨の折れる重たい本でしたが、なんとか読み終えました。
多くの人に一読をおすすめします。
(2016年10月刊。3700円+税)
2016年12月12日
テレジン収容所の小さな画家・詩人たち
(霧山昴)
著者 野村 路子 、 出版 ルック
アウシュヴィッツに消えた1万5000人の小さな生命(いのち)というサブタイトルのついた絵本です。
アウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所で殺された子どもは1万5000人どころか、150万人といわれている。そんな子どもたちの怒り、悲しみ、夢、祈り、そして、生きたいという叫び・・・。生命のメッセージが伝わってくる。
ユダヤ人の子どもたちは、学校へ行くことを禁じられ、遊園地やプールからも締め出された。もちろん、これはヒトラーが叫び、権力を握って推進した政策ですが、それを支援したドイツ人大衆がいたわけです。いまの日本で、ヘイトスピーチをし、それに沈黙して、実は手を貸しているという人たちが少なくないことを考えると、おかしいことを権力者がしていると思ったら、すぐに抗議の声を上げないと大変なことになるということです。
いまの日本のアベ首相の手口はあまりにも恐ろしいと私は思うのですが、不思議なことに、年金を切り下げられている年寄りに支持する人がいて、非正規でしか働けず、明日への希望を失っている人が解雇の自由を促進しているアベ政権を支持しています。まさしく矛盾です。
収容所の食事。朝はコーヒーと呼ばれる茶色い水が1杯だけ。昼はピンポン球くらいの大きさの小麦粉の団子の入った、うすい塩味のスープ。夜は、同じスープと小さな腐りかけのジャガイモが一つか、かたいパンが1かけ。それが子どもたちの食事だった。
テレジン収容所の「子どもの家」にいた10歳から15歳までの子どもたち1万5000人のうち、戦後まで生き残っていたのは、わずか100人だけだった。
12歳の男の子の描いた絵があります。首を吊られた男性が描かれています。その男性の胸にはユダヤ人の印であるダビデの星が色濃く描かれています。
どうしてなのか、幼い彼にはその理由は理解できなかった。でも、胸にこの黄色い星のマークをつけさせられた日から、辛いこと、悲しいことが多くなったことだけは分かっていた。
この絵は、少年の大好きな父親が処刑される場面だったのかもしれない・・・。
テレジン収容所が1945年5月8日に解放されたとき、ドイツ軍が自分たちの蛮行を証明する書類を焼却していった焼け残りの書類の下に、子どもたちの絵があった。それを見つけた人が、トランク2つに詰めてプラハへ持ち帰った。子どもたちの絵が4000枚、詩が数十編・・・。それは、子どもたちがこの世に生きていた証だ。
今も、プラハの博物館に残されているそうです。ぜひ、現物をじっくり見てみたいと思いました。年齢(とし)とって涙もろくなった私は、涙なしには絵を見ることも、詩を読むことも出来ませんでした。私たちみんな、この事実を忘れてはいけないと何度も思ったのです。ヘイトスピーチなんて、許せません。
(1997年6月刊。2200円+税)
土曜日は午前中のフランス語教室を終えて、午後から天神の映画館でフランス映画『アルジェの戦い』をみました。「アタンシオン、アタンシオン」(注意して下さい、注意)という有名なフランス語のセリフが流れてきます。アルジェリアが戦後、フランスから独立するまでにおきたテロや暴動、そしてフランス軍による拷問、弾圧を生々しく再現した映画です。
実は、私は1967年(昭和42年)4月、渋谷の大きな映画館でこの映画をみたのです。大学に入ってすぐのことです。それまで九州の片田舎に住んでいて大東京に出て、何もかも目新しい生活を始めたとき、世界ではこんなことが起きているのかと、目を大きく見開かされました。
この映画は前年(1966年)にベネチア国際映画祭でグランプリを受賞したのですが、「反仏映画」だという批判も受けました。フランス軍による活動家への拷問シーンはたしかに凄惨です。
そして、昨年のパリ同時多発テロを思い出させる映画でもあります。相次ぐ爆弾テロ、車から連射して路上の罪なき市民を倒していくシーンなど、50年前の出来事が今よみがえってきます。
暴力に暴力で対処してはダメなんだと独立運動の指導者の一人が語ります。革命を始めるより、続けることが難しいし、成功したあとが、さらに難しいともいます。アルジェリアは独立後、実際にそのような経過をたどります。
一見に値する貴重な映画です。ぜひ、時間の都合がつけば、ご覧ください。
