福岡県弁護士会 裁判員制度blog

2012年3月19日

弁護人の責務

 
安田好弘弁護士が64期の司法修習生に語ったものを一部ご紹介します。弁護人の責務として重要だと思ったからです。『7月集会・報告集』166頁以下に全文がのっています。(な)

マスコミ対応
 原則としてマスコミには対応しない。例外が許されるのは、まず本人の了解があり、同時に、本人の利益擁護に必要不可欠であること。この要件があるときだけ、マスコミと当することが許される。
 インタビューにも答えない、書類を求められても渡さない、法廷を出て取り囲まれても振り切って帰ってくる。そうしたのは、マスコミの過剰な報道を何とかしてやめさせるため。やめさせるためには、マスコミに材料を与えない。材料を与えれば、それがまた報道される。被告人に有利だろうと不利だろうと、話題に乗っていくことは避けなければならない。
 マスコミの対応について考えることは、「どうやって、社会の沸騰した状態を鎮静化させ、それが法廷に及ばないようにするか」ということ。その点からマスコミとの対応は極力避けるべきだと思っている。
 マスコミと協定を結んで記者会見をやらざるを得ないこともある。何とか鎮静化させる努力が必要だ。
 マスコミの対応は大変難しい。ときによって、状況によって、事件によって、ころころ変わってくる。重要なことは、原則をどう捉えるか、何を原則とするか。捜査弁護でも同じで、沈黙を原則とするのか、話すことを原則とするのか、原則をしっかりしないと、足元がぐらついてしまう。
 まったく対応しないことが逆に悪い事態を迎えるのではないかということは確かにあり得る。しかし、一体何のためにこれをやるのかを、常に自分の中で意味づけをしなければならないと思う。そのときの原則は、まずマスコミと接触しないという原則があり、例外として解除する。解除するためには、それなりの理由が必要。その理由として、まったく対応しないことによって、逆に不利益になるということが自分の中で納得できれば、しかも、それは、現在なくて、将来にわたって不利益になるということが納得できれば、対応するべきだろう。
 実際、マスコミの取材申し出を無視すると、無視したことがまた材料になる。しかし、取材に応じたら、応じたことがまた材料になる。応じたことに一部だけが取り上げられる、あるいは、渡した書類が違う形で使われていく。何でもありの世界である。しかも、1対1の信頼関係であるはずが、デスクに手にかかるとまったく中身が変わってしまうことがある。だから、自分は、何のためにそれをやっているのかを、常に自分の中でもう一度、検証してみる必要がある。
 しかし、それは一人では無理だ。複数いて初めて、「おまえは、どうしてそれをやるんだ」、「どうして、俺たちは今のままじゃ駄目なのか」と検証し合える。そして、検証が保証されている限り、あるいは検証を通じた結果であれば、マスコミに一生懸命、説得にあたっても構わないと思う。そういう検証なしに、マスコミからおいかけられているというだけで、マスコミと接触するということであってはならない。

被害者・遺族への対応
 とにかく叱られても、怒鳴られても、拒絶されても、積極的に接触していく必要がある。「必ず、いつかは分かってもらえる、許してもらえる」と、あきらめずに接触することが必要だ。被害者遺族の状況を、被告人に伝える。そして、加害者の状況も、被害者遺族に伝える、そういう橋渡しの役割を、弁護人はしなければならない。

「死刑」事件と弁護人
 刑事弁護とは、事件を徹底糾明し、事実を理解し、被告人の人間性を理解し、事件像を引き直し、そして被告人像を引き直すことにより、「彼に死刑は必要ない。死刑宣告することは、正義に反する。私たちの社会にとって、決して有益ではなく有害なんだ」と主張していくことだ。政策論を主張することは、そもそも弁護の放棄だ。
 どこまでも事実に踏みとどまる、被告人の人間性に踏みとどまる。そして、事件を起こした社会的な問題に踏みとどまる、どうすれば、このような不幸が二度と起こらないかを一生懸命に考える。弁護人がそこまでくらいついていくことが必要なのだ。
 死刑廃止論や違憲論というのは、弁護の端緒にもならない。 
 時間が必要だ、というのは、被告人が人間性を取戻し、自分の行為を正面から捉え、何によって、こういうことをしてしまったかを考える勇気を持ち、彼自身が「もう一度、信頼させる人間に生まれ変わろう」と努力を始める。それを法廷で出していくためには、一ヶ月や2ヶ月ではとても無理だ。被告人と一緒に考え悩んでいく共同作業には、1年半、2年、それだけの時間が必要だ。
 その中で支援者を獲得し、支援者と一緒に頑張る、被告人と一緒に悩んでいくためにも、やはり1年程度の時間ではおよそ無理である。
 死刑にならなかったからこそ、彼は謝罪し続けることが出来、図らずも被害者遺族から「頑張りなさい」「君の人間性を信じたい。社会へ出て、本当に更生した君の姿を見たい」という声をかけてもらうことができた。これは、被害者と加害者の修復だろうと思う。事件によって傷つけられた人間に対する信頼が、もう一度、回復していく。そういうものこそが司法だと思うし、それに何らかの形で関与することができる、一緒になって悩むことができることが死刑事件に関わった弁護人に対する報酬ではないか。

