福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2016年10月 1日

憲法リレーエッセイ 身近な戦争 西部軍事件

憲法リレーエッセイ

会員 前田 豊(28期)

1 昭和20年5、6月、福岡で「九大生体解剖事件」が起き、続いて、6月と8月、同じ西部軍によるB29搭乗員斬首殺害事件(西部軍事件・油山事件)が起きました。

2 昭和20年6月19日、福岡市は米軍機による無差別爆撃を受け、死者902名、行方不明者は244名にのぼる被害を受けました。

翌20日、現在の福岡高等裁判所の裏手の旧校庭で、軍律会議なしに西部軍法務大尉ら4名がB29搭乗員米兵8人を日本刀で斬首するという事件が起きました。「西部軍事件」と呼ばれます。

「福岡県弁護士会史 上巻」(679頁)には、「捕獲搭乗員は西部軍司令部に送られ現在の福岡県弁護士会館のあたりにあった急造の収容所に入れられた。(中略)福岡大空襲の翌日午後収容所内の捕獲搭乗員12名(ママ)を司令部裏の福岡市立高等女学校(現中央市民センター)の校庭に引き出して衆人環視の中で斬殺した。」とあります。

和光有精法務大尉ら4名が米兵8名を斬殺しましたが、その中に前夜の大空襲で母を亡くした冬至堅太郎主計大尉がありました。彼は、殺された母の仇を打つかのように志願して3名を斬首しましたが、裁判手続を経た処刑と誤信し、非合法処刑と知らずに実行しました。

3 続いて、長崎原爆投下翌日の8月10日、福岡市南郊の油山火葬場付近に搭乗員8名を連行し、軍参謀の指揮のもと法務部大尉ら5名が搭乗員5名を斬殺し、2名に空手で殺害できるかを試し、1名に弓矢で殺害できるかを試しましたが、いずれもうまくいかなかったので、最後は袈裟斬りと斬首で絶命させました。

「油山事件」と呼ばれます。

4 さらに、昭和天皇の玉音放送の後、8月15日、それまでの俘虜の処刑を隠蔽するため、同じ油山に、生き残っていた16~17名の米兵全員を連れて行き、処刑しました。第2の油山事件です。

5 戦後、捕獲員が一人もいないという異常事態から事件が発覚しました。関係者が横浜のBC級戦犯裁判にかけられ、死刑、無期懲役、有期懲役及び無罪の判決が下されました。冬至堅太郎大尉は死刑でしたがその後減刑されました。

6 現中央市民センター付近の旧高等女学校校庭(前年西部軍が接収)で、衆人環視のなか、穴を掘り、座らせて、斬首するというのはショッキングなことですが、法務部が関与して、軍律会議の裁判手続を経ないで処刑したという点に、なぜ?という疑問と、殺し殺される戦争の狂気と不条理を感じます。非合法処刑という点では、現在のISの斬首処刑と違わないと言われても仕方がありません。

7 西部軍事件の斬殺実行者の一人は弁護士でした。戦後、巣鴨プリズンから釈放され、贖罪のため無料相談や公益活動に尽力しました。後輩からも慕われ、推されてある弁護士会の最高責任者になりました。

清永聡「戦犯を救え」(新潮新書)では、匿名でその弁護士のことを取り上げています。晩年、「母を稱える詩(うた)」に、「かかさん あんたは戦後私が戦犯になったので、命をちぢめてしまったな!(略)かかさん、ととさん、私の作った一番よい果物をあんた達のみたまにそなえてあげたかね!」と、白鳥の歌をうたったことが紹介されています。胸打たれる話です。

8 戦争は狂気。自分が残虐行為を実行するか、その犠牲になるかです。

だから、好んで戦場に隊員を近づけさせる今の政治の風潮に、喝!

(文献・横浜弁護士会「法廷の星条旗」日本評論社はお勧めです)

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