2016年12月 7日
ブラックアース(下)
(霧山昴)
著者 ティモシー・スナイダー 、 出版 慶應義塾大学出版会
ユダヤ人へのホロコーストの実情が刻明に掘り起こされています。
ユダヤ人の大量殺戮は、何万ものドイツ軍が3年にわたって何百という死の穴のうえで何百万というユダヤ人を射殺していた東方では、ほとんどの者は何が起きているのかを知っていた。何十万ものドイツ人が殺戮を実際に目のあたりにしたし、東部戦線の何百万ものドイツ人将兵は、それを知っていた。
戦時中、妻や子どもたちまでが殺戮現場を訪れていたし、兵士や警察官はもとより、ドイツはときに写真付きで家族に詳細を書いた手紙を送った。
ドイツの家庭は、殺害されたユダヤ人からの略奪品で豊かになった。それは何百万というケースではなかった。略奪品は郵便で送られたり、休暇で帰省する兵士や警察官によって持ち帰られた。
1940年6月にソ連に占領されたエストニアでは、1941年7月にドイツ軍がやってきたときに居住していたユダヤ人の実に99%が殺害された。これに対してデンマークでは、市民権をもつユダヤ人の99%が生きのびた。エストニアでは国家が破壊されたが、デンマーク国家は一度も破壊されなかった。ドイツの占領は、明らかにデンマークの主権をもとにして進められていた。デンマーク当局は、ユダヤ人市民をドイツに引き渡すのは、デンマークの主権を損なうことになると理解していた。
デンマーク人は、自国のユダヤ人をドイツではなく、スウェーデンに送り届けるために小型船隊を組んだ。ドイツ警察は、この企てを知ったが、留はしなかったし、ドイツ海軍も、眺めるだけだった。デンマーク市民は、同胞の市民を自分たちの国で救うのは犯罪ではないので、ほとんど身に危険を感じず、やってのけた。ドイツ警察が10月2日に急襲したときにも、デンマーク市民権をもった5000人のユダヤ人のうち481人だけしか捕まらなかった。
ドイツ当局は、収容所におけるユダヤ人の外見上は良好な状態を見せるプロパガンダ映画を製作するのに、デンマークからのユダヤ人を利用した。
なるほど、国家体制が残るっていうのは、こんな効果もあるのですね・・・。
国家が破壊された場所では、誰も市民ではなかったし、予想できるいかなる形の国家の保護も享受していなかった。ドイツの官僚制度はドイツのユダヤ人を殺害することはできなかった。ドイツのユダヤ人は、戦前からのドイツの地においては、ごくごく少数の例外を除いては、殺害されることはなかった。
市民権、官僚制度、外交政策が、ヨーロッパのユダヤ人全員を殺害せよというナチスの衝動を妨げた。
伝統的にルーマニアは、フランスの従属国であり、ルーマニアのエリート層はフランス文化に自己を重ねあわせていたし、フランス語が広く話されていた。
ヒトラーは、ルーマニア陸軍を重要視していた。ポーランドの崩壊後、赤軍に対抗するのに使える東ヨーロッパにおける唯一のまとまった数の軍隊だった。
ルーマニアは、1944年、ドイツに抗しながら終戦を迎えた。ルーマニアのユダヤ人の3分の2が生きのびていた。
ハンガリーでは、1944年になっても、80万人がハンガリー領内で生きのびていた。ブルガリアの支配の及んだ地域に住んでいたユダヤ人の4分の3が生きのびた。
イタリアは、反ユダヤなどの人種立法を通過させたが、ムッソリーニは、イタリアのユダヤ人を死の施設に移送することに何の関心も示さなかった。イタリアにいたユダヤ人の5分の4は生きのびた。
これに対して、領有者がかわった地域のユダヤ人は、たいてい殺されてしまった。
フランスのユダヤ人は4分の3が生き残り、オランダとギリシャのユダヤ人は4分の3が殺害された。オランダは、国家のない状態に近かった。国の元首はいなくなったし、政府は亡命してしまった。
生きのびたユダヤ人は、ほぼ全員が非ユダヤ人から、何らかの援助を受けていた。ドイツ人は、ある状況では救助者となり、別の状況では殺人者となった。
ホロコーストの実際が、とても詳細に分析されていて、大変勉強になりました。
この本を読みながら、つくづく歴史を学ぶ意義は大きいと痛感しました。
(2016年7月刊。3000円+税)
2016年10月28日
パナマ文書
(霧山昴)
著者 バスティアン・オーバーマイヤー 、 出版 KADOKAWA
パナマ文書は、世界のスーパーリッチたちが税金のがれためのインチキをしていることを暴露したものです。パナマの法律事務所の極秘文書が外部へ漏出したのです。