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2012年2月29日

裁判員裁判の体験談


 最新の判例時時報(2135号。2012年2月21日号)に日本裁判官ネットワークが2011年7月2日に「裁判員裁判の量刑」をテーマとしてシンポジウムを開いたときの議論の内容が紹介されています。
 裁判員裁判を体験した市民の発言がとても興味深い内容ですので、その一部を紹介します。ぜひ、全文をお読みください。(な)

 私が体験した裁判員裁判における評議は、ひとことで言うと、まさに「熟議」に尽きる。評議のときの座席は、裁判長がお誕生日席について、左右の陪席が裁判員の間に混じりこんで座っていた。
 以前は、裁判長も裁判員の間に混じり込んで座ったそうだが、それだと、裁判員が常に裁判長の方を向いて話をするので議論が発展しないという問題が生じたので、裁判長はお誕生日席に座るようになった。
 評議中は裁判長に背中を向けて、私は議論の中心を裁判長に向かわないようにした。裁判長を議論の輪に入れないように意識していた。
 認定作業やその順序、法律解釈などで適切な進行をしてもらい、ただ一人でも疑問がわくと、話をもとに戻して検討し直すなど、丁寧で細やかな配慮にとても感服した。そうやって何度も事実認定を繰り返して一つの答えに収斂していった。自分の意見を相手が納得するまで説明を尽くす。また、だれかの意見に対しては自分が納得するまで説明を求めるといったように、それらの主張のぶつかり合いが、合議体全員を交えて行われた。
 裁判官に対しても同様に納得のいく説明を求めて、また逆に理解してもらえるように言葉を尽くす。裁判官をいれて9人いれば、似たような考えはあっても最初から同じ考えを持つことは難しいので、それでも言葉の応酬を繰り返していくうちに、だんだんと出口の光が見えてくる。そして、全員の意見を内包した一つの解答に結実する論議を「熟議」と感じた。
 当初憂慮していたのは、自分の意見を言えずに流される人がいるんじゃないかと。ノーと言えない日本人がいたらどうしようということだった。ところが、求めるまでもなく、みんな勝手に自分の意見を、言いたいことを机の上に並べたてた。だから、杞憂だった。あの場でもっとも抑制的だったのは裁判官たちだった。
 ただ、ほかの合議体の評議においては、裁判員から積極的な発言がないところもあって、裁判長や裁判官は別な意味で苦慮したという話も聞いている。
 選任されてから解任されるまで、お互いを番号で呼び合っていた人間の実存在をもっとも端的に示す名前を無視して符号をつけてしまうことは、裁判員の人権を害するとも考えれられるが、実はこの符号以外お互いの素性を一切知らない間柄であったがゆえに、議論が発展したのではないかと考えている。
 与えられた番号以外、お互いに住まいも職業も年齢さえも最後まで知らなかった。お互いの背景を知らないからこそ、後腐れなく遠慮のない意見が言い合えた環境、空気だった。当時を振り返ってみて、必要最小限の情報しかなかったことが、かえって評議を充実させたという評価は一致した。
 裁判員同士を名前で呼び合う合議体もあるようだ。そうすることで合議体内の親和を培う目的だ。アメリカの陪審員も、選任時に公判中に呼び合うニックネームを決めるという。
 終始お互いの名前も知らずに、何番さんの考え方には無理がある、何番さんの情報はテレビから得た情報ではないか・・・などと、遠慮のない意見をぶつけ合った。
 評議は結審の日の午後、翌日、それから一日頭を冷やして判決日の午前中、本当に直前まで煮詰めた。丸一日の冷却期間を置いて、判決公判直前まで再度の意思確認を図る裁判長の慎重な姿勢には感謝と信頼感を覚えた。
 裁判員をやった経験で、被告人に対する最終的な刑罰をどうするかが一番重要だったし、その点が一番気になるから、事実認定だけで自分の役目が終わってしまうのは反対だ。私と被告人とは紙一重であって、私も被告人となり刑務所に入る可能性もあると思うので、量刑はとても重要で、裁判員がこれを扱うことには意義がある。
 検察官の冒頭陳述はいつもよくできていて、訊いているだけで冒頭陳述が真実ではないかと錯覚してしまう。冒頭陳述が論告化している。検察官が立証責任を負っていることは分かるが、裁判のはじめに結論を示しているようなもので問題だ。論告化した冒頭申述を聞かせると、裁判員はそれが真実ではないかと思いこむ心配がある。
 裁判長が書きあげてきた判決文案を、裁判員全員に読み聞かせて、これでよいですかという形でできあがった。裁判員一人一人の意見を判決書に反映してくれたとか、起案文に裁判員全員が手を入れて完成したという例も聞いている。

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2011年10月19日

韓国・国民参与裁判の現状と課題

『季刊・刑事弁護』68号に、日本の裁判員裁判と似ている韓国の国民参与裁判についてのレポートが載っていますので紹介します。(な)

 国民参与裁判法は、2008年1月1日から施行され、施行4年目である。 この3年間に被告人が国民参与裁判を請求し、裁判所に受理された事件の数は1006件であり、既済となった事件が936件、未済事件が70件だった。国民参与裁判の対象事件は19,431件なので、国民参与裁判の申請率は5.2%である。
 国民参与裁判を申請したあと、被告人が自ら撤回したのが404件(受理件数の40%が撤回されたことになる)、裁判所の排除決定がなされたのが211件、実際に国民参与裁判が開かれ判決が言い渡された事件は321件だった。

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2011年10月18日

裁判員裁判の判決に対する控訴の実情


『季刊刑事弁護』68号に、裁判員裁判の判決に対する控訴率が一般事件に比べて倍近く高いこと、その原因として量刑への不満が強いことがあると分析されていますので紹介します。(な)

 2011(平成23)年4月30日まで、裁判員裁判での控訴審終局人員423名中、控訴棄却331名、破棄27名、控訴棄却1名、取下げ64名となっており、破棄率は6.3%(取下げ等を除いたとき7.5%)である。2010年の全事件での控訴審による破棄率を見ると10.9%(同13.7%)となっている。全事件での破棄率は長期的に減少傾向にあるが、それにしても裁判員裁判の破棄率は一段と低くなっている。
 2010(平成22)年の全事件での控訴率は9.6%であるのに対し、裁判員対象事件では17.3%とかなり高くなっている。そのうち量刑不当を控訴理由とした被告人は、全体事件で73.2%、裁判員対象事件で79.6%となっている。被告人は、裁判員裁判の結果に対し、裁判官裁判のそれに対するよりも不満を持ちやすいこと、しかもその不満が量刑に集中する傾向がいっそう強いことが分かる。

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2011年7月14日

裁判員裁判で裁判は変わったか?


 『季刊・刑事弁護』の最新号(67号)に「裁判員裁判で否認事件の裁判は変わったか」というタイトルの座談会が紹介されています。すでに15件も裁判員裁判を担当した弁護士やら、10件とか4件は担当したという弁護士の経験にもとづくものなので、大変説得力があります。
 詳しくはぜひ本文をお読みいただくとして、ほんの少しだけここに紹介します。(な)

「裁判員裁判には全体として有罪認定に慎重な姿勢がうかがわれるところがあるように思う」

「私の事件でも、裁判員が非常にいい質問をした。裁判員の事実認定能力が低いということは決してない。証言も非常によく聞いて、きちんとポイントをつかんで事実を見ていると感じた」

「裁判所もふくめて、裁判員裁判については、直接主義でやりましょうということが非常に通りやすくなったという印象がある」

「裁判員の気持ちになると、目の前にいる人から話を直接聞きたいというのが本音だと思う。裁判員裁判では、まずは目の前にいる人の話に耳を傾けようという傾向が強くなっているという印象を持っている。だからこそ被告人質問の重要性が非常に増してきている」

「否認事件に限らないが、被疑者段階の弁護活動をきちんとやりましょうということに尽きる」

「公判前整理手続の段階で、その事案に沿った争点をどこまできちんと設定するかとか、証拠調べをきちんとやらせるようにするか、が勝負どころだと思う」

「公判前段階でどこまで弁護人の主張をきちんと固めて準備しきれるかが非常に大事だと感じている。捜査段階が非常に重要だ」

「たとえば、被告人が、明らかに事実と異なる供述にこだわると、それがほかの争点すべてに影響してしまう可能性がある。それは弁護人の主張をとってもそうだ。弁護人が1つ受け入れがたい主張をするだけで、弁護側に対する信頼が失われてしまう可能性がある」

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