この本を読んで大変もどかしかったのは、日本人のスーパーリッチもいるはずなのに、本文では全然ふれてなく、解説にもありません。ぜひ日本人の関わりを明らかにしてほしいです。
国際金融の世界はオフシェア業界のおかげで潤っている。
世界中が一致団結してタックスヘイブンに向かって攻撃を仕掛けたら、さすがのオフシェア業界も存続の危機になるだろう。
銀行口座の情報が世界中で自動的にやりとり出来るようにすれば、オフシェア対策に有効だ。EUだけでも、毎年1兆ユーロが脱税と節税のために失われている。
スーパーリッチとは、自由に使える資産が50万ドル以上もっている人。ウルトラ富裕層というのは、少なくとも3000万ドル以上をすぐに投資に回せる人のこと。
たとえば、スペインで家を買うと、10%の不動産取得税がかかる。だけど、家ではなく、その家を所有する会社の株を買ったら、その税金はかからない。
富豪やスーパーリッチが暮らすもう一つの世界では、いくつもの大陸や国をさまたいで口座や株、家屋敷、プレジャーボート、その他の資産の一部をオフショアの仕組みを使って保有するのが当たり前になっている。ペーパーカンパニーを所有すること自体は、まったく合法だ。
世界中で社会が二つの階級に分かれている。ひとつは普通に税金を支払う階級で、もうひとつは、いつ、どのように税金を払うかを、あるいは払うか払わないかさえも自分で決め、そうするための手段も持っている階級だ。
このパナマの法律事務所は世界中のいかがわしい人物、といっても、その国の大統領や首相だったりするのですが、その裏金を預かる仕事をしていたようです。そのデータが、内部告発で外部へ流出したというわけです。CIA文書を流したスノーデン氏のような勇気ある人がいたのです。
おかしな世の中です。本当は拝金主義のくせに外部に向かっては愛国心を語るなんて許せませんよね。腹の立つばかりの本ではありました。決して、世の中、お金がすべてではない。みんなで叫んで、行動に移したいものです。
(2016年8月刊。1800円+税)
2016年10月27日
アウシュヴィッツの図書係
(霧山昴)
著者 アントニオ・G・イトウルベ 、 出版 集英社
アウシュヴィッツの絶滅収容所には珍しいことに一棟だけ家族収容所があり、ユダヤ人の子どもたち500人が生活していた。そこでは、大人が子どもたちに勉強を教え、本を読んでやり、話を聞かせていた。
そして、この家族収容所には貴重な本を扱う図書係の少女がいた。ナチスに見つかれば本の没収どころか、即、処刑される危険な係だ。しかし、そうでなくても絶滅収容所は毎日毎日が死と隣あわせの生活を余儀なくされていた。
図書係を担っていた少女はドイツの敗戦時まで生きのび、戦後も80歳まで長生きしたのでした。この本は実話をもとにした小説です。私は一日中、一心に読みふけってしまいました。電車のなかでは一切のアナウンスが耳に入らず、昼食のサンドイッチを食べるときも本から目を離さず、裁判所の廊下でも待ち時間ずっと読み続け、ついに読み終えたときには、もっと読んでいたかったと思いました。
アウシュヴィッツという世にも稀なる苛酷な状況のなかで13歳の少女が使命感に燃えて本を隠し、また本を読みふけるのです。それは悪臭にみちたトイレの片隅でもありました。
頁をめくる手がもどかしくなるほどスリリングな展開です。
アウシュヴィッツで固く禁じられているもの。それは銃でも、剣でも、刃物でも、鈍器でもない。それは、ただの本だ。しかも表紙がなくなってバラバラになり、ところどころのページが欠けている読み古された本。
小さいころのことはあまりよく覚えていない。いつも記憶によみがえるのは、平和な毎日には、金曜日に一晩コトコト煮込んだ、こってりしたチキンスープの香りがしたこと。そして、ロースト・ラムの味や卵とくるみのパスタの味もよく覚えている。なかなか終わらない学校、おぼろげにしか覚えていないクラスの同級生たちと、石けりやかくれんぼをして遊んだ午後・・・。そのすべてが消えてしまった。変化はいきなりではなく、徐々に始まった。しかし、子ども時代は、ある日、突然に終わった。
アウシュヴィッツで古株の囚人が新参者にきまって与える第一の教訓は、「生きのびることだけを目ざせ」ということ。大きな計画は決して立てない。大きな目標はもたない。ただ、一瞬、一瞬を生きのびる。
図書館をやっていくには勇敢な人が必要だ。勇気のある人間と恐れを知らない人間は違う。恐れを知らない人間は軽率だ。結果を考えずに危険に飛び込む。危険を自覚しない人間はまわりを危ない目にあわせる可能性がある。そういう人間はいらない。必要とするのは、震えても一歩も引かない人間だ。何を危険にさらしているか自覚しながら、それでも前に進む人間だ。勇気がある人間というのは、恐怖を克服できる人間だ。
これを13歳の少女がしっかり受けとめて、活動するのです。身体が震えます。
図書係の仕事は、どの先生にどの本を貸し出したかを覚えていて、授業が終わったら本を回収し、一日の終わりには本を隠し場所に戻すこと。
本は8冊しかない。ずいぶんと傷んだ本もある。でも、本は本だった。
アウシュヴィッツ収容所では、本はまるで磁石だ。みな本に目を引き寄せられ、イスから立ち上がって本を触りに行く子も大勢いる。本は、テストや勉強、面倒な宿題を連想させるが、同時に鉄条網も恐怖もない暮らしの象徴でもある。怒られないと本を開かなかった子どもたちが、今では本を仲間だと認識している。ナチスが禁止するなら、本は子どもの味方なのだ。本を手にとると、子どもたちは普段の生活に一歩近づく。
普通の生活は、みんなの夢だ。何かに夢中になることは、とても大事だ。夢中にならないと、前へ進めない。
絶滅収容所に家族収容所があることまでは知っていました。そこで男の子が生きのびた話が本になっていて、このコーナーでも紹介しました。でも、そこで図書係がいて本の貸出しをしていたなんて、知りませんでした。人間にとって希望を失わないことの意味はとても大きいことなのですね。一日中よんでいて、胸が熱くなりました。
ぜひ、あなたもご一読ください。
(2016年10月刊。2200円+税)
2016年10月 7日
ブラックアース(上)
(霧山昴)
著者 ティモシー・スナイダー 、 出版 慶応義塾大学出版会
歴史の真実とは、ときに目をそむけたくなるものがあることを実感させてくれる本です。
いま、たとえば日本では、中国軍が沖縄に攻めてきたらどうするんだと、真面目に心配している人が少なくありません。決して笑いごとではありません。そして、日本が武力をもつのは当然だ、核武装してもいいんだと高言する恐ろしく強気の発言を繰り返す政治家がいて、それをもてはやす国民がいます。平和を守るためには、武力拡張が必要だと真剣に考えている人もいるのです。
そんな人たちからすると、私なんてまさしく卑怯者、弱虫、泣き虫としか思えないことでしょうね。良くて、せいぜい夢想主義者というところでしょうか・・・。でも、本当に武力さえもてば平和になれるでしょうか。世界一の最強国アメリカは、どこか平和をもたらしましたか。
ユダヤ人のホロコーストを誰が実行したのか・・・。ヒトラーが主導したのは間違いないけれど、ヒトラーはドイツ国内で何百万人ものユダヤ人を殺したのではない。ドイツ国内ではユダヤ人をあまりに虐待すると、ドイツ人からの反発が強く、それを恐れて、あまり(他国ほど)ユダヤ人を手荒く扱っていない。
ホロコーストで殺害されたユダヤ人のほとんどすべては、ドイツ国外に住んでいた。殺戮されたユダヤ人のうち、強制収容所を見たのは、ごく少数だった。
ユダヤ人殺害は、国家制度が破壊された地域でのみ可能だった。その一つがポーランドだった。
ナチスの恐るべき思想を支えていた一つに、アメリカの西部開拓におけるインディアン絶滅があるのを知って驚き、かつ、考えさせられました。もちろん、インディアンの子孫は今もアメリカ大陸に生存していますが、わずかな居留地に押し込められ、「絶滅」が心配されているようです。
アメリカの白人がインディアンに対してしたことをナチスがユダヤ人迫害のときに模範にしたといって、それを誰が「そんな馬鹿なこと...」と否定できるでしょうか...。
ポーランドにヒトラー・ナチス軍が侵攻したとき、最初に粉砕されたのは国家機関だった。そして、ポーランドの法は廃され、ポーランドという国家は存在したことさえなかったとナチス・ドイツは宣言した。
ポーランド人は迫害されたユダヤ人のものを盗み、ユダヤ人を憎んだ。しかし、ドイツ人のポーランド占領は、ポーランド人の社会的向上にはつながらなかった。教育のあるポーランド人は殺害され、残りの人々は、もの言わぬプロレタリアートとして扱われた。
ヒトラー・ドイツのポーランド侵攻は、ポーランドは主権国家として存在していない。存在しえないという理屈にもとづいていた。捕虜にしたポーランド兵は射殺しても構わなかった。というのも、ポーランド国家というのがない以上、ポーランド軍なるものも現実に存在したはずがないからである。
3.11。1938年3月11日、オーストリア国家は崩壊し、一夜にしてユダヤ人は迫害の対象とされた。オーストリアの二大主要政党でユダヤ人は役割を担っていた。ところが、ユダヤ人は「舗道こすりパーティー」という屈辱的な行為をさせられた。医師や弁護士だったユダヤ人が路上でひざまずいて道路をブラシでこすり、それを大勢のオーストリア人が笑って楽しみながら見ていた。
オーストリアは、突然、反ユダヤ主義になり、ドイツ人にユダヤ人の扱い方を逆に教えることになった。ヒトラー・ナチスは、オーストリア人の反応を見て自信をもち、ユダヤ人迫害を先にすすめた。
このとき、多くのオーストリア人が「明日は我が身」と考えて、ユダヤ人を迫害しなかったなら、いかにヒトラー・ナチスといえどもユダヤ人絶滅作戦をそんなにすすめることは出来なかったはずだというのです。この指摘は重いですね。付和雷同して権力の望むように踊っていると、いつのまにか自分の身まで危いということを大衆はなかなか自覚しないというのが歴史の重たく悲しい教訓です。
1938年にオーストリアから6万人のユダヤ人が脱出した。しかし、ドイツを離れたユダヤ人は4万人でしかなかった。ドイツのユダヤ人がドイツを脱出しようとするのは、ナチスがウィーンで学んだ教訓を適用するようになってからだった。
読んでいくにつれ、心の重たさは深まるばかりでしたが、勇気をふるって最後まで読み通しました。いやはや・・・。「自虐史観」なんてネーミングの馬鹿らしさにも改めて気がつかされます。
(2016年7月刊。2800円+税)
2016年9月 7日
ヒトラーの娘たち
(霧山昴)
著者 ウェンディー・ロワー 、 出版 明石書店
「ヒトラーの娘たち」は、社会の片隅に追いやられた社会病質者(ソシオパス)ではない。彼女たちは、自分の暴力が帝国の敵に対する正当な報復だと信じ、そのような暴力行為も忠誠心の表れだと考えていた。
数十万人ものドイツ人女性がナチ占領下の東部(ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトヴィア、エストニア)へと移り、ヒトラーの殺人マシンの不可欠なパーツと化していた。
1939年の時点でドイツ人女性4000万人のうち3分の1の1300万人はナチ党組織に積極的にかかわり、女性ナチ党員の数は終戦まで着実に増えていった。
ナチスの絶滅収容所の女性看守の平均年齢は26歳で、最少は15歳だった。身の毛のよだつような仕事に志願した女性は、大量殺害の現場を雇用とチャンスをもたらしてくれる場と考えていた。立派な制服、高い給料、そして権力を振るうことに魅力を感じた。収容所に入った囚人に対して人間味のある態度で接していた女性看守はほとんどいなかった。
多くのドイツ女性は、幼少のころ、日常的にユダヤ人と接触していた。そして、ユダヤ人が迫害されるようになったとき、日をつむる社会規範が生まれた。そして、それは、ドイツ人女性に独自の強さの体現を求める期待と結び付いていた。
ヒトラーのジェノサイド戦争の日常業務に貢献したのは1万人いる秘書のほか、文書係、電話交換手などの事務補助員だった。
ナチス親衛隊員の花嫁になったドイツ人女性は24万人、社会の新しい人種的エリートとして迎えられた。
大量殺人にさまざまな方法で加担したドイツ人一般女性の数は、それを阻止しようとした比較的少数のものに比べれば、数えきれないほど多かった。大半は好奇心からだけど、これに物欲も加わり、多くのドイツ人女性が東部に何千とあったゲットーで、ホロコーストに直面していた。
ゲットーのユダヤ人居住区からユダヤ人が一掃されると、ドイツ人たちが役立ちそうな物を戦利品として持ち帰るために集めてまわった。
大量殺人の経済効果を高めるため、親衛隊、警察指導者、地域の軍司令官そしてナチ党官僚は、ユダヤ人の財産を没収し、再分配する仕組みをつくった。それを知ったドイツ人女性秘書が故郷の母へ、ナチ福祉団から服を受け取らないようにと手紙で知らせた。それは殺されたユダヤ人の物なのだから・・・と。
ベルリンそしてウィーンのゲシュタポ本部では女性の割合は非常に高く、戦争末期には40%にまで達した。ユダヤ人の誰を殺すかという選択は、実際には受付のドイツ人女性にまかされていた。
ユダヤ人は商品と見なされていた。ゲシュタポ事務所の職員は移送されてきたユダヤ人たちから盗みとった食料を、ユダヤのソーセージと呼んで、たっぷり堪能した。「人間というゴミ」以外は、何も無駄にしてはならないとされていた。
ドイツ人女性秘書は、ナチの殺人マシーンの中心にいた。
ナチ支配下の全ヨーロッパに、実は4万ヶ所ものユダヤ人収容所があった。地域のコミュニティと融合した存在だった。これらの収容所をつくり、運営し、また訪れた加害者、共犯者、目撃者は多かった。想像されてきた以上に多くの人々がユダヤ人の組織的な迫害と殺人に関与し、知っていたのだ。少なくとも50万人のドイツ人女性が東部地域でジェノサイドをともなう戦争を目撃し、その遂行に貢献した。
そして、その暴力行為で罪に問われることのなかった女性たちは、この事実を封印し、否定した。加害者たちは、戦後、死んだ総統ヒトラーに対してではなく、お互いに対して忠誠と守秘の誓いを守り続けた。「密告者」として中傷されることのないよう保身に走った。
そんなわけなので、ホロコーストの罪を問うために一人でも証人を確保できるということ自体が、ごくごく例外的だったのです。
ナチスの殺人マシーンが、実は、普通の女性で良き母親でもあると同時に、殺人を苦にしない鬼にもなって支えていたということがよく分かる本でした。これも戦争の恐ろしさの一側面なのですね・・・。
(2016年7月刊。3200円+税)
2016年3月 8日
ヒトラーに抵抗した人々
(霧山昴)
著者 對馬達雄 、 出版 中公新書
ヒトラー・ナチスに抵抗したドイツ人は決して少なくはありませんでした。何千人ものユダヤ人を生命がけで隠し通したドイツがたくさんいたのも事実です。
でも、大多数のドイツ人がヒトラー・ナチスのユダヤ人大虐殺の尻馬に乗り、なかにはその財産略奪によって利を得ていたというのも事実でした。これは、自民・公明を与党とするアベ政権がマスコミを強力に操作しつつある日本でも深刻な教訓として生かす必要があります。その意味で、この本は、今の日本人にとって大いに読まれるべきものだと思います。
ヒトラー独裁は、ドイツ国民に指示された体制だった。ナチ支配には、目先の実利によって国民大衆の支持を獲得しながら、青少年にナチ思想を徹底させるという二面性があった。
反ナチの行動の前に立ちはだかっていたのは、むしろ隣人住民、そして総統にヒトラーを熱狂的に信奉する青少年だった。彼らからすると、ナチ体制を否定する者は、生活と世界を脅かす存在であり、戦時下では自国の敗北をたくらむ反逆者であった。
ダッハウなどの強制収容所に1933年の1年間で、共産党や社民党の国会議員をはじめとする活動家が10万人も拘禁された。
のちに反ナチ運動に身を投じたインテリ層も、ワイマール共和国末期には、反共和政的な立場をとり、ヒトラー政権の初期に登用された。政治経済エリートの大半がヒトラー、ナチ政権の誕生を肯定していた。
ヒトラーが支持されたのは、大量失業問題を早急に解決したから。失業不安と見通しのない生活の解決が最大の関心事だった。誰もが社会的な転落と窮乏の不安をかかえていた。
ヒトラー政権発足時のドイツの人口は6500万人。ユダヤ人は50万人、混血のユダヤ系ドイツ75万人を加えても、総人口の2%でしかない。しかし、経済的影響力は絶大だった。
戦争中のドイツ国内で、地下に潜ったユダヤ人が1万5000人いた。そのうち7000人近くがベルリンに身を潜めていた。1人のユダヤ人につき平均50人ものドイツ人が救援活動していた。生きのびたユダヤ人は、ベルリンで1400人以上、ドイツ全土で5000人いた。ユダヤ人を援護したドイツ人の3分の2は女性だった。
ユダヤ人の家族が三人いたとして、三人は別々になって一人ひとりが生きのびるチャンスを得たようにさとされた。なるほど、と思いますね。三人全部が捕まるより、一人ずつ別々に暮らしていたほうが、リスクは少なくなるというわけです。
ヒトラー暗殺計画は、「ワルキューレ作戦」(1944年7月20日)の前にも何回もあり、失敗していた・・・。ヒトラーって、悪運が強かったようですね。ヒトラー暗殺計画の概要が紹介されています。ヒトラーの演説会場を爆破しょうとしたドイツ人については、先ごろ映画にもなりました。ごく最近、その意義が見直されてます。
ドイツ国民大衆の大部分は、ヒトラーから離反できないままに終戦を迎えた。ドイツ国民7500万人のうち、ナチ党員は、1939年5月以降に激増し、1933年末に390万人だったのが、1945年には850万人超にまで上昇した。
ヒトラー・ナチスと生命をかけて戦った勇気のある人々が少なからずいたこと、それを支えた家族がいたことを知ると、救われる思いがします。
(2015年11月刊。880円+税)
2015年11月19日
ヴァイマル憲法とヒトラー
(霧山昴)
著者 池田 浩士 、 出版 岩波書店
ヒトラー・ドイツと向きあうことは、「第三帝国」の12年3か月間とだけ向きあうのではなく、そのあとに来た歴史と向きあうことでもある。
ナチス・ドイツが行った残虐行為や侵略戦争は、ヒトラーとナチスという、一人の独裁政治家と一部の「狂信者」たちとによってなされたものというのは、間違った歴史観である。
ヒトラーは、クーデターや暴動によって政権を奪取したのではない。首相を任命する権限を持つヒンデンブルク大統領を威嚇して指名を取り付けたのでも、政界その他の有力者を強制あるいは買収して首相の座に就いたのでもなかった。ヒンデンブルク大統領から合法的に首相として指名を受けた。
ヒトラーは、合法的に、民意によって政権の座に就いた。これは歴史的事実である。
ヴァイマル憲法下のドイツの国会議員選挙は、有権者の意思をできるだけ的確に反映することを重視した仕組みになっていた。20歳以上のすべての国民が有権者で、男女の差別はなかった。ちなみに、日本では女性の参政権は戦後はじめて与えられた。
ヴァイマル時代の国会選挙の投票率は高く、低くても70%台後半、高いときには80%台半ばだった。
1932年3月の大統領選挙では、現職のヒンデンブルクが1865万票、次いでヒトラーが
1134万票、共産党のテールマンは498万票だった。
1928年から1933年までのドイツでは、失業率の上昇とナチ党の得票率の増大はぴったり対応している。1932年の国会選挙では、それまで投票に行かなかった無党派層がナチ党に投票している。失業者の票を吸収したのはナチ党ではなく共産党だった。失業率のむしろ低い地域でナチ党は躍進した。それは自営業の人々が、明日は我が身という心配からだった。いま失業者となって飢えている工業プロレタリアートではなく、同じ道をたどるだろう中間層と職人階層、そして自営農民たちが、迫りくるものについての不安や危機感からナチスを支持して投票した。共和国の民主主義政治そのものへの不信と反感を、この現実にもっとも激しい攻撃を浴びせるナチスへの支持として表現した。
ヒトラーが首相になったとき(1933年1月30日)、7歳から32歳までの世代は、ナチ党の誕生から「第三帝国」の崩壊までの時代に、観客ではなく、もっとも中心的な共演者だった。
1933年3月の国会選挙で、ナチ党は得票率44%、288議席にとどまった。しかし、当選した81人の共産党議員を除外した。そして、社会民主党の120人の議員のうち94人しか国会には出席できなかった。そして、「全権委任法」が成立した。この法律は、国会から立法権を奪い、行政府であるはずの政府が立法権をもつとした。
国会での審議抜きで、すべての法律が政府によって決定された。ヴァイマル憲法の制約からヒトラー政府は解放されてしまった。
ヒトラー政権下では死刑が横行した。1942年から44年までの2年間だけで4951人に死刑判決が下った。軍事裁判によって死刑を執行された人は2万人にのぼる。ナチス・ドイツの死刑は軍国日本のそれより70倍以上も多かった。
ヒトラー時代は良かったという人がいる。しかし、現実にはヒトラーは社会的差別をなくしてはいない。労働者の賃金は下がり、職員の給与は上がっている。
ヴァイマル憲法とヒトラーとの関係について、日本人である我々も正しく認識すべきだと改めて思いました。
(2015年6月刊。2500円+税)
2015年10月 9日
チャップリンとヒトラー
(霧山昴)
著者 大 野 裕 之 出版 岩波書店
チャップリンとヒトラーは、まったく同世代なのですね。やったことはまるで正反対。一方は人々を大いに笑わせ、そして笑いながらも人生と政治について深く考えされてくれました。もう一方は、多くの人々を騙し、殺してしまいました。
1889年4月、20世紀の世界でもっとも愛された男と、もっとも憎まれた男が、わずか4日違いで誕生した。なんという偶然でしょうか・・・。
チャップリンは極貧の幼少時代を過ごした。チャップリンはユダヤ人ではない。父方の祖父の妻がロマ(ジプシー)なので、チャップリンは、ロマとのクォーターだというのを誇りにしていた。
ヒトラーは中流家庭の出身。ヒトラーは、若いころは「引きこもり」だったが、ドイツ軍に入って、なんとか兵長にまでは昇進した。
チャップリンは、5歳のときミュージック・ホールで芸をするようになり、24歳まで働いた。短時間のうちに少人数の舞台で客の心をつかむ演技術を鍛えあげた。舞台女優だった母親がチャップリンにユーモアにみちた笑いと人間味あふれる愛を与えてくれた。それによって貧苦という現実とチャップリンはたたかうことができた。
ヒトラーは長年にわたって兵役逃れをしていた。チャップリンには兵役のがれをした事実はない。チャップリンは体重不足で兵役不適格となったのである。
二人とも25歳になるころ、お互い知らずに、同じちょび髭をはやした。
1919年10月、30歳のヒトラーが公開の集会で初めて演説した。ドイツ労働者党の集会だった。それまで、人前で話すことはおろか、他人と接触することすら稀だった30歳の男の鬱屈した人生で積りに積もった怨念が、堰を切ってとめどもなくあふれ出し、爆発した。このとき、希代の演説家ヒトラーが誕生した。30歳にして表舞台に躍り出た天才演説家は、当時のドイツの時流に乗った。
ヒトラーは皮肉なことに、東欧移民のユダヤ人4人兄弟の率いるワーナーブラザーズが発明し、ユダヤ人の天才エンターテイナーであるアル・ジョルソンの主演作で初めて導入された技術であるトーキーを駆使して、権力を手に入れた。
チャップリンの長い映画人生を通して、公開時に損失を出したのは『殺人狂時代』(1947年)のみ。株価大暴落の直前にもっていた株式を全部売って利益を確保した。チャップリンは天才的な経済センスの持ち主でもあった。
チャップリンは、こう言った。「わたしは愛国者ではない。・・・600万人のユダヤ人が愛国心の名によって殺されているとき、誰かがそんなものを許せるか」
チャップリンの映画を、ヒトラー政権下のドイツは徹底的に批判し、上演を禁止した。チャップリンは、ナポレオンを主人公とした映画を構想した。しかし、その構想は日の目を見ず、次第にヒトラーをモデルとする『独裁者』のほうへ関心が移っていった。
チャップリンは、どれだけいいギャグであっても、単に世相を反映させただけのギャグや、本筋と関係のないギャグは捨てた。問題の本質に近づいていくためだ。
チャップリンが『独裁者』の制作をすすめている途中、イギリスは、公的機関や政治家などを使って、国をあげて徹底した妨害工作をすすめた。イギリスにとって、当時のドイツは同盟国だったからである。
うむむ、なんということでしょうか・・・。ヒトラーを擁護する立場でイギリスが行動していたとは、許せませんよね。
イギリスのメディアとナチスのメディアは、完全に歩調をあわせていた。1939年5月ころのことである。
そしてアメリカ。アメリカでも『独裁者』の妨害キャンペーンが大々的にすすめられていた。なぜなら、当時のアメリカでは、反ユダヤ主義の風潮が90%をこえ、財界はナチス政権に多額の投資をしていたから。当時のアメリカは親ファシズムとも呼べる国だった。映画づくりを止めさせようとアメリカの一般大衆からチャップリンに対して多くの脅迫の手紙が届いた。
これは、ナチス・ドイツでありアメリカであれ、戦争へと突きすすむなかで、いかに人々が冷静さを失っていくかを如実に指示している。
チャップリンは、手に入る限りのヒトラーのニュース映画をみた。そして、こう言った。
「やつは役者だよ」
チャップリンはヒトラーの演技に心から感心していた。
『独裁者』の最後のシーンでチャップリンは6分間もの長広告をふるう。周囲の人々がそんなことをしたら興行収入が100万ドルは減るから、やめるように忠告した。それに対して、チャップリンはこう言って反論した。
「たとえ500万ドル減ったところで、かまうものか。どうしても私はやるんだ」
ヒトラーがパリに入場したのは1940年6月23日。その翌日、チャップリンは、たった一人でラストの演説の撮影にのぞんだ。この演説の部分だけで、4日間をつかった。
公開の日。1940年10月、ニューヨーク。劇場にはなだれ込む大群衆で、もはや制御不能だった。左派からは共産主義的だと攻撃され、右派からは生温センチメンタリズムと批判された。映画批評家は、キャラクターにあっていないと、この演説は酷評された。しかし、観客は、そのシーンに毎回、耳が聞こえなくなるほどの拍手を送った。演説は大衆の愛する名文句となった。
ヒトラーの恐怖のまっただ中にいるイギリスでは、「ドイツは、これを見ろ!」と。『独裁者』こそ、ナチスへの武器だと国民が待ち望んでいた。
笑いこそヒトラーがもっとも恐れる武器であり、それは一個師団以上の力なのだ。
1941年2月までに世界中で3000万人が見たという世界的大ヒットとなった。しかし、戦前の日本では『独裁者』は公開されていない。
笑いこそ、独裁者とよくたたかう武器になるというのは、本当のことです。例の安倍なんか、笑いでぶっとばしてやりましょう。チャップリンの不屈の戦いがよく分る、興味深い本です。改めて『独裁者』を私もみてみたくなりました。
(2015年6月刊。2200円+